第78話 妖怪の山
街を北に向けて出発し、山を越え、さらには大平原を越えると、時界砂漠となる。途中、時界砂漠の砂の原料となった魔導兵器の朽ち果てた姿をいくつも横に眺めながら、“彼女”はようやく、目的の場所へと辿り着いた。
彼女が時界砂漠の北西部まで足を延ばすことになったのは、血族と呼ばれる一族との交渉の為だ。彼らと顔をあわせるのは、実に200年ぶりのこととなる。あちらの世界では7、80年程度しか経過していないはずだが、おかげで“彼女”も随分と歳をとった。
中央大陸の者たちが“新大陸”と呼ぶらしいこのセーリアには、独自の文明が存在する。
が、それを知る者は限られる。中央大陸からこちらに渡ってくる冒険者の中で、認知している者は皆無だろう。それこそ、中央帝国の帝室に関与するごく一部、あとは血族くらいなものだ。
彼女は、その多様な異文明が混合したセーリアの代表として、交渉に赴く。血族はセーリアの状況をある程度把握しているはずだから、議論の着地点は互いに見えていた。要するに、相互不干渉を貫ければ良いのだ。
彼女は4本の脚をしなやかに動かして、冷え込んだ砂の上を踏みしめていく。ふさふさと生え揃った金色の体毛が体温を保つので、あまり寒さは感じない。周囲には、夜間の行軍を照らす狐火が浮かび上がっていた。
「このあたりまで来ると、冒険者とやらが湧くな」
広い砂漠を見渡しながら、彼女は呟く。横を歩く若い狐が、顔をあげた。
「近頃冒険者は、アヤカシを捕らえるのに熱心と聞きますから、注意を払った方が良いかもしれません」
「なに、そのあたりの冒険者程度には、まだまだ遅れをとるつもりもない」
9本の尾をひらひらと動かしながら、彼女は笑う。
とは言え、斥候に放った狐のうち、何匹かが戻ってこない。人間の中にも彼女たちと同等以上に渡り合える者はいるし、事実、そうした人間に200年前の彼女達は苦汁を舐めさせられたのだから、侮るつもりはない。
血族との交渉は明日になる。そろそろ、この辺りで休むべきだろうか。彼女がそう考えている時だ。戻ってこなかった狐のうち、3匹が砂漠の西側から帰還した。見れば、3匹は口に何かをくわえ、砂の上をずりずりと引きずってきている。
「御前様!」
狐の1匹が叫んだ。
「行き倒れです。というか、飛び倒れです!」
「全速力で飛んで、そのまま砂に突っ込んで気を失っていました!」
「どうしますか!?」
狐達が口々にそう言うものだから、彼女も首を傾げて歩み寄る。狐達がの口ぶりからして、冒険者の類ではない。悪魔でもないだろう。セーリアでは、魔の眷属は見つけ次第殺すのが通例だ。
彼女は、狐達の引っ張ってきたその影を見て、驚いた。
黒い羽毛に覆われた身体に、修験者装束。大きな嘴と翼を持つそれは、彼女や狐達がよく見知った存在であったのだ。
「鴉天狗か? 何故こんなところにいる?」
「上人が我々につけさせたのでしょうか」
「だったら西にいるはずがないな。はぐれ者か?」
見たところ、憔悴と疲労はしているようだが、目立った外傷は見当たらない。鴉天狗自体はそう珍しいものでもないが、セーリアの文明圏から外れたところで1匹だけ見つかるというのはちょっと事情の想像がつかない。
それでも、基本は同胞と言える種族だ。無碍にすることもないだろう。彼女は、狐達に彼を介抱するよう指示した。狐達は頷いて、近くの岩陰に鴉天狗の身体を運び込む。
鴉天狗が目を覚ましたのは、それからしばらくもしない時のことだった。
『義経、そういう心を“魔縁”という』
子供のころ、近所の山に住む男にそう諭された。
『三障四魔を指す言葉でもあるが、慢心に囚われ、死後魔界に堕ちた修験僧たちを指して“魔縁”という。魔界は輪廻転生の六道から外れたところだ。どれだけ時間が経とうと生まれ変わることはなく、従って、その魂が救済されることもない』
その後も男は何やら難しい話を続けたが、総合するとそれは『天狗になるな』という話に終始するものであった。
自分の才能に慢心するな。常に謙虚な心を持て。今はそれでいいかもしれないが、いずれは立ち行かなくなってしまう。なんだって器用にこなせるのは、それが通用するのはあくまでも狭い世界の話である、と。
説教臭い話だから、まともに聞いてはいなかった。そんな彼に、男は呆れたようなため息をついていた。ことだけは、覚えている。
男の言葉は、成長するたびに、現実味を帯びてきた。自身の慢心に、周囲の才能が追いついてきたのだ。やがて、彼は居場所をじわじわと追われ、そして今、とうとう、その場を失ってしまう。
もっと謙虚に、現実を受け入れ、自分を律することができていれば、話は違っていたのだろうか?
