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原尾真樹は、なにゆえ深い教養を身に付けるに至ったか

きちんと集計したわけではありませんが、所感で一番要望の多かった原尾の番外編です。

あまり盛り上がりとかはないです。

 寝る子は育つ。真偽はさておき、よく言われる話ではある。


 原尾市議会議員の息子、真樹は、未熟児であった。原因は母親の早産。出生時の体重は2300g程度しかなかった。親戚一同、街の名士たる原尾家の嫡男である。その出生においては多くの関係者を不安の坩堝に叩き込んだが、真樹はその後、とくに体調を崩したり障害を遺したりすることもなく、すくすくと成長した。

 親戚のコネで入れた市立総合病院の設備が良かったとか、担当した医師の腕であるとか、まぁ、要因は様々である。が、結局のところ、なぜ真樹が健やかに育ったのかといえば、その理由は次の一点に収斂されるだろう。


 原尾真樹は、よく寝たのである。





「えー、じゃあ、次の問題を……原尾」


 神代高校の数学教諭、常盤蓮十郎は、生徒から蛇蝎のごとく嫌われている教師の代表格と言えるだろう。眼鏡をかけた陰鬱な中年の男であり、とにかく神経質だ。おまけに授業は厳しく、テストの際にも温情はほとんどかけられない。

 そのような常盤の授業であるから、個性派ぞろいの2年4組であったとしても、授業態度は真剣そのものだ。普段は教師をナメてかかる春井や蛇塚のような女子も、この時ばかりは真面目な顔でノートと向き合う。

 クラスの元気印である姫水凛も、常盤のことは苦手らしい。決して頭の悪くない彼女だが、1年生の時に彼の小テストで酷い点数を取ってしまい、その後の補習で泣かされたのだ。今ではけろりとしている凛は、実際のところ、常盤が近くを通るたびに、肩をびくりと震わせたりしていた。


 が、そんな常盤の授業において、唯一、堂々と昼寝をする生徒がいる。


「原尾……。おい、原尾、欠席か?」


 常盤は教卓の上の教科書から顔をあげ、視線をぐるりと教室に向ける。


 そこで常盤は信じられないものを発見し、ぴくりと、眉根に皺を寄せた。

 教室の窓側、一番後ろの席である。今しがた彼が指名したばかりの生徒、原尾真樹は、腹の上で手を組み、身体を思いっきり背中に預け、窓から差し込む穏やかな春の陽気に、気持ちよさそうな寝息を立てていたのである。顔には数学の教科書が開いたままかぶさっていた。

 真樹の横に座る鷲尾吼太が、鉛筆でちょいちょいと彼の腕を突っつくが、起きる気配はない。


 常盤蓮十郎の額に青筋が浮かぶ。クラスの中には緊張が走った。


「ほう、原尾……。私の授業中に寝るとは、良い度胸だな……」

「やべ……」


 ぴくぴくと口元を吊り上げて、常盤の口から紡がれる声は仄暗い。鷲尾は、いささか焦った様子で、真樹の腕を強くつついた。


「む……」


 やがて、真樹の顔から教科書がずり落ちた。


 出生時、未熟児だったとは思えないほど健康的に日焼けした肌。やや彫りの深いエスニックな美形少年である。真樹はそこでパチリと目を開き、欠伸も伸びもすることなく、身体を起こした。

 原尾真樹は、きょろきょろと周囲を見渡し、深みのある落ち着いた声で、横に座る鷲尾に尋ねた。


「アー……。鷲尾、我の眠りを妨げしは汝か?」

「ばっ……。ちげぇよ、原尾。空気読めよ! 授業中だぞ!」


 小声で怒鳴る鷲尾は、その後ちらりと教壇の方に視線をやって、更に声を潜める。


「しかも、常盤の!」

「ふむ。鷲尾、呼び捨ては感心せぬ。常盤“先生”だ。払うべき敬意もあろう」


 授業中に堂々と居眠りしていたとは思えないほどに、真樹の言葉は殊勝である。


「原尾……。よく眠れたか?」


 ぴくぴくとこめかみを震わせながら、常盤が尋ねた。


「あいにく寝足りぬ」


 真樹はきっぱりとそう言った。


「常盤先生、用がないなら、我は再び眠りに就くが」

「ふざけるな! 貴様は学校をなんだと思っている!」

「無論、学び舎だ」


 真樹の顔は大真面目である。教室から、くすくすと笑い声があがった。


 ここで断っておくが、原尾真樹は真剣だ。彼に、常盤蓮十郎教諭をからかって遊ぼうなどという意図は一切存在しない。態度はどうあれ、真樹にとってすべての教師は一定の敬意をもって接するべき相手であり、学校は新たな知識を得るための学び舎だ。

