第71話 氷の素顔、火の仮面、二律背反
遅れてゴメンネ!
2年4組の生徒が2名、捕獲された。
その情報は、すぐに王の居城へと届けられ、同時に小金井にも伝わることとなった。小金井は慌ててポーンに手当たり次第尋ねるが、当然のように、彼らは詳しいことを知らない。小金井は最終的に、アケノの部屋を訪れた。
基本、ビショップの役職を持つアケノは、ナイトの役職を持つ血族とツーマンセルで行動する。だが、スオウが命を落として以来、ナイトの補充はなされておらず、彼女はほとんど出撃することなく、自室で研究に没頭していた。
乱暴に扉を開けると、アケノはちらりとこちらを見て、再び机上に並んだ怪しげなフラスコへと視線を移す。
「アケノさん、クラスメイトの誰かが捕まったって……」
「事実だ。新大陸で2体。アラクネとローパー。既にこちらに輸送中だと聞く」
アケノは平坦な声で呟いた。
蜘蛛崎と触手原だ。小金井は息を呑んだ。ついに、自分以外のクラスメイトも血族に捕まってしまったことになる。クラスがバラバラになった時点で、このような被害が出ることは考慮しなければならなかった。
小金井は、正直なところ、彼らと顔を合わせることを恐れている。既にクラスを離れて2ヶ月近くが経過しており、状況はかなり変化した。あのクラスにはもはや、自分の居場所はないのではないかとすら、思う。戻ることに躊躇いを感じ始めているのは事実だ。
だが、蜘蛛崎や触手原は、別だ。いっそ、彼らを連れてこの城を脱走するべきか?
フェイズ2に覚醒した小金井は、ポーン程度なら既に余裕をもって相手できる程度に成長していた。現在、城の戦力は手薄だ。蜘蛛崎たちが到着し次第、小金井が先導して脱出することは、不可能ではない、かもしれない。
だが、と小金井は考えた。血族に捕らえられるのが、彼らだけで終わりとは限らない。現在、クラスメイトはバラけている。ルークの片方が引き連れた部隊は、ピリカ南王国に向かっているという話だった。おそらく、また誰かが捕まってしまう。
小金井が考えていると、目の前でアケノが白衣を脱ぎ、何かの支度を始めているところだった。
「アケノさん、どこへ……?」
「ゼルガ剣闘公国だ」
それが、おそらく他のクラスメイトの居場所を突き止めたが故の行動であることは、小金井にも理解できた。
「理性がまともに機能している内は、殺さないように努力する」
「ッ……!」
その言葉は、認識したくない事実を、いやでも小金井に突きつける。
鷲尾は死んだ。そして、もしかしたら、また誰かが死ぬかもしれない。
この時点で、自分のするべきことはなんだろう。今、アケノについていって、他のクラスメイトを守るために彼女と戦ってもいい。だがその場合、この城に送られてくる蜘蛛崎と触手原はどのような目に遭うだろうか。
そもそも蜘蛛崎や触手原は、自分を信じてくれるだろうか。
小金井は、彼らにした仕打ちを忘れていない。それを考えれば、もう取り戻せるものなどないように思える。
この血族の居城に居場所はない。
かといって、クラスに戻って居場所があるとも限らない。
今更大手を振って、のうのうと帰れる場所でないことは、ずっと前からわかっていた。
「……だったら、やることは決まっているじゃないか」
小金井は、うっすらと酷薄な笑みを浮かべた。結局、今の今まで踏ん切りがつかなかっただけかもしれない。だが、ここで小金井がやれることなど、最初から決まっているようなものだった。
クラスメイト2名の捕獲という新たな事実が、小金井芳樹のある決断を決定づけた。
朝になった。昨晩残しておいたアサリの串焼きやら、木の実やら何やらを腹に詰めて、恭介たちは探索の準備に取り掛かる。考えていた通り、恭介は雪ノ下とともに海岸沿いの探索を行うこととなった。
