Lesson05 俺を削れ、杉浦!
俺の名前は勝臥出彦。
くさやだ。
いや、本当はくさやではない。かつおぶしだ。
というか、もっと正確にはかつおぶしですらない。
俺の名前は勝臥出彦。市立神代高校2年4組の元担任にして、ある時はかつおぶしであったが、今はくさやだ。
これには込み入った事情があるのだが、面倒臭いのでもうあまり話したくはない。まったく、臭いのは体臭だけで十分だって言うのにな! わっはっはっはっは!!
………。
はい。
俺たちは今、大陸南東部の半島ヴェルネウスにいる。イタリア半島や伊豆半島を思い出させる形でぴょこんと伸びたヴェルネウスは、南北に火山帯を持つ。おそらくは、火山活動によってできた半島なのだろう。そこも伊豆半島によく似ていて、その結果、豊富な温泉が湧く。
2年4組の生徒たちは、このヴェルネウスをまず目的地として出発していたはずなのだが、ひょんなことから転移事故とも言うべきものに巻き込まれ、バラバラになってしまった。
まとまり始めたクラスがバラバラになってしまったのは、心苦しい。だが、こうした状況にこそ、人間性が反映されるのも確かだ。パニックに陥りかけたクラスメイトをまとめ上げたのは、意外なことに、クラスの炊事担当である杉浦彩だった。
杉浦はオロオロする魚住兄妹と泣きじゃくる花園、そして相変わらず呑気な寝息をたてる原尾を元気付け、あるいは叱責し、この半島に拠点を作ろうと言い出した。あまりリーダーシップを取るタイプの生徒には思えなかったのだが、意外な才能である。俺は、杉浦の新しい一面を見つけた気がして、妙に嬉しかった。いや、もちろん教師としてだ。
で、拠点ができたわけである。
杉浦は、この拠点で温泉旅館を経営する提案をした。魚住兄妹は海の幸を集めやすいし、花園は家庭菜園で野菜を作れる。杉浦はそれを調理して提供する。やり口は、どちらかと言えば、温泉と宿泊場所がついた大衆食堂に近い。
宿のハコは、山中に朽ち果てていた石造りの大きな家を、原尾が念力によって綺麗に片付けたものがスタートだった。もともと人通りのあるような場所ではないので、客が来るかどうかわからないような温泉宿だったが、それでも生徒たちは、それなりに準備を楽しんでいた。
ん、俺がなにをしていたかだと?
逆に尋ねるが、俺に何ができたと思う? 俺はくさやだったんだぞ。
俺は杉浦にかくまわれ、影から生徒を見守ることしかできなかった。
俺は無力なくさやでしかなかった。しかも異臭がすごい。一緒に転移してきた本野さんも、なんか俺には口を利いてくれなくなった。
転機が訪れるのは数日後。温泉宿に初めての客が来た日のことだ。
「いい? 先生、この中にずっといて、今日も出てこないようにね」
「出たくても俺に手足はないんだ……」
杉浦は鼻をつまみながら、俺を調理場の裏に押し込んだ。
くさやになってからというもの、杉浦は俺に冷たい。今は下半身がタコになってしまっているとは言え、あいつも元は花の女子高生だ。きっと匂いというやつには敏感なんだろう。俺は、精一杯の大人のスマイルで、全然気にしていないアピールをした。
「……ぅぇっ」
だが、当然のように表情筋がない俺は、どれだけ微笑もうと笑顔を作ることなどできるはずもなく、その代わり、もわっとした異臭が漂うだけで終わるのだった。杉浦は吐きそうな顔をして出て行った。
杉浦が悪いわけじゃない。俺の臭いに問題があるのだ。
態度が冷たくなった杉浦だが、関係がそこまで悪化したわけじゃない。今、この温泉旅館“かみしろ”で何が起こっているのか、あいつは先ほど、吐きそうな顔をしながら説明してくれた。
現在、“かみしろ”には初めての客がやってきている。身なりのそれなりに整った、しかし、ところどころ汚れている、まあありていに言って『貴族や騎士階級にある人間が山の中で散々迷ってたどり着いた』ような客であるらしい。
モンスターがずらっと顔を揃えた温泉宿である。お客さんはそうとうおびえているらしいが、杉浦はもてなすつもり満々だ。あいつは実家が老舗料理屋であるからして、接客に従事するときは割とイキイキしているように見える。鼻をつまみ、吐き気をこらえながら話す杉浦からも、その片鱗はしっかり感じ取ることができた。
まぁ、そんな状況で俺を表に出すわけにはいかないだろう。
おそらくこの世界にくさやはない。缶詰技術もないだろうから、きっとシュールストレミングもないだろう。そんな世界で、俺を放置でもしようものなら、それは立派なバイオテロだ。おもてなしの精神もあったもんじゃない。だいなしだ。これはあんまり上手くないな。
俺は、暗く狭い場所に密閉されながら、ぬたぬたと走り回る杉浦の気配や、楽しそうに料理をする杉浦の気配を感じていた。
