第77話 功利心ふたつ
すぐにできるとか言っておいて一週間も読者を待たせる作者がいるらしい。
「明日はウツロギ達との交渉がある」
冒険者パーティのリーダー、レスボン・バルクは、他のメンバー3人を前にそう言った。
3人というのはつまり、フィルハーナ・グランバーナ、レイン、ウォンバットの3人だ。レッサーデーモン戦にて重傷を負ったレインもなんとか快癒し、明日の交渉には同席できる形となった。
サブリーダーのウェイガンがウツロギ達に捕らえられたと聞いたのは、数日前のことだ。ウォンバットの勝手な行動の結果であるが、それを怒鳴りつけるだけの気力は、レスボンにはなかった。さらにその翌日、ユニコーンにまたがったウツロギと、スライムのリンがこちらを訪れ、交渉の席を設けたいと話を持ちかけてきたのである。拒否権はないようなものだった。
どちらに非があるかと考えた場合、レスボン達の方はかなり分が悪い。ウォンバットの独断とはいえ、約束を破ったのはこちらだ。ウェイガンが殺されていないだけマシと考えるべきかもしれない。彼の命を盾に取るような交渉を、卑劣と罵る資格はないのだ。
「あちらの要求は、旧大陸への渡しでしょうか」
焚き火の炎を見つめながら、フィルハーナが呟く。
「まぁ、それは間違いなくあるだろうなぁ」
レスボンも頷いた。彼らは、仲間と合流するために旧大陸へ帰りたがっている。そのための渡しをこちらに要求していたが、レスボンは一度考える時間が欲しいと断ったのだ。ただ、相手はそのための交渉カードを手に入れている。
その程度なら想定できるし、こちらのデメリットは少ないから、まだ良い。
「問題は、それ以上の要求があった場合か?」
包帯のとれたばかりのレインの言葉である。レスボンは頷いた。
あまりこういう考え方はしたくないが、非がこちらにあり、相手もウェイガンの命を盾にできる以上、多少の無茶は言える状況なのだ。ウツロギの人となりを判断する以上、そこまで悪逆非道な真似はしてこないだろうとの思いはあるが、楽観は禁物である。
「戦力が疲弊している状況で、戦いに加勢しろとか言われたら少し困るな。それもまぁ、聞かざるを得ないラインな気がするけど……」
「一応、ウツロギさん達の仲間らしきモンスターの情報については、テレパスネットで集めておきましたけど」
フィルハーナは、ゴシップ記事の切り抜きを集めたフォルダを取り出した。
先日、彼女がファクシミリで受信した記事の一部には、後から見返すとウツロギの仲間たちなのではないか、と思われるモンスターについての記事が、いくらか散見された。この情報は、こちら側としては有効なカードだ。
「えぇと……。これか。ゼルガ剣闘公国の、モンスターコロシアム」
その記事は、モンスターコロシアムに登録していた弱小チームが並み居る強豪を討ち果たし、決勝戦にまで進んだという内容のものだった。オウガ、デュラハンをはじめとしたモンスター達に統一性はないが、知性の高さを感じさせる連携で、負けなしである。
決勝に進むまでの間、体調不良を理由にデュラハンやハヌマーンが参加しないこともあったが、復帰後は以前にも増した力で大活躍をするので、実は1体1体のモンスターに密かな特訓をつけているのでは、という声も上がっている。
レインもまた、横からレスボンの手にとった記事を覗き見ていた。
「ほう。剣闘公国には、今“名無し”が訪れているのか」
「あ、それ、今は関係ない奴です」
名無しというのは、冒険者ギルドの認定を受けた最強のプラチナランカー“五神星”のひとりだ。“響狼星の名無し”、と呼ばれている、剣の使い手である。
「皇下時計盤同盟の1人も潜入しているという噂もあるし、剣闘公国はホットな場所だな」
「それは第2時席の“冥獣勇者”です。眉唾ですけどね」
レスボンはページをめくる。興味のある記事はまだ他にもあるのだ。
