八端(はったん)十字
イレイナ=フレードは、どこか冷めた目つきで部下の戦いを見つめていた。
「・・・やっぱり・・・。ユノじゃあ、あいつは捕まえられないか・・・」
まだ18を迎えたばかりの彼女だが、信徒ではとくに『大物喰い』で名前が通っている。
極めて教条的な思想を持っており、それによって聖詠を篤く唱え、比類ない力を込めた銀剣で魔物を退けてきたために。
「ーー つっ!」
何度目かの斬り払いのあと、勢いづいていた彼女は、その追い足を止めていた。
「・・・何なの? あなた。神気は普通じゃないけど、ずいぶん恵まれた、古くさい型通りの『聖句野郎』なのね」
マリノ=サージェンカは、山肌のひらけた場所で、大きくうしろに跳んで言った。
嘲笑いをかみ殺すように、手首で口元を押さえている。
ヴァンパイアの能力として、もっとも面倒なのが、いま彼女がやっているような、夢幻のように本体を散らすことだ。
この敵は、霧を漂わせ、自分のすがたを滲ませるようにゆらゆらと攻撃から逃れていた。
「もういいわよ、ユノ」
イレイナは、修道衣のスカートを音もなく払うと、前に進んでいく。
彼女は極右系の、さる高名な区司教のもとで、曲がることを知らずに育った娘である。
まだ聡い少女のような潔癖さを持っているので、敵であろうと味方であろうと、己の信じる正しさをぶつけることが、最高の信仰だと思っているのだ。
(・・・マリノは、本来わたしたちが吸血鬼を捉える足掛かりとする”悪意”を、本体からうまく逃がしている。
まあ、『善』と『悪』の二元論みたいに、こいつらがシンプルな存在なら、人間の戦争みたいにダラダラ続いて、生き延びてないわよね)
イレイナは、どこか愉しそうな笑みで、敵を見つめていた。
『”魔”というものはね、ユノ。神に似せて創られた人間より、偏っているだけで、悪ではないのよ』
それは、教会としては危険な言葉だった。
しかし異端とされかかっている友人、レイコは気にすることもなく、頷いてくれた。
なぜ魔物は、そして”人間は”悪行をくり返すのか。
その悪行に、どうして快楽に似た思いがつきまとうのか。
それらの考えを信仰から排除しては、人 が正義として人を殺す理屈からも、逃れられることはない。
「マリノ=サージェンカ!」
澄んだ目をして、修道女は呼びかけている。
「選びなさい。
人を傷つける道理の下に、ここで死ぬか。
それとも、ルドに捨てられながらも、正道教の監視下で生きるのかを」
さっと相手の顔色が変わって、全身がこわばるのが分かった。
「何を、ふざけたことを・・・。私はただ、お前をここに足止めしているだけなんだ」
動揺を含んでいるようなその声に、イレイナはきっぱりと首を動かしている。
「・・・別にこちらとしては、それほどの問題にはならない。
あなた達はそもそも、東雲礼子の能力を、過小評価しすぎている。さらにーー恐らくあなたは、自分の命に関わることを、教えてもらえなかったのね」
「・・・?」
いったい、お前は何を言ってーー
吸血鬼が問いかけようとした時、イレイナの両腕がすばやく動き、敵の足下に斜線が鋭く輝いた。
「これは ーー?」
(『八端十字』・・・まさか!)
大地に引かれた光芒に、マリノは長身が総毛立つのを止められなかった。
あるいは、十字に斜線が二本足されたその結界を知らされていれば、対処できたのかもしれない。
だが、彼女が一瞬我を失うと、イレイナは敵を中心としてねじ込むように、右腕を回転させていった。
「切十字封陣・・・!?」
地面に描かれた赤光がぐるりと反転し、マリノは放心したように神気に閉じこめられてゆく。
『祝福はあなたの民の上に ーー 常に一瞥の救いを用意された、わたしの盾であり、幾万もの邪を退ける神よ』
間を置くこともなく、イレイナが『詩篇』の一節を唱えると、円陣から魔力が暴風のように失われはじめる。
(こんなものが・・・教区も持たない、たかが使い走りの修道女なんかに!)
いくら本部のーー討伐隊の人間とはいえ、一修道士の誓願による力ではない。
しかしイレイナは、溢れるような神聖力で、マリノが意識を失うまで詠唱をやめようとしなかった。
衣服から分厚い刀身の”杭剣”を取り出すと、歌を口ずさみながら遊歩道でも進むように、足を軽やかに運んでいく。
「・・・ごめんね。
ルドの親を殺して、あいつを領地から遁走させたのは、たぶん私なんだ。
だから、あなたを生み出したのは、私の罪かもしれない」
ふいに眉を下げ、体に手を置かれたが、マリノは何もすることができない。
まるで他人の出来事を見ているように、錆の浮いた短剣を受け入れてしまった。
「がぁっ!・・・うう、あ」
「あなた達って、魔物同士でもたいがい争ってるから、私の細かい能力までは、意外に伝わらないのよね」
どこか冷めたような言葉だが、イレイナは手のひらで剣の柄を押し下げ、敵の心臓を二つに割ろうとする。
マリノはもう、相手の慈悲にすがるしかなかった。
「いま、不死の身体から魂を解放してあげるから・・・じっとしててよ」
気だるげにもたらされる激痛は、すべての労働が祈りにつながっていくように、魔に死をもたらしていく。
(ーー!?)