出発前に凛がせがんできたので、ちょっとだけじゃれた。別に心配することはないのに、とか、雪ノ下相手にそういう感情を抱くつもりはない、とか、そういう話をしようかとも思ったのだが、自分の勘違いだと恥ずかしいのでやめた。
「あたし、班長と2人っきり? なになに!? 班長なにを企んでるの!?」
探索を開始すると、雪ノ下はめちゃくちゃ大きな声で騒ぎ立てる。
「班長には姫水さんがいるでしょ!? それとも狙いを切り替えちゃった!?」
「別に、そういうんじゃないから!」
しょっぱなからこう、ぐいぐい来られると、どうもやりにくい。恭介は頭を掻きながら、海岸沿いを先行した。
恭介は、冒険者たちから奪った魔剣を携えている。左腕にぶら下げたデーモンの骨がどのような作用をもたらすかは不明だが、戦力は以前より向上しているはずだった。とは言え、レッサーデーモンなどに出てこられてはたまらないので、なるべく慎重に進む。
「でも2人になったのにはちゃんと理由がある。班長として、1人1人きちんと面談しようと思ってだな」
「ほうほう!」
「俺、クラスメイトのこと、よく知らないからさ」
「なるほどね! 知ろうとするのは良いことだわ!」
腕を組み、雪ノ下はうんうんと頷く。
やはり、やりにくい。このテンションがどこまで本物でどこまで偽物なのか。いきなり核心をついて、『おまえ、キャラ作ってるだろ』なんて言ったら、一気に警戒されてゲームオーバーではないだろうか。いや、別に恋愛シミュレーションをやっているわけではなく。
「さあ、なんでも聞いてちょうだい!」
雪ノ下は、ばん、と胸を叩き、言った。
夏の渚に雪女。なんとも風流な光景である。ただ、今はその風流に浸っている場合ではない。恭介は魔剣を砂浜に突き刺して考える。恭介が考え始めたのを見て、雪ノ下は波打ち際の方へ歩いていく。打ち寄せる波を蹴り飛ばすと、氷の礫となって宙へ散った。
さて、どう言ったものだろうか。恭介は自分の例というものを、よく知っている。だが、こういう歪な精神性を持った相手を、どうやって突き崩すのが正しいのか、自分の例をもってしてもよく分からない。
雪ノ下はばしゃばしゃと海水を蹴り飛ばし、それらを氷に変えている。
恭介は悩んだ末、結局正面から攻めることに決めた。
「雪ノ下、誰だって、そのモンスターに転生したことには理由があるんだ」
ばしゃ。雪ノ下の足が止まる。
「らしいね。コンプレックスが具現化した姿だっけ?」
「コンプレックスに限ったことじゃないけどな。俺がスケルトンなのは中身がないからで、凛がスライムなのは柔軟だからだ。竜崎や小金井なんかは、プライドの高さが反映されたものだと思うし、瑛はああ見えて、性根が熱血漢だよ」
クラスの全員を把握しているわけではないが、思い当たる節は他に幾らでもある。
御手洗あずきなんかは結構わかりやすい。暮森も、趣味が思い切り今の姿に反映されたものだろう。ゴウバヤシは、自分の中にある暴力的な存在や衝動を意識しすぎるがあまり、あのような姿になった。佐久間は、まぁ。佐久間はまぁうん。
「雪ノ下はどうして雪女になったんだ?」
「………」
その瞬間、雪ノ下が肩越しに視線を送る。氷を固めたような青い瞳は、ゾッとするほどに冷たい色を孕んでいた。空気は冷気を纏い、質量を増す。彼女の足元に押し寄せる波が、その形状のまま一瞬で凍りついた。
「あたし、悲観主義者なのよね」
案外あっさりと、雪ノ下はその事実を認めた。
「そういうことなんじゃないかなって、思うわ」
「雪ノ下……」
「本当はわかってるのよ。いや、わかりたいのよ。夢とか理想とか、素敵じゃない。熱くなりたいし、なれたら良いなって思うんだけど、どうしてもなれないの」
雪ノ下は身体ごと振り向き、口元に諦観じみた笑みを浮かべた。凍りついた波の上に、そっと腰を下ろす。