「う……」
もやもやとする思考を抱えながら、烏丸義経は、意識を取り戻した。周囲は薄暗いが、ぼんやりとした灯りが照らしている。あの時、仲間たちがいる丘陵を飛び去った烏丸は、砂漠の中に浮かび上がる灯りを目指して、まっすぐに飛んだのだ。
だが、結局は空腹からか、あるいは夜の砂漠の冷たさからか、体力がすぐに尽きて、そのまま砂の中に突っ込むようにして、気を失った。
霞む視界の中で、こちらを覗き込む顔がいくつかある。どうやら、自分を介抱してくれたらしい。
礼を言わなくては、と、目をはっきりと開けた烏丸の目に飛び込んできたのは、人間の顔ではなかった。
「……うおっ!?」
その細く尖った獣の顔。ぼんやりとした炎に照らされたその顔に、烏丸は飛び退く。
「き、キツネ……!?」
犬か、と思ったが、違う。キツネだ。烏丸にとっては、野生動物というよりも、稲荷神社の使いとしての方が馴染みが深い。だが、どちらにしても、この異世界にきて、しかも砂漠の真ん中でキツネに会うとは、思っていなかった。
キツネって砂漠にも住むものだっけ? と首をひねっていると、キツネたちは視線を後ろへと向ける。
「御前様! 目を覚ましました!」
「(喋った!?)」
ユニコーンだってスライムだってしゃべるのだ。キツネがしゃべったところでなにを驚くことがあるのか。
などと言われても、基本、今まで喋ることができたのは全員クラスメイトである。こんな行きずりのキツネたちが、平然と言葉を発することに、烏丸は猛烈な違和感を覚える。同時に、夜の砂漠にゆらゆらと浮かび上がる不気味な炎を見て、『狐火』という単語が脳裏をよぎった。
このキツネ達も、ただの獣ではないのか? モンスター?
そういえば、恭介たちが交戦した冒険者は、この大陸にしかいない、固有のレアモンスターを探していると言っていた。あずきが狙われたのも、そのためだ。連中の言うレアモンスターというのは、すなわち日本妖怪のようなモンスターのことでは、ないのだろうか。
では、このキツネ達はそうしたモンスターの一種なのか?
烏丸が考えを巡らせていると、彼らの背後から、『ぬうっ』と巨大な気配が顔を覗かせる。
「目を覚ましたか」
「……うおおっ!?」
烏丸は、再びのけぞった。
そこに顔をのぞかせたキツネは、烏丸が知るものよりはるかに大きい、というよりも、烏丸の身体をはるかに上回る、金色の毛並みを持つ怪物であった。尾のあたりから、9本の尻尾が揺らめいているのを見て、烏丸は確信する。
やはり、このキツネ達はモンスターだ。
烏丸は、目の前の事態に頭が混乱して、それまで抱え込んでいたモヤモヤなどすっかり吹っ飛んでしまっていた。
「え、ええ……。あ、あんたは!? ていうか、その、あんた達が介抱してくれたのか?」
「ほう」
大キツネは目を細める。
「儂を知らんか。やはり山のアヤカシではないな」
「山の……?」
「上人の使いでもあるまい。が、敵でもなさそうだ」
九尾の大キツネは、前足で頭を掻きながら、空を見上げた。明るい月明かりが、その毛並みを美しく輝かせる。
「山に送ってやっても良いのだがな。どちらにしても、こちらの用事が済んでからだな。まぁ、鴉天狗の一匹を連れて行ったところで、連中もさして怪しむまい」
「は、はぁ……。えぇと」
いったい目の前のキツネは1匹でなにをぶつぶつ言っているのか。烏丸は、勉強しなくても60前後の偏差値を保てる頭脳をフル稼働させて、状況を把握しようとする。
山というのは、きっとこのキツネ達の故郷だ。妖怪たちの暮らす山があって、彼らはそこからやってきた。そこには鴉天狗も生息している。大キツネは、素性のつかめぬ、しかし見た目は鴉天狗である烏丸を、そこに連れて帰ってもいいと言っている。
上人、というのは何のことかいまいちよくわからないが、名のある仏僧のことをなんちゃら上人と呼ぶことは知っている。おそらく鴉天狗を統べる、上人と呼ばれる妖怪がいるのだ。
