わりと天国です
「ーー ずっと前になりますけど、言いましたよね?
『学校では、接触しないでおきましょう』って」
一也は、美術室に入ったとたん、不機嫌そうにふり返っていた。
「わかってるわよ・・・」
橘かすみは、めんどくさそうに髪を払うと、そのまま奥へと進んでいく。
「でも、早く伝えないとって、思ったから」
古くさい木椅子にすわり、後ろにもたれていた。
― いちおう、という立場になるのだが、橘は吸血鬼の中では『真祖』直系にあたる。
すでに長い時のなかで血は別たれ、誰もが希薄な関係になってきているが、昔から生存する眷族にとっては主のような存在だった。
「・・・それで、どんな話なんですか?
だいぶ切羽詰まってるように見えますけど」
「べつに」
美術部員である少女は、デッサン用のためか、モデル用のためなのかは知らないが、この部屋の女王的なイスがお気に入りらしい。
「ずいぶん接近を許してから入った情報だから、珍しい事態なのかなって、気にしてみただけよ。
・・・大陸から、3体がこの国を目指しているんだって」
「また”仲間”が逃げてくるんですか?」
一也にしてみれば、どうでもいいような話題だった。
「一族で移動して、情報にそんな遅れが出るようなら、警戒するほどでもないでしょうに・・・」
規制の厳しい教会本部地域から、アジアに逃れる同族はけっこういる。
少年にとっては、そんなことよりも、先ほどの地味な生活努力が無になったことの方が大変だった。
「たしかに、小物かもしれないわ。
ルド=サージェンカなんて名前、聞いたことがないもの」
しかし少女は憂鬱そうに、こめかみに手をやって続ける。
「問題は、追っ手なのよ。 イレイナ=フレードって女が、修道士に混じってるって話だから」
「・・・!」
あまり耳にしたくない名で、一也の瞳が赤みを帯びていった。
「あの、”十字の切っ先”とか、教会のふざけた噂が流れてるようなやつですか?」
そんな反応を見た少女は、そらしていた背をもどして、右脇にあったひじ掛けにもたれていく。
「まあ、大丈夫でしょうけどね。
私たちは、日本の教会支部と、静かな暮らしの契約をちゃんと交わしてるんだし。
・・・追ってくる本部の人間も、すでに手一杯でしょう」
どこか蔑んだような言い方だったが、逃げまどう3体と、こちらまで合わせて相手にするなら、たしかに日本中を洗礼して回るほうが先かもしれない。
「ここは、神魔にとって、とても懐の深い土地よね。ーー無宗教大国、バンザイ」
橘は真顔で言って、見つめてきた。
「わたしが注意したかったのは、水上紗良のことよ。
あの子は、無茶をしない程度に奪っておきなさい。
万が一のために、魔力を蓄えておいて」
「そ、それは・・・」
いつの間にか真面目に話をしていた一也は、クラスメイトの名前で、うわずった声をあげる。
「彼女は、昔の知り合いに似てるとこがあってですね。
とくに手を出すつもりは、ありません」
「・・・?」
美しい眉を、怪訝によせる少女。
「あなたがどうしてもって言うから、ゆずってあげたのよ。
『牙痕』がついていない彼女は、日本に逃げてきたやつらの、極上のエサになる。ーー気配がほとんどない、弱小魔族の方が、こっちを一方的に認識しやすいのよ。私のまわりで、面倒を増やす気?」
「わかってます・・・」
ヴァンパイアはふだん、同族がいる地域での狩りや、すでに匂いがついている獲物は避けるが、都会ではそうもいかない。
上物が多く、出入りも激しいので、境界を引き切ることができないのだ。
水上が危険なのは、すぐれた魔力源でありながら、まだ新品の状態だということ。
「ーー いい?」
あきらめたように、少女は立ち上がる。
「私たちの不死が終わるのは、何かにこだわってしまった時よ。
右から左に流れる時間に、けっして手を差し入れてはならない」
そう言い残して、美術室を出ていってしまう。
・・・一人になった一也は、情けなさに肩を落としていた。
だが、彼女にはどうしても、手を出せない訳があったのだ。