あいつは料理上手だ。この数ヶ月で、その技術は更に上達したように見える。好きこそ物の上手なれというが、あいつはまさにそれを実践していた。未知の食材を扱い、クラスメイト40人近くにそれを振る舞うのだから、確かにさもありなんだ。
料理を作るときのあいつは、どこかキラキラしている。きっと今もそうなのだろう。だが、今、そこに俺のかつお出汁が混ざっていないことが、俺には何やら、無性に寂しく感じられた。
「くそっ、なんなんだ、この感覚は……」
俺は暗闇の中で、ひとり悪態をつく。
暗闇の中でひとり腐っていると(くさやだけに)、また、キッチンにぬたぬたという足音がして、杉浦が戻ってきた。彼女は俺のしまわれている戸棚を開く。闇の中に、光が差し込んだ。
「……よう」
ばたん。
俺が挨拶すると、戸棚が閉められた。ちょっとひどくない?
「……杉浦、」
「ごめんね。先生」
閉められた扉の向こうから、杉浦の震えるような声が聞こえてきた。
「先生だけ、こんな扱いで……」
「良いんだ。俺が臭いってことくらい、俺も知ってる」
強がりだ。こんな扱いで良いなんてはずがない。俺も本当は陽のあたる場所で杉浦に削られながら、クラスの生徒どもにナイスフレーバーを提供したい気持ちでいっぱいなのだ。だが、それを主張すれば杉浦が困ることは、もう目に見えている。俺は教師だ。自分のワガママで、生徒を困らせるなんてことはできない。
「……お客さんの様子はどうだ?」
「うん、結構、喜んでくれた。なんだかね、この山奥に住んでいる怪物を退治するために来たんだけど、予想外に怪物が強くて、部隊が散り散りになっちゃって……そんな感じみたい」
「王国の人なのか?」
「うん。ヴェルネウス王国の王立騎士団なんだって。西の騎士王国とは、だいぶ性質が違う感じがするね」
俺がくさやであるために、目の合う場所で話すことはできないが、杉浦がなるべく普段通りに俺に接しようとしてくれているのはわかる。それは、俺にとってはひとつの救いであった。
ただそれでも、杉浦の態度はどこか冷たく、硬いものがある。不自然なのだ。俺と杉浦の間にあった関係が、何か致命的な変容を起こしているような、そんな気がしていた。それは、俺がかつおぶしからくさやに変化することで起きたものとは、まったく別種のものなのだ。
「……ねぇ、先生」
それを考えているとき、杉浦はぽつりと呟いた。
「先生は、今まであたしが先生を削っていたの、なんか、おかしいと思わない?」
「おかしいって?」
「だって、身動きがとれなくて、手足もなくて、そんな状態で身体がガリガリ削られて……。いくら元に戻るっていっても、そんなの、普通、耐えられないような気がして……。今までおかしかったんじゃないかって。あたしも、先生も」
「待て待て待て待て。ちょっと待ってくれ」
戸棚の向こうで震えている杉浦の声。
もしかして、さっきから杉浦の態度がおかしいのは、それが原因なのか? 何故いきなり、そんなことを考え込んでしまうようになったのだろうか。
確かに常識的に考えれば、自分の身体をガリガリ削ってその出汁を提供するなんて狂気の沙汰だ。頭がおかしいとしか考えられない。だが、そもそもそれを言うならかつおぶしに転生すること自体が狂気の沙汰だし、俺は子供の頃から通信簿に『我慢強い子です』と書かれるほど忍耐力に自信がある。出汁を提供するのがかつおぶしの使命であるのだから、そこに強い疑問を持ったことは、一度もなかった。
その時、ふと俺の脳裏をかすめる言葉があった。
フィルター。
それは、紅井明日香の口から語られたワードのひとつだ。転移でバラバラになる数日前、俺は厨房を訪れていたあいつからそんな話を聞いていた。
血族が編み出した技術のひとつだ。転移してモンスターに姿を変える際、心理的な衝撃や負担を軽減するためのフィルターをかける。効果期間は個人差もあるが3ヶ月ほど。それが切れたとき、生徒たちは今までフィルターによって押さえ込まれていた倫理観や常識がぶり返し、それまでの自身の行動に恐怖や疑問を覚える可能性があった。
杉浦は、そのフィルター切れを起こしているのかもしれなかった。
もちろん、フィルターの有無に影響されずに行動できる者もいる。ヴェルネウスに転移してきた生徒の中では、原尾真樹が例えばそうだ。あいつほど自我や自意識がしっかりしたタイプなら、倫理観や常識よりも自分の中の価値観を優先できるため、フィルター切れによって致命的な意識の変容を起こすことはないらしい。
それに、俺のような大人も、フィルター切れの影響は受けにくいと、紅井は言っていた。
となると、なんだ。
もしかして、杉浦の俺に対する態度が変化したのは、俺が放つ異臭のためではなく、フィルター切れを起こしたからなのだろうか?
