二人の憎悪
「いたっ!」
湯船にゆっくりと浸かりながら、水上紗良は腕にできたキズに、顔をしかめていた。
「つつ・・・。これ、どこで切っちゃったんだろう」
知らぬ間にしていた怪我は、手首の内側にクッキリと痕を残している。
かなり深く見えるのだが、不思議と血はまったく出ていなかった。
・・・なにか、ここのところ変なことが続いてるな、と少女はバスタブにもたれ掛かっていった。
つい先日、自分を家まで送ってくれたはずの一也は、あれから何も変わった様子はない。
普通に授業を受けて、普通にこちらを無視しているのだ。
(ふんだ。なんか、一人でピリピリしているみたいだけど)
水上はふと、自分の眉間までこわばっているのに気づいて、指先でこすった。
・・・クラスの皆は、なぜあの少年を異物だと思わないのだろうか・・・。
ずっとそれが、一也を意識していながらも、水上には違和感のある現実だった。
やけに同年代の男子より落ち着いていて、授業も流して点が取れるし、何より引っかかるのは、物心ついた頃から、人が多くいる場所では無意識に探してしまっていた”誰か”に、イメージがぴったり当てはまることだ。
「佐々原さん・・・あの子みたいに、私は彼のことを好きなんだろうか」
いつだったか、教室で自分のことを睨んできた少女を、水上は思い出していた。
・・・どうしてなのかは、知らない。
しかし彼女は、一也に対してホッとするような気持ちとともに、どこか昏い感情が生まれていくのを、止めることができないのだった。
自分は、過去にイジメを受けたせいなのだろうか・・・。自然とまともな心が欠けてしまっているのかもしれない。
ーー ただ、あの少年は一度、歪みが生まれるくらい、強く傷つけてやりたい。
そんな思いが、今の学校で出会ったときから、胸をよぎってしまうことがあるのだ。
己は無害だと、澄ましている彼を見るほど、その思いは膨らんでいく。
「何でだろう、相野くん。キミは本当は、今みたいな奴じゃない。すごくひどい人間なんじゃないかって、気がするんだよ」
水上は、その悪意ある口調とは裏腹に、親密な目でささやいていた。
それは、自分によく好意を向けてくるような、他の男子にかけるような優しさではない。
その目は、本当の意味で自分を理解させてくれる、ぬぐえない過去や憎しみから解放してくれる、苦しい相手に向けたものだった。
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「まだ、身体には足りねえなあ・・・
ちっとぐらいは目立っていいから、質のいい血をまとめて持ってこいよ」
ルド=サージェンカは、潮の匂いのこもる、港にある廃屋で、そう吐き捨てていた。
部下の首筋をつかみ、指の爪を一度立てると、ほおるようにつき放してやる。
「今回は、聖職者でもとくに厄介な二匹を相手にするんだ。
さすがに魔力が一杯になれば居所を隠すのもむずかしいが、お前もギリギリまでは溜めておけよ?」
「ーー はい」
マリノ=サージェンカは、首元をぬぐいながら返事をし、荒くなっていた息を整えていた。
紅潮した頬のまま、乱暴にまくられた細身のシャツを腰にもどしていく。
「・・・そういやあ、あの『保険にもなる』って言ってた、珍しいほど上物の小娘はどうした?」
主であるルドは、首を反対側に向けて、もう一人の男の眷族に話しかけた。
「相変わらず、あのチビが張りついてますね。
かなり用心してるのか、使い魔まで常時つけてるみたいですから・・・。もしかすると、”直系”のエサかもしれません」
「・・・ふん」
ルドは鼻で嘲笑うと、
「だとしても、牙痕がないんなら、文句を言われる筋合いはない。
縄張りを出るか、隙を見つけたなら、次は相当量の血を奪っておけ」
ーー!
「ルド」とマリノ=サージェンカがそこで、声を掠れさせて呼びかける。
「彼女には、手を出さない方がいいと思います。
あの娘は、上質な生気とは別に、普通じゃない感覚を持っています。・・・そもそも相野一也という存在は、直系一位の怪物、ウエイン卿のーー」
「マリノ」
地声で唸りながら、ルドは眼を閉じていた。
「お前は、忘れたのか?
俺が教徒の次に嫌いなのは、『昔はこうだった』って奴だと言ったろう」
「・・・」
彼女はうつむき、押し黙ったまま、右手でもう一方の腕の肘ををとった。
「あいつらみたいに、古い話の中で生きてるような奴は、もう 『社会科』なんだよ。
頭でっかちで、領地のサイズをいまだに自慢しあってる、古ぼけた”夢見る荘園老人”だ」
「・・・まあ、それでも”粛清”の際は頑張ってくれたんですかね」
もう一体の眷族が、おどけたように話に入ってきて、肩をすくめている。
「かもしれねえ。ーーだが、いまは資源を浪費してるだけの、何と戦うこともない老害だろ? 人と違って、貨幣みたいなもんを落としたり、何かに貢献することもねえ。
偉そうにしてるだけで、後進への意味より害を生むようになった生き物なんぞ、自分たちがやってきたような競争で消されても仕方ないだろう」
大陸で、大物と何度もすれ違いながら、それでも生き残ってきた自負が、ルド達にはあった。
「いいか。”お偉い”人間たちが祀り上げてる、まっとうな宗教でも、決まりに当てはめて邪魔な者を弾くようなマネをしてきたんだ。
それが命の正義だ。もし『神』って奴がいるんなら、そういう純粋さこそが、聖画像になるんだよ」
もう行け、とルドは手をふって壁にもたれた。
・・・まだ溜まった力は、七分といった所だろうか・・・。
(さて。 あの助祭の女は、今度は組織の都合なんかで逃げ出さず、ちゃんと応えてくれるんだろうな)
自分の故郷で、敵として視認した彼女は、まともにルドと向き合ったことがあった。
いつも強力な信徒に囲まれているので、遠目からだったが、いっさい動じることもなく仲間の前に立とうとしてきたのだ。
ルドは、小賢しい相手を雌犬に変えるところを想像し、指をにぎり込んでいく。
(あれが哭くときは、さぞかし追い詰められた後だろうな)
一体どこまで、まともな頭で悲鳴をあげられるか、しっかりと教えてやらねばならない。
( ーー 今回のことが片付けば、あいつらも捨ててやるか)
わりあい長く続いた部下たちとの関係も、そろそろ解消するべき時だろう。
この神経質な時代に、複数の吸血鬼で動くことは、もうそれほど利点がなくなっていた。
とくにマリノなどは、隠密性にすぐれ、期待していた以上の働きだったが、そのせいで無駄に注目されるようになっている。
・・・まあ、最後くらいは派手に尽くしてくれや。
眷族が消え、無音になっていた廃屋を出て濃い夏の潮香をかぎ、ルドは故郷の海を思い出していた。