「ウツロギくんは、あたし達、元の世界に帰れると思う? この海を遭難せずに渡れると思う? みんなが無事に、ひとつの場所に集まれるだなんて、そんな奇跡、あると思う?」
「あ……」
「無いわよ」
恭介が何かを言う前に、雪ノ下はぴしゃりと言った。
「夢も理想も、それだけじゃ現実を覆せないじゃない。あたしは、ずっと無理だと思っているわ。ウツロギくんだって、心の底ではそうなんじゃない?」
図星を指された気がする。恭介は言い返せなかった。
帰れたら良いな、とは思うが、それは確信には繋がらない。可能性は限りなく細いのだ。みんながひとつになって帰れる手段を、模索すればするほど、現実の壁が立ちはだかっていく。
いま、目の前にいる全員をなんとか守り切れたとしても、すでにはぐれた仲間がどうなるかはわからない。夢と理想で対処できる範囲には、限界があるのだ。
「多分、そうだな」
恭介は頷いた。
「俺だけじゃないよ。竜崎とかだってそう思ってたと思う。みんな不安がってるよ。それで、その不安を表に出すのは、多分悪いことじゃない。本当にそう思っているならさ」
「……どういう意味?」
「え、いや、別に他意はないんだけど」
恭介の言葉に、雪ノ下は目つきを鋭くする。
雪ノ下が悲観主義者であるならば、無理に熱血の仮面を被る必要などないということだ。いつか反動が来るような気がする。努力とか根性とか、確かに大事なことではあるが、心の底から信じきれていないものを、口にする必要はないのだ。
と、恭介は説明した。
「………」
雪ノ下は腕を組んだまま、凍った波から立ち上がる。
「ねぇ。ウツロギくんも、帰れるとは思ってないんでしょ。なんで平気でいられるの? ウツロギくんは嘘ついてるんじゃないの? あたしと同じで、演技してるんじゃないの? なんであたしには止めろって言えるのよ」
「俺は別に帰れると思っていないわけじゃないんだけど」
「思ってたじゃない。そうだって、認めたじゃない」
彼女は明らかに苛立ちを浮かべていた。熱血の仮面の裏側、氷に閉ざされた冷たい素顔の中に、もうひとつ、別の感情がある。いつもクラスでにこやかな笑みを浮かべ、拳を握り、精神論を説く彼女からは想像もできない姿を、雪ノ下はしていた。
なんて説明したものかな。恭介は頭を掻く。これは結構、難しい。
「確かに、不安はあるよ。可能性はすごく低いし、ただ、ええっと……」
「ごめん」
前髪を掻き毟るような仕草をしながら、雪ノ下は冷たい声で言った。
「あたし、イラついてるわ。まず、結論だけ言って」
「諦めたくないんだ」
結局のところ、恭介の行動はすべて、そこに収斂される。
そうするしかないから、そうするしかないなんて、ネガティブな言葉だ。でも恭介は諦めたくないから、あずきを助けたし、烏丸や雪ノ下達を助けた。きっと竜崎たちだって同じだ。彼は理想主義者だが、決して楽天家ではなかった。悲劇的な未来や悲観的な推測があった上で、理想を追求する。
「手を伸ばして、それが誰かに届くなんて限らないけど、」
恭介は、悪魔の左腕骨を眺めながら呟く。
「でも、手を伸ばせる内は、手を伸ばしたい」
「そうして伸ばしたウツロギくんの腕は、吹き飛ばされたのよ。バカみたいだわ」
「だから、雪ノ下がそう思ってるなら、それで良いよ」
とうとう肩をすくめてしまった。
「俺もバカみたいだとは思うけど、もう無理をしているつもりはないよ。諦めたり、手を伸ばさなかったりする方が、俺にとってはよっぽど『無理』だ」
「納得できない……!」
雪ノ下は歯ぎしりをするように叫ぶ。
「結局、ウツロギくんの言ってることは理想論と精神論だわ! あたしが上っ面で言っていることと変わらないでしょ! 愛と勇気があれば世界を救えるとか、本気で考えているわけじゃないでしょう!」