こちらの用事、というのが、いまいちよくわからない。連中も怪しむまいと言っているところから、何者かとの顔合わせになる。
そのために、わざわざこの砂漠まで出向いてきたのだとすれば、連中というのは、この付近に居を構えている者のことだ。
恭介たち、では、さすがにないだろう。彼らとコンタクトが取れているなら、烏丸のことも知っているはずだ。
冒険者でも、ないはずだ。彼らが妖怪の山のことを知っているようには思えない。
となると、血族。
他の何かという可能性もあるが、この数日、砂漠周辺で過ごしてきてそれ以外に交渉が可能そうな生命体は見当たらなかった。
このキツネ達は、血族と何かしらの交渉をしようとしているのではないだろうか?
「まぁ、お前が他に目的があるというなら、別に止めはせんが」
考え込んだ様子の烏丸を見て、大キツネは言った。
「これは同じアヤカシのよしみだ。どうするかね」
確かに、ずっとここにいる理由は、烏丸にはない。妖怪の暮らす山に連れていかれるなんていうのも、あんまり良い話ではない。ここは礼を言って離れるのが、まともな選択肢であるように思える。
思えるのだが、ここで離れたところで、烏丸には行くところがないというのが本音だった。
いま、ここで恭介たちのところに、おめおめと戻るつもりにはなれない。
考えようによってはチャンスだ。この妖怪たちの仲間の振りをして、血族と接触できるのであれば、今まで手に入らなかった特別な情報だって手に入るかもしれない。敵の手に堕ちた蜘蛛崎や触手原の居場所も、判明するかもしれない。
その情報を持ち帰ることができれば、まだ、自分の面目も立つ。
烏丸は答えた。
その考えこそが、まさしく“魔縁”の根源たる功利心と傲慢さであることに、彼は気づいていなかった。
空木恭介たちは、その翌朝、冒険者たちとの交渉に赴くこととなる。
ウェイガンには朝食をしっかり食わせ、ひとまず魔法が使えないように腕を縛ったり猿轡を噛ませたりしたが、なんだか見ていて可哀想になってきたので解いてやることにした。その代わり、妙な動きをすればすぐに犬神が飛びかかるし、雪ノ下も凍結粉砕できるような配置で、交渉の場まで向かう。
ウェイガンが得意とする魔法は雷を扱うものがメインであって、あとは氷や風などであるらしい。雪ノ下や凛に致命的となる火属性はあまり得意ではないらしい。
「ウェイガンさん、人間が扱う魔法って、あたし達が使うものと違うの?」
「違う。魔法を使えるモンスターは多くの場合、生まれつき親和性の高い精霊とのつながりによって魔法を使う。精霊魔法の一種だ」
目的地に向かいながら、あずきの質問にウェイガンが答える。
「精霊魔法は、精霊との親和性が高い種族のみが使える。俺たち人間は扱うことができない」
「エルフは使えるんでしょ?」
「エルフは、今では人間の仲間として受け入れられているが、200年前まではモンスターの一種として迫害されていた。ドワーフも同様だ。彼らも土精霊や火精霊と親和性が高く、精霊魔法が扱える」
人間が魔法を扱えるようになったこと自体が、長い歴史からすればごく最近のことであるらしい。
人間が開発した魔法は、及ぼす効果のカテゴリーとして、黒魔法や白魔法。発動形態のカテゴリーとして紋章魔法や詠唱魔法に分別される。これらが開発される200年前までは、人間が使える魔法は、一部の聖職者のみが行使する神託魔法のみであった。
「神託魔法は人間にのみ扱える。天上の神に祈りを捧げ、奇跡の力を引き出すものだ。これは、天神たちが人間の神であるからだ」
そう言って、ウェイガンは白馬の方へと視線を向ける。
「え、なに?」
「ユニコーンの扱う生命魔法は、王神の一柱である“命の王”の力を引き出すものだ。これは、ユニコーンという種族が、“命の王”と“獣の王”によって生み出された直系眷属であるために使える。人間の神託魔法に、原理は近い」
