第65話 王座より
※現在4章を読みすすめている方へ
平素より人外転生をご愛読いただきありがとうございます。
この4章なんですが、8月18日あたりを目処に一気に改稿を行う予定です。
改稿といっても細かい展開の修正や入れ替え、冗長な描写の削除がメインになり、全体の流れに変化はありません。
「か、勝った……の?」
がっくりとこうべを垂れる紅井明日香を見て、佐久間祥子は恐る恐る尋ねた。
恭介の《特性増幅》の力を得、佐久間の《魅了》はついに“王”の支配を打ち破った。しばらくの間は、どうにかして紅井の意識の中に潜り込もうとする反発が続いていたが、数分間の静かな戦いの末に、それもようやく無くなった。
時間切れが来たのだ。“王”の辿ることのできるポーンの因子が、すべて紅井の体内で消滅したのだろう。紅井明日香は、ようやくあの“王”のおぞましい支配から解放されたのだ。
気を失った紅井は、相変わらず凛のスライムボディの中に捕らえられている。が、彼女はゆっくり、紅井の身体を、佐久間の方へと手渡した。佐久間は静かに、紅井を受け止める。
「明日香ちゃん……」
佐久間が静かのその名を呼ぶと、真横から春井も覗き込んできた。
「明日香……」
2人に名前を呼ばれた紅井は、わずかに身じろぎして、わずかに目を明ける。
この時、佐久間はふと気まずい事実に気づいた。これまでの間、佐久間はずっと紅井に対して《魅了》を仕掛けていたのだ。なるべく力を絞っていたつもりだが、結局、“王”の支配を跳ね除けるために全力を出さざるを得なかった。
紅井明日香は、人から何かを強制されるのが嫌いだ。彼女の自由意思を踏みにじるという点では、佐久間もひょっとして、あの“王”と大差ないことをしていたのではないだろうか?
あるいはそんなことを忘れてしまうくらい《魅了》が効いてしまっていたら、どうしよう。
例えば、あのクールで大人びた紅井が、幼稚園の頃から付き合いのある紅井が、ちょっと頬を上気させて自分に迫ってくるようになったりしたら? 親友として、どのような対処をしていいのかまったくわからない。《魅了》を使ったのは自分なのだから、責任はとるべきなのだろうか?
佐久間はひとり、ぐるぐるとそんなことを考えてしまった。
「明日香、大丈夫か? 起きれるか?」
春井由佳は、先程までと打って変わった、少し優しい声でそう尋ねる。
「ん……。大丈夫……」
紅井はようやくそれに応えた。
「そうか? 別に佐久間のことが好きになってたりしないか?」
「は、春井さん?」
春井のあけすけな物言いに、佐久間の方がたじろいでしまう。
これで、紅井が『実はそう』とか言ってきたらどうしよう。
『元から好きだった』でも、結構困る。
困らないが、困る。
紅井はゆっくりと目を開け、しばらくきょとんとしていたが、やがて理解をしたように『ああ』と呟いた。そして衝撃の……と、言うほどのことではないのだが、佐久間にとってはそれなりに驚くべき事実を口にするのだ。
「《魅了》にそんな力があるわけないでしょ……。せいぜい、意識を自分に向けさせるくらいなんだから」
「えっ、あ、そ、そうなの?」
「そうなの。まぁ、しばらくぽーっと見ちゃったりするけど、持続しないからね……」
そういえば、効果時間は大して長くないと、カオルも言っていたような気はする。
佐久間は、なんだか《魅了》に対して不埒な思考をしていた自分が、なんだか急に恥ずかしくなってしまった。その後ろで、空木恭介が腕を組み、ぼやいている。
「でもなんか、今回、俺あんま良いところなかったな……」
「なんだ、恭介もいっちょまえに自分の出番を気にするようになったのか」
「良い傾向ですなぁ、恭介くん。まぁ今回はさっちゃんに譲りましょうや」
その横で、火野瑛と姫水凛が、恭介をからかうようにつっついていた。
いや、しかし、いくら効果時間が短く大した影響がないといっても、やはり恭介に使うのはなしだ。もちろん、恭介だけではない。クラスメイトの誰に対しても使わないように、《魅了》の力は固く封印する。やはり自分はカオルのように、この能力に対しては、奔放になれないのだ。
「ところで、紅井」
恭介が、佐久間の腕の中でぐったりしている紅井に言葉をかける。
「身体の方はどうなんだ。因子の方も、だいぶ使い潰されたみたいだったぞ」
「正直、かなりしんどいね……」
相変わらずのローテンションで、クイーンはそう答えた。