 だが、彼にとって睡眠とは、そうしたものと同次元に存在する、重要な行為なのである。更に言えば、彼はこの時点では眠って何の問題もないと認識しているからこそ、堂々と居眠りをしている。起きてしっかり聞くべき授業であれば、彼はそうするのだ。


 ただ、それをここで口にしたところで、火に油を注ぐだけなのだろう。真樹のことをそれなりに理解しているであろう鷲尾は、そう思ってか何も言おうとはしなかった。


「常盤先生、我に何か用であろうか?」

「よ、用なら……用ならある!」

「ふむ」


 常盤は、ズレかけた眼鏡を直し、チョークをもって黒板を叩いた。


「この問題だ! この問題を解いてみろ! 出来なかった場合……」

「よかろう」


 みなまで言わせず、真樹はすっくと席を立った。胸をそらし、腰の後ろに手をやって、堂々と歩く。クラスメイト一同は、あるいは彼を心配そうに、あるいは彼に期待に眼差しを向け、それを見送った。1年の頃、原尾の評判を聞いていたか否かの違いだ。

 黒板に書かれているのは、不等式の証明に関する問題であった。高校生の数学ともなれば、少し理解が追いつかないと、一瞬で彼方まで置き去りにされてしまう。実のところ、クラスの中でも既に何人か、ついていけなくなっている生徒がいた。