次の記事は、ヴェルネウス王国の僻地に、モンスターが温泉宿を開いたというものである。
こいつもぶっ飛んだ内容の記事ではあるが、どうやらデマゴーグというわけでもないらしい。もともと、凶悪なモンスターに頭を悩ませていた湿地帯の近くではあるが、地元でやはり温泉宿を開いていた冒険者との協力で、安全を取り戻しつつあるらしい。
この冒険者も、五神星のひとり、“獅吼星”であるという噂がある。獅吼星がヴェルネウスで宿屋を経営しているのは有名な話だが、こっちもちょっと、にわかには信じ難い。
「あと気になるのは、アルカルグに入り込んだ鋼鉄製の商船と、南王国で起きたクーデターの話だが」
「その2つは、あんまり情報が入ってきていませんね」
確かに、それ以上ページをめくっても、あまり気になる情報はない。この2つは帝国の勢力が強い地域であるため、テレパスネットの情報規制が強いのかもしれない。
グランデルドオ騎士王国の王女殿下がお忍びで東に向け出立したとか、長らく所在が掴めていなかった竜の王片が発見され、帝都へ移送されたとか、気になる情報はいくらでもあるのだが、ウツロギ達との交渉で使えそうなものはない。
3人が話をしている間、終始無言なのはウォンバットだった。
功を焦り、結果として仲間を窮地に陥れてしまった。彼の気まずさたるやそうとうなものであろうが、わかっているからこそ、レスボンも野暮なことは言わない。ただ、ウツロギ達に対しては、彼と共に誠意ある謝罪をしなければならないだろう。
その上で、彼らがウォンバットの引渡しや私刑を望むのであれば、それは断固として阻止しなければならない。間違いを起こしても、彼はパーティメンバーの1人だからだ。
「レスボン。俺は、どうすれば良い」
「交渉の場には出て来なくていい。謝罪は必要ならさせるけど、多分、交渉をするだけだから必要はないよ。帰りは同じ船になるだろうから、いずれ顔を合わせることにはなるだろうけど」
悪いことをしたら謝るのが人間としては当然だが、これはそういう場の話ではない。
「………」
ウォンバットが喋ったのは、結局その一言だけだった。視線だけは、せわしなく動き回っている。
彼は若い。パーティの中では最年少だ。出身が貧民街だから、功を焦る気持ちもわかる。だが、約束を破るのは冒険者にとっては禁忌だ。一番不安なのは、この失敗を挽回するために、何か余計なことをしでかさなければいいのだが。
「ウォンバット、あんまり気に病むなよ」
「いや……。あぁ、わかっている」
どこか、心ここにあらずな様子で、ウォンバットは答えた。
恭介たちのもとへ、ほかのクラスメイトが帰ってくる。凛たち食糧確保組は相変わらず大量で、烏丸と白馬のパトロール組も異常がないという報告だった。
既に日は暮れかかっている。これから夕飯の支度だ。今日の調理担当は雪ノ下で、あずきが丁寧に洗った野菜を、ナイフを使って刻んでいる。凛や壁野も付き合っているが、犬神は相変わらず原っぱに寝転んだまま、あくびを噛み砕いていた。時折、意味ありげに西の空を見上げているが、それだけだ。
恭介はその頃ちょうど、白馬からパトロールの簡単な報告を受けていた。
「ウツロギ、ちょっと聞いてくれるか」
白馬が不意にそんなことを言うものだから、恭介は軽く噴き出してしまった。
「なんだよ」
「いや、竜崎みたいなこと言うなぁ、と思って……」
クラス委員の竜崎邦博が、恭介に声を掛けるときもだいたい第一声はそれだった。アルバダンバに着いた頃はそうでもなくなっていたのだが、それまでの間は何かにつけて彼に呼ばれ、相談にのったものだ。頼られるのが嬉しい恭介としては、別段苦にもならなかったが。
白馬の馬面は、呆れたような顔をつくる。目が左右についているので、眉間にシワはなかなか寄らない。
「俺に言わせれば、お前のほうがよっぽど竜崎みたいだぞ」
「そうかなぁ。まぁ、多少意識しているところはあるけどさ」
