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第64話 ロイヤル・テンプテーション

※現在4章を読みすすめている方へ

 平素より人外転生をご愛読いただきありがとうございます。

 この4章なんですが、8月18日あたりを目処に一気に改稿を行う予定です。

 改稿といっても細かい展開の修正や入れ替え、冗長な描写の削除がメインになり、全体の流れに変化はありません。

 恭介たちがその合図に気づいたのは、島の浜辺を走りながら、重巡分校の停泊している場所へと向かっている最中のことだった。

 島の南側にあった邸宅で吸血鬼トキを打ち倒した彼らは、犬神から5人の吸血鬼が重巡分校へ向かっていることを聞かされた。分校の守りはカオルコと原尾、そして襲撃に備えて更にゴウバヤシと佐久間が向かったはずであるが、5人という数は想定外だ。そこにナイト、ビショップなどのクラスが混じっていれば、状況は最悪と言える。急がなければならなかった。


 そこに、その合図である。


 空に向けて高く打ち上げられた黒炎の爆裂。

 《邪炎の凶爪イヴィルフレア》だ。渾沌魔法、あるいは暗黒魔法と呼ばれる魔法にカテゴライズされるもので、クラス内では佐久間祥子と丘間カオルだけが使うことが出来る。人間やエルフにとっても失われた、魔の王に連なるもののみが扱える魔法だ。

 魔の王に連なるモンスターは、今となっては、大陸ではほとんど姿を確認されていないらしい。インキュバスやサキュバスですら希少種だ。この島国に、該当種が生息しているとも考えづらかった。


『あれ……、さっちゃんか、カオルコちゃんだよね』


 恭介と合体状態にある凛が、そう呟いた。恭介も足を止め、頷く。


「どっちも分校にいるはずだ。それが、あそこで空に向けて魔法を撃つなんてことは……」

「信号弾か。どうやら、状況はかなり面倒なことになっているみたいだね」


 瑛の冷静な声。救援信号か、あるいは、もっと別のものか。わざわざ空に向けて撃っている以上、居場所を知らせる意図があるのだ。恭介は、自然と身体の向きをそちらに向けていた。


「行くのか、恭介」 

「ああ、分校の方も気になるけどな」


 その分校にいるはずの佐久間が、あそこで信号を撃っている時点で、ただ分校に行って事態が解決するというわけではなくなっているのだ。


「何が起きているのかわからないんだぞ」

「だからって、行かない理由にもならないだろ」


 瑛の言葉はいつものように冷ややかだ。

 だが、こういったやり取りを彼とするのは、久しぶりな気がした。


「まぁ、良いさ。良いけどね。ただ、行くなら飛んだほうが速い。恭介、姫水、エクストリームを解除してくれ」

『ん、いいよー』


 凛があっさりとそう言って、恭介達の姿は光に包まれる。一瞬だけ周囲を眩くてらした光が消えると、そこには骸骨にスライムの肉をまとった、いつもの恭介と凛の姿があった。凛はわさわさと身体を寄せ、身体の右側に集まっていく。恭介の右腕がやたらと重くなった。


「火野くん、これで大丈夫? もっと詰める?」

「俺の身体は電車の座席かなんかか?」

「あたしにとっては最上級の運搬システムなので間違ってはいない……。あっ、いたたたっ! つねらないで!」


 つねったところで痛覚が機能するかは謎なところだったが、凛は身をよじって悲鳴をあげる。


「僕は特に問題ない。恭介、身体の重量バランスは平気か?」


 瑛もここまで来ると合体に慣れたもので、恭介の全身に炎を巡らせながら言った。凛は『あちち』と声をあげてもう少し端っこの方へ避難する。


「ん……。右腕が重いけどあまり気にならないな。多分、飛べはすると思う」

「よし、じゃあ行こう」

「別にいいんだけど……瑛、」


 恭介は、瑛の態度にいつもと違うものを感じていた。そっけないのはいつものことだが、会話の中に、あまり熱量を感じられない。


「あまり、俺のこと止めたりしなくなったな。危険だ、とかさ」

「危険だ、とは、今でも思っているけどね」


 まるでその言葉を予期していたかのように、瑛が答える。


「ただ、君を危険から遠ざけることに、以前ほど優位性を見いだせなくなった。ほかのクラスメイト達だって戦っているし、君を無理に戦いから引き剥がしても、仕方がないからね。それに」

