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もしこの息ぐるしさの行きつく先を知っていたのなら、わたしはあなたになんと返したのだろう。
鋭い針のような雨が降っている。
傘もなにも持っていなかったために、制服も髪もすっかり水気を含んでしまっていた。初夏とは言ってもまだ本格的な夏は遠い。芯から冷えてしまった体をさすり、レンカはため息を落とした。
候補としての最終試験を終え、ようやく解放されたと思ったらこれだ。幸先が良いとは決して言えない。そんなことに左右されるようなかわいい性格をしているわけはないのだけど、もう少しだけ雨にこらえていて欲しかった。せめて一人の時ならよかったのに。
そんな胸中を見透かしたかのように、不機嫌さにざらついた声がレンカをとがめた。
「なんでこんなに雨が降ってんの。おまえ、失敗したんじゃない?」
滴るしずくを拭って苛立たしげにこちらを見据える青の瞳が、暗い中でも淡い光を帯びている。乱暴に水を絞られたシャツの裾の皺が、より明確にハイルの苛立ちをあらわにしているようだった。
「失礼なこと言わないで。自分も見てたくせに」
レンカの刺々しさを多分に含んだ声など意に介さず、彼はふいと顔をそむけていじけた。
「はいはい、さすがですね。はあ、早く夏が来て暑くなればいいのに」
「……暑いのはいや」
「あー、そうだよね。おまえ夏嫌いだったよね。わざわざ自分で暑くしなきゃいけないなんていい気味」
「黙ってくれない? うるさい」
自分は冬みたいな色をしているくせに。夏が好きなんて似合わない。変なの。
心の中でだけ毒づいたのは、たんに口にするのが面倒だったからだ。直接言葉にしたところで「おまえこそ、いかにも暑そうな赤い髪やへんてこなヒマワリみたいな色の目してるくせに」と返されるに決まってる。甘さどころか温かみすらない子どもじみた会話は、レンカをいっそう疲れさせるばかりである。
これが見ず知らずの他人だったら、もっとやり方もあっただろうに。
ハイル・エイロードとの関係を一言であらわすなら「兄妹」と答えるのが一番正しい。正確に言えば義理の兄妹。レンカが七歳になる年にレンカの父と彼の母が結婚をしたのだ。
突然今日から家族になると紹介された三つ年上の「兄」にレンカはすぐ懐いた。今では面影などないに等しいけれど、当時の彼はとても優しかった。レンカにたくさんのことを教えてくれて、本当にかわいがってくれた。
いくら懐かしがったところで、それはもう過去の話だ。口を開けば口論になるのは分かりきっているのだから、無視してくれればいいのに、どうしてレンカを構うのだろう。
さっきだってわざわざ雨宿りをするために、レンカの腕を引っ張る必要なんてどこにもなかった。寮まで走ると言ったのに、こちらの話など聞かない彼の身勝手さに辟易した。
大きな樹のおかげでこれ以上は濡れずにすみそうだが、部屋に帰るのはだいぶ先になりそうだ。まだ二人でいなくてはならないかと思うと、気分は下降の一途をたどった。
止まなくてもいい。せめて勢いがほんの少しでもおさまってくれたら、ここから飛び出してやる。ぜったいに振り返らない。
雨空をなかば懇願するように見上げていたレンカは、ハイルの言葉にとっさに反応が出来なかった。
「僕のまねごとばかりしてたくせに、ずいぶん偉そうなことを言うんだ?」
反射的にハイルを振り仰ぐと、冷たい青がレンカに突き刺さった。
その瞳は、過去に花から色を取り出すことを教えてくれた優しい兄と同じものだとはとても思えなかった。
けれどたしかにレンカの手をとって、夏の花であるアスクレピアスの色を見せてくれたのはハイルだった。
レンカはずっと彼のやることをなぞっていたに過ぎない。一緒に色を取り出すことがあの頃は楽しくてしょうがなかった。毎日飽きもせず、二人でいろんな夏の花の色を集めた。あの日々がなければ、レンカは今ここにいなかっただろう。
元をたどれば学院の入学試験を受けると決めたのだって、ハイルがいたからだ。自分も生徒になれば、二年前に入学をしてから休暇であってもほとんど帰省しなくなってしまった彼とまた一緒にいられると思っていた。
冬に帰省したハイルに入学許可証を見せた瞬間に、その期待は粉々に砕かれてしまったけれど、レンカは入学をやめたりはしなかった。どうにか希望を持っていたかったのだ。入学さえすれば、きっといつか笑って「おめでとう」と言ってくれると夢を見ていた。
どうしてハイルがレンカに冷たい態度をとるのかを、今はもう知っている。
彼のレンカに対する苛立ちは、同級生の一部と上級生の大半と同じ気持ちから来てるのだということを。ゆえに、この関係が以前のものに戻ることはないことも痛いくらいに理解した。
「今はしてない。これからもしない」
動揺はするわけにはいかなった。きっかけを与えてくれたのはハイルでも、ここまで来たのはレンカ自身だ。誰のものでもない。それだけは奪われたくなかった。