道中、ウェイガンの語る魔法講座に、一同は耳を傾けることとなった。例えば、佐久間やカオルコ、そしてレッサーデーモンなどが使っていた渾沌魔法、あるいは暗黒魔法と呼ばれるものも、“魔の王”の力を借り受けて発動するものであるという。
“命の王”も“魔の王”も、古代に起こった神話戦争の際、天神によって討ち滅ぼされている。だが、眷属たちは地上に残り、討ち滅ぼされた王神たちも、その力の残滓を地上へと残した。
「じゃあ、恭介くんは? 恭介くんアンデッドでしょ? “死の王”ってやつの魔法が使えるんじゃない?」
「死の王は、肉体がこの世界から消滅しているので、力の残滓が残っていない」
凛の言葉を、ウェイガンははっきりと否定した。
「滅んだ王神は、その力の実体である“王片”と肉体を切り離されたことで力を失ったものと、肉体そのものを滅ぼされたものに大別される。肉体がこの世界のどこかに残っている場合のみ、その力を引き出すことが可能になる」
「へー。じゃあ、命の王も魔の王も、肉体はどこかに残ってるんだ」
「この新大陸は、神話戦争の時代に王片を奪われた魔の王が逃げ込んだ地と言われている。レッサーデーモンのような直系種が生息しているのはそのためだ。朽ちた魔の王の肉体は、この新大陸のどこかにあり、それを探してこちらに渡る冒険者も少なくはない」
まぁ、そいつらは結局1人も帰ってきていないが、と、ぞっとするような一言を、ウェイガンは付け加える。
その言葉を聞いて、それまで黙っていた恭介には、ふと気になることがあった。
「王片ってのが、その滅んだ王神たちのパワーの源っていうなら、肉体にそれを戻すことは可能なのか?」
「……その事態を防ぐために、王片は帝都で厳重に管理されている」
王片が、滅んだ肉体、言うなれば王身に戻るようなことがあれば、それは王神の復活を意味する。
王神は、この世界に生きるモンスターたちの王だ。眷属を率い、再び帝国や人類に牙を剥くことも、ないとは言い切れない。帝国はそれを懸念しているし、見つかっていない王片の回収には冒険者ギルドも協力している。
「いろいろ、思い出すわね」
腕を組みながら、雪ノ下は冷たい声で言った。
「キリスト教の悪魔の話とか、そういうやつ」
「俺は天孫降臨かな……」
滅多に自己主張をしない御座敷も、珍しく声をあげた。
今度はウェイガンが首を傾げる番である。
「なんだそれは」
「俺たちがトリッパーっていう話はしたと思うけど、」
恭介が彼らの言葉を継いだ。サブカル知識についてなら、自信もある。きょとんとした様子の白馬やあずき、犬神などへの説明も兼ねて、丁寧に話す。
「俺たちの世界では、大きな宗教がいくつかあって、そのうちのひとつは2000年くらいの長い年月を経て世界に広がったんだ。その過程で、その現地の宗教の神様を“悪魔”として取り込んでいったっていう、そういう話」
御座敷の言った、天孫降臨も同じ話だ。神様が天から降りてきて、日本各地を治めるその礎を築く。雑な説明をすればそんなところだ。朝廷に逆らう地方豪族はだいたい妖怪として退治されてきて、その辺をネタにしたゲームや漫画もいくつかある。ただ、小金井がめちゃくちゃプッシュしてきたゲームは18禁だったので、恭介は手をつけていない。
まぁ、天神だの王神だのいう話は、確かに帝国の礎を築いた人間が、地方の王様を迫害して大陸を征服した物語であると、そう認識することも、できなくはない。
「よくわからんな」
ウェイガンは首をかしげた。
「神は神で悪魔は悪魔ではないのか?」
「……まぁ、神も悪魔も実在する世界ならそういう反応かもね」
これだからファンタジーは、という気持ちもなくはない。
話をしていると、恭介たちはようやく、レスボン達のいる冒険者用中継キャンプにたどり着く。
冒険者ギルドが設置したというそのキャンプは、モンスターの襲撃を防ぐための防壁と、結界用の魔法陣が用意されている、ちょっとしたものだった。海沿いにほど近い、砂漠の手前あたりにあり、中にはいくつかの建物がある。