「してんのかよ。まぁいいんだけど。それでさ、烏丸のことだよ」
言われて、恭介はちらりと後ろに視線を向けた。そちらの方向には、捕虜にした魔術師ウェイガンの入った、小さな檻がある。
「烏丸の?」
ウェイガンから、ちょうど烏丸のことについて指摘されたばかりなのだ。彼の言っていたことを、頭の中で反芻する。
「ああ、烏丸のやつ、ちょっとメンタルが不安定みたいでさ。大丈夫かなって思って」
「なるほど」
ウェイガンも似たようなことを言っていた。功利心に走る、と。
その言葉の意味がどういったものなのか、恭介にはよくわからない。功利だけに動く人間の感情というのが、いまいちピンとこないのだ。ただ、それを放置することが小金井のような問題を引き起こすことは、察しがついていた。
ケアはしなければならない。恭介は純粋な善意で、烏丸の相談に乗ろうと考えた。小金井のようなことがまた起こるのは御免だからだ。
善意が必ずしも善事を引き起こすとは限らないのだが、そのあたりは、恭介はまだ勉強不足であった。
「わかった。烏丸は何か言っていたか?」
「んんー、『どうしてそこにいるのが自分じゃないのか』って思ったこと、あるかって。そんなんだったかな」
「そこにいるのが……?」
恭介は首を傾げる。
自分のポジションの不満がある、ということなのだろうか。こればっかりは、聞いてみないとわからない。烏丸と仲のいい御座敷あたりに、あらかじめ相談しておくべきだろうか。あとは、凛あたりにも。
雪ノ下の時にも痛感したが、自分はどうも、他人の説得というのが上手ではないらしいのだ。
ふと、調理中の雪ノ下と目があった。いや恭介に目はないが。視線があった。
雪ノ下は無表情のまま、思いっきり拳を握り、親指を立ててきた。が、直後にその親指を首元に持っていき、熱血スマイルと共に首を掻っ切る仕草をしてみせる。相変わらず彼女には妙に嫌われているらしかった。
雪ノ下涼香は、合流後も、ペシミストなのかオプティミストなのかよくわからない、ビミョーなキャラを継続している。『あたし実は熱血じゃなくって』というカミングアウトは、壁野や烏丸を大いに驚かせたが、それでも、熱のこもった表面的な言動をすることは、ままあった。
あの雪ノ下の時も、彼女の説得自体には、失敗している。結果として雪ノ下の覚醒を促すことにはなったし、彼女の成長にも繋がったわけだが、恭介の行為だけに注目してみれば、それは惨敗と言わざるを得ない。
果たして烏丸義経にも、恭介の言葉が通じるのかどうか。
いや、あまり難しいことを考えるのはよそう。できることをやるしかない。
そして、今は彼ときちんと話し合わなければならない時期だ。このタイミングで生じた問題を、あまり放置しておきたくはない。恭介はその後、御座敷や凛にも相談をしてみたが、烏丸の抱える“何か”についての明確な答えを得られることはなかった。
ただ、顔のない凛は、何か表情を浮かべることこそなかったものの、真剣な声音でこのように呟いた。
『恭介くん、あんまり、急がない方がいいような話な気がする』
凛の勘は、鋭い。彼女がそう言うなら、そうなのかもしれない。
『烏丸くん、1年生の時、ちょっとだけ陸上部にいたことがあるんだよね』
何か問題でも起こしたのか、と尋ねると、凛は否定した。
『何も起こらなかったよ。ていうかね、烏丸くん、結構足も速いし、期待されてたんだよね』
でも、すぐに体操部へと移った、と凛は言った。
もともと運動神経は良いほうだったようだ。中学時代、新聞部に所属していたというのが、いまいち信じられない程度には。なんでも卒なくこなせる程度の実力は、あったのかもしれない。器用貧乏というやつだ。
だが、烏丸は転部した。
なぜだろう、と考えていると、凛は言った。
『恭介くん、知ってる? あたしね、県下最速のスプリンターだったんだよ』