「それに?」

「……いや、なんでもない」


 何に対してもはっきりと口にする火野瑛にしては、珍しく言葉を濁す。


 言いよどむという行為は、何かを恐れているからだとは、瑛本人の言葉だが。


「とにかく、急ごう。飛ぶぞ、恭介」

「ああ、佐久間かカオルコかはわからないが。急いだほうがいい」


 深く考えるのは後回しだ。今は、差し迫った危機に対応する方が先である。

 恭介たちは、炎の翼を広げて空へと舞い上がった。





 そして、その数分後。


 佐久間祥子の目の前に、炎をまとった空木恭介が降り立った。火野瑛との合体を果たした、“ブレイズ・クロス”状態。右腕に姫水凛もついているから、“トリニティ・クロス”状態か。完全な状態ではないので、“トリニティ・フルクロス”ではない。


「ウツロギくん、明日香ちゃんが……!」

「ああ、だいたいわかる……。あいつが王様か……!」


 恭介は身体を半身にし、右の拳を腹前、左手は解いた形で顎の前に置いていた。

 臨戦態勢、ジークンドーの構えである。


 やはり、恭介は来てくれた。佐久間は安堵と共に高揚するような感情を覚えていた。こういうのを、胸の高鳴りというのだろうか。恭介は別に、ここにいるのが佐久間だから助けにきてくれたわけではない。他のどのクラスメイトが、同じように信号を空に放ったとしても、同じように駆けつけたのだろう。

 だが、それでも自分の窮地に駆けつけてくれたことには変わらない。

 自分だけではない。春井も紅井もだ。とにかく、自分たちの危機に、彼はやってきた。その事実が、なんだか無性に嬉しく感じられた。


 春井が呆れたような視線を向けてきたので、佐久間は急に恥ずかしくなって身をすくめてしまった。


「なるほど、君たちが報告にあった生徒たちか」


 紅井明日香の身体を乗っ取ったまま、“王”は言った。


「クラスで唯一フェイズ3に到達しているそうだな」


 もう、王の下までその報告がいっているらしい。ビショップのアケノによるものだろうか。恭介たちは答えることなく、構えを取ったまま“王”を睨んでいる。


「だが、フェイズ3に到達するのに明日香の血を使ったはずだ。せっかく足労してもらったが、ここは下がるのが身の為ではないかな?」


 その言葉の意味を、数拍置いて佐久間は理解した。

 2年4組の生徒たちは吸血鬼因子の活性化によってフェイズ3能力を発動させることができるが、それは反面、紅井から血を提供してもらう必要がある。そして、因子の持ち主はそのオリジナルに対して決して逆らうことのできない枷を負う。

 恭介が紅井の血を得たのは、止むにやまれぬ理由があった。だが結果として、『紅井が命令を下せば恭介は逆らえない』という状況が発生してしまっている。


 紅井は“王”に身体を乗っ取られている。


 さらに言えば、赤井が持つ吸血鬼因子の大元である“王”自身もまた、恭介の身体を乗っ取り動かすことが可能なはずだ。

 その“王”に乗っ取られた紅井と相対した恭介は、果たして彼に対抗できるのか。


「ブラフだな」


 はっきりと口にしたのは、瑛であった。


「おまえは紅井の身体を遠隔操作しているに過ぎない。紅井の意志までを自由に操っているわけじゃないんだ。紅井を通じて、恭介に対して“命令”を下すことはできないはずだ」

