第88話 激情トライアングル
夜の山中に、がさがさと足音が響く。
なんだ、と思った時には、既に気配は近くまで接近していた。敵か、と思った時には、既に周囲を囲まれていた。
連中が物音を立てていたのは、単にこちらへ発した警戒信号でしかないとわかったのは、その後のことだ。
取り囲む気配は4つ。ベヒーモスでは、ない。
冒険者のレインが構えたのは、使い慣れたハルバードではなく、割と真新しい長剣だ。木々が居並ぶ森林地帯においては、取り回しにすぐれないハルバードは選択肢に入らない。
彼女が連れる魔物たちは、レインの態度に緊張を露わにした。鴉天狗の烏丸義経が、やはり剣を構えて前に出る。
「剣を引いてください。レイン」
よく聞き覚えのある声がして、レインははっとする。目の前の茂みから姿を見せたのは、レインも知る顔であった。
「フィルハーナ……!」
冒険者として共にパーティを組み、新大陸へと渡った神官フィルハーナ・グランバーナである。彼女の登場に、他の魔物たちは安堵の溜め息をついたが、レインの緊張は解けなかった。フィルハーナの佇まいと表情が、彼女の知るものとは異なっているからだ。
フィルハーナとは、ここまで隙のない立ち方をする少女であっただろうか。ここまで酷薄さを湛えた真顔で、旧知の相手を睨むことのできる少女であっただろうか。
それに、何より、フィルハーナが首からぶら下げた懐中時計。『4』の文字を指したまま止まっているそれは、まさしく、
「おまえの知り合いか、フィルハーナ」
男の声がして、すっと右手側にエルフの剣士が姿を見せる。
「フィル姉ぇ、情に弱いからなぁ。大丈夫かな」
そう言って、左手側に姿を見せたのは、フィルハーナよりさらに年若い少女である。
突如として姿を見せた彼らに、魔物達が動揺しているのがわかる。
だが、レインにとっては、動揺よりも絶望感の方が強かった。
ピリカ南王国、バルク家三男坊レスボン。彼のお目付け役として雇われたレインは、バルク家が輩出した偉人についても、教育を受けていた。
元・皇下時計盤同盟第2時席“覇王”ダイナスト・バルク。
彼が最強の1人たる証として帝国から与えられたのが、彼らが首から下げているものとまったく同じ、懐中時計だったはずだ。
皇下時計盤同盟、帝国最強の12人のうち、3人がここにいる。
フィルハーナは、その1人だった。
わざわざ3人も姿を見せるということは、友好的な目的でないのは明らかなのだ。加えて、まだ姿を隠したままの気配がある。
「フィルハーナさん……。どういうこと?」
壁野千早が、物怖じせずに尋ねる。
「あなたは、これから私たちに害をくわえようとしているの?」
「害をくわえようとしているわけではありません。私たちの目的は、あなた達の保護です」
「保護? 保護される必要なんか、私たちには……」
言いかける壁野の声を遮るように、まだ若い少年の声がこう言った。
「それが、ある」
声の主は、フィルハーナの真横に現れた。全身を黒い甲冑に包んだ、正体不明の男だ。
「帝国では、血族が僕たち魔物化した生徒を捕獲し、戦力に転用しようとしているという情報を得た。そうなる前に、帝国が君たちを保護する。そういう理屈だ、壁野」
金属の軋む、重く重厚感のある足音。彼だけは、首から懐中時計をぶら下げてはいなかった。
壁野の名を呼ぶこの甲冑が何者であるのか。レインにはわからない。わからないが、予想を立てることはできた。彼らは仲間とはぐれたのだ。その仲間と合流するために、ヴェルネウスを目指している。互いの姿と名前を一致させられるということは、つまり、そういうことなのだ。
「まさか……」
「火野くん……?」
壁野と御座敷が口ぐちに呟く。黒甲冑は、肯定も否定もしなかった。
「大人しく保護されてくれれば、危害を加えるつもりは、ない」
「納得できねぇな」
烏丸が、クチバシをかちかちと打ち鳴らしながら反論する。
「大人しくしねぇと、危害を加えるってことか? 胡散くせぇし、いきなり信用しろっていうのは無理だぜ」