もちろん、知っている。それがどうかしたのだろうか。
『人間だった頃は、烏丸くんよりも、足が速かったんだから』
わずかに“速さ”への未練をにじませた凛の言葉である。その感情を恭介は感じ取ることができたが、決して口にはしなかった。凛がして欲しくないだろうと思ったからだ。
だが、その事実が、いったいどう関係してくるのか。首をひねる恭介に対して、凛の声は苦笑いにも近いものがあった。
『烏丸くんはさ、その場その場で、一番じゃないと気がすまない人なんじゃないかな』
烏丸義経は、常に自分が一番ではないと気がすまないタイプの男である。だが、彼自身は決して努力家というわけではない。もともと努力をしなくても、ある程度のことは器用にこなせるという中途半端な才能が、烏丸にあぐらをかかせていた。
決して自覚がないわけではない。だが、その性根を正そうと思うほど殊勝でもなかった。
なぜ、そこにいるのが自分ではないのか。
嫉妬というものが、あまりみっともいいものでないことは烏丸もよく知っている。だが、この感情に歯止めはかけ難い。ましてや、今自分の周囲では、仲間たちが次々と“力”をつけているのだ。努力をせずとも常にそこそこの地位を保ち、上手に切り抜けてきた烏丸からすれば、この状況は苦々しい。
現在、仲間たちの間でフェイズ2能力を有していないのは、自分と、白馬と、犬神だけ。
その中でも白馬の能力はオンリーワンだ。《生命魔法》という回復に特化したサポート魔法は、クラスの中でも彼しか扱うことができない。さらに言うならば、この魔法体系自体が人間をはじめとした多くの知的種族には扱えないものであると、小耳にはさんだ。フェイズ2にならずとも、白馬はユニコーンであるだけで、その存在に価値があるのだ。
いま、烏丸のプライドを保てるのは、犬神の存在だけである。
生まれつき人狼である犬神は、フェイズ2能力を持たない。月の満ち欠けによって戦闘能力が大きく左右されるためムラがあり、階級持ちの血族に苦戦することも珍しくはなかった。強いて言うなら、血族のにおいを的確にかき分ける鼻の良さが、他にはない点か。
烏丸は、決して犬神より強いわけではない。アベレージを言えばほぼ同等だ。強いて言うなら、飛べる分、彼女よりいくらか有利、といった程度にすぎない。
烏丸の認識には大きな穴がいくつもあったが、少なくともそう思い込まなければ、彼は自分の卑小な自尊心を保てそうになかったのだ。
そして、思い込んだところで、現状に満足できようはずもない。
魔縁。
今の烏丸のような心を指し示す言葉であるという。
その言葉がどういった意味なのか、烏丸はまだ思い出せない。
「烏丸ー、」
ひとりささくれだった心を沈めようとする烏丸に、声がかけられる。
「晩飯の時間だぞー」
「……ああ。いま、行くよー」
なるべく、声音をいつもどおりに抑えながら、烏丸は返事をした。
烏丸を呼んだのは空木恭介である。彼の隣には、いつものように姫水凛がいた。食事の席には、この大陸に飛ばされた仲間たち。壁野は御座敷と、犬神はあずきといっしょに、雪ノ下と白馬は誰と隣同士になるでもなく食事の席についている。
そういえば、この大陸に飛ばされたクラスメイトは、まだ他にも2人いたと聞いている。アラクネに転生した蜘蛛崎糸美と、ローパーに転生した触手原撫彦だ。彼らについては、白馬と犬神から説明(まぁ犬神は獣化しっぱなしなのでほぼ白馬によるが)を受けていた。血族によって既に捕まっている可能性が、非常に高い。
血族は、既にこの大陸に渡ってきているのだ。もし、蜘蛛崎と触手原が捕まっているなら、小金井と合わせて既に3人が連中の手中に落ちている。
ふと、烏丸には思いつくことがあった。
こちらの世界に転生したのは、血族の計画によるものだ。で、あれば、正しい力の使い方を覚えるには、血族から直接レクチャーを受けるのが、一番手っ取り早いのではないだろうか?
