境界線
教会は、信仰の下に魔を滅する。
神を定義し、その教えを脅かすものを、対極に位置づけて。
ならば、信仰を持たぬものは、十字にどう接すればいい? 後悔に至った時の、最後の赦しか。
ーー それとも、無慈悲な罰か。
「ちっ!」
当てが外れて、一匹の吸血鬼が迫ってきたために、ルドは鼻に皺をよせていた。
港に積まれたコンテナにもたれ、辺りにただよう重油の臭いを、胸いっぱいに嗅いでいる。
(・・・アイヴィ=ローランドならともかく、死にかけのチビ年寄りなんかに、用はねえんだよ・・・)
盛大に息をはき、そのまま両目を閉じてしまった。
できれば、ここに聖職者のどちらかをおびき出したかったのだが、そう物事はうまくいかないらしい。
また移動か、と思ったが、目の前に捨てた、なかなか衣服をはだけさせなかった女が悦びふるえているのを見て、「ああ、そうだった」とひとり納得する。
アイツが後生大事に守っていた、小娘の血を奪わせたんだったな。
もう忘れかけていたが、こんな時でなければ、身体の方をさんざん苦しめてから愉しみたい味をしていた。
(ははっ!)
それでもルドは、冷笑するように空を窺う。
かつてはあれほど高名だった奴が、子供一匹なんかに入れ込みがって・・・。
つくづく存在に意味のなくなった奴だと、彼は唾を吐き捨てていた。
油断はするまい、と思ったが、恐れを抱くことなどムリな話だろう。
(ーーだがーーこれは・・・? まさか、もう一匹いやがるのか?)
それは、どこか違和感のある力だった。
相野一也に隠れて、なにか中立的な者が近づいてくる!
記憶に焼き付いているはずだったが、以前よりはるかに静かな圧力のため、気づくことができなかったのだ。
「・・・何だ、てめえらは!? なんで一緒にいやがる!」
それを知ったルドは狼狽し、空を覆うような怪鳥が通りすぎるのを、眺めることしかできない。
途中から跳び降りたイレイナは無言だったが、鳥は身を翻すと、着地してうれしそうに笑った。
「・・・どうしてだと思う?
それはな、きっとお前にだけ、天罰が下りそうだからだよ!」
いいことでも言ったと思ったのか、やけに高笑いをしながら、一也は人間の姿にもどっていく。
敵ばかりか、同行者の修道女までがシラけ顔になっていた。
あれ? 良くない、いまの? と訊いてみたが、発言の権利はもう失っていた。
「・・・やっと会えたわね、サージェンカ一族の生き残り」
イレイナは、気を取り直すように、敵に腕を伸ばしていた。
その先に提げたロザリオを見せ、表情に浮かんでいるのは、慈愛に満ちたような微笑みだ。
「まさかあなたごときに・・・。
いえ、あなたにこれほど、生への運命と力があるとは思っていなかった。古くからある、地方の農村に生まれた吸血鬼信仰ーー『肉体の地図は有限にして無限ーー思考はなおその先を行く』ってとこかしら」
そんな皮肉にも、ルドは口元をゆがめて立ったままである。
「ーーさすがに、府司教クラスの神気を持つ二匹とは、別々にやりたかったからな」
声を荒げながら、吸血鬼は手を震わせていく。
「お前には、ここで死んでもらうよ。
教会がほめ讃える聖書が、どれほど役に立たないものか、身体で思い知らされながら、何度も確認するといい!」
「・・・おい」
そこで、横から邪魔するように言葉をかけたのは、無愛想な顔をした少年だ。
おさえた怒りと共に、向かい合う二人のあいだに入っていった。
「お前はまだ、こちら側に対しての罪を償ってはいない。
これ以上、好きにできると思うなよ」
真正面から見つめたが、ルドはあきれたように鼻を鳴らすだけだ。
「小娘に出す手もこまねいてる、小者にものを言う権利なんかねえんだよ」
さっさと無視するように、女に向かってにやけた目を見せていた。
(・・・コイツも、過信した自分と、それによって見える都合のいい世界しか己の天秤に載せたことがない、幼稚な二元論に生きてきたんだな)
一也は、自嘲するようにうなだれていた。
たぶん、いま目の前に立っているのは、過去の自分そのものなのだろう。
イレイナに顔を向けると、いつでも代わるように頷かれてしまった。
「・・・ルド=サージェンカ ーー」
ゆらりと。
一也は逆十字を切りながら、指の凶爪を伸ばしている。
「!?」
突然ふき出した不可思議な魔力に、敵は弾かれたように反応していた。
傲慢ってやつはな ーー
その少年の一歩は、先ほど大きな力を得たルドにとっては、あまりにささやかな圧迫だ。
しかし、彼は少年の質量におぞましいものを感じて、押されるように後ずさっていた。
「時に、傲慢は永遠すらも腐らせるんだよ。
お前ごときの罪の揺り返しは、とっくに器の限度を超えてるんだ!」
そのまま、音もなく倒れこむように、少年は疾走を始めていく。
ーー 境界線になったのは、たった一人の少女。
それが、ルド=サージェンカの死だった。