結界が大きく震えたのは、その時だった。
「・・・なんだ!」
ピクリと肩をゆらして、修道女は手を止める。
そこに、何かがぶつかってくるように、もう一度くぐもった音が響いていた。
まさか・・・。誰かがこの中に、入ってこようとしているのか?
呆然とするイレイナ。
この封陣が、外側からの力に弱いことは、さほど知られてはいないはずだが・・・。
けれど不快な予感が胸をおおってゆき、彼女は奥歯をかみしめていた。
「いつだったか、『大人しくしてる』とか言ってたくせに、アイツは・・・」
自分にもたれかかっていたマリノを、敵とは思えないほど優しく横たえると、違和感を覚えるほどの優美さで、その場に立ち上がる。
「ーー 相野一也!」
封陣がうち壊されたのは、その言葉が発されたのと同時だった。
まるで天球から薄ガラスが散りばめられていくような、儚い光が音もなく降りそそいでくる。
(・・・ふうん。渡鴉なんて古くさいものを、まだ使っているのね)
陽はすでに落ちかかっていたが、ひらめくような影鳥が、弧を描いて山に消えるのが見えた。
その主であるはずの少年は、どうやら右手の林に潜んでいるらしいのだが・・・。
「ねえ、あなた。魔力を凝縮して溜めておくことができるタイプの吸血鬼でしょう? そういう奴って、小賢しくて、力の最後の一線が見切りにくいのよねえ」
イレイナが声をかけたのは、きちんと向き合えば吐き気すら覚えるような、ゆらぎ続ける妖気の相手だ。
「・・・まあ、こっちとしては取りあえず、 マリノ のことを話したいんだけど」
あまり警戒させないためか、のっそりと木陰から現れた少年は、どこか自分でも納得していないような取り引きを持ちかけてきた。
「”これ”と交換してくれないか? 僕はあまり気が乗らないんだけど、アイヴィがそいつを欲しがってるんだよ」
「・・・?」
イレイナは、目の前に差し出されたものがすぐに理解できず、しばらく少年の手を見つめていたが、
ーー!
そのまま固まり、思わず左手で、腰にさげた銀剣の鞘口をにぎってしまう。
「・・・それ、もしかして死灰なの? もう一体の、コイツらの仲間の・・・」
心臓のような塊は、すでに焼け爛れ、くずれるように炭化している。
ーー かつては、原因不明の病を治すために、飲み薬として使用されたこともあったはずだが・・・。
「その女をくれるんなら、ついでに支部の監視下に入れてもいい。
アイヴィ=ローランドが欲しがる奴は、ひさしぶりなんだ。・・・頼むよ」
それは、どこか予測できていた交渉だったのかもしれない。
修道女は構えていた体をすっと伸ばし、やがて、外見に似合わないような、乱暴な頭のかき方をした。
「・・・そんな程度の条件なら、割に合わないわね。
ルド=サージェンカが、何でこれまで捕まらなかったと思うの?
あいつはそれが当たり前になって鈍ってるけど、この女は、それほど繊細な働きができる奴だから」
話をつっぱねながらも、彼女は考えざるを得ない。
この少年は、どれほどの異能を秘めているのか ーー
長く生きている魔物は、彼に限らず、特殊な力を身につけている輩が多いのだ。
闇色に濃い妖気は、それだけで濃密な魔力を持っていると言えるし、さらに目の前の相手は、”直系”吸血鬼の圧倒的な存在感とも違う、何か得体の知れないカードを何枚も隠しているようだが・・・。
(あまり、放っておきたくはない男ね・・・)
その注意を向けられている一也だが、当人はいま、自分がしていた話も忘れたように、あらぬ方角を眺めていた。
「ーー?」
ふいにその視線が引っかかったが、イレイナには特に、違和感は感じることはできない。
「どうしたのよ? 私たちは、数が激減した魔族ほど、危機感めいた知覚はないんだから」
説明しなさい、と詰め寄るが、少年は顔を険しくするばかりだ。
マリノを逃がさないように、あたりの森に配置されていた教徒がさわぎ出したのは、その時である。
「・・・たぶんルドが、新しい上物を見つけたんだろう。 さらに力をつけて、逃げ回るのをやめたかもしれない」
一也が伝えると、部下を呼び寄せたイレイナは、やや遅れてきた至急の情報に、呼吸を止めた。
魔力をまた大きく蓄えたかもしれない敵に、ゆっくりと、ふるえるように息を吐いていく。
「・・・あなた、奴を追えそう?」
乾いた声の質問が発せられたのは、その場にはりつめた空気が広がり、二人の思惑がいくつか交錯してから。
「なんだ? 僕のことを、使い走りにでもしようっていうのか?」
拒絶するような嘲笑に、イレイナはやや鼻白んだが、
「あなたがルドの所まで私を案内してくれたら、さっきの要求を飲んでやるって言ってるの!