でないと、目指した先に誰もいない現実がこわくなってしまう。
ハイルはつまらなさそうにレンカを一瞥して、鼻を鳴らす。
「あっそ。そういうとこ大嫌いだよ」
「知ってる。わたしも、あなたが嫌い」
勢いのままに言い切った。彼から告げられた回数は数えきれないが、レンカから言ったのはこれが初めてのことだった。
口にした途端、心臓の裏がずきずきと痛む。凝るわだかまりはいっそう重たくなって、体をしめつけていくようだった。どうして言い返しただけでこんな思いをしなくてはいけないんだろう。
どうせ彼は「あっそ」となんともない顔をして笑うのだ。こちらの痛みなど一割だって理解してくれないままで。
レンカの想像どおりにハイルは笑った、否、笑おうとしたが失敗した。色の薄い唇が歪んで、引き結ばれる。次に動き出した時、彼の発した音は懇願のそれだった。
「レンカは僕のこと嫌わないで」
今にも泣いてしまいそうな顔を無理やり笑みに形作って、ハイルはレンカの頬を指先で撫でる。皮膚のかたい指先は冷たくて、頬がひりひりと痛んだ。
ずるい。泣きたいのはこっちのほうだ。
この人といると、レンカは泣きたくてたまらなくなる時がある。過去の優しさを懐かしむあまりなのか、向けられる悪意に弱っているだけなのかは分からない。
ただ、ひたすらに息ぐるしい。
レンカの喉で言葉の断片が連なり重なっていく。明らかな理不尽にどうしてと詰め寄ることも出来なかった。おもわずハイルを見上げると、彼は雨空に視線を逃がす。青の瞳がまつ毛の下で翳っている。
「……おにいちゃん」
動揺や怒りよりも先に転がり出た呼称は、お互いの過去と共に埋めたはずのもの。だから彼は反応することを拒んで手をおろし――そのまま掬うようにレンカの手を握りこんだ。
途端に息ぐるしさが増して、めまいがする。指と指がうまくかみ合なくて、どうにもぎこちないのに振りほどくことが出来ない。
少しでもひびが入れば壊れてしまいそうな沈黙の隙間を縫って雨が地を叩いている。
数秒か数分か。判然としない時間が流れてのち、ぽつりとハイルはつぶやいた。
「……早く夏になればいいのに」
泣きつかれた子どもみたいな声につられて、とうとうレンカは手に力を込めた。
間違ってもほどけないようにゆっくりと指を絡ませたら、彼の骨ばった指とやっとかみ合った。
ハイルの大きな影が、レンカの頬にかかる。額が合わさる寸前の距離を保った彼の表情は昔のやわらかな面影をほんの少しにじませていた。
彼の濡れた白金の髪が落とす雨のしずくが、レンカの瞼の上を濡らした。
「暑い夏がいい。空がとびきり青くて全部の色が鮮やかな、そういうの」
「うん。そうだね」
もうすぐアスクレピアスの蕾は花開くだろう。そうしたら夏はすぐそこだ。
この人のために暑い夏を彩りたいな。
レンカは切ないまでに強く思った。それが、どんな意味を持っているのかさえ気づかないままで。
雨はしばらく止みそうにない。二人は迷子のように樹の下で互いの手を握りしめていた。
ハイルが乗り合い馬車から投げ出されたのは、それから一週間後のことだった。
***
「こんにちは、お嬢さん。二日ぶりですね?」
表側の店先の椅子にのんびりと腰かけていたグラン・ビアスは、三毛猫の耳を撫でながら笑いかけてきた。群青の瞳がいかにも愉快げに細められ、さっそく来たことを後悔しはじめていたレンカだが、一応挨拶だけは返しておく。
「こんにちは」
今日は学院の制服でそのままやって来た。白のシャツに臙脂のリボンタイ、黒に近い緑と青のチェックスカートに相変わらずの気候のせいで春用のカーディガンを着込んでいるレンカの姿は、この通りではよく目立つが、今さら隠れても意味がない。
一方、こちらもある意味よく目立つグレイのシャツと黄緑色のタイをした彼は、長い足を持て余すように組みかえ、今日の天気の話でもするように毒を吐いた。
「さっそく泣き言でも言いに来たんですか? 存外不甲斐ないですね」
「なっ……昼間からお酒を飲んでる人に言われたくありません!」
レンカの言に軽く目を見開いたが、すぐに薬瓶に並んで存在を主張している大きな酒瓶に、ああ、と得心したらしい。表情が苦笑にすり替えられる。
「酒は良い消毒になるし薬にも使えるから置いてあるだけです。嗜みはしますけどもっと良いものを飲みますよ。それなりに儲かっているので」
にこにこと見た目だけは良心的なその笑みだけで、女子生徒の大半が黄色い悲鳴をあげそうだ。やり返したはずなのに、まったく効果がない。
悔しさに歯噛みしていると、次の瞬間、グラン・ビアスは突然笑みを取り去った。
「君の目的は、死んだ人間の後を追うことですか?」
レンカは息を呑んだ。考えれば当然だった。レンカを知っているということは、ひと月前に永久の眠りについてしまった義兄のことも、彼はすでに知っているはずだ。