「……杉浦、もし今俺が、くさやではなくかつおぶしになったとしても、」
「……うん」
俺が尋ねると、扉の向こうで杉浦は頷いた。
「やはり、俺を削るのは怖いか?」
「………」
返事は、すぐにはなかった。だが、数拍の間を置いて、彼女は答える。
「……うん。怖い」
「そうか」
なら、仕方がないな。
フィルター切れに対する、根本的な解決策は存在しない。それぞれが自分の中で、答えを見つけ出していくしかない。例えばここで杉浦が『二度と俺を削らない』という答えを見つけ出せば、それはそれで尊重すべきひとつの解答なのだ。
何が正しくて、何が間違っているのか。倫理観や常識とは別のベクトルで存在する、個々の価値観。導き出した答えが、必ずしも、今までと同じ関係性を保つものであるとは限らない。言うなれば思春期のようなものだ。俺には、それを強制できない。
「でもね、先生」
「ああ」
俺にできるのは、杉浦の言葉を聞いてやることだけだ。
「……ううん。なんでもない」
「そうか」
そして、そこでもし言葉を止めるのであれば、突っ込んで聞くことも、できない。
これは杉浦の問題だ。俺が介入できることではない。教師としてできるのは、最低限の補助だけである。背中を押してやることはできるし、着地点がわかっているなら導くこともできる。だが、その着地点を導き出すのは、まずは杉浦自身でなければならないのだ。
「……じゃあ、先生、もう夜遅いから、寝るね」
「ああ、おやすみ」
俺と杉浦は、それだけ言葉を交わし合う。厨房には、杉浦が歩き去る、ぬたぬたという足音だけが響いた。
その夜、俺は轟音によって目を覚ました。震動が温泉旅館“かみしろ”を大きく揺らす。
「な、なんだ! なんだ!?」
何か大きなものが激突し、衝撃を撒き散らすような音であった。更には、獣の咆哮じみた音が、遠くから響いてくるのを感じる。俺は急いで周囲を確認したかったが、戸棚の奥に閉じ込められているので外を見ることができないし、そもそもくさやであるため身動きひとつとれない。
俺が焦っていると、外からぬたぬたと慌ただしい足音が聞こえてくる。扉をがらりと開き、鼻と口元を押さえた杉浦が顔を覗かせた。
「先生!」
「杉浦、何があったんだ!?」
「お客さんを襲った怪物が、ここまで……!」
「なんてこった……!」
なんとなくそんな予感はしていたが、まさか昨日の今朝でこのような展開になるとは。
「先生、急いで!」
「急ぎたくても手足がないんだよ!」
「もう!」
杉浦は鼻を押さえた手を外し、俺を戸棚の奥からひったくった。尻尾のあたりを強引に掴み、他の調理器具もろとも、鍋の中に俺を突っ込む。異臭を堪えるためか、ものすごい形相になってはいたが、そこに一切の躊躇はない。
「杉浦、おまえ……」
タコ足のうちの一本が、にゅるんと伸びて別の棚にしまわれていた本野さんを引っ張り出した。
「あっ、本野さん。お久しぶりです」
「あ、お久しぶりです。勝臥先生」
本野さんの返答は、やはり悪臭を堪えているようで少しぎこちなかったが、意外と悪い反応ではなかった。
「今、騎士団のお客さんと、原尾くんが足止めしてる。とりあえず、海の方に逃げよう!」
「どんな怪物なんだ?」
「牛みたいな角が生えた、凄いムキムキの……。ベヒーモス? って、言ってた」
俺くらいの世代だと、有名コンピューターゲームの敵モンスターを想像する名前だ。だが、話を聞く限り、そのイメージからそう外れたものでもないらしい。原尾が出ているなら大丈夫だとは思うのだが、まだまだ安心はできない。