事実、小金井と交戦した竜崎たちの話では、彼は既にフェイズ2に覚醒しているかのような動きが見られた。
蜘蛛崎や触手原だって殺されるわけではないだろう。彼らもフェイズ2になるための訓練を積まされ、新たなるパワーアップを果たすのではないだろうか。
と、そこまで考えて、烏丸はかぶりを振った。
それはナシだ。いくらなんでも、連中の軍門に下ってまで、力を求めたりは、しない。したくない。
したくない、はずだ。
「―――烏丸くん、どうしたの?」
ふと、御手洗あずきが、こちらを見て不思議そうに首をかしげた。
「ご飯、全然手をつけてないみたいだけど」
「あたしの作ったご飯は食べれないか……。ふっ、そうかもね……」
「ああ、雪ノ下がまた悲観主義を変な方向にこじらせている」
烏丸は、視線をプレートの上に落とした。
「い、いや、そういうわけじゃないんだ……。そういうわけじゃ……」
心がざわつく。こちらを心配し、優しい言葉をかけてくるのが、常に自分よりも高い立場にいる存在であることが、烏丸にはどうも落ち着かなかったのだ。あの、引っ込み思案で、あまり他人と喋りたがらない御手洗あずきでさえ、こちらを、見下しているように感じてしまう。
「最近、烏丸くんの様子がちょっと変だねって……。みんな心配してるので……。ねぇ、ウツロギくん」
「えっ、んっ? あっ、ああ、そ、そうだな……」
恭介は顔をあげて、烏丸の方に視線をやる。
ぞわり。烏丸の全身が、強い拒否反応を起こすのがわかった。恭介の虚ろな眼窩に見つめられるたび、烏丸の心臓がささくれ立つ。
この時、烏丸義経がもっとも許容できない相手が、その彼だった。
なぜ、そうまでして他人を構えるのか。烏丸にはまったく理解できない思考回路の持ち主なのだ。同時に、恭介の見せる温厚な態度は、彼にとってひどく不愉快だった。それは、あずきの言動と同様に、まるで余裕を持つ者が自分を見下しているかのように感じるのだ。
クラスで真っ先にフェイズ2に覚醒し、リア充グループの筆頭である竜崎からは贔屓にされ、元ではあるがクラス1の美少女・凛からは好意を寄せられ、逆にクラス1の美少女に躍り出た佐久間からも好かれている。紅井明日香のお気に入りでもあり、そして彼女の血によって、クラスではただひとり、フェイズ3に到達してしまった。
烏丸から見れば、その何もかもが順調であるかのように思える。空木恭介は、まるで自分は端役であるかのように振る舞いながら、その実、転移後は常にクラスの中心にいたのだ。そして今、ここでも、彼は自然とメンバーのまとめ役を担っている。
竜崎、紅井、凛、佐久間、それにゴウバヤシや剣崎など。彼らに認められ、頼りにされ、褒めそやされ、好意を寄せられ、更にはクラス内で実質最強にも近い能力を手に入れて。
それだけの条件が整えば、誰だって彼のように穏やかな、優しい男になれるだろう。
だからこそ、烏丸は、恭介にだけは、この感情を見せたくはなかった。
「烏丸くん、気になることがあったら相談したほうがいいと思う……。ほら、雪ノ下さんとか、姫水さんとかも、ウツロギくんがなんとかしたので」
「あたし、別にウツロギくんに助けられたわけじゃないわよ。自分の努力と根性で乗り切ったのよ」
どうやらあずきは、彼女なりに烏丸のことを心配しているようだった。この中では唯一、夕食を出されていない犬神(彼女は大抵好きな時に狩りに出かけて食事をする)も、臥せったまま片目を開けて、烏丸の方を見ている。
やめてくれよ。烏丸は思った。
「あ、あー。あずにゃんあずにゃん、ちょっとちょっと」
そこで、凛が声をあげ、口(ない)を挟む。
「まぁそういうのは個人の問題だし、無理に急がせることでもないんじゃない……かな? ねえ?」
「ん、うん。ま、まぁ、そう、だな」
凛の言葉を受けて、恭介もやや気まずげに視線を逸らす。その微妙な空気感は、烏丸に事実を伝えるのに十分すぎた。
彼らはもう、知っているのだ。その上で、烏丸を気遣い、刺激しないよう解決策を模索しているに、過ぎない。
