第86話 冥獣勇者
ゼルガ剣闘公国から、冒険者自治領ゼルネウス、そしてヴェルネウス王国までを繋ぐ、一本の街道がある。
この三領邦は大陸南東部に位置し、北を獣王連峰、南をネウス湾とデリウス大海溝に守られているため、外部からの侵攻は困難を極める。同時に、交易網の発達は海運に頼るよりほかはなく、三領間における陸路の発達は、数少ない文化の交流を盛んにしていた。
獣王連峰にほど近いこの街道には、しばしばベヒーモスが出現する。
ベヒーモスは、獣王族哺乳網剛獣目ベヒーモス科に属する大型の魔獣だ。全長は大きいもので6メートルほどに達する。大きな角と、発達した前脚部、そして口元に生え揃った牙などが、いかにも凶暴そうな威容を放つ。肉食よりの雑食性であり、街道に降りてきた際はよく旅人を襲う。
山道でヒグマに出くわすようなものであり、出会ってしまえばまず運がないとして、旅人は自身の不幸を呪う。逆に言えば、ベヒーモスの出現程度では街道が封鎖されるような事態は、原則としてありえない。出会ったところで逃げおおせる者もいる。
だがこの日、ゼルガ剣闘公国とゼルネウス冒険者自治領の双方の合意によって、街道は封鎖が行われた。原因は、極めて特異な状態にあるベヒーモスの出現だ。通常の個体よりも全身が肥大化し、凶暴性が増していることが確認されていた。冒険者協会によってクエストが発注され、いくらかの冒険者が、このベヒーモスを討伐するために赴いた。
そして今、ひとりの少女が、そのベヒーモス特異個体の前に立っている。
「グゥルルルル……」
ベヒーモスの足元には、既に血だまりができている。転がる肉塊はおそらく、その蛮勇から怪物に挑み、儚き命を散らした犠牲者のものだろう。その顎と生え揃った牙からしてみれば、人間の骨を噛み砕くなどいとも容易いことであって、ベヒーモスが咀嚼を繰り返す度に、パキパキと耳障りな音が響いた。口元からは、黒い靄のような吐息が吐き出されている。
少女が怪物を前に恐怖したかというと、そんなことはない。だが義憤や使命感に燃えていたかというと、やはりそんなこともない。少女はただ立っていた。見たところ、まだ10歳ばかりの子供である。睨むというにはあまりにも気だるげな視線を、ベヒーモスに向けていた。
「ゴガァッ!!」
ベヒーモスは、その巨大な前脚部を、少女に向けて振り下ろす。まるで鉄槌だ。それは、避けようとすらしない少女の頭上から無慈悲に振り下ろされ、街道にひとつ、小さな赤いシミを作った。
かのように、思えたが、
「……ガ、アッ!?」
ベヒーモスが動揺をあらわにする。叩き潰されたかに思えた少女は、前足の下でまだ生きていた。
それだけではない。
その前脚部を片腕で受け止め、あろう事か、持ち上げていたのである。
「はァッ!!」
ベヒーモスの足裏に向けて、少女は蹴りを放つ。直後、突き上げるような衝撃が、ベヒーモスの右前脚に走った。骨が軋み、筋繊維が断裂する。ぷしっ、と、引きちぎれた血管から血が噴き出した。赤くはない。ドス黒く濁った、不気味な血である。
身体を支える前脚部を失い、ベヒーモスはゆっくりと街道の大地に倒れ込んだ。空いた左腕で再度立ち上がろうとするが、それよりも、少女が怪物の鼻先に立つ方が速い。ベヒーモスは大顎をあけて、無防備な少女の身体を噛み砕こうとする。口から漏れる黒い靄が、ひときわ大きな塊を作った。
「………」
少女は怪物の鼻先に、そっと手をあてがう。その直後、吐き出される黒い靄が、すうっと少女の身体に吸い込まれた。
「………!!」
靄は徐々に、ベヒーモスの身体からも染み出していく。それが怪物の身体から抜け出、少女に吸い込まれる度に、ベヒーモスの身体が徐々に縮んでいく。というよりは、本来の大きさへと戻っていく。やがてベヒーモスは、全長4メートルほどの、雌の通常個体へと姿を変えた。負傷した前脚部を庇うようにして、よろよろと立ち上がると、ずんずんと足音を響かせて山の中へと戻っていく。
「………」
少女はゆっくりと、それを見送った。そのまま、くるりと後ろを振り返る。
「お待たせー」
少女の前には、3人の仲間がいた。
皇下時計盤同盟第4時席“鉄拳聖女”フィルハーナ・グランバーナ。