「でも、愛と勇気で世界を救えたら良いよな」
「そんなの綺麗事だわ! 世界はもっと残酷じゃない!」
「でも、世の中の人は、だいたい理想や綺麗事を叶えるために頑張ってるよ」
俺は別に説教がしたいわけじゃないんだが、と恭介は言う。
「雪ノ下は、俺に諦めさせたいのか? それとも自分が納得したいのか? どっちなんだ。俺は自分の言ってることが綺麗事なのも、世界が残酷なのも知ってるよ。でなきゃ、鷲尾は死ななかった」
「あたしはっ……!」
雪ノ下涼香は、最終的に拳をぐっと握って顔を伏せた。
「理解できないのよ。ウツロギくんや、竜崎くんや、姫水さんみたいな人が……。そういう風に生きられたら良いなって思うんだけど、生きられない」
「じゃあ、納得したいのは雪ノ下の方だな」
その時、恭介は、雪ノ下が抱える二律背反的な葛藤に気づいた。
雪ノ下涼香は、決して熱血の仮面を被っているだけの悲観主義者ではない。最初に口にした通り、夢だの理想だのを信じようとする気持ちはあるのだ。そうなりたいと思って、それらしき言動を重ねているが、冷静な本性が冷たく囁くから、どうしても言葉が軽くなる。
雪ノ下にとって、今まで演じてきた方が、やはり彼女にとっての理想の姿なのかもしれない。だが、雪ノ下にとって、愛と勇気は幻想で、夢も理想もいつかは朽ちる。
「雪ノ下、俺と賭けをしないか」
ならば、と思い恭介は切り出した。
「賭け?」
「そう。もし、この大陸から全員でヴェルネウスまで行くことができたら、俺や竜崎のやってることを信じてみる……っていうのはどうだ」
「………」
彼女は、氷のように透き通った瞳で、じっと恭介を見つめ返した。なにか不思議なものを、初めて聞いたような顔つきになり、首をかしげる。だが、冷徹な本性をさらけ出したばかりの雪女は、『ふっ』と小さく笑みを浮かべると、こう言った。
「やだ」
「えぇ……」
結局、そこから先は平行線だった。雪ノ下は意見を変えることはなかったし、そうともなれば、恭介はそれ以上踏み込めない。結局、自分の言葉の軽さを再確認する結果となったわけである。相変わらず中身が伴っていないということなのか、それとも単に雪ノ下が頑ななのか。
どのみち、彼女の内面まで踏み込んで、その問題を解決しようという目論見は失敗に終わった。根が、思っていた以上に深かったというのもある。ただ、自分を誤魔化して熱い性格の振りをしていただけではなく、問題はさらに掘り進んだところにあったわけだ。
それからしばらく、砂浜沿いの探索を続けたが、雪ノ下涼香は黙り込んだまま、恭介の後ろをじっと付いてくるだけだった。こちらが彼女の本性なのだとわかっていても、少しやりづらい。
「帰ったら気まずいわね」
いつの間にか曇り空になりつつある空を見上げて、雪ノ下が呟いた。
「あたし、どっちのキャラで行けばいいと思う?」
「無理に仮面をかぶっとく必要がない、っていうのは言ったとおりだよ」
「じゃあこっちのキャラか……。みんな驚くわね……」
雪ノ下の口元には冷笑が浮かんでいる。恭介はそれが不満だった。
あの熱血雪女が演技だというのはわかっているが、この冷徹な物言いをする彼女が本性であるというのにも、頷きかねる。こっちはこっちで、あらゆる理想と夢を無理やり押しつぶしているような不自然さがあるのだ。
「ウツロギくんは頑張ったわよ。別に言葉が足りなかったなんてことないわ」
恭介の数歩後ろを歩きながら、雪ノ下は笑う。
「でも、頑張ったって人の心が開けるわけじゃないでしょ。まして、対して親しくもないウツロギくんと」
「………」
今度は恭介が黙り込む番だった。彼女の言うとおりではある。見通しが甘かったと言えばそうだ。
だが、それでも恭介は諦めたくないのである。