その瞬間、その食卓で自分に向けられる視線が、とうてい許容できないものに変質してしまったように、烏丸は感じた。雪ノ下も、白馬も、御座敷も、壁野もこちらを見ているのがわかった。自分が今まで周囲に漏らさないように隠していた、みっともない自尊心を引きずり出されたような感覚があった。
「あ、あー……」
恭介は、やや気まずそうに頬を掻いて言う。
「烏丸もさ、別に無理に何か言うこととかないから。ただ、えっと、別に俺じゃなくても、誰かに相談とかは……」
「いいよ別に。そういうのはさ」
烏丸はうすら笑いを浮かべようとして、しかしカラスの嘴ではそれもできないことに気づく。
「ウツロギももうわかってるんだろ。俺がどういう奴かくらいさ。だったらはっきり言えば良いじゃないか」
「みっともないわねー。そう言うの」
空気が緊張する中、ひとりだけさして気にする様子もなく、食事を続けている奴がいた。
誰か、と問うまでもなく雪ノ下涼香である。彼女はプレートの上の野菜を口に掻き込みながら、雪女らしい冷たい視線を烏丸に向け、そして嘲笑うかのような声で言った。
「話がよく見えないんだけど、最近、烏丸くんがイライラしてるのだけは見ててすごいわかるわよ。だから、ウツロギくんは空気が読めないなりに気を使ってるんじゃないの? で、気を使われてるってわかると、それがミジメだからやめろって言ってるんでしょう? みっともないわねぇ。気合が足りないわよ」
「っ……!!」
図星を指された。瞬間、烏丸の頭の中が真っ白になる。雪ノ下のこちらを見る視線は冷ややかだ。雪ノ下だけではない。犬神も、片目だけを開けて、こちらを冷たく見つめていた。あずきは自分の発言が招いた緊張におろおろするばかりで、壁野と御座敷は固唾を飲んだまま、一言も言葉を発しない。
「ゆ、雪ノ下……。そういうのは言いすぎじゃ……」
恭介が、雪ノ下をたしなめ烏丸をフォローしようとしたことで、彼の真っ白になった思考が爆発した。
右腕を掲げると、鳥の爪の間に天狗の葉団扇が呼び出される。転生した時から身につけていた彼専用の道具だった。あずきが小さく悲鳴をあげ、犬神が彼女の襟首をくわえてその場を飛び退く。壁野は攻撃を防ぐ光の壁を展開した。恭介と凛が、烏丸を止めようと立ち上がる。白馬は唐突な彼の行動に呆気に取られていた。
烏丸の怒りは、まず真っ先に雪ノ下へと向く。彼が葉団扇をひと振りすると、かまいたちが生じて雪ノ下へと殺到した。雪ノ下は立ち上がりながら、袈裟をかけるように右腕を振り下ろす。空気が瞬間的に冷え込み、だが即座に分子運動が反転して熱を生む。急激な気温の変化が空気に境界を生み、風の刃を霧散させた。
烏丸の風魔法を無効化させた直後、雪ノ下は攻撃に転じようとした。烏丸は、自らの手足、そして翼の根元が、再び冷え込んでいくのを感じる。
「雪ノ下!!」
恭介の声に、雪ノ下がぴくりと動きを止めた。
凍りつくか、と思われた翼と手足が、冷気から解放される。雪ノ下は烏丸から視線を外すことなく、冷たい声で告げた。
「逃げるわよ、彼」
果たして、その言葉の通りである。この時、烏丸にはもはや、この場に留まるという選択肢はなかった。
逃げるアテがあるわけではない。そもそも、これは論理的な思考からくる行動ではなかった。ただ、1秒でも長くこの場にとどまりたくなかったのだ。雪ノ下はそれを見越した上で、烏丸の動きを封じるつもりだったのだろう。
だが、彼女は恭介の言葉を受け、律儀に攻撃をやめた。烏丸は翼を広げ、飛び立つ。
「おい、烏丸! 待てよ!」
そう叫んだのは白馬だった。待つものか。待てるものか。ここにとどまれるものか。
こんな、みっともない自分の姿を見られて。
結局、どんな場所でも1番になろうとして、しかしそのための努力を積んでこなかった男の行く末など、こんなものであったかもしれない。烏丸はこの時、自嘲する余裕すら持ち合わせていなかった。
カラスの翼は空を叩き、黒い身体を加速させる。誰にも追いつかせず、あっという間に丘陵を遠ざけていく自らの速度に、烏丸は唯一、自分の逃げ足だけは誰よりも速かったことを思い出していた。
日が暮れ、新大陸には夜が来る。時界砂漠を東に向けてまっすぐ飛ぶ烏丸は、宵闇の中に浮かび上がる不思議な灯りを見た。
「烏丸のやつ、行っちまったぞ」
白馬がぽつりと呟いた。