同 第6時席“剣暴術数”ランバルト・ゴーダン。
同 第13時席“黒い太陽”火野瑛。
そして少女が、 皇下時計盤同盟第2時席“冥獣勇者”メロディアス・キラーというわけだ。
「……ゴーダン」
瑛は、腕を組んだまま、隣に立つエルフに尋ねた。
「彼女は今、何をした?」
「ああ、あれは冥獣病と言ってな」
ランバルトは、薄目をあけて答える。
「あの黒い靄を吸い込んだ生物は、見ての通りああして凶暴化してしまう。もともとは、オークやゴブリンなんかの獣魔族が持っていた病なんだが、その源を自在に操れるのがメロディアスだ」
「ふうん……」
瑛は、そっけなく返事をした。つまり、この周辺を騒がせているベヒーモスの変異個体は、すべてあの黒い靄によって凶暴化を発症した状態というわけだ。
血族因子と、どこか似たものがあるな、と瑛は思った。どちらも外部からの干渉によって、生物に劇的な強化を促すという点では告示している。理性がとばない分、血族因子の方が良心的と言えるかもしれないが、因子は同種の血を摂取し続けなければならないという業を背負う。どちらも厄介だ。
「どうしますか、メロキー」
フィルハーナが、メロディアスの頬についた血を拭いながら尋ねる。
「まだこの周辺には冥獣化したベヒーモスが何頭かいるようです。浄化していきます?」
「んー……」
少女は口元に手をやって考え込んだ。
「ヴェルネウスには急がなくていいの?」
「いいということはない」
ランバルトが答える。
「冒険者協会からも、ベヒーモスの討伐クエストが出ている。連中に任せて、さっさとヴェルネウスに向かったほうがいい。血族に、彼らの居場所を気取られると面倒だ」
「んー、そっかー……」
メロディアスは、悩むように目を瞑る。
「でも、もうちょっとここにいたいなー」
「はーい、私は賛成でーす」
フィルハーナがニコニコと笑って片手をあげるが、ランバルトは渋い顔をした。
「俺は反対だ。アキラはどうだ?」
「僕は……」
反対だ、と言おうとした。
今、瑛たちはヴェルネウスに集まる2年4組の生徒たちの下へ向かおうとしている。彼らを帝国で“保護”し、血族の手から守るのが目的だ。戦力となりうる可能性のある彼らを、血族に渡さないという目的もある。いずれにせよ、血族が動くより先に、彼らのもとへたどり着く必要がある。
こんなところで、時間を潰している暇は、ない。
そのはずなのだが。
「……僕も、賛成だ」
そうつぶやくと、メロディアスはにんまりと笑い、そしてランバルトはやはり、渋い顔を作った。
「さっすがアッキー、話がわかる!」
「よしてくれ、そんなんじゃない……」
瑛の心を掠めたのは、ある友人の顔だった。
彼がこの場にいたらどうしていただろうか、などという、意味のないことを考えてしまったのだ。
そんなことを考えても、瑛が彼のやり方を裏切ったことには、何の変わりもないのに。
別離は決定的なものだと、わかっているはずなのに。
「おい、ゴウバヤシ、ちょっとこの記事を見てくれ」
「む……」
ゼルガ剣闘公国にて、出発の準備を整えていたゴウバヤシに、剣崎が一枚の新聞を持ってきた。
新聞は当然、こちらの言葉で書かれている。見せられても読めるわけではない。ゴウバヤシは眉根を顰めて、剣崎に尋ねた。
「読めるのか?」
「読めるわけないだろう!」
「ならなぜ胸を張る……」
そう言いつつ、ゴウバヤシは紙面に目を走らせた。そこには、似顔絵が2つほど書かれている。
「これは……。“名無し”と……」
ウツロギか、と言おうとして、やはり口をつぐんだ。
そこに描かれているのは、以前この剣闘公国の闘技場で出会った冒険者、響狼星の名無しの似顔絵だ。特徴的な服装をしていたので、ほぼ間違いはない。普段の彼がよく見せる、特有の死んだような目つきも、しっかり再現されていた。
その隣に描かれているのが、肉の完全にこそげ落ちた頭蓋骨なのだ。ゴウバヤシや剣崎にとって、この顔はクラスメイト、空木恭介のものとして馴染み深い。だがよくよく考えてみれば、こんなものスケルトンのよくある顔であって、必ずしも恭介のものとは限らないのだ。
「名無しとウツロギだ。薄情だな、ゴウバヤシ。クラスメイトの顔を忘れたのか?」