答えに窮するレンカを鋭い青の目が射抜く。自分の問いに答える以外の言葉を許さないと言外に告げていた。
「アスクレピアスの、使い道を考えてみただけです。……今のわたしは夏を彩ることは出来ないから」
後半を言葉にするのには勇気がいった。みっともない心のとがった部分が砕けていくような羞恥が体を支配する。
アスクレピアス。暑さを象徴するような花の名を知ったのは、もう何年も前のことだ。夏は嫌いなのに、あの花だけはどうしても嫌いになれなかった。
もしアスクレピアスを使っても季彩石から色が失われてしまったら。そう思うとこわくて仕方がない。それでも、夏を彩るために植えられた花を枯らしてしまうのは、どうしてもいやで。
思い出したのは、遠い夏の日のこと。暑い夏を象徴するような色を持つその花に、毒があると教えてくれたのはあの人だ。
「条件を撤回していただけませんか」
ゆっくりと切り出したら、グラン・ビアスは途端に鼻白んだ。柔和な顔立ちから愛想が削げ落ちていくと、ずいぶん冷たい印象になる。その方が安心して話が出来る。いつわりであっても、優しさには慣れていないから。
「わたしは実習生として失格です。でもわたしがいる限り、学院は代替を考えたりはしないと思います」
「だから?」
「……だから、毒薬を売ってくれた方があなたの望みは叶いやすいです」
グラン・ビアスは大仰に息をついた。そのことが不快だったのか、ずっとおとなしくしていた膝の上の三毛猫がしっぽをぴん、と立てる。逆立ちそうな毛を撫でる手だけは優しいままで、こちらを見上げる瞳は、光の加減で暗い緑がかって見えた。
「百年に一人の逸材と言われている天才がなんとも情けないですね。これでは亡くなられた候補生はうかばれないでしょう」
「どうしてそんなことまで知ってるんですか」
「君は有名人ですからね。それにこう見えて、学院関係者に知り合いもいます」
有名人。吐き気をおぼえる言葉だ。百年に一人だとか天才だとか、レンカ自身よりもよほど大きく膨れ上がってしまった呼称から逃げられない気持ちなんて、この男に分かるはずもないのに。
「あなたには関係ないです」
「僕に用はないと? ならさっさと君も自分の居場所に戻ってください。条件は変えませんが、断りたいのなら花は返しますよ、もちろん。墓参りでもしてあげた方が建設的ですし」
「そんなこと出来ません」
声音は凍えるほどにかたかった。
「候補だったことも知っているなら、分かるでしょう。あの人はわたしなんかに会いたくないはずです。ずっと目指していたものをわたしは横から奪ったんです」
おもわず自嘲の笑みがもれる。あの人に嫌われていることなんて痛いほどに分かっている。思い知らされたと言ってもいい。
校舎ですれ違う度、庭園で見かけるごとに拒絶の言葉を重ね続けられた。
もっと早くに自覚したとしても、初めから叶わぬ恋だった。
そもそも恋、と呼べるほど清らかなものでもない。
夏の候補生に推薦された時にレンカが試験を受ければ、ハイルが目指していたものを奪ってしまうと分かっていた。それでも断らなかったのは、少しでも一緒にいたいだとか、そういうかわいい気持ちからではない。
ただ、一方的な拒絶の仕返しがしたかった。昔のような関係に戻れないのなら、せめて見返して認めさせたかった。
そんな思いを抱いた時点で、こんないびつな恋を自覚するべきではなかったのだ。
「会いになんていけない」
自分の声は今にも泣きだしてしまいそうなほど、弱弱しかった。熱くなる目尻をかたく瞼を閉じることでやり過ごす。
泣いてもなにも変わらない。ハイルの葬儀から逃げ出した時、その事実に打ちのめされたではないか。もう二度と泣いたりしない。
「……すみません。やっぱり忘れてください。ちゃんと、果たしますから」
レンカは深く頭を下げた。これでは最初に言われた「不甲斐ない」を否定出来ない。説得をしようと思って来てみたけれど、結局泣き言を吐きに来たのと変わらなかった。あまりのみっともなさに笑いさえ出てきてしまう。
顔を上げ、背を向けようとしたその時、グラン・ビアスが突然椅子から立ち上がった。三毛猫の抗議を無視して、レンカの肩を強引に引き寄せる。
「少し俺に付き合ってもらえるかな?」
「は?」
言ったそばから、てきぱきと片手で薬瓶や薬草を片付けだしたグラン・ビアスはレンカの戸惑いなど一切意に介さない。
「ちょうど買い出しに行かなきゃいけなくて。ほら、荷物持ちは多い方がいいし」
「わたしに荷物持ちをしろって?」
「どうせ暇でしょう。ね、お嬢さん?」
さらりと図星をさしておいて、小首をかしげるなどとあざとい仕草をする男は微笑んでレンカの答えを待っている。手は肩に置かれたままだ。
今のレンカには、意外にも繊細な形をしたそれをはねのけるほどの強さはなくて。
結局、微笑んだまま歩き出したグラン・ビアスの後ろをついていくしかなかったのだった。
横に並んだ三毛猫が、のんきににゃあと鳴いた。