「あと1日は、もたない気がする……」
「わかった。竜崎たちに聞いてくる」
恭介はそう言って、凛と瑛に目配せをする。凛がぴょこんと恭介と合体し、瑛と並んで、彼らは密林の奥の方へ走り始めた。木々の間に隠れて、すぐにその姿が見えなくなる。
ぽつり、と紅井が呟いた。
「気をきかせてくれたのかな……」
「誰にだよ」
春井が冷静に突っ込んだ。
紅井明日香は顔をあげ、そんな春井を見る。端正な切れ長の瞳に見つめられ、ハーピィの春井由佳は、なにやら気まずくなったように目をそらした。
「ええと、春井。あのさ」
「なんだよ」
つん、と顔を背けて、つっけんどんに言う春井。
紅井も素直な性格ではないけれど、春井も相当なものだ。佐久間はちょっぴり苦笑いしそうになる。
「あたしにとっては、春井も、蛇塚も、その……。友達だから」
「……おう」
紅井の言葉に、春井は鼻先を掻こうとした。が、当然腕は無く鳥の翼になっているので、羽根が鼻を撫でるだけに留まる。そのまま思わずくしゃみをしてしまう春井であった。
「(これで一件落着……なのかなぁ)」
素直ではない2人のやり取りを見て、佐久間は苦笑いを浮かべる。
まだ、この件が片付いているとは言い難い部分がある。だが、戦いは終わった。その峠は超えたのだ。今は、大親友の無事にひとまず安堵し、その友達の素直ではない仲直りを、もう少し手伝ってあげようという気持ちになっていた。
「友情って……良いなぁ」
恭介は茂みをかき分けて進みながらそんなことを言う。瑛がぎょっとしたような声を出した。
「いきなりどうしたんだ、恭介……。確かに、友情は素晴らしいものだと僕も思うが」
「深い意味はないんだけどな。なぁ、凛……。友情は良いよな?」
「えっ、そこであたしに振るの!? どういう返答が欲しいの!?」
彼があの場を離れたのは、もちろん紅井や春井を気遣ってのことだ。春井が紅井に対して向けていた複雑な友情のことはわかっていたし、それについて紅井の方からも春井に何か伝えてやるべきだと思っていた。あの場に自分たちがいてはやりづらいだろうから、と思って、恭介はあの場を離れる選択をしたのだ。
人の心がわからない空木恭介から、人の心がわかる空木恭介へ。
恭介だって彼なりに成長しようとしているのだ。
「うんうん、恭介くんは立派だよ」
合体状態によりある程度ダダ漏れになった思考を、凛が読む。
「俺も仲直りできるように頑張ろう」
「小金井くんと?」
「うん」
あれは、紅井と春井の友情ほど美しいものではないかもしれないが、それでも恭介は小金井のことが嫌いにはなれない。未だに友達だと思う気持ちは残っている。鷲尾の遺した言葉だってある。小金井と再会して、仲直りするまでが、自分の目標だ。
「君は変わらないな……」
瑛も、少し柔らかい声でそういった。
しばらく前まで、小金井の名前を出せば烈火のごとく怒り、態度を硬化させていたと考えれば、えらい違いではある。恭介がそこに突っ込むべきかどうか迷っていると、ちょうど密林を抜け、集落のあたりに出た。
そこには、既に生徒たちが何人か集まっている。どうやら会合も終わったところらしく、ベルゲル酋長の家の周りでは、他の島の酋長たちが難しい顔を突き合わせていた。
「あ、ウツロギくん」
犬神救出部隊の面子も、何人かここにいた。恭介に真っ先に気づいて声をかけてきたのは花園だ。
「花園、竜崎の方はどうだ?」
「うーん……。まぁ、一件落着、って、ところなのかなぁ」
恭介が尋ねると、花園は少し複雑そうな顔をして答えた。
竜崎は、このアルバダンバの国民たちから信用を得るため、そして、紅井のための血を提供してもらうために、話し合いに参加していたはずだ。その竜崎や、このデルフ島の酋長であるベルゲル氏の姿は、見えるところにはない。一件落着、ということは、色好い返事は得られたということなのだろうか。
「やっぱり、あのトキって吸血鬼、この島の人だったみたい」
「………」
その言葉を受けると、恭介もなんと言って良いのかわからなくなってしまう。
黙り込んでしまうのは凛も同様だ。なにしろ、あの吸血鬼にトドメを加えたのは、ほかならぬ恭介と凛だったからである。
「だが、あの男は吸血鬼だった」
冷たい声できっぱりと、瑛が言う。花園も神妙に頷いた。
「うん。それは、信じてくれたみたい。確証ってほどのものじゃないけど、状況証拠みたいなのはたくさん出てきたし」
例の地下洞にあった大量の人骨などのことだろう。