「来たぞ、レスボン!」
恭介が声をあげると、門が軋みながらゆっくりと開いた。
恭介たちは、ウェイガンを連れて中へと入る。建物の前に、隻眼隻腕の冒険者レスボン・バルクが、そしてその左右を固めるように2人の女性冒険者が立っていた。小柄な片方がフィルハーナ・グランバーナ、そして大柄で筋肉質なもう片方が、ようやく養生したというレインだ。
1人足りない。恭介たちは視線を動かした。
「レスボン、ウォンバットはどうした?」
真っ先に口を開いたのはウェイガンだ。レスボン達は、捕虜であるはずのウェイガンが縛られてもいないことに驚いた様子だったが、彼の言葉にすぐに表情を曇らせて、かぶりを振った。
「……そうか」
「え、どうしたって?」
何かを察したようなウェイガンに、恭介は尋ねる。
ここにいないのはシーフのウォンバットだ。犬神あたりは見つけ次第食い殺しそうだし、恭介だって良い気分ではいられないだろうから、いないならいないで一向に構わないのだが。この思わせぶりな態度は少し気になる。
「いっただろう。カラスマはウォンバットに似たところがある、と」
ウェイガンは言った。恭介は憮然として言い返す。
「あいつは、か弱そうな女の子を人質にとったり、約束を破って攻撃をしたりとかは、しない」
「……かもしれないな」
ウェイガンは、強く言い返すこともせず、あっさりと認めた。
「とにかく、ウォンバットはいないらしい。功を焦って、こっそり抜け出したんだろう。バカな奴だ」
その『バカな奴だ』に、どういう意味が含まれているのか、恭介は吟味しようとしたが、やめた。どう考えても、不愉快な方にしか思考がいかないからだ。こうも他人に不快感を催すというのも、恭介にはあまりないことだった。
「ま、まぁウツロギ、ひとまず交渉を始めよう」
レスボンは苦笑いを浮かべて、こちらをなだめにかかる。
「要求をぜんぶ飲む、とは言えないけど、こちらから提供できる情報も多いはずだ。ひとまず、こちらの不手際を侘びさせて欲しいから、全員で中に入ってくれよ」
「別にレスボンから謝罪をもらいたいわけじゃない」
そうつぶやく恭介の声は、やはり憮然としたものだった。
キツネ達が交渉をするための場まで移動をはじめる。そのわずかな時間の間に、烏丸はなるべく、より多くの事情を把握するように努めた。
九尾の大キツネは、御前様と呼ばれており、烏丸もそれに倣うことにした。御前様やキツネ達は、やはり烏丸の察したとおり妖怪の山からこちらに来ており、セーリアと呼ばれる新大陸固有の文明圏の代表として、交渉に赴くらしい。
セーリアというのは、新大陸に対する彼らの呼び名でもある。様々な異文明が混在した国家群であり、旧大陸の人間たちとはほとんど関わりがない。新大陸を調べに来た冒険者達を引き込むことはある。
烏丸が真っ先に思ったのは、そのセーリアは、ひょっとして自分たちのようなトリッパーによって構成された文明圏ではないか、ということだった。が、確証には至らない。
話を聞く限り、セーリアには人間も数多くいて、デーモン達を崇拝する邪神教団との戦いに明け暮れている。この戦いに集中するために、セーリア文明圏では、血族と中央帝国の戦いには不干渉を貫きたいと考えている。
「(でも、この情報は、俺たちにはあまり関係がなさそうだな)」
仮にセーリアがトリッパーによって構成された文明圏であったとしても、彼らはこの地に居着くことを選択した者たちだ。帰還を前提に考えている烏丸たちが、向かうべき場所ではない。そのセーリアに他のクラスメイトが飛ばされているなら別だが、そうしたこともなさそうだ。
「見えたぞ」
御前様がそう言い、烏丸はキツネ達といっしょに彼女の指し示す方を見た。