花園や魚住たちは、既に避難しているらしい。杉浦は、俺や本野さんを助けるために戻ってきたのだ。俺には、嬉しさと申し訳なさが同時にあった。こうして生徒に気を遣わせてしまうのは、教師として非常にばつが悪い。
杉浦の話によれば、ベヒーモスは非常に執念深く、攻撃を仕掛けてきた騎士団の匂いを嗅ぎつけて、ここまで追ってきたのだという。連中が狙っているのはあくまでも騎士の方であるらしいので、遠ざかれば危険はないのだとか。
衝撃の伝わる石造りの建物の中を駆け抜け、杉浦は裏口から外に出る。花園の菜園を更に通り過ぎようとした時、杉浦はふと、足を止める。
「杉浦、どうした……?」
「花園……」
「なにっ」
杉浦が指した方向を見ると、菜園のトマト株の周りを、ごそごそと這い回る影があった。
「花園、何やってんだ!!」
思わず叫んでから、しまったと思った。杉浦が俺を睨むのだが、それは俺が思わず声を発したことに対する非難なのか、それとも俺が臭いのが原因なのか、いまいちよくわからない。
お尻をこっちに向けてもぞもぞ動いていた花園は、びっくりしたように顔を上げて、きょろきょろと周囲を見回した。
「えっ、せ、先生……?」
「花園! 何やってるの! 行くよ!」
「あ、彩ちゃん。でも、でも、いまベックが実をつけてる最中で……」
そう言って花園が指したのは、身体に悪そうな金ピカの実をつけた、それはそれは立派なトマトであった。突然変異種か? 思いっきり身体に悪そうなんだが。
「でもここは危険だよ。ベヒーモスだかヘビースターだかは、まだ近くにいるし、それに……」
「育てたトマトを放って逃げるなんて、あたし、できないよぅ……」
涙ながらに訴える花園だが、少し鼻をすんすんと動かし、顔をしかめた。
「彩ちゃん、なんか臭くない?」
「えっ、えぇと。ま、まぁ、うん……」
すまない杉浦。俺がくさやであるばっかりに……。
花園は、その間にも黄金に輝くトマト(個体名ベック)を守り、離れようとしない。
杉浦が異臭をこらえながら、必死に花園の説得を試みている。だがその時俺は、この菜園にゆっくりと近づく別の気配に気づきつつあった。声をあげて、杉浦に警告するべきかどうか迷う。
だが、その一瞬の迷いは、後から思えば命取りであった。
「……グルフフフフフフ……」
獣の唸るような声が聞こえてくる。杉浦は、はっと顔をあげた。
菜園を取り囲む生垣の向こうから、その声は聞こえた。杉浦に次いで花園も、それに気づいたようで動きを硬直させる。一同の視線は、自然と生垣の向こうへと向けられた。唸り声には、わずかに荒い呼吸が混じっていた。花園が、杉浦の足の一本を掴む。
生垣の向こうを歩く、のしのしという重量感のある足音。おそらく、杉浦の言っていたベヒーモスだ。原尾たちはどうしたのか。やられてしまったのか。あるいは、ベヒーモス自体が複数個体存在するのか。
生垣の向こう側を歩く足音が、一瞬止まった。
唸り声と呼吸の音も止み、一瞬、静寂が菜園を支配する。杉浦も花園も、そこから一歩も動くことができずにいた。
「グオオオオオオオオオオオウッ!!」
直後、
生垣の緑を突き破り、怪物がその顔を突き出した。顔の作りは鼻柱が強く、獅子や虎を彷彿とさせる。異世界のモンスターに適応させるのも意味がない法則だが、目が正面についているのは肉食動物たる証だ。立派なたてがみと、ねじ狂った黒い角。その大顎は、杉浦や花園の頭など容易く噛み砕いてしまえそうなほどに、強かった。
「きゃああああああっ!!」
花園が悲鳴をあげる。ベヒーモスは、そのままこちら側に、その巨体を勢いよく踊らせた。
たくましい四肢が土を削り、巨体がこちらへ迫る。牙をむき出しにしたベヒーモスに、あわや杉浦が食われてしまうかという、まさにその時だ。縮こまる杉浦を前にして、ベヒーモスの動きは鈍った。怪物はやがてぴたりと動きを止め、2歩、3歩と後ずさる。