花園は、さらに話を続けた。これらの証拠をもって、ベルゲル酋長たちは、トキ……トキハラと名乗る男が吸血鬼であり、酋長本人を騙そうとし、そしてこの島で幾人もの子供の命を奪ってきた存在であることは、信用したという。
だがそれまで親しくしていた隣人が怪物であったという事実、その怪物がたくさんの命を手にかけてきたという事実、そして、彼が犬神を監禁し、恭介たちの手によって打ち取られたという事実。それらすべてを、理性的に処理しろというのは、土台無理な話である。
彼らの信用は得られた。
こちらの疑いは晴れた。
交易会は無事に開催されるし、2年4組もそれに参加できる。どころか、トキハラの行動によって迷惑を被った2年4組に対して、きちんと謝罪もしてくれるという。
だがそれでも、ベルゲル酋長は、気持ちの整理をするためにしばらく時間を要すると言った。
「………」
話を聞き終えて、恭介は自分の手を見た。
「……恭介くんは悪くないよ?」
「この場合は、ああせざるを得なかった。でなければ死んでいたのは犬神だ」
「……ん、ああ」
凛と瑛の言葉に、恭介は静かに頷く。
だが、スオウを殺した時にも思ったことだ。自分は確かに、意識があり、理性があり、知性がある人間の姿をしたものを殺した。決して相容れぬ存在ではあれど、もしかしたら友人になれたかもしれない、人間の姿をしたものを殺した。そうしなければ自分が、あるいは自分以外の大切な誰かが死ぬとわかっていたが、自分たちの知らぬ場所で多くの知人や友人を作っていた、人間の姿をしたものを殺したのだ。
それなのに、なぜ自分はここまで平気でいられるのだろうか。
何かが、少しおかしい気がする。
だがいくら眺めたところで、肉のない手のひらに、答えが浮かぶことなどありはしなかった。
ごぽ。ごぽ。
人間一人がまるごと入ってしまいそうな大きなフラスコが、そこにはある。フラスコには、得体の知れないチューブを通して様々な機械がつながっており、その内部は怪しい液体で満たされていた。そしてさらにはホルマリン漬けになったような、人間の骸が浮かんでいる。
それがヒトの形をしていたものであるなどと、言われなければわからないだろう。手足はちぎれ、色素が抜け落ち、まるでボロ雑巾だ。顔の形状はかろうじて、若々しい男性のものであると理解できるが、液体によって組織は固定されていると言い難く、なぜこのような死体を巨大なフラスコの中に放り込んでいるのか、傍目には皆目見当もつかない。
ごぽ。ごぽ。
いや、
それは、亡骸などではなかった。
「王はまだ、目覚める気配がないか……」
修道服を身にまとった吸血鬼が、そのフラスコを眺めて目を細める。彼女の手の中には、板の上に留められた数枚の書類がある。小さな嘆息とともに、わずかな呼吸を繰り返す“それ”を眺め、書類にいくつかの数値を書き込んでいた。
めりはりの利いたボディラインの女性は、名前を朱乃雅。
またの名を、ビショップ・アケノという。
そして、彼女の目の前に置かれたフラスコ、その中に眠っている男こそが、彼女たち血族の“王”たる存在だ。
このような姿になってしまった以上、“王”は自らの口で言葉を語ることも、自らの足で移動することもできない。ただ、それでも彼は生きている。その証左が、フラスコの底に鎖で繋がれた、物言わぬ少女の姿である。
虚ろな顔をした少女は、フラスコの前に置かれた小さな王座に腰掛け、糸の切れた人形のようにうなだれている。フラスコの中の男同様、生きているのか死んでいるのかわからなかった少女は、次の瞬間、びくりと全身を震わせて、ゆっくりと顔をあげた。
「お帰りですか、“王”」
アケノが慇懃に尋ねると、少女はゆっくりと首を縦に振った。
だが、この少女が“王”というわけでは、決してない。この虚ろな瞳の少女は、言葉を話せぬ“王”の口となって動くための、適当な器に過ぎない。“王”がいるのはフラスコの中だ。肉体はほとんど機能しておらず、精神だけが強固に生きている。
“王”は、ポーンの血を辿り、クイーンの身体を一時的に操っていた。制限時間付きの支配だ。その短い30分の間に、“王”はクイーンの身体を使ってポーン達を支援し、そのクイーンの血をこちらへと持ってこさせる予定だった。
が、
「しくじったな……」
少女の喉が、そのような声を紡いだ。
「明日香の支配を奪い返され、そのまま時間切れだ。連中を少し侮っていた」