 その中で真樹は、物おじせず教壇にのぼり、チョークを手に取るとカツカツと数式と証明文を書き始める。


 それまでプルプルと怒りに震えながらそれを眺めていた常盤だが、やがて顎が外れる勢いで、あんぐりと口を空けた。


「以上、証明終了」


 まるで、常盤の頭の中を覗き込んだかのような、一語一句たがわぬ正答。

 真樹は、その解答の正否を尋ねることすらせず、ツカツカと元の席へ戻って行った。椅子を引き、席に就くと、彼は再び手を組んで顔に教科書を載せた。


「なんびとも、原尾の眠りを妨げることなかれ……」


 3秒後、彼の席からは規則正しい寝息が聞こえてくる。

 常盤が何も言えずにいる間、気まずい沈黙がクラスの中に落ちる。


 幸いにも、というべきなのか、授業終了を告げるチャイムが校舎に響き渡ったのは、それからしばらくもしない内のことであった。





「まったく、どういう教育をされてるんですかッ! 勝臥先生ッ!」

「んあ?」


 職員室で常盤が怒鳴りつけたのは、2年4組の担任教諭である勝臥出彦である。

 小テストの採点をしていた勝臥は、常盤の声に間抜けな声を出して顔をあげた。常盤は、口角泡を飛ばしながら一気に彼に詰め寄る。


「原尾ですよ! 原尾真樹! あの態度、教師をなめ腐っているとしか思えません! なんなんですかあいつは!」

「顔が近いですよ。常盤先生」


 勝臥はポケットからハンカチを取り出して顔を拭った。


「原尾ですか。また授業中に居眠りでもしました?」

「居眠りなんてもんじゃない! あれは本寝ですよ、本寝! よりによって、この! 私の授業中に!」

「原尾の考え方は、普通の生徒とはちょっと違うところがありますからね。尊重してやるべきなのかどうなのか、私にもまだちょっとわからんのですなぁ……」


 ひょろりと高い身長の勝臥教諭は、額を掻きながらそんなことを言った。


「無責任な! それでも担任ですか!?」

「まだ担任になってから1ヶ月ちょっとしか経ってませんよ。ともあれ、原尾がご迷惑をおかけしたことに関しては、謝罪いたします。申し訳ない」


 と、丁寧に頭を下げられれば、常盤も大人である。これ以上突っかかるわけにもいかない。


「失礼しまーす! 勝臥先生いらっしゃいますかー!」


 そんな時、職員室の扉ががらりと開く。2人がちらりと視線を向けると、健康的な脚をスカートからすらりと伸ばした女子生徒が、何やら包みを持って立っていた。


「ああ、杉浦、こっちだこっち」

「あ、先生ー。お待たせー。今日のおべんとう」


 そう言って、女子生徒・杉浦彩は、包みをポンと机の上に置いた。

 もちろん、これを黙って見ていられないのは、常盤蓮十郎だ。


「勝臥先生、これはどういうことですか!?」

「どうって?」

「あなた、生徒に弁当を作らせてるんですか!?」

「そんなわけないでしょう、常盤先生」


 なかば呆れた声で、勝臥は包みを開く。


「杉浦の家は定食屋をやってましてね。まぁこれはきちんとお金を払って買ってる弁当ですよ。作ってるのは杉浦の御両親です。私の実家が乾物屋なもんでよく納品にいくんですが、そのよしみでだいぶ安くしてもらってはいますが」


 常盤の剣幕に思わずビビらされた様子の杉浦も、勝臥の言葉にウンウンと頷いていた。

 ぱくぱくと口を動かすが、どのみち論理的な指摘はできそうにない。最終的に彼は、がっくりと肩を落とした。生徒が生徒なら担任も担任だ、という言葉はのみ込んだものの、行き場の失った感情がふつふつと心の底で煮えたぎっている。


「原尾は特殊な生徒ですから。私も後で聞いてみますよ。去年の担任に」


 そんな常盤の心中を知ってか知らずか、勝臥はそう言った。


「去年の原尾の担任……。誰でしたっけ」

「楠木先生ですよ。楠木スフィ先生」


 ああ、と常盤は頷く。確かにあのエキセントリックな性格の原尾真樹を抱えて問題を起こさない教師と言えば、彼女くらいになるだろうか。

 だがしかし、彼女は……。


「まぁ、楠木先生は寿退職されてるので、連絡を取りづらいんですが」


 弁当箱を開きながら呟く勝臥の声は、のんびりとしたものであった。





「ったく、ハラハラしたぜ」


 昼休みのことである。相変わらず眠たげな原尾真樹に、鷲尾はそう言った。


「授業聞かねぇで、よくあんな問題解けるよな」

「教養の差だ」


 真樹はあっさりと答え、弁当箱を取り出した。


 真樹の周りには、鷲尾、白馬、触手原といったいつもの面子が集う。彼らは昼食の支度をはじめるでもなく、真樹を囲んで談笑していた。

 鷲尾との付き合いは、1年の後半くらいからだったろうか。基本、その性格からクラス内で孤立しやすかった真樹を、初めて遊びに誘ってくれたクラスメイトが鷲尾であった。そのような出来事があって以来、真樹は鷲尾にちょっとした友情を感じている。


「おい白馬、知ってるか? 原尾って高校生クイズ大会で準優勝したことあるんだぜ」

「クイズ大会?」

「原尾クイズ部なんだよ」


 へぇー、と、白馬や触手原が意外そうな目で真樹を見る。


 事実だ。真樹はクイズ部に所属している。教養を積んだ理由の半分近くは、その部活動に理由がある。準優勝したのも嘘ではない。ただ、どうしても睡魔には勝てなかったので決勝戦中に寝てしまい、結果として優勝は逃した。

 原尾真樹の人生からして、高校1年というのは様々な転機がある時期であった。先述した鷲尾との付き合いはもちろん、クイズ部への入部も、当時の担任教師がキッカケだ。


「確か原尾、スフィーちゃんに誘われたんだよ。なぁ?」

「楠木先生、だ。敬意を示せ」


 真樹は、彼にしては珍しく剣呑なまなざしになって、鷲尾を嗜める。


「楠木先生って、確か、3月に結婚退職した?」

「そう。1年の時の、俺と原尾の担任。メガネの似合う先生だったよな」


 真樹は無言のまま食事を続け、頷く。


 楠木スフィ。8月16日生まれ。獅子座のA型。原尾真樹が、“教養”において唯一敗北を喫した女性だ。1/4はエジプト人の血が入っているらしく、奇妙なファーストネームもそれに由来する。『質問には回答を』が口癖の、非常に厳格な教師だった。

 教師を敬えというのは、彼女の教えだ。同時に、一日に12時間以上寝ないと眠気の取れない原尾のライフスタイルを認めてくれた、家族以外では唯一の大人でもあった。原尾が教師を尊敬しながら、授業中に堂々とイビキを掻くのは、だいたい彼女の影響によるところが大きい。