「あらゆる可能性を考慮して、不可能なものをできるだけ除外していって、それでも除外したくないものがあったら、それは俺が本当にやりたいことなんだと思う」
「本当にやりたいことが、あたしとの賭けを成立させることなの?」
「今はそうだよ」
「姫水さんが怒るわよ」
いや、凛は怒らない。膨らむけど。と恭介は言おうとして、やめた。
雪ノ下を放っておけない理由は2つだ。彼女は自分に似ているが、瑛にも似ている。だから実は、こういう冷徹な態度とともに現実的な言葉で冷水を浴びせられるのには、恭介は慣れている。だが、そんな雪ノ下は、今のところ何にもなりきれていなくて、それが傍目には非常にもどかしい。
気が付けば、砂浜をかなりの距離、歩いていた。足跡がふたつ。雪ノ下の草履と、恭介の足骨。
「結局、何も見つからないわね」
「そうだな。雨も降りそうだ……。ふと思ったんだけど、緑地は近いし、海も近いし、雨が頻繁に降ってそうな環境なのに、どうして砂漠が広がってるんだろうな」
「さあ? ファンタジー的な力が働いてるんじゃない? 魔法でぺんぺん草も生えないとか」
本人の内面や、これからの可能性などについて話題を展開しない限り、雪ノ下の反応は普通だった。熱血モードでないだけ不自然さはあるが。
妙にむずむずする感じが、態度に出ていたのだろうか。
「なに、ウツロギくん。熱血モードで話したほうがいい?」
これ、シミュレーションゲームなら選択肢が出るところだな、と恭介はぼんやり思った。
「今のままでいいけど、熱血モードで話すとどう言うのかちょっと興味はある」
「詳しい理由はわからないけど、毎日地道に植林を続けていったらこの砂漠にも、きっと緑が蘇るわ! 人はいつか、砂漠に雪を降らせることだってできるのよ!」
「元に戻してくれ」
笑いをこらえるのには、少し苦労した。
やはり、熱血の仮面を剥げば、多少ペシミストなところがあるものの普通の少女だ。あまり一元的な視点で彼女を見ないほうが良いのだろうか。さすがに考えすぎて、わけがわからなくなってきているな。
「あ、ウツロギくん」
急に、彼女の声のトーンが変化した。恭介は顔をあげる。そしてすぐに、目を見張った。
「……あれは!」
砂浜に、一頭の馬が倒れ込んでいるのが見えた。全身は白く、流麗なたてがみが潮水に濡れている。額からは、一本の角が生えていた。一角獣、ユニコーンだ。
恭介たちにとって、ユニコーンといえば白馬一角である。すぐにそうと断ずることはできないので、名前こそ呼ばなかったが、恭介は砂浜を走ってそのユニコーンに駆け寄った。少し揺すってみるが、気を失っているようで反応がない。
「白馬くんなの?」
「……ああ、多分そうだ」
恭介は、そのユニコーンの身体を見聞して頷いた。
「セレナさんにつけてもらった、騎士王国の馬鞍がついてる……。のと、あと、これ」
白馬の喉元あたりにあった黒い板を拾い、砂を払った。
「鷲尾くんの位牌……」
「白馬もこの新大陸に来てたんだ。となると、こいつの他には……」
「触手原くんは? 仲、良かったわよね」
触手原か。恭介はあたりを見回してみるが、それらしき影はない。砂浜に倒れ込んでいるのは、白馬だけだ。
「大丈夫? サラブレッドは皮膚が弱いから、地面に接してると雑菌が繁殖して腐るって言うわよ」
「ユニコーンはサラブレッドじゃない。一応野生の馬だから、そのあたりは丈夫だと思うけど……」
恭介は、ひとまず白馬の身体を持ち上げようと力を込めてみるが、骨だけの貧弱な肉体ではそれもままならない。
ちらり、と雪ノ下を見ると、彼女は腕を組んだまま眺めているだけだ。
「力、貸せよ」
「良いけど、どうせ無駄よ」
「やってみなきゃわかんないだろ!」
雪ノ下は小さくため息をついて、恭介の隣に立つ。彼女も両腕を白馬の首元に入れ、恭介と同じタイミングで引っ張りあげようとするが、やはりうんともすんとも言わなかった。