「多少の無茶をしても君たちを保護する。2年4組全員で帰るという、当初の目的のためだ」
空気がぴりぴりしている。どうやら、あの黒甲冑と魔物達は、予想通り友人関係にあるらしいが、双方の意見はすれ違っているらしい。
血族が仲間たちを狙っているから、帝国で彼らを保護する。帝国は、敵対関係にある血族の戦力増強を抑えられるから、あの黒甲冑と帝国側の利害は一致しているのだ。理屈は、一応通っている。
だが、レインも彼らを信用することはできなかった。
レインとレスボンは、ピリカ南王国の出身だ。王国で起きたクーデターのことも、それを鎮圧するために帝国側から投じられた戦力のことも知っている。それを率いていたのが、皇下時計盤同盟のひとりであるということも。
「烏丸、逃げろ」
レインは低い声で彼に告げた。
「……なんだと?」
「助けを呼べ。いや、呼んでどうなるとは思えないが……、この戦力差では……」
「あまり賢明ではないな」
剣を携えたエルフの剣士が、眉ひとつ動かさずに言う。
「大人しく捕まるのが、おまえ達にとっては最善だ。悪いようにはしない。身の安全は保障する」
「生け捕りはなぁ……。あんまり、力の加減がなぁ……」
左手側の少女が、頭を掻きながら目を瞑った。彼らの様子を見ながら、烏丸は目の前の甲冑を睨みつける。
「なぁ、火野。知ってるぜ。竜崎から聞いた。大人しく捕まれば、身の安全は保障されるから、一緒に来いっていった奴が、いただろ。いた、らしいじゃねぇか」
その言葉を聞いて、黒甲冑はわずかに動きを止めた。
「竜崎たちはそいつの言葉には耳を貸さなかったな。鷲尾が、殺されていたからだ」
「何が言いたいんだ、烏丸」
「お前達の中の誰か一人でも、他のクラスメイトに手をかけてねぇかわからねぇって話だよ」
烏丸はロングソードの切っ先を、黒甲冑とフィルハーナに向けて突き付ける。
「こういう威圧的な態度で来るってこと自体、後ろめたいことがあるって証拠じゃねぇのかよ。なぁ、おい、火野……!」
「交渉は決裂だな」
エルフの剣士がそう呟いた。
「捕獲を強行する。だが、その前にアキラ」
「……なんだ」
「ここから3000メーティアもない距離の場所に、別の気配がある。足音を消して歩いているが、冒険者ではない。お前が、様子を見て来い」
「………」
黒甲冑が、重たい視線をぎろりと剣士に向ける。
「御心配なく」
彼の感情を慮るように、フィルハーナが言った。
「彼らに怪我は負わせません」
「……頼んだ」
黒甲冑は短くそう言うと、素早く地面を蹴った。背面から炎が噴き出し、甲冑の身体が加速する。
「待ちなさい、火野くん!」
壁野が叫ぶと同時に、彼の周囲を防護壁が取り囲む。だが、壁野の生み出した壁は、急加速した甲冑の拳ひとつで容易く打ち砕かれた。烏丸が翼をはためかせ、追いすがって引き留めようとするが、黒甲冑の動きは止まらない。速度では烏丸が上回るかと思われたが、彼はあっさりと引きはがされた。
烏丸の身体が、斜面を転がる。彼は舌打ちをして、立ちあがった。
「さてー」
少女が大きく伸びをしながら言う。緊張感をまったく感じさせないその動作が、かえって一同を硬直させた。
エルフの剣士とフィルハーナも、その動きに合わせるように、武器を構える。
「じゃあ、アッキーのためにも、頑張っちゃおうかなぁ」
その頃、小金井、アケノ、シャッコウの3人は、もう片方のグループと遭遇していた。
白馬、雪ノ下、それに犬神だ。見知らぬ冒険者もいる、犬神は牙を剥きだしにして、低い声で唸りながら威嚇を続けている。
血族の臭いにいち早く気付いた犬神は、白馬たちを連れて茂みに隠れようとしたが、それでこちらの目を欺けるものでもない。
「今更用件を聞く気もないわ」
腕を組んだまま、雪ノ下が言う。
「あたし達を捕まえるって言うんでしょう」
「それは話が早ぇ」
シャッコウは口元に攻撃的な笑みを浮かべて、応じた。