「え、な、なに……?」
杉浦は、何が起こったのかわからないというように顔をあげた。
鼻をヒクヒクと動かしてから、顔を大きくしかめるベヒーモス。怪物は遠巻きにこちらを眺め、牙をむき出しにして威嚇をはじめた。
「あ、彩ちゃん! もしかしたら、その臭い干物!」
「えっ、こ、これ……?」
花園の指摘を受け、杉浦は鍋の中から俺を引っ張り出した。直後、2人の少女は吐きそうな顔をして前のめりになるが、なんとかそれをこらえる。
吐きそうな顔をしたのはベヒーモスも同様だった。牛の首でも容易くねじ切れそうな前脚で鼻を押さえ、怪物は思いっきりしかめっ面をしてみせる。杉浦が人差し指と親指で俺の尻尾を振り、ぶらんぶらんと揺らすと、ベヒーモスは一瞬ひるんだが、逆上したように牙を剥き、吼え猛った。
「グルゥァアアオウッ!!」
「ひっ……」
杉浦は俺をつまんだまま、耳をふさいで縮こまる。俺の身体が花園の鼻に直撃し、とうとう花園は吐いた。
俺の臭いだけでなんとか相手を封じることができると思ったが、このままでは逆に怒らせる可能性もあるようだ。しかも、杉浦や花園が、いつまで俺の臭いに耐えられるかわからない。ベヒーモスを撃退するには、今以上の臭いを一気に相手に叩きつけ、戦意を削ぐしかない……。
そう考えたとき、俺の脳裏にひとつのひらめきが去来した。
「杉浦……。俺を削れ……!」
「えっ……?」
「俺を削るんだ。俺には《無限再生》の力がある。削られることにより、かえって俺の身体の面積が増え、臭いであいつを追い詰めることができる……」
この間、花園は意識が朦朧としているようで、俺がしゃべっていることはあまり疑問に思っていない様子だった。
「で、でも……。でもあたし、先生を削るなんて……!」
フィルター切れの最中である杉浦は、悲痛な顔をして首を横に振る。
俺も辛かった。ここで杉浦に残酷な決断を迫ることになっているのだ。それは、俺の教育理念にも反する。
だがこのままでは、いつベヒーモスがしびれを切らし、襲いかかってくるかわからない。
それを止めるには、俺の臭いしかないのだ!
「杉浦……!」
俺は力強く言った。ベヒーモスは鼻を押さえながらも、こちらに飛びかかるチャンスを窺っている。本野さんは何も言わなかった。気絶しているのかもしれない。
杉浦は、しばらく黙り込んでいた。身体が微かに震えている。
俺は今、彼女に残酷なことをさせようとしているのかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。俺の胸は今開かれているが、とにかく傷んだのだ。いや、痛んだのだ。
「……わかった」
ぽつりと、杉浦は言った。
「あたし、先生を削る……。削るよ!」
「杉浦!」
そう言って、杉浦は花園と本野さんを地面に横たえると、鍋の中から包丁とまな板を取り出した!
さすがに削り金で今の俺は削れないであろうから、妥当な判断だ!
取り出された刃物の輝きを前に、ベヒーモスが警戒心をあらわにする。だが杉浦は、まな板を土の上に置き、その上に俺を載せると、包丁を構え、猛烈に俺を細切りにしはじめた! 切り分けられた俺の肉体が、壮絶なる異臭を放つ!
この間、杉浦はおそらく無心であった。黙り込んだまま、まるで精密機械のように俺の身体を切り刻んでいく。俺も負けてはいない。一瞬で俺の身体を再生させ、それを杉浦が切り刻むという無限ループが発生する。あっという間に、凄まじいまでの異臭を発する、くさやの山が築かれつつあった!