力を入れていないわけではない。むしろ、その瞬間だけは、雪ノ下も全力で引っ張ってくれた。
「ね、言ったでしょ。無駄だって。姫水さん達呼んでくればいいじゃない」
「くっそ」
言われてみれば正論だ。だが、恭介はそんな雪ノ下の態度が腹立たしくてしょうがない。
怒る、というのは思い返してみれば珍しい感情だ。クラスメイトに向けるのは、3ヶ月前小金井を殴ったときに次いで2回目である。
しかし、白馬がここで倒れていた理由が気にかかる。他のクラスメイトが見当たらない理由も。
ひょっとして彼は、何かの戦いに巻き込まれたのではないだろうか。それで他の仲間たちとはぐれてしまったのだとすれば、あまり思わしい事態ではない。白馬に追っ手がついている可能性もある。
「他のみんなは死んでいるかもしれないわよ」
雪ノ下は酷薄な呟きを残した。
「……冗談でもそんなこと言うな」
「冗談じゃないわ」
「だったら、尚更だよ……!」
恭介は、立ち上がって周囲を見回した。はぐれた仲間がいるにしても、追っ手がいるにしても、ここで白馬だけを見ているわけにはいかない。雪ノ下も立ち上がって、真横に立つ。
「あたしは可能性の話をしただけよ。それに、このままだと、あたし達だって死ぬわ」
そう言って、彼女は砂漠の方を指差す。向こうからゆっくりと、小悪魔や屍鬼の集団が近づいてきているところだった。
屍鬼は血族が作り出したアンデッドだ。小悪魔もよく戦力として用いられている。となると、やはりこの新大陸にも連中はいるのだ。そして奴らは、おそらく白馬を狙っているのだろう。迷わずにこちらを目指している。
「わかったでしょ、ウツロギくん。他のみんなは、連中の手にかかっているわ。何人死んだか、何人連れていかれたか、わかったもんじゃない」
「そんなことを考えている場合じゃないだろ。あいつらを倒す」
「数が多すぎる。私は逃げるわよ」
雪ノ下はあっさりと、そう言った。恭介が彼女の方を見ると、どこか諦観じみたうすら笑いを浮かべていた。
「この世界に、奇跡なんてないのよ。ウツロギくん。あなたが最初に言ったとおり、あたしもう、疲れちゃったわ」
叶いもしない、夢や理想を謳うことに。
ありもしない、愛や勇気を謳うことに。
冷徹で酷薄な本性が、雪ノ下の全身を蝕んでいた。信じたかったものが、現実に覆されていくうちに、彼女は抗う力をなくしていたのだ。
「俺は、」
恭介は、魔剣を構え直した。
ここで逃げたら、白馬は連中の手に落ちる。
「俺は、逃げないからな」
「そう。勝手にしなさい」
「こっちの台詞だ」
雪ノ下涼香は、ざっと砂浜を蹴って、恭介に背中を向けた。
「間に合ったら、姫水さん達を呼んでくる。でも、期待しないで」
それは、悲観主義者の彼女が見せた、精一杯の譲歩だったのかもしれない。
恭介は、目の前に群がる小悪魔や屍鬼の大群を眺め、魔剣を構え直した。凛と合体していれば、ものの数ではない相手だ。だが、いま恭介は一人だった。魔剣はあるが、これらの数を相手に、どこまで持ちこたえられるかは定かではない。
大した敵ではないはずなのに、状況は絶望的だった。
愛と勇気はただの幻想。
夢と理想はいつかは朽ちる。
奇跡は、起こらない。
果たして本当にそうなのだろうか。恭介は、そうは思いたくはない。例え現実が冷たく、酷薄なものであったとしても、恭介は抗うし、立ち向かう。それが無駄なことだとは、思いたくない。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
空木恭介は吠えた。ただ、自らを奮い立たせるために。
たったひとり、絶望と相対するために。
次回は25日朝更新予定です。
間に合うかは微妙です。




