ラプソディー・イン・グレイ
この世でもっとも陰鬱とされる人間の一つに、「幼児連れ去り」など、弱者を嗜好する者が挙げられるであろう。
……しかし、生まれついてのロリコンという男は、この地球上には存在しない。
それが大学生である、夜上蛍斗の論文のテーマだった。
そもそも男の初恋というものは、大抵が“あこがれのお姉さん”であり、“ちょっとかわいい同級生”であって、歳の離れた幼児、ということはまずない。
……では、時に社会問題にすらなるその“ロリ的因子”は、いったいどこからやって来るのだろうか。
蛍斗は論文で、思い込みや逃避が、たびたび現実の恋より美しくなってしまうことを嘆いてみたのだ。
「そう! 『年下愛(モア=アンダー)』とは、人生で思いきりつまずき、本来は正統的であったはずの情動の行き場をなくした人間たちの、創造的な余白をさがす行為なのだ!」
……あれ?
人並みはずれて容貌の整った蛍斗は、駅のホームで立ち止まっていた。
劣悪な事件なんかを否定するつもりだったのに、むしろその犯人たちの応援に変わってしまっている。
(僕は、どっちかって言うと今の自分の外見よりは、年上が好きだしなあ……)
彼は時刻表をながめると、階段脇の壁にもたれて電車を待っていた。
通りがかる女性が数人、ハッとした顔で青年に見とれるが、その当人の頭にあったのは、先ほどネットで流れたニュースである。
『またも、幼女誘拐なのか……!? マンション前、その公園に書き置きあり。“ちゃんと育てて僕のお嫁にします――”』
……まったく。
どういう親に育てられたら、そういう教育が受け継がれていくんだろうか。
世界の淵をのぞいてしまったかのように、蛍斗はつぶやいていた。
こともあろうに、そのさらわれた少女は、自分と同じマンションに住んでいた子供なのである。
「お母さんの足に隠れながら、それでもきちんと挨拶してくる、明日花ちゃんだっけか……」
ホームに音楽が流れて列車がやって来たので、青年はのっそりと乗り込んでいった。
誰も彼もが、便利になった暮らしのツールで安易に人を傷つけやすく、また報いも受ける時代だが、さすがに幼女に向ける牙は筋違いにもほどがある。
「これは本人にも責任があったのではないか」という犯罪被害者もまれにいるが、落ち度など知るよしもない少女を傷つけた人間は、その後刑務所だろうと、社会生活だろうと、とことん打ち据えられるのが分かっているのに。
(――教会には、できるだけ恩を売っておけよ)
ふと、そこで知り合いの相野一也に言われたことが、頭をよぎっていた。
「分かってますって、一也さん……。でも、これは警察の仕事ですよね」
蛍斗にとって、『主がよく言っていることだからな』と苦笑する少年は、懐かしい存在なのだ。
一年ほど前にここ、兵庫にたずねてきた時には、自分もえらく平穏な日常を過ごしていたはずなのに。
そのとき電車がガタンと揺れ、青年は思わずよろめいてしまう。
その拍子に、はなれた場所に立っていた女性から身がすこし隠れる形になったので、都合がよかった。
「……はああ……」
いま、蛍斗は誘拐された少女と同じくらいには、危険な目に遭っているのである。
(!)
きびしい目つきをした“その女”は、陽に焼けた髪をしていた。
街でふいに視界に入って、珍しいそのまだらな髪色に見とれていると、なんと向こうも気があるように横顔が笑ったのだ。
……それが最近、大陸から来た化け物だと気づいたのは、蛍斗の鈍感さに眉をゆがめられてから。
「……お仲間だったのかよ……。そりゃあいくらでも人目を惹きつけるわけだ」
蛍斗としては、相手の方が格上だったので、あわてて逃げ出すしかなかった。
(勝手に向こうの領地に入ったのは、まずかったかな。――でも、あんな異人の女に襲われるなら、それも悪くないか)
日本からずいぶん出ていない彼は、逃げた後もつけてくる彼女の、混金の髪が目に焼きついていた。
肌の色は褐色で、たぶん間近でみれば、息が止まるほど肢体の造形が美しい。
「この駅あたりで、いいはずだ」
危ないということは分かっているのだが、予定していた住宅地に着いてしまったようだ。
どうせ殺されるのなら、最後にやっておかねばならないことがある。
果たして、向こうがそれを、許してくれるのか……。
――別に、どうもしないわよ――
そんな覚悟を決めていると、思っていたより嗄れた、ハスキーな声で話しかけられた。
「マリノって言うんだけど。義兄さんから聞いてないかしら。あなた夜上でしょ?」
すぐそばで聞くと、肌を毛羽立てられるような、奇妙な快感がある。
……しかし、義兄と呼ばれた相野一也は、この女がここまで強いとは、忠告してくれなかった。
「この周辺は一度、ぐるっと回ってみたのよ。あなたは気づかなかったみたいだけど」
「ああ……。こんな器用に魔力を隠す仲間は、初めてだよ」
青年は笑うしかなかった。
おそらく橘かすみの濃密な力を、器にめいっぱい継いでいるのだろう。
だがそこに、匂いはほとんど漂っていなかった。
「アイヴィ様がくださったものを、無駄に使うわけにはいかない」
豪奢な印象に似合わない生真面目さで、彼女は唇を結んでいる。
「だから、今の私の本気が知りたかったら、また今度ね。……それよりも、ここはあなたの『エサ場』じゃないでしょう?」
「まあ、殺される前に人助けでもしておこうかと思ってね」
「……?」
何を言っているのか解らない、という顔で睨まれてしまった。
「この近くに、幼女誘拐の犯人が住んでるんだ。――ニュースは見るほう?」
「馬鹿にしてるの? もしかして」
蛍斗は、空気がいきなり固まったのを、急いでごまかそうとした。
「とりあえず、身近な人間に起こったことだから、感謝されることでもしようと思ったんだよ。ほら、そういうことをしとくと、生まれ変わったら次の人生が楽になるっていうじゃないか」
「それ、吸血鬼の誰かが言いだした、人間俗説ってやつ? あなたまさか、本気で信じてるの?」
呆れたように肩を下げられたが、不思議とそれに胸をくすぐられる思いがした。自分のタイプはこんな女性だったのかと、ちょっと驚いてしまう。
「迷信じゃないよ。長命者の統計データじゃないか」
「くだらない」
マリノ=サージェンカは下を向いて、蛍斗と距離をつめてきた。そのまま避けると、駅の正面通りを、向こうへ行ってしまう。
「……おい?」
「何をボーッとしてるのよ」
女の子を助けるんでしょう、と彼女は視線をふり返らせていた。
「――よその土地で、僕は派手に動くつもりはないからな」
一応、ここでは彼女が女主人なのだ。
とくに吸血鬼の中でも弱い自分は、流されて生きるしかなかった。