「確証が持てんのだ。実家の関係で、火葬にされたホトケさんは何度か見たことがあるが」
頭蓋骨だけで見分けをつけられるほど、見慣れているわけでもない。
「リュミエラに読んでもらってな。実はある程度要約してきたのだ」
と、剣崎はもう一枚、小さなメモを取り出した。
「ふむ」
「それによると、どうやらこれは、ウツロギで間違いないらしい」
新聞には、恭介がここから東にある冒険者自治領ゼルネウスで、名無しと決闘をした旨が書かれていた。
名無しが恭介の何かを気に入り、勝負を申し込んだのだ。決闘は大広場で行われ、結果は当然ながら、名無しの圧勝。言葉を喋る奇妙なスケルトンは、闖入者のスライムと合体した後、ほぼ何もできずに敗北したという。
「なるほどな。名無しらしい」
ゴウバヤシは頷いた。
「それと、ウツロギがなんだか……おーへん? とかいうものを、持っているらしいんだが……」
「おうへん……?」
「これについては、よくわからん。リュミエラも詳しいことは知らない様子だった」
だが、新聞記事に書かれるということは、それなりに重要なものであるらしいことは、わかる。
ここに書かれたことで、変に恭介が狙われるようなことに、ならなければいいのだが。
「ともあれ、ウツロギ達が無事であるとわかって良かった。ゼルネウスなら近い。何らかの形で合流したいところだな」
竜崎の打った新聞広告のような手が使えればいいのだが、あれは自分たちにしかわからない情報を載せていたから、あれだけ大胆なことができたのだ。下手なことをすれば、血族たちにこちらの居場所を露呈させることにも、つながりかねない。
いや、敵は、血族に限ったことではないな。
ゴウバヤシは、静かに目を閉じ、ここ数週間で起こった出来事を思い出していた。
皇下時計盤同盟・第2時席“冥獣勇者”。
あの小柄な少女も、おそらく敵と呼べる存在の1人だ。彼女の放つ黒い靄は、オウガであるゴウバヤシやゼクウ、それにオークである奥村にとって害のあるものであった。靄を吸い込んだ途端、理性を失い、凶暴な怪物と化す。その結果、仲間たちに迷惑をかけることがあった。
今思い出しても歯がゆい。己の修行不足を実感する。
帝国が、2年4組の生徒たちに対しどのようなスタンスで動いてくるかは不明だが、必ずしも友好的でないのは既に理解できたことだ。あの時は、名無しが助力してくれたおかげで、なんとか切り抜けることができた。ただ、次もそうであるかはわからない。
「……ゴウバヤシ、難しい顔をしているな」
剣崎は新聞をたたみながら言った。
「……ああ」
「今日の昼食はオムライスらしいぞ。元気を出せ」
「……ああ」
そう言われ、ゴウバヤシはわずかに苦笑した。これは、剣崎特有の不器用な慰め方だ。最近わかってきた。
「ひとまず、すぐに東に向けて発つか、それともなんらかの合流手段を考えるかは、昼食のあと話し合おう」
あの冥獣勇者は、帝国へ戻ったはずだ。もう会うこともないと、信じたいが。
ゴウバヤシは昼食までの時間、もうしばらく、荷造りを進めることにした。
レスボンをリーダーとしたパーティが結成され、恭介たちはベヒーモス退治へと赴くことになった。
なったのだが、そこに至るまでが結構な骨であった。まずは周囲の視線だ。
名無しと剣を交えたことで、恭介は冒険者自治領ゼルネウスの中で、妙な悪目立ちをしてしまうことになる。それに、王片の所有を明らかにされたのは、あまり良くなかった。冒険者たちがギラついた目で、恭介の左腕を眺めるようになったのである。あの名無しという男、腕は立つが、あまり空気は読めないらしい。
次に大変であったのが、冒険のための準備だ。
ポーションなどの消費アイテムの買い溜めに加え、装備の新調なども視野に入る。恭介たちは遠慮したのだが、レスボンがある程度の準備金を出してくれたので、最終的には好意に甘えることになった。とはいえ、新調しなければ困る装備というのも、あまりない。何しろこちらは魔物軍団だ。