それは、砂漠の片隅に、砂に埋もれるようにして設置された小さなダンジョンへの入口だった。当初、烏丸たちが転移してきた“約束の墓地”に似ている。血族があらかじめこういった場所を押さえているのか、あるいは、こういったダンジョンを生成する技術が、彼らにはあるのか。
だが、同時に烏丸を驚かせ、脅えさせたのは、そのダンジョンの入口を守るように立つ番兵の姿だった。全長10メートル近い、双顔六本腕の骸。“死霊の王”だ。それだけではない。彼の足元で、周囲にギョロギョロと視線を巡らせているのは、ヤギのような顔に、コウモリの翼を備えた、人型の魔物だった。キツネ達はその姿を見るなり、毛を逆立てて警戒をあらわにする。
「よせ」
御前様は、キツネ達に告げた。
「ディモンの眷属に、あれは死王の複製か。連中が王片を2つ手中にしているのは、事実らしい」
そう呟く声は、いくらか忌々しげである。
死王の複製。王片。いずれも初めて聞く単語だ。ディモンの眷属というのは、なんとなくわかる。彼らが敵対している邪神教団が、デーモンを崇拝しているという話は聞いたばかりだ。
王片というのは、そういったモンスターを自在に操ることのできるアイテムか何かなのだろうか。で、あるとすれば、セーリア文明圏の代表としては、王片を有する血族が、邪神教団と手を結ぶようなことは避けたがるかもしれない。つまり、血族は王片を盾にとった交渉ができるのだ。
「(それほどの力のあるアイテムなら、もしかしたら……)」
焦るな。烏丸は自制する。機会を窺うのだ。その時は必ず来る。
死霊の王と、ディモン―――レッサーデーモンに通され、御前様は中に入る。キツネ達や烏丸も、同行を許された。ダンジョン内は、まさしく約束の墓地を思わせる構造をしており、中は屍鬼や小悪魔が徘徊している。
血族の姿は見られない。黒甲冑を纏ったポーンの姿もだ。このダンジョンの主がポーンであるのか、あるいはもっと上の駒であるのか。レッサーデーモンの1体が、こちらを奥の部屋へと案内する。
「―――ようこそ、ミズクメ」
たどり着いた部屋で待っていたのは、黒いタキシードに身を包んだ、背の高い男だった。真っ赤な瞳に、口から除く犬歯を確認する。血族だ。
彼ひとりではない。部屋の隅には、やはり血族の女がいる。ひらひらとしたレースをつけた黒いドレスを身にまとい、手には大仰な槍を持っていた。御前様は、まず部屋の入り口の狭さに辟易とした様子を見せてから、視線を男に向けて歯を剥いた。
「儂をその名で呼ぶな」
「では、他の者に倣って御前様と呼ぼうか。僕はビショップのグレン。こちらはナイトのシンクだ」
ビショップとナイト。烏丸はその姿を確認し、心を凍りつかせる。だが、それはおくびにも出さぬよう気を遣いながら、なるべく御前様から離れないようにする。あくまで、彼女についてきたアヤカシの一匹であるように振る舞う。
御前様も、こちらに同族意識を持っているなら、ある程度はごまかしてくれるはずだ。
「一匹だけ鴉天狗がいるんだね」
案の定、グレンが不思議そうに言った。
「上人が、儂を信用しなくてな。まあ良かろう。話を進めたい」
そう言い、御前様はちらりと部屋の中にいる一匹のレッサーデーモンに視線を向ける。
「あまりこうした連中と顔を付き合わせるのは、気分が良くない」
「なるほど、良いよ」
グレンも小さく笑い、部屋に備えられた椅子に腰掛けた。
ここが、この大陸における血族の拠点だ。どう見ても本拠地ではない。小金井や血族の王は、ここにはいないだろう。蜘蛛崎や触手原は、まだここのどこかにいるのだろうか。それとも、どこにあるかわからない、本拠地へと連れて行かれてしまっただろうか。
それに、王片だ。王片とやらは、いったいどこにあるのか。
浮き足立つようにして、部屋の中をきょろきょろと眺める烏丸。グレンと御前様が話を始めようとする中、部屋の中ではナイトのシンクだけが、それを冷たい目でじっと見つめていた。
そろそろ5章もクライマックスが近づいておりますわ!!