「スオウを殺した連中です。意外とやるものでしょう」
「そのようだ」
平静を装った声ではあるが、まだいささかの悔しさが滲んでいる。アケノはそこには触れず、冷静に書類だけを読み上げることにした。
「お身体の再生に関してですが、やはりこれ以上の組織崩壊が起きないよう現状維持に留めるのが精一杯です。現時点では、ですが」
「そうか。やはり人間どもの国へ侵攻する必要は確かにあるな」
「“王”にはご不便をおかけします」
「良い」
“王”は元の世界で一度、瀕死の重傷を負った。血族の崩壊を恐れた長老たちの手で精神維持用のフラスコに入れられたのである。それから、あちらの世界換算では約3年近く、ひと目から遠ざけられていた。
こちらの世界への侵攻は、当時からたてられていた計画だ。結局のところ、元の世界では“王”の身体を元に戻す手立ては見つからなかったのである。魔法テクノロジーに関しては、こちらの世界の方がより大きく発達しており、血族はそれに賭けたのだ。
だが、こちらの世界でも数多く存在する魔法テクノロジーのいずれにおいても、“王”の傷を快癒させる手段は見つからなかった。頼みの綱は、中央帝国が管理・隠匿する禁呪法、あるいは帝宮に安置されているという秘宝に託されることになったのである。
血族が帝国に吹っかけた喧嘩のきっかけというのは、元をたどればこんなものである。
“王”は自らの身体を動かすことはできない状況だが、血族の血を辿り、それらを操ることは可能である。この吸血鬼の少女は、今や“王”の言葉を代弁するためだけの存在となっていた。
「連中に関してですが、これからどのようになさいますか?」
「捨て置け、とも言えない状況だな。明日香は特に強く躾ける必要がある。が、他の連中は、それほど優先しなくとも構わない」
やはり、“王”はクイーンに御執心らしい。
「それに、連中がこちらに来てからそろそろ3ヶ月だ。“フィルター”も切れる頃だろう」
「“フィルター”の切れることが、我々にとって必ずしも良い影響を与えるとは限りません」
「連中の結束に楔を入れることにはなる。明日香一人ならば、どうとでもできる。連中の結束は厄介だ」
意外と、素直な分析である。アケノはそれを意外に思った。
自分にもそういうところがあるのは否定しないが、“王”はとかく他者を見下し、侮る傾向にある。今回の件においても、それが敗因と言ってほぼ間違いはないだろう。その“王”が、あっさりと他者の脅威を“厄介”と認めるのは珍しい。
「疵面の赤はいるか?」
「おります」
少女の声音に導かれるようにして、暗闇がふわりとたわんだ。闇の中からゆっくりと持ち上がるように、強面の巨漢が立ち上がる。全身を軍服に包んだ背の高い男だった。多くの吸血鬼がそうであるように、瞳の色は紅く染まっている。
そして何より目を引くのは、その名前が示すとおり、顔に大きく走った傷痕だ。
レッドは、血族の中でも強力な実力者の証である、“ルーク”の称号を持つ。こと近接戦闘においては、クイーンにも匹敵するほどだ。空を縦横無尽に翔けるその機動力を始め、多くの能力を有するレッドは、対中央帝国の緒戦においても重要な役割を担った。
状況の変化から前線の血族たちに撤退が命じられた際も、殿を担ったのはレッドだ。
アケノには、そのレッドに“王”がいかなる命令を下すのか、おおよそ、想像がついていた。
少女の言葉が、緩やかに言葉を紡ぐ。アケノもレッドも、その言葉を静かに聞き、そして一切の異論は挟まなかった。少女はそれだけ言って、またかくん、こうべを垂れる。
今だ、フラスコの中に“王”は居り、その姿に変化はない。が、“王”はひとまず、その目と口を休ませることにしたらしい。眠りについたのだ。玉座に腰掛けさせられた吸血鬼の少女は、虚ろな目をし、口をだらんと開けたままだ。
レッドは小さく礼をして、“王”の命令を承る。
「………」
彼は無言のままくるりと反転し、そのままツカツカと靴音を立ててその広間を歩き去ろうとした。
「もう行くのか」
「王のご命令だ」
アケノの問いに、彼の返事はそっけない。
仕事熱心なのはいいことだ。少しばかり盲目的すぎるきらいはあるが。
アケノは、“王”の入ったフラスコを観察しながら、書類にまたチェックを加えていく。
“ルーク”疵面の赤の出撃は、特に誰が見送ることもなく、しめやかに行われた。
次回で4章完結です。
まぁ、2、3日中には……。