烏丸が白兵戦用の武器を欲しがったのでロングソードを買ってやったが、あとは白馬の負担軽減のためにポーションを買うのがメインになる。あとは、ちょっと豪華な馬具を買ってみた。白馬はたいそう誇らしげにそれをつけていた。買い物には雪ノ下が同伴した。彼女は、雪女装束から、こちらの世界にそぐう衣装に変えるべきか少し悩んでいたようだが、最終的には、買わずに今のまま通すことになった。
さて、準備に数日をかけ、いよいよ明日が出発という時のことだ。
「ねー、恭介くん」
「んー?」
洗面台に向かって歯磨きをしていた恭介に、凛が話しかけてきた。
「ちょっと気になることがあったんだけどー……」
そう言って、凛が運んできたのは、いくつかの新聞だ。恭介もこの世界の文字は読めないので、新聞を持ってこられても困るが、気になることがあるというのであれば無下にもできない。ひとまず、新聞を受け取った。
「ええと、これがどうかしたか?」
「うん。あのさ。これ、こっからちょっと西の国で起きたクーデターの記事らしいんだよね」
この世界に写真技術はないのか、似顔絵のイラストが載っているだけだ。いずれも、見覚えのない顔ばかりである。
クーデターというと穏やかではない。凛の話では、なんでも圧政に苦しむ市民たちを救うため、第3王子だか第4王子だかにあたる人物が、蜂起をしたのだという。が、結局のところ力及ばず、帝国の助力を得た現政権がクーデターを鎮圧し、王子は処刑された。なんとも、痛ましい話だ。
似顔絵だけではなく、写生と思しきイラストもあった。まさしく、その王子が縛り首にされる寸前を描いた光景だ。あまり、見ていて愉快なものではない。それを眺めていて、ふと、恭介はイラストの隅に気になるものを見つけた。
憲兵に押さえつけられている、黒い猫。猫は頭に羽根付きの派手な帽子をかぶっている。どこか気取り屋を彷彿とさせるその服装に、恭介は見覚えがあった。
「……その猫、みゃーちゃんに似てない?」
「……ああ」
そう。バラバラになった転移事故の一件以来、久しく会っていない、クラスメイトの猫宮美弥。ケット・シーに転生した彼女にそっくりだ。
猫宮が、このクーデターの現場にほど近い場所に転移していたとしても不思議ではない。が、
「兵隊に押さえつけられているのは、なんでだろうな」
「レスボンさん達に聞いたんだけど、そのクーデター、何体かのモンスターが王子側に協力してたんだって。なんか、そのケット・シーが王子と仲良くなったとかで……」
恭介の心がざわついた。それは、よくわかる話だったからだ。
付き合いはそう長くはないが、異世界転移を起こしてからしばらく。恭介は猫宮の性格をよく知るようになっていた。猫宮の性格ならば、そのようなことをしても、何もおかしくはない。彼女は気取り屋で、情熱的で、それでいて妙に義に厚い。
猫宮たちは、このクーデターに協力し、しかし帝国と衝突することになり、敗北した。
「猫宮たちは無事なのか?」
「……わかんない。でも、処刑された中にモンスターはいなかったって」
「そうか……」
良かった、と、言うべきなのだろうか。
「ごめんね。この話、するかどうか迷ったんだけど……」
「なんで凛が謝るんだよ。教えてくれてありがとう」
恭介は、新聞を睨む。できることならば、今すぐにでも猫宮たちを探しに行きたいが、難しいだろう。
この様子では、彼女たちが竜崎のメッセージを見ているかどうか、それすらも危うい。おそらくこのまま一番合流しやすいのはゴウバヤシたちであろうから、彼らと合流した後に、その後の展開を話し合うべきだろうか。
「みんな、必ずしも無事とは、限らないんだよね……」
凛の言葉が、妙に重くのしかかる。
「そうだな……」
紅井や佐久間たちだって、行方がしれないままだ。彼女たちが、いったい今どうして、どこにいるのか。
それに、そう。火野瑛だ。
彼の憎まれ口を、恭介はもう、久しく聞いていない。
瑛はああ見えて弱い男であることを、恭介はよく知っている。1人だと色んなものを抱え込む。過剰に世話焼きなのは、そうでもしないと心のバランスを保てないことの裏返しだ。こちらが構ってやらないと、無茶をして背負い込んで、それで潰れてしまう。
「(あいつもどっかで、無茶をしてないといいんだけどな……)」
恭介は新聞をたたみながら、静かに、親友の身を案じていた。
次回は9月1日更新予定ですよー。