小金井は、彼らの顔を見ることができなかった。今の彼は、血族の一員としてその行動方針に逆らうことができない。反抗に気付かれれば、すぐさま“王”による支配の力が及ぶ。一度そうなってしまえば、彼はもう、自由意志を失った操り人形も同然だ。
だからここは、白馬や雪ノ下たちに対して、不義を働くよりほかはない。
「だが用があるのは、そこのユニコーンと雪女だけだ。イヌと人間はどうでも良い」
言われて、冒険者の男は苦笑いを浮かべている。隻腕隻眼であるというのに、大した肝の据わりようだ。
「まぁ、だろうな、とは、思うんだけどさ」
白馬も雪ノ下の隣に並び、ふぁさぁ、とタテガミを振るう。
「俺はユニコーンだ。種族としては相当レアなんじゃないか? 最高クラスの回復要員なんだぜ」
「あたしは、種族のレアリティはわかんないけど、すごく強いフェイズ2に覚醒したわよ」
2人は横並びのまま、謎の自己アピールを開始する。その言葉にどうやら嘘はないようで、雪ノ下は右手に氷を、左手に炎を浮かび上がらせていた。
一体どういうつもりなのか、と思っていると、白馬は不敵な笑みを浮かべたまま続ける。
「生かして捕まえたいよなぁ。無傷で捕まえたいだろう。でも、俺たちはここで思いっきり暴れるぞ。犬神やレスボンが殺されるのは、嫌だからな」
「ほぉーう」
シャッコウもまた、笑みを崩さない。
「それで俺たちに対抗できると思ってんのは、ちと可愛げはあるが、ものを知らねぇな」
悔しいが、正しいのはシャッコウの言葉の方だ。ここで白馬と雪ノ下が全力で暴れたところで、おそらくシャッコウと小金井が2人いるだけで容易く無力化できる。小金井が参加しなかったとしてもアケノがいるし、更に遠くからは、サイクロプスが狙っている。シャッコウがこの周辺の木々をすべて吹き飛ばせば、そこはすべて、サイクロプスの射程圏内だ。
彼らが助かる手段は、果たしてあるのか。小金井は考えを巡らせる。白馬と雪ノ下は、仮にとらえたとしても、小金井の指示で安全を保障できるはずだ。だが、レアリティと能力の高い彼らを腐らせておくことには反対意見もあるだろうし、下手をすれば、小金井の約束を反故にされる可能性すらあった。それに一番の問題は犬神だ。彼らに力を貸してくれているであろう、隻腕の冒険者だって、できれば助けたい。
だが、そんな都合のいい手段は、ないのだ。
こんなに早く限界が来るとは。小金井は小さく歯噛みをする。
アケノの持っている無線機に、サイクロプスからの通信が入ったのは、ちょうどその時だった。
『皇下時計盤同盟を発見した』
無線機の向こうで、サイクロプスがそう告げる。
『確認できるのは4体、3体が他の血族候補を取り囲んでいる』
「ちっ!」
シャッコウは舌打ちをした。
「どういうことだ、3体だと!? 連中、とうとう勘付きやがったか!!」
「帝国は、血族に対して具体的なアクションをとってこなかったはずだがな」
アケノも腕を組んだまま、思案顔を作る。勘付きやがった、というのは、すなわち魔物化したクラスメイトを戦力運用する、血族の計画に対してだ。ダイアルナイツを4体も引っ張り出してくるなど尋常な話ではないし、その内3体で、ただのモンスターを取り囲むということ自体、異常な話だ。
帝国は今まで、血族の行動を放置してきている節があった。各地で小競り合いは頻発していたが、大した脅威ではないと認識されていたのだ。だが、この計画と、王片の収集さえ成れば、戦力バランスは大きく変動する。帝国は、そうした血族の行動に既に気づいたのかもしれない。
白馬たちは、何が起こっているのか、まだよく理解できていない様子だ。だが、サイクロプスの報告はまだ終わらない。
『残る1体は移動を開始。目的は不明だけど、位置的には王片を所有するスケルトンに接近中』
「小金井!!」
彼女の言葉が言い終わるかどうかというタイミングで、白馬が叫んだ。
「おまえはウツロギのところへ行け!!」
「えっ」
