いつかの日
水上紗良は、ひとりその場で、不安な表情をしている。
(相野くん・・・)
一也のクラスメイトは、どうやら教室の入り口で、中に入るのをためらっているようだった。
ーー 彼女は、かなり華々しい容姿をしているが、恵まれた学園生活を送ってきたわけではない。
中学のときに一度、不登校になっているのだ。
父親は、家の外でも女性と関係をもっており、娘のそんな状態にも、さほど興味を示すことはなかった。
・・・言い寄ってくる男子がいて、その彼に好意を持っていた女子に孤立させられ、今の水上はもう、誰と付き合うにも同じような笑みしか返せなくなっていた。
「ーー お疲れさま。
委員の仕事でもあったの?」
少女はそう言って、戸口から一也に声をかけている。
「・・・ああ。水上さんか」
少年は、机をはさんで向かい合っていた女子から、視線をあげた。
「そうだよ。ちょっと時間のかかる作業でねー」
かすかに目を細めたあと、すぐに手元へと意識をもどしていく。
ほかの男子にくらべれば、随分そっけない反応だ。
しかし水上は、表面上はどうあれ、彼が自分のように誰に対しても大差ない態度であるのを知っているし、何故かは分からないが、この学校で初めて見かけたときから、一也には既視感を感じていた。
「大変なら、わたしも手伝おうか? このまえ宿題見せてもらったんだし、そのお礼ってことで」
「いや。もうすぐ終わるとこだから大丈夫」
黙って待っていた、向かいに座る佐々原美子に、ほかの同級生の男子はやらないような、丁寧な説明をしている。
申し訳なさそうに用紙をまとめていく少女は、クラスでもとくに浮いた存在だった。
"美子"という名前は、彼女が幼少時代に負った火傷の容貌には、つらいものらしい。
大きな手術をくり返し、前腕にひきつった痕を残す彼女は、これまでに何度もひどい中傷を受けてきたようなのだ。
「・・・それがすんだらさ、相野くん。一緒に帰れないかな。
こっちも部活が終わったところなんだ」
水上が言うと、少年は動きを止める。
「いいけど・・・。この資料、出しにいかなくちゃ」
佐々原に、「もう先に帰ってもいいよ」と告げると、彼はダンボールいっぱいに詰めたプリントを持ち上げ、廊下のほうに向かってきた。
それほどの体格でもないのに、違和感を覚えるほどの力に見とれていると、佐々原もあとを追いかけてゆく。
(ごめんね・・・)
すれ違うときに、睨まれてしまった。
水上は、何も言うことができずに、ただ少年が座っていた席を見つめていた。
向こうにしてみれば、自分を傷つけず、人間として接してくれる男子など、一也が初めてなのかもしれない。
執拗なイジメに遭ってきたから、水上もつらさを充分わかっている。
「お前なら、どんな男でも選び放題だろう」
そんな視線の佐々原から、一也を取り上げるようなマネをしているのか ーー
(私・・・)
しかし、もう気を許せるような男子など、自分にもほとんど残っていなかったのだ。
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「ちっ!」
橘かすみは、周到な距離をおいて監視してくる使い魔を、横目にとらえていた。
ザッ!
地面をけって、あっという間に迫り、夜の公園で黒犬の首をつかむ。
「・・・まったくもう」
そのまま握るようにへし折ると、ふたたび元の歩調にもどって、ゆっくり移動していった。
このところ、どうも見張りが増えているみたいね ーー
先ほどの、駄犬を使い魔にした主は、近くにひそんでいるらしいのだが・・・3体ともてんでザコで、気配をたどるのも難しい。
(いったい、コイツらは何をしに日本へやって来たのかしら?)
少女は、外灯をよけた暗闇にまぎれて、佇んでいる。
視線の先には、妖気を絶たれ、形を霧散させてゆく犬の姿があった。
ーー彼らが、ただの”逃亡者”だというのなら、こちらもさほど心配はないのだ。
領地なら、この国にはまだ空きがあるし、人間の生活を破綻させないかぎりは、教会もこちらを尊重した対応をしてくれるようになっている。
だが、ここで引っかかってくるのは、正道教のイレイナという存在だった。
無名のまま落ち延びる吸血鬼などに、よもやあの十字の切っ先 が遣わされるなど、あり得るのだろうか。
「・・・ふ」
少女は一度、ため息をつく。
取り越し苦労ならばいいがーー万が一、本部の、中央教会からの動きなら、無視しておくわけにもいかないのだ。
「影狐」
唇をかるく引き結ぶと、ヒュッと高音の息を吐き出す。
(まあ・・・本部の情報は、他の直系が邪魔してアクセスしにくいけど、あっちの手先の動きからだけでも、おおよそのことは分かるわ)
そう考えた少女は、外灯に照らされた周囲の植え込みの影から、足元へと目を落とす。
よく見れば、彼女自身の影だけが、不自然な濃いものであったらしい。
腰ほどもある獣がそこから現れていくと、違和感のあった足元の色調が、わずかに風景になじむように、明度を増した。
「ずっと静かな日が続いてたから、あなたを出してやるのは久しぶりね」
いくらか身体を軽くしたように、彼女は微笑む。「ーー調子はどう?」
バチバチと、音すらも聞こえるように溢れさせる妖気の獣を、愛おしそうに撫でていた。
・・・一体、いつからだろう。
自分がこれほど、他者のぬくもりで安心するようになってしまったのは・・・。
橘は、猛烈な魔力を感じながら、多くのものを掌握していたころを思い出していた。
ーー 今はもう、遠くかすんでしまいそうな、幼い恋心を、一匹の『失われた悪魔』を想っていた。
「行け」
というように目を見開くと、その紫黒の獣は一瞬で傍らから消えさってしまう。
・・・いつになるのかは解らないが、やがては自分も、世界に命を奪われてしまうのだろう。
少女は表情を変えないまま、歩き出していた。
だとしたら、それはとても前向きなことに違いない。
(私はまだ、幸福というものを知らない)
誰にも知られず、でもたった一人だけでいい、自分を必要だと言ってくれた男のそばで、死んでいきたい。
なかなか夢見がちな最期だが、それは少女が、長い時間をかけてたどり着いた、ささやかな結末だったのだ。