 できることなら、彼女のもとでもう少し学びたかった、と、真樹は思う。真樹はまだ、彼女に敗北の屈辱を返上していないのだ。


「時に鷲尾、汝ら昼食は? 食事は三度摂れ。楠木先生も言っていた」

「あ、ああ。いや、俺たちはさ……」


 鷲尾が少し視線をずらし、気まずそうにする。ちょうどその時、


「やっほー! みんなー、お待たせー!」


 クラスの元気印、姫水凛が、小さな身体を跳ねさせて、鷲尾と白馬の間に割り込んできた。


 真樹は特に動じることなく、機械的な動作で弁当箱の中身を口に運んでいる。


「お待たせお待たせ。あたしらの用事済んだよー。約束通りご飯食べよー……あれ?」


 にこにこと語る凛だが、すぐに真樹の食事に気付いて首を傾げた。


「ひょっとして原尾くんと一緒に先に食べてた?」

「食事をしているのは我だけだ」


 箸の動きを一切緩めず、真樹は呟く。


「あ、そう? どうする? あたし達、つるぎんや竜崎くん達と食べるんだけど、一緒に来る?」

「我はこれから眠りに就く」


 そう言って、弁当箱をしまうと、真樹はカバンからアイマスクを取り出した。

 友人が出来たことは、鷲尾にぜひとも感謝をしたいと思っている真樹だが、実のところ多人数相手の人付き合いは億劫だ。その点、鷲尾は実に社交的な性格をしている。彼の性格なら、友人はたくさん作っておいた方が良い。


「あ、は、原尾。悪ぃ」

「何故謝る?」


 少し気後れした様子の鷲尾に、真樹は首を傾げた。


「姫水、鷲尾の食事を見てやれ。こいつは偏った食事をする」

「お、わかったわかった。任しときー」


 凛はにっこりと笑って頷く。


「それも楠木先生の教え?」

「うむ」

「原尾くん、本当に楠木先生のこと好きなんだねぇ」

「尊敬している」


 真樹はそれだけ言って、アイマスクをつけ、天井を仰いだ。


 アイマスクを着けてきっかり3秒。真樹の意識は眠りに落ちる。その間際、鷲尾たちがやや遠慮がちに、机の周りから去って行くのがわかった。





 食事は三度摂れ。バランスの良い物を食べろ。教師は一応敬っておけ。友達は大事にしろ。

 いずれも楠木先生の教えだ。市議である真樹の父親は、あまり家庭を省みることはなかった。出生時に未熟児だったことも関係しているのだろうか。物心ついたときは、親戚一同からは比較的過保護に育てられたような気がする。そんな家庭環境は真樹を少しばかり傲慢な少年に育てた。

 名家の嫡男として、あらゆる教養を身につけてきた真樹である。勉強もできたし、ピアノも弾けた。絵画や書道なども人並み以上。武道にも手を出した。その彼の鼻っ柱をへし折ったのが、楠木先生だったのだ。


『原尾くん、聞きましたよ。なんでも、学年トップの成績で入学したそうですね』


 入学後間もなく、札付きの問題児だった真樹に、そう声をかけてきた。

 先述のとおり、楠木スフィは担任教諭だ。スーツとふちの薄い眼鏡がよく似合う、褐色肌の女教師だった。

 真樹は当時から傲慢な生徒で、他の教師も手を焼いていたのである。そこに、担任である楠木は、このような提案をしてきたのだ。


『原尾くん、私とクイズ勝負をしませんか?』


 クイズ勝負には、答えられなかったら、何でもひとつ言うことを聞くという条件が付随された。正直、そんなことよりさっさと寝たかった真樹であるが、ここで勝負に勝てば二度と安眠を邪魔されないだろうという確信のもとで、勝負を受けることにした。

 真樹は親戚の顔を立てる意味で公立高校に入ったが、実際はもっと上の私立を狙うだけの余裕があったし、そのへんの大人にも負けないレベルの雑学知識を蓄えている自信があった。

 その頭脳は確かに優秀だったが、当時の真樹は、自分が柔軟性というものに著しく欠如していたことを、知るよしもなかったのである。


 で、楠木から出された最初の問題が、これだ。


『最初に4本足、次に2本足、最後に3本足になるものは?』


 冗談のような話だが、真樹はそれに答えることができなかったのである。まるで、スフィンクスの鼻を思わせる、無惨なへし折られっぷりだった。悔しがる真樹に、眼鏡をクイッと上げて言った楠木の言葉を、まだしっかりと覚えている。