「………」

「そして、今この場では、おまえが血族の王としての力を使って、恭介を服従させることもできない。それができるなら、今までに刺客として送り込んだポーンを中継地点にして、紅井を従わせる機会は何度もあったはずだ。そうだろう?」


 紅井明日香の表情は虚ろなままだ。“王”がどのような思いで瑛の言葉を聞いているのか、窺い知ることはできない。が、黙り込んだその態度こそが、きちんと正解を物語っているようではある。


 恭介は構えを解くことなく、ゆっくりと近づいていった。全身を包み込む炎は、そのまま戦意を表現するかのように燃え上がっていく。


「紅井の身体を返してもらう」

「………」


 “王”に支配された紅井の身体が、動く気配があった。

 貫手の形を作った指の先から、血の爪が伸びる。だが、“王”はそのままこちらへと立ち向かってくる気配はなく、この場から立ち去る機会を窺っているようではあった。紅井の身体を乗っ取っての“王”の活動時間には制限がある。紅井の血を持って逃走したポーンが“王”の本体へと血を届けられない限り、計画は完遂できないのだ。


 カオルコ達が、先回りして船を壊すために動いている。

 それを阻止するために“王”はこの場を離れたがっている。


 恭介たちは、おそらくそこまでは把握できていないはずだ。今、紅井がどのような状態にあるのかも、正確にはわかっていない。恭介たちが紅井を押さえ込んでくれれば、うまく時間切れまで持っていける可能性は、あるが。


「はあッ!」


 恭介の身体が勢いよく迫り、炎をまとった拳が突き出される。


 だが、紅井の身体はふわりと上体を逸らせ、その拳を片手で受け止めた。炎の肉を焦がす嫌な匂いが、密林の中に滲み出す。


「私は言ったぞ。下がったほうが身の為だと……!」


 微かに苛立ちを秘めた声が、紅井の喉から漏れた。スカートが跳ね上がり、彼女のすらりと伸びた足が、恭介の腹部めがけて突き出された。革靴が炎の身体を突き破って背骨を叩く。空木恭介の身体は、軽々と吹き飛んだ。


「くっ……!」


 木の幹に骨の身体が叩きつけられ、火の粉が散った。炎が燃え移った草を、右腕から伸びた凛がもみ消すようにして消化する。


「火野くん、あたしが代わる!」

「……わかった!」


 この狭苦しい密林の中では、火野瑛の火力は扱いづらい。恭介の身体から瑛が離れ、再び全身を凛のスライムボディが覆った。全身を取り囲むように巻き起こった竜巻を片腕でかき消し、中からエクストリーム・クロスが出現する。

 恭介は再び“王”に飛びかかり、拳を振りかざす。だが、紅井の身体はやはりそれを受け止め、顔面めがけての貫手を放った。ぱしゃあん、という音がして水が弾ける。一時的に首の掻き消えた恭介の身体は、“王”の身体を幹に押し付けるようにして固定した。


 壁に押さえつけられた紅井明日香は、未だに一切の感情をにじませない虚ろな顔をしている。


 恭介の力をもってしても、紅井明日香の持つ身体能力を凌駕し得ない。“王”は紅井の身体をまるで人形のように操っているに過ぎないのだ。当然、“王”自身がそのつもりであれば、いくらでも無茶は利かせられる。


「くっ……」


 恭介の口から、苦悶の声が漏れた。みしり、みしり、と骨の軋む音がする。

 音の出処は、ほかならぬ紅井の腕であった。筋肉が骨を締めつけ、紅井明日香の全身が悲鳴をあげ始めているのだ。このままでは、彼女の身体のほうが先に壊れてしまう。

 さらに変化は、恭介の方にも起きていた。人間のような外見をつくろっていた表面部分、衣服を含めていたそれが、どろり、と溶け落ち始めているのだ。溶け落ちた部分は、姫水凛のスライムボディと同じ色合いのものとなっている。