「……!! グゥウゥォアアアァアァァァッ!!」
ベヒーモスが、鼻を押さえて悶絶しはじめた。花園はピクピクと痙攣していた。
優れた嗅覚を持っているらしきベヒーモスに、この攻撃はよく効いた。くさやの山が放つ猛烈なる異臭。それを前に、この怪物はなすすべを持たない。だが、なかなか根性が座っているのか、退く素振りも気絶する素振りも見せなかった。その時だ。
「!!!」
びくん、と身体を痙攣させ、ベヒーモスの動きが硬直した。全身から力が抜け、四肢を放り出すようにぐったりとする。白目を剥き、口元からはだらりと舌を出した。
「や、やったの……?」
杉浦が、恐る恐るその言葉を口にする。
そして、それに答えるかのように、ベヒーモスの身体がふわりと宙に浮き上がった。巨体が持ち上がった背後には、傷ひとつなく片手を掲げる、原尾の姿があった。
「無事か。杉浦よ」
原尾は相変わらずキャラの立ちまくった尊大な口調で言った。
「原尾くん!」
「一体取り逃したが、こいつで最後だ。我が友輩を脅かす者よ、原尾の怒りを受けるが良い」
原尾が開いた拳をぐっと握ると、ベヒーモスは口から血を吐き、そのままがっくりと項垂れる。あっさりとした最期だった。
「ハラオ! こちらに逃げ込んだベヒーモスは……ウゲェッ!」
「ほかのところにはいなかった! やはりこちらに……ウゲェッ!!」
その後ろから、ぞろぞろと騎士たちが追いついてくるが、うずたかく積み上がったくさやの塔が放つ異臭に、えずき、涙を流しながら倒れ伏していく。その様子を、原尾は後ろで両手を組んだまま涼やかに見守っていた。
「は、原尾くん……。この臭い、平気なの?」
「うむ」
原尾は念力でベヒーモスの巨体を生垣の外に向けて放りつつ、頷いた。
「教養の差だな」
黄金のマスクがガスマスクの代わりを果たしてるだけじゃないのか、と思った。
あ、大量に切り刻まれた俺の肉片は、このあと杉浦によって美味しくいただかれた。
この一件を経て、俺にとって嬉しい状況の変化が、2つあった。
まずひとつ。杉浦の俺に対する接し方が、以前のように戻ったのだ。ぎこちなさがだいぶなくなって、今までのように、俺を料理に使ってくれるようになった。素晴らしい話である。
そしてもうひとつ。くさやとしての力を使い果たした俺は、もとのかつおぶしに戻ることができたのだ。
つまり、俺は以前のように、かつおぶしとして生徒たちに美味しいかつお出汁が、提供できるようになった。本野さんも、俺にいつもどおり接してくれるようになった。
お客さんとして来ていた騎士の皆さんは、すっかり養生した後、王都へと帰っていった。
その後、彼らのクチコミによってこのモンスター旅館の噂が広がり、冒険者などが頻繁に訪れるようになった。温泉旅館“かみしろ”は、お陰様で大繁盛だ。
同時に生徒たちの間でも、徐々にフィルター切れが発生し、これまでどおりに活動できなくなる生徒が増え始めた。だがそんな時こそ、俺の出番であると、俺は強く自負している。
これまでと違い、今の生徒たちには頼れる存在が極めて少ない。竜崎やゴウバヤシがいたころとは違うのだ。俺も、かつおぶしなんかに転生してしまった自分を恥じている場合ではないと、強く実感した。俺の、出汁の美味さと勢いに任せた教育方針には限界があるかもしれないが、それでも俺は、今日も杉浦にこう叫ぶのだ。
「杉浦! 俺を削れぇぇぇぇぇぇ!」
「よっしゃー!!」
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
「はいいいいいいいいいいいいいい!!」
まぁ、そんなわけで、温泉旅館“かみしろ”の厨房には、当分、俺と杉浦の絶叫が響き渡ることになりそうだった。
「ところで、すっかり忘れていた、『俺が紅井の血をかぶったことによる生じる出汁の副作用』だが、結局ただの思い過ごしだったらしく、ほかの生徒たちがなんらかの症状を発症する兆しは得には見られなかった」
6章までの準備として、10日から2週間ほどいただきます。
8月21日~25日までに再開予定です。よろしくねー。
 