鴉天狗は、さすがの飛行速度だ。あれに追いつける者は、今のメンバーの中だと一人もいない。クラスメイト全員かき集めても、サンダーバードの神成鳥々羽くらいなものだろうか。恭介は大きくため息をつく。
ため息をつく、が、このタイミングでは、誰を責める気にもなれなかった。
「止めなければ、逃がさなかったわよ」
雪ノ下は、結局烏丸がいっさい手をつけなかった夕飯を食べながら言った。別段、不満げというわけでもない。
「まぁな。でも、あのタイミングで無理やり取り押さえるのが正解だったのかは、俺にもよくわかんないよ」
雪ノ下が手足を翼を凍らせれば、確かに烏丸を逃がさずには済んだだろうが、それで烏丸の心を開いてやれる未来というのが、どうにも想像できなかったのだ。この場を離れることで彼の頭が冷えるなら、そうするべきかもしれない。
まぁ、凛たちと行った事前ミーティングは無駄になってしまったが。
「あ、あの……。あたし、余計なことを……」
「あずにゃんが気にすることじゃーない。どうせあたし達だけでリカバリーできるかどうか、難しい問題だったよ」
凛の言葉は、あずきをフォローする目的が半分だが、もう半分は動かしがたい事実だ。
「烏丸くん、ウツロギくんを目の敵にしてた感じだったわね……」
壁野のつぶやき。恭介は頷く。
「俺、あいつを怒らせるようなこと、何かしたっけ……」
「何かしなくても、存在が気に入らないってことは、あるんじゃないかしらね」
雪ノ下はそう言って、プレートの上をきれいに平らげた。
「たぶん、烏丸はお前のことが羨ましかったんだよ」
白馬も、カラの食器を片付けながら補足する。
「どっちが悪いかといえば、烏丸が悪いし、別にウツロギが引け目に感じることなんて何もないけどな」
「俺って羨ましがられる立場なの?」
「そりゃあ、人次第だ。俺はまったく羨ましくないね」
はっきりそう断じられるのも、それはそれで複雑なものがあるのだが。
ともあれ、恭介は頭を抱える。また一つ問題が増えてしまった。胃に穴が空きそうだが、思い返すまでもなく恭介に胃袋はない。ただ、感覚としての腹痛に問題が山積みになっていくだけだ。ひどい話である。
冒険者との交渉に、烏丸の捜索、この大陸にいるという血族の対処。さらわれたかもしれない蜘蛛崎や触手原のこともある。
「まぁ、まずは明日の交渉に全力を注ごう……。烏丸探すのも手伝ってくれるかもしんないし……」
「問題は、烏丸くんがどこに行くかだよ。血族に捕まってなきゃ良いんだけど」
そう。その問題もある。烏丸の飛行速度であれば、単独で逃げおおせるくらい不可能でもなさそうだが、彼は東の砂漠の方へと飛んでいってしまった。あっちはランドマークとなるようなものもないので、捜索はかなり手間になる。
「東と言えば、ちらほら灯りみたいなのが見えるんだけど、アレなんだろうな」
白馬が呟いたのを聞き、恭介も視線を向ける。
「んん? ……あれ、本当だ。なんだあれ」
丘陵から砂漠の方へ目を向けると、確かに地平線のあたりを、ふわふわと灯りが浮かび上がっているのが目撃できる。
「はっ、もしかして瑛か?」
「バカじゃないの。数が多いわよ」
恭介の言葉は、雪ノ下に切り捨てられた。
でも、火野瑛を思わせるぼんやりとした灯りだ。数は、多いが。この新大陸に住まう、ウィスプ系モンスターによるものなのか。あるいは、砂漠を移動する文明人の灯火なのか。冒険者の話では、この新大陸に人は住んでいないということだが、実はその認識が間違っている可能性もある。
血族、という可能性もある。それに、デーモン種という可能性も。
「狐火じゃないかなぁ」
あとで、ウェイガンに直接聞いてみようか、と思っていると、あずきがそんなことを言った。
「狐火?」
「犬神さんが、夕方くらいに砂漠の方に狩りに行って、狐くわえて帰ってきたから」
「砂漠に狐が住んでるかなぁ……」
だいたい、狐がいたとして、狐火が起きるものだろうか、と恭介は思ったが、すぐに考えを改めた。
この世界はファンタジーなのだ。ないことでは、ない気がする。
烏丸の飛んでいった方角で不気味に明滅する狐火は、その後ウェイガンに直接聞いたところでも、正体をはっきりさせることはできなかった。