マリノが欲しいとかいうやつをね!」
「・・・ああ ーー そうか」
一也は納得したようにうなずいているが、都心を向いたままの目は、まだ可笑しさを含んでいた。
「今は中世あたりと違って、魔物より人間側のほうが安穏と生きてるから、アンタみたいな存在でも、嗅覚が衰えてるんだな。初めて会ったときは、めずらしく気配の引き締まった修道士だと思ったのに」
それより少年が問題にしたかったのは、イレイナをこのまま敵の所までつれて行って、自分に得があるのか、という話だった。
先ほど彼女が使った『封陣』は、もともと二ケタの人数で発動させるような技で、おそらく何度も使えない。
それに合わせて、基本的な信仰心が異常なレベルであるイレイナを同伴し、無駄に生じる退魔の力から自分を障壁で防護しながらルドを追う、というのは、いかにも徒労でしかないような気がするのだ。
「あいつは・・・こともあろうに、高位の聖職者を襲うつもりなのよ」
一也に返答をしぶられたイレイナは、手首のロザリオに触れながら、昏い目つきで言う。
「・・・それに、東雲レイコはきっと、私が歩めない道をゆくことになる。
これまでずっと、狭く、見出だすのが難しいと言われていた ”王国” への正道を、彼女なら広げてくれる」
かつては狂信者ともいわれたイレイナの言葉に、少年は驚いていた。
(・・・どうやったのかは知らないが、東雲は、彼女の心を大きく和らげたんだろう。 ・・・まあ、どちらにしろ僕もルドに用があるわけだから、多少の魔力ロスさえ我慢すれば、メリットもあるか・・・)
一也は、まわりに集まりつつあった教徒を下がらせるように言い、事が済めばもらい受ける予定になった、マリノの容態を確かめることにした。
ーー 吸血鬼同士は、めったなことでもない限りは、同族を相手に戦ったりしない。
それは仲間を大切にしているというより、彼らは個体ごとに魔質に差があって、力を奪い合ってもさほど得にはならないからだ。
少年は、まだ自分の体に馴染ませる前の生気を、仲間に分けてやることにした。
「・・・う」
幾人かの信徒がざわめき出すが、しばらく時間を置いてから、マリノの体を地面に寝かせてやる。
それから彼は、深く一呼吸置くと、自分の純粋な魔力を放出していった。
「!」
(・・・これが)
間近にそんなものを見る機会などまずないので、周りを取りまく修道士たちは、開翼6mもの猛禽の巨鳥が現れてゆくのに、目を奪われていた。
「・・・けっこうフワフワしてる」
イレイナも、皆と同じようにその変容にとまどっていたのだが、少年にくいっと首をひねられると、どことなく嬉しそうに寄っていき、その毛並みに触れていた。
「ユノ。それに貴女たち、そのヴァンパイア見張っててね!」
まだ死に瀕しているマリノをまかせ、彼女は部下に声をかけている。
「とうぶんは、自由に動けないはずだよ。
それにしてもなあ・・・死んだ方が楽なくらいの傷なのに、それでも生きてるってことは、よほどキツい生を歩まされてきたんだと思うよ」
裂傷の苦しみから、和らぐように息を吹き返す魔物を、教徒たちが囲んでいた。
その中でも一番、ともすれば一也にとって十字架よりも凶悪な修道女は、いまは彼の背中に乗り、首根を抱いて手触りを確かめているところだ。
・・・これはかなり・・・いや、メチャクチャおぞましいぞ・・・
そんな思いもどうにか我慢して、少年は広々とした両翼をはためかせると、地面をかるく蹴り、夜空へと舞い上がっていった。
「ーー ね、ねえ! もう少しゆっくり飛んでよ!
こっちはまだ慣れてないんだから!」
そんなことを言ってくるイレイナだったが、彼女はさっきからどこか楽しげに身をこわばらせている。
やがて、ゴソゴソと体を密着させると、乗り物のいい手綱を見つけたとばかりに、喉の毛を引っぱってきた。
(ふぐぐ・・・)
あまりのことに、一也は悲鳴をあげそうになったが、とりあえずモタモタしている状況ではない。
彼は、即席の相方をすでにふり落としてもかまわない、とばかりに、気流を巻きつけるように高みへと昇っていった。
充分な高度に到達し、ひんやりした風に翼をのせると、
「まったく・・・。なんて礼儀知らずで、無神経な女なんだよ。ーーじゃあ、速度を上げていくからな。しっかり掴まってろよ!」
そこからの滑空は、思った以上に恐ろしく、爽快で、イレイナは目を輝かせるようにじっと前を見つめていた。