敵方に投げかける言葉ではない。白馬の口から飛び出した予想外の言葉に、小金井は一瞬、混乱する。
「王片が帝国に奪われたらお前らだって困るんだろうが! 早く行け!」
「……わかった」
小金井は頷いた。迷っている余裕はなかったのだ。
身体を、待機中に潜む風の元素と融合させる。身体が風に溶けて行く中、白馬が告げた次の言葉を、小金井は聞いた。
「鷲尾はおまえを、恨んじゃいない。それだけ、おまえに言っておきたかった」
あえて返答をせず、風と化した小金井が翔けだす。それを最後まで見送らず、シャッコウも吼えた。
「アケノ! 俺はダイアルナイツどものところへ行く! このユニコーン達はおまえとサイクロプスに任せた!」
「ああ、わかった」
シャッコウも大地を蹴って、空へと身体と浮かび上がらせる。
アケノは右腕に黒い稲妻を纏わせ、白馬と雪ノ下を睨んだ。
「犬神さん、レスボンさんと逃げて。あたしは白馬くんに付き合うわ」
雪ノ下の周囲に、冷気が目に見える形で集まって行く。木々に霜が降り、凍りついた足元の草は、彼女が踏みしめるたびに儚く砕け散った。
犬神は、いまだに躊躇するレスボンの襟首をくわえると、一目散に駆け出した。ビショップのアケノには、一度鷲尾を殺した前科がある。だがそれでも、血族候補として優秀な2人は、犬神達よりも殺される可能性が低いのだ。白馬と雪ノ下の行動は、それに賭けたものだった。
僅かに目を瞑ったのち、アケノはこう言った。
「鷲尾というグリフォンを殺したのは、私だ」
「らしいな! でも俺は別に、仇を討とうなんて思っちゃいないさ!」
蹄を地面にたたきつけ、白馬は長く伸びた角を振りかざし、威嚇をする。
「あいつがやったことを、今度は俺がやるだけだ!」
「………!」
周辺で起こっている異変を察知し、恭介が立ち上がる。同様に異変を察知した凛の身体を纏い、東西から接近する、2つの気配に備えた。
風がざわめく。大気が燃える。木々がしなる。
何ひとつとして言葉を語らないのに、それらはこれから起きる波乱を告げるには、雄弁に過ぎた。恭介の身体を包み込む、得も言われぬ不安。それは、例え傍に寄り添う凛が万言を尽くしたとしても、拭いきれないものであった。身体が震えるような、感覚があった。
東から風が迫り、西からは炎が迫る。
ここからそう離れていない場所から、木々の間をすり抜けるようにして轟音が響く。大雑把な震動が、幾度となく山の斜面を揺らした。これは戦闘の音だ。
戦いが起きている。おそらく、恭介の仲間たちを、巻き込む形で。そのタイミングで、接近する2つの気配が無関係でないのは、もはや明確であった。
木々を薙ぎ倒しながら姿を見せたその黒い甲冑は、しかし恭介を前に動きを止める。タイミングを同じくして、その甲冑から恭介を守るべく駆けつけたひとつの突風が、やはり恭介を前に一時、動きを止めた。風は瞬時に人の形へと変わり、その瞬間、その空間には、3つの影、4つの意志が混在する。
一瞬、凪が訪れた。
「きょう、すけ……?」
甲冑が言葉を発する。
「瑛」
恭介はその声の主の名を呼んだ。その後、視線を反対側へと向けた。
「小金井」
恭介の声は、再会の喜びに打ち震えるものからは程遠い。
火野瑛も。小金井芳樹も。
この場所、このタイミングで顔を合わせることになるとは思わなかっただろう。本来なら、久しく会えなかった友の無事を、心から安堵するべきだ。だが、そうするには、この状況はあまりにもキナ臭い。
恭介は、周囲で起きている戦闘の気配を訝しんでいるのだ。緊張は露骨に、その声音にも滲んでいた。
「あ、ああ。火野くん小金井くん。おひさー」
凛も一拍遅れて挨拶をする。
火野瑛。バラバラ転移の一件以来、久しく姿を見なかった男だ。ウィスプであった彼が、何故このような無骨な甲冑の姿をしているのか。この状況と何の関係があってここにいるのか。他に一緒に転移した生徒はいるのか。彼らは果たして無事なのか。聞きたいことは、多い。