『教養の差ですよ、原尾くん』


 約束は約束だ。それを破るほど、真樹も落ちぶれてはいなかった。晴れて、クイズ部への入部を果たしたのである。


 入部後も、楠木と真樹の間に様々なクイズバトルが執り行われた。並列思考クイズ、暗号クイズ、図形クイズ、雑学知識クイズ。真樹の繰り出した問題は悉くクリアされ、楠木の出した問題に、真樹はしばらくの間、まったく正答を導き出すことができなかった。真樹がふてくされて黙り込んだりすると、楠木はメガネをクイッと上げてこう言うのだ。


『原尾くん。質問には回答を』


 3ヶ月もすれば、真樹もそこそこ楠木のクイズに答えられるようになってきた。だが、それまでに積み重ねた敗北の数は多い。その間に、真樹は『食事はちゃんと摂れ』だの『友達は大事にしろ』だのといった“命令”を、聞かせられることになっていた。


 3月末で結婚退職することを教えられたのは、2学期の終わり頃のことだった。真樹はそれを素直に祝福し、同時に、なおさら教養を深めることに身を入れるようになった。タイムリミットまでに、せめて一度は、彼女を負かしたいと思っていたのだ。

 睡眠時間を削ったのは、後にも先にもあの時期だけである。

 それでも結局、真樹は一度も、楠木の答えられないようなクイズを出すことはできなかった。どれだけ教養を深めても、彼女の知識の泉は、真樹のものよりも遥かに深かったのだ。真樹の教養は、学年で比肩しうる者がいないほどに成長したが、それでも楠木先生には遠く及ばない。


 もし、一度でも先生を出し抜くことができて、言うことを聞かせることができたのなら。


 自分は一体、彼女に何をお願いしていたのだろうか。


 今もそのようなことを考えることはあるが、結局、答えが出たことはない。

 質問には回答を。自分の中の問題にすら答えられないのだから、結局のところ、自分はまだまだなのかもしれない。


 今でなくても良い。いつか答えが出たら、また楠木先生とクイズバトルをしたい。


 真樹は、まどろむ意識の中で、そんなことを考えていた。





「クイズだそうです」

「く、クイズ……ですか」


 とりづらい、と言いながら、さっそく楠木元教諭へ連絡を取った勝臥出彦は、開口一番そう言った。


「楠木先生は、どうやらクイズを使って原尾を大人しくさせていたようですよ。解けなかった方が、相手の言うことをなんでも聞く、という方針で」


 さすがに、常盤も呆れてしまう。どんな手段を使っていたかと思えば、そんな方法だったのか。

 如何に条件付きであるとは言え、教師が生徒に対し『言うことをなんでも聞く』とは。さすがに褒められた話ではないのではないか。常盤蓮十郎は、顔をしかめた。


「いやぁ、羨ましい話ですね」

「勝臥先生?」

「すいません」


 が、どうやら今まで、楠木は原尾に対して、一度もクイズで負けたことがなかったという。


「まぁ原尾も随分成長したと思うんですけどね。高校生クイズ大会で準優勝ですから」


 そう言いながら、勝臥は割と熱心にメモを眺めている。

 勝臥は、少々行き過ぎて心配になることがあるものの、生徒への愛情に溢れた素晴らしい教師だ。だからこそ、楠木に真っ先に連絡をとってくれたわけで。その点は、常盤も認めざるを得ない。

 その上で、常磐は考える。クイズ勝負で勝てば、原尾の傍若無人な振る舞いを正せるわけだ。


 常盤蓮十郎は数学教師だ。数字の魅せる難解な世界に没入して十数年。独身のままここまでやってきた。


 こと、クイズというものに関しては、そうそう負けるつもりはない。


「勝臥先生、クイズ部の顧問は、今誰になっていましたっけ?」

「確か顧問はいなかったはずですよ。楠木先生が退職してからは。生徒も、原尾が残ってるだけです」

「ほう……」


 常磐は、神経質そうな眼鏡に、光をキラリと反射させて、こう言った。


「では私が、クイズ部の顧問になりましょう」

「ああ、やっぱりそういう流れなんですね」





 次に真樹が目を覚ました時点で、既に放課後になっていた。


 5限目と6限目の授業を受け持った教師は無気力で彼を起こそうとしたりはせず、また、帰りのホームルームにおいても、担任の勝臥先生が忙しくて顔を出せなかったため、委員長の竜崎が必要事項のみを伝えて終わりになったらしい。