小金井芳樹の方は、恭介も状況をある程度把握している。新大陸で、自分や烏丸のことを助けてくれたのは、おそらく彼だった。名無しとの決闘で、彼の気遣いを半分ほど無駄にすることになった点は、申し訳なく思う。血族の側に潜り込み、状況をなんとかしようとする小金井に対しても、恭介は言いたいことがあったが、ひとまずそれはさておく。
「ウツロギに、姫水さん……」
小金井も、こちらの名前を呼び、そしてまた、甲冑の方へと視線を向ける。
「それに、火野……?」
「どうして、君たちが、ここにいる」
瑛は、掠れた声で辛うじてそう呟いた。
「それは俺の質問だ。瑛、小金井、いま何が起きている。みんなは無事なのか?」
問題は、まずそこだ。小金井が来ているということは、他の血族もこちらに姿を見せている可能性がある。となれば、東側の戦闘は間違いなくそれによるものだ。だが、それでは西側で起きている戦闘の気配が、説明つかない。
瑛に一体何があったのか。瑛は何故ここにいるのか。それがまったくわからない以上、類推のしようがないのだ。
「無事じゃない」
先にはっきりと告げたのは、小金井だった。彼の言葉には若干の焦りが滲んでいる。
「犬神さんと冒険者の男は逃げたよ。でも、雪ノ下さんと白馬が残ってる。相手はアケノさんだ。鷲尾を殺した人だよ。このままだと、多分、捕まる」
小金井のその言葉は、事態が彼一人ではどうしようもなくなっていることを指していた。雪ノ下と白馬を助けるためには、少なくとも恭介の手が必要なのだ。血族の軍門に下った小金井は、下手な利敵行為をとれない。今のこの状況も、かなり危険なものと言える。
恭介はそのまま、瑛へと視線を向けた。彼はまだ幾らかの躊躇を見せた後、辛うじて、言葉を発した。
「みんなは、」
そう呟く瑛の言葉は震えている。こんな彼の声を聞くのは、久しぶりな気がした。
「無事だよ。恭介」
「そうか」
恭介は頷いた。親友にものを尋ね、彼が答えれば、それを疑わないのが空木恭介だ。そういうことになっている。
彼が瑛の言葉を『嘘だ』と指摘することはない。
だからこそ、この不自然な間と、瑛に起きている明確な異変をどのように問いただすか、恭介は迷った。
「ねぇ、それ本当?」
その恭介の機微を察知して、代わりに凛が鋭く踏み込む。瑛は更に一瞬、揺れた。
「小金井くん、火野くんの言ってること、本当?」
「俺も、何が起きてるかわかってるわけじゃないから……」
小金井の言葉は慎重だが、語調がいくらか強い。
何が起きているか、わかっているとは言わないが、彼も状況をある程度把握しているのだ。だが小金井は、自らそれを口にし、瑛を糾弾しようとはしていない。ならばと、恭介は改めてもう一度、瑛を見た。
「……瑛」
「……僕は」
瑛は、黒い甲冑の中から、震える声を出した。
だが、その直後、
「おォォォォウりゃァッ!!」
「くっ!」
鉄鎚のごとく、上空から振り下ろされた一撃を受け止めたのは、フィルハーナの拳である。
神の加護により、奇跡を宿したのが彼女の鉄拳だ。たとえそれが、大地を叩き割り湖の水を吹き飛ばすようなルークの一撃であったとしても、その拳には擦り傷ひとつつくものではない。代わりに生じた衝撃波が、周囲の木々を薙ぎ倒し、フィルハーナの足元に巨大なクレーターを作ったとしても、フィルハーナは微塵も動じない。
山は、一瞬でがけ崩れの跡のような様相を呈す。文字通り、“根こそぎ”薙ぎ倒された木々が、がらがらと斜面を転がり落ちていった。
「やはり血族か!!」
剣を片手で構え、ランバルトが叫ぶ。
ルークによる強襲は、魔物達の捕獲作業の、まさにその最中に行われた。一瞬の隙をつき、魔物達が逃げ出そうとする。メロディアスがそれを阻止するため、腕から瘴気を作り出そうとするが、直後、そんな彼女の腕が血と肉を散らしてはじけ飛ぶ。
「………!!」
冥獣勇者メロディアス・キラーは、反対側の山の斜面を睨みつけた。生み出した瘴気は、消し飛んだ腕を再生するために費やされ、少女の瞳は山間に潜む姿なき敵を探し出す。
「フィル姉ぇ、ラン兄ぃ、もう1人はあたしが!」
言うなり、メロディアスは崩れた斜面を蹴りたてて、反対側の山へ飛ぶ。その間に魔物達が逃げ出す。だが妥当な判断だった。メロディアスの腕を的確に吹き飛ばすほどの狙撃手と、それだけの威力を持つ攻撃手段が潜んでいると言うのなら、それは最優先で対処すべき相手だったからだ。
翼を広げて、鴉天狗が空へと飛びだす。ランバルトは剣を片手に追いすがった。切っ先が素早く宙へ紋章を描き、それは緊縛の呪文となって鴉天狗の身体を縛り上げる。傷をつけないように、という無茶な注文を、ランバルト・ゴーダンは何とか実行する。彼はそのまま、逃げ出した魔物達を追って、山中へと駆けていく。
「俺様は、ルークのシャッコウ!!」
真っ赤な双眸に、猛々しい殺意をみなぎらせて、巨漢が叫ぶ。彼の膂力と真っ向から力比べをし、フィルハーナは言葉を返した。
「皇下時計盤同盟第4時席! “鉄拳聖女”!!」
「強ぇ女だ。潰し甲斐がある!」
シャッコウが両腕に力を込めると、フィルハーナは徐々に押し負ける。互いの両手を握りあったまま、鉄拳聖女の両足は、ずぶずぶと硬い土の中へと沈んでいく。シャッコウは、口元ににやりと笑みを浮かべた。
が、フィルハーナはそこで、首から上だけを、大きくのけぞらせた。
「おォらァッ!!」
勢いをつけて、額をシャッコウの顎へと叩きつける。爆音が響き、閃光と衝撃波が発生した。鉄拳聖女渾身の頭突きは、獣王連峰の一角に、再び地形を変えるほどの衝撃波を撒き散らす。シャッコウはたまらず手を放し、木々を叩き折りながら吹き飛んでいった。
フィルハーナは膝近くまで埋もれた両足を引っこ抜き、吹き飛んだシャッコウの身体を追いかける。フィルハーナの拳に、一際強い光が灯った。
「ラァッ!」
吹き飛んだままのシャッコウの身体に、追撃を叩き込む。シャッコウは両腕を交差させてその一撃を受け止め、そのまま木々を蹴りつけて、ようやく勢いを相殺した。フィルハーナの顔面めがけて、再度、ルークのシャッコウの、丸太のような剛腕が炸裂する。
次に吹き飛ぶのは、鉄拳聖女の華奢な身体であった。やはり同じように、木々をなぎ倒しながらフィルハーナの身体が吹き飛んでいく。先ほどまでの返礼とばかりに、今度はシャッコウが追いついて、フィルハーナに追撃の蹴りを叩き込んだ。
瑛が言いかけた直後、木々を薙ぎ倒して、少女の身体が転がってくる。いや、転がってくる、などという生ぬるいものではない。それはまさしく、砲弾のごとく突っ込んできて、そのまま地面に深くめり込んだのだ。全身から血を流し、衣服は土に汚れていた。即死であるかに思われる少女は、むくりとその身体を起こして、立ち上がる。
その少女に、恭介も凛も、見覚えがあった。
「ふぃ、フィルハーナさん……」
凛が辛うじて、そう呟く。その声でようやく気付いたように、フィルハーナは振り返り、にこりと笑った。
だがそのフィルハーナに向けて、やはり砲弾のごとく突っ込んできた巨漢が、拳を叩き込むのがわかった。フィルハーナは微笑んだまま、片手で拳を受け止める。すぐさま視線を前へと戻し、表情を引き締め、突っ込んできた巨漢の顔面に、お返しのパンチをぶちかます。
今度は、巨漢の方が吹き飛んでいく番だった。
吹き飛んでいく巨漢を見送ってから、フィルハーナは再び、恭介たちへと向き直る。
「え、あの。フィルハーナさん?」
「あー、やっぱりいますよね。カラスマ達を見た時点で、そんな気はしてたんですよね……」
気まずそうに頬を掻くフィルハーナのもとに、再び巨漢が迫る。フィルハーナは腕をクロスし、巨漢の拳を受け止めるが、衝撃を殺し切れず、やはり吹き飛ぶ。大味すぎる打撃の応酬だ。
フィルハーナ・グランバーナは、最近ゴールドランクになったばかりの、新米冒険者ではなかったのか。混乱する恭介と凛に追い打ちをかけるように、今度は巨漢が叫んだ。
「何やってる! 加勢しろ、ハイエルフ!」