 真樹の机の上には、簡単な連絡事項の書かれた紙が置かれている。ノートの切れ端だ。理路整然とした文字の書き方は、おそらく鷲尾ではないだろう。誰が書いたものなのかは、わからない。ただ読みやすい文字だった。


 真樹は切れ端を手にし、鞄にしまう。

 教室の中に、クラスメイトはそうたくさん残っていなかった。夕日が、窓から差し込んできている。


 放課後になれば、やることはひとつだ。鞄を掴み、真樹は教室を出た。


 鷲尾たちの姿は見かけない。彼はバスケ部だから、忙しいのだろう。自分もクイズ部に残ったただひとりの部員として、きちんと部室を守らなければならない。


 楠木先生が退職し、3年生たちが卒業し、クイズ部の教室はやたらと広くなった。

 誰かに問題を出し、あるいは出され、教養の深さを競い合うことも、なくなってしまった。真樹はそれに対し、とりたてて感傷的になることはない。この、思い出深い場所を、一人で守り続けるのもそう悪いことではない。砂の中に忘れ去られた王墓であっても、そこに眠る王にだって、彼なりの幸せはあるのだ。

 それにいくら願ったとことで、楠木先生はもういないし、復職するにしても真樹が在校中にということは、ほとんどありえない。かつての日々はおそらく戻らないのだ。


 そのまま、空き教室を利用して作られたクイズ部の部室へ向かうと、真樹は、部屋の中に別の人影がいるのに気づいた。


「………?」


 疑問に思ったが、物怖じはしない。真樹はがらりと扉を開けた。


 そこに、神経質そうな眼鏡の中年男性が座っていた時も、真樹はさして驚きはしなかった。


「常磐先生」

「来たか、原尾」

「ここはクイズ部の部室だが、なにゆえ常磐先生が我が部室に?」


 部屋に入り、机に着きながら、真樹は尋ねる。

 常盤蓮十郎は、それには答えず、そっと一枚の紙を差し出してきた。


「原尾、それは私が用意してきた数学クイズだ。解いてみるがいい」

「常磐先生、質問には回答を。なにゆえ先生が我が部室に?」

「……今日から私が、クイズ部の顧問だ」


 常磐が、苦虫を噛み潰したような声で言うものだから、真樹も少し、驚いた。


「先生が?」

「不満があるのか?」

「いや、ない」


 真樹は手渡された紙を見つめ、筆箱から鉛筆を取り出した。なるほど、実に数学教師らしい、理路整然とした、それでいて意地の悪いクイズだ。が、さほど難しくは感じない。楠木先生の作った問題の方が、よほど難しかったように感じる。

 だが、人に出されたクイズを解くのは久しぶりだった。これまでも、なんどか授業で小テストをやったり、前に出て問題を解かされたりしたことはあるが、その時とは少しばかり、感覚が違う。


 なぜか、と考えれば、すぐに思い当たった。


「先生、クイズ部にはひとつ伝統があるのだが」

「なんだ、原尾」

「問題が解けなかった場合、相手の言うことをひとつ聞く、というものだ」


 そう言って、原尾は鞄からひとつの大学ノートを取り出した。


「先生にも、我の考えた問題を解いてもらう」

「な、なに……?」


 常磐がたじろぐ。だが、真樹は取り合わずに、ノートをぐいと突きつけた。


「できないのか? 楠木先生は、喜んで解いてくれたが」

「わ、私を彼女と比べるな。だが、ふん、ま、まぁ良いだろう」

「好きなページをひとつ選んで解くといい。できなければ、他のページでもかまわぬ」


 言いながら、ここまで饒舌になっている自分がいることが、真樹にとっては少し新鮮だった。


 ちらりと顔をあげると、常磐は相変わらず神経質そうな顔でページを開き、それに向かってペンを走らせようとする。だが、それからしばらくして、顔が青くなるのが見て取れた。


「教養の差だな。常磐先生」


 そう言って、真樹は口元に微笑を浮かべ、彼の考えたクイズをスイスイと解いていった。

第5章は近日中にスタートします まる

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