その言葉に、小金井が目を細めるのがわかった。それだけで、この粗暴な巨漢が血族の一味であると理解する。おそらくは、ルークだ。
ルークは更に、遠慮も情緒もない言葉を吐いた。
「そこにいるダイアルナイツは、てめぇに任せる! 王片は絶対奴らに渡すな!」
その“皇下時計盤同盟”が誰のことを指し示す言葉であるのか。
恭介は、それを理解するのに、わずかな時間を要した。
小金井が、小さく溜め息をつき、黒い甲冑に向き直る。
黒い甲冑は、その瞬間だけは、一切の躊躇もなく、小金井に対して構えをとった。
結局のところ、火野瑛が見せた珍しい躊躇も、小金井芳樹が見せた珍しい気遣いも、
この粗野で乱暴なルークの男が、洗いざらいぶちまけ、いともたやすくぶち壊してしまった。
「火野くん……。帝国についたの?」
凛の声は、震えるようなものでも、糾弾するようなものでもない。
ただ衝撃に打ちのめされ、呆気にとられるようなものだった。
「………」
瑛は何も語らない。ただ、甲冑は小金井と睨み合い、戦闘態勢に入っていた。
この世界の帝国がどのような国家であるのか。恭介も凛も、よくは知らない。
知らないが、彼らはピリカ南王国で起きたクーデターのことを聞いていた。そのクーデターに、おそらく猫宮と思しきケット・シーが参加していたことも。帝国軍の介入で、そのクーデターが失敗し、猫宮も行方が分からなくなっていることも。
確証はない。だが、帝国への不信感を募らせたその矢先に知るには、あまりにも衝撃的な事実だ。
「そういうことです」
全身から血を流しつつ、なお平然として、フィルハーナが戻ってくる。
「ウツロギ、親友であるアキラのことを慮るなら、私たちと一緒に来てください。窮屈な思いはさせますが、安全は保障します」
「勝手なこと言うんじゃねぇよ。そいつらは俺たちの手駒だ」
フィルハーナの言葉に、ルークは歯を剥き出して反論した。両者は互いに睨み合い、再び、戦闘態勢に入る。
睨み合った以上、隙を見せれば攻撃を許す。もはやこの両者は、完全にこちら側の空気から隔絶された。
「帝国は信用できない」
小金井がきっぱりと言う。
「南王国のクーデターのことは、俺も聞いている。火野、猫宮さん達はどうなった?」
「……君が、“信用”なんて言葉を、口にするな。小金井」
そう呟く瑛の声は、地獄の底から響く怨嗟のような音を孕む。小金井は口をつぐんだ。そこを突かれれば、小金井は反論をすることができない。一番信用できないのは自分自身の行動であると、彼も自覚しているのだ。
瑛の背中から蒸気が噴き出し、同時に、彼はゆっくりと構えをとる。蒸気の噴き出終わった背中には、やがて炎が翼のように燃え上がっていく。それはまるで、かつて地下迷宮で死霊の王を撃ち破ったトリニティ・フルクロスの姿を、1人で再現しているかのようでもあった。
「やはりあの時、君を殴り殺しておくべきだった!!」
瑛は叫ぶ。
「今度は恭介にも止めさせない! あの時の続きを、いま、してやる!!」
「全部終わったら、気の済むまで殴らせてやる! いま、殺されるわけにはいかない!!」
過ちを犯しつつある男と、過ちを犯した男。2人の信念が今、正面から睨み合う。
ふざけるんじゃない。
恭介は、2人のやり取りを前に、未知の感情を持て余す。
どいつもこいつも、勝手なことばかりしやがって。何故、自分ひとりで全て背負い込んで、解決できると思い込むのか。何故、ひとこと『助けてくれ』と言えないのか。目の前で叫ぶ2人の男の声ですら、今の恭介には、助けを請う悲鳴にしか聞こえないというのに。
今、ようやくわかった。自分も外からはこう見えていたのだ。
なんてムカつく奴だったんだろうか。
なんて腹立たしい奴だったんだろうか。
こんな奴に、誠心誠意付き合ってくれた凛には、本当に頭が下がる。
だが、そう。この腹立たしさは、どうにもこうにも、抑えようがないのだ。
空木恭介が、生まれて初めて持て余した感情。
それは要するに、怒りであった。
次回更新は9月5日ですー。