 因子の基底化による、フェイズ3能力の活動限界が近いのだ。既に一度、エクストリーム・クロスでの戦闘を終えたあとなのだろう。


 やはりこのままでは、状況は持たない。


「火野くん!」


 佐久間は浮かぶウィスプに声をかける。


「佐久間、春井、状況を聞かせろ」


 瑛にしては珍しく、彼の方からそう言ってくる。


「とにかく明日香があいつに乗っ取られてんだよ! そんで、よくわかんないけど、一瞬元に戻って……」

「戻った……?」

「あ、うん。えっと、あたしの力で……」


 やや控えめに、佐久間は手をあげた。《魅了》を友だちに使うというのは、やはりどういう状況であれ褒められるものではないと思ったからだ。実際、効きが甘くてコントロールを“王”に奪い返されるのでは、世話がない。


 瑛は、紅井を必死に押さえ込む恭介をちらりと見て、こう言った。


「わかった。それでもう一度いこう」





「うおおおおおおーッ!」


 魚住鮭一朗のあげた声に引き続き、刺叉を構えたサハギン達が上陸する。一体のポーンを目掛けるようにして、魚人たちは殺到した。

 驚く猫宮たちを尻目に、魚人軍団がポーンの周囲に団子を作る。おしくらまんじゅうの様相を呈し始めたところで、少し遅れて一人のインキュバスが洞窟の中へと飛んできた。相変わらずドギツめのボンテージファッションに身を包んだ美男子ではあるが、彼は猫宮達に気づくと、愛嬌のある笑顔で手を振った。


「あらねこみー、こんなとこで会うなんて奇遇じゃない?」

「奇遇なのはいいんだけどさ、カオルコ」


 猫宮は、思わず頭を掻きながらポーンの方に視線を向けてしまう。


「これ、なに?」

「ちょっと事情を説明するのが面倒くさいわね……。あ、船はこれね」


 そう言って、丘間カオルは洞窟の中に停泊している一隻のクルーザーに視線を向けた。


「そのクルーザー、どうするの?」

「こうするのよ。《邪炎の凶爪イヴィルフレア》!!」


 カオルの爪の先から放たれる黒い炎が、勢いよくクルーザーめがけて飛んでいく。目の前で何が起きているのかさっぱりわからない猫宮美弥たちは、放たれた黒炎がクルーザーに突き刺さり、飲み込むその瞬間をぽかんと見送ってから、慌てて彼に詰め寄った。


「ちょ、ちょっ……! なにさ、壊すことないんじゃないの!?」

「壊さなきゃマズイのよ。あのポーンが逃げる手段は確実に封じなきゃ」

「逃げられちゃまずいのか?」

「現段階では、かなりね」


 そう呟くカオルコの横顔は真面目そのものだ。少なくとも、彼は当てずっぽうやデタラメでここまでの行動に出るような男ではない。猫宮が納得いかないながらもそう思い始めていると、カオルコは彼の方から、ある程度状況を説明してくれた。


「明日香の血が、持ち逃げされようとしてるのよ」


 紅井明日香の血には、吸血鬼因子が含まれている。

 詳しい話はかなり省かれた気はするが、とにかくその因子を彼女たち血族の“王”に届けられれば、紅井はどこにいようと“王”の支配から脱することができなくなる、というものだった。


「……紅井も大概に難儀な身体だな」


 ムッツリ系ガーゴイルの籠井がぽつりと呟く。


「友の窮地を救うのも、また青春だ」


 風の球を弄びながら頷くのは熱血野球バカのハヌマーン猿渡である。 


「ひとまず、魚住クン達が押さえつけてる間に、さっさとぶっ壊すわよ!」

「ああ、わかった!」


 猫宮の片手に、やはり影魔法によるスクエア状の刃が浮かび上がる。


「あんな高そうなクルーザーなのになぁ」


 割り切れない感じで、籠井がぼやく。


「みみっちいこと言ってないで、壊す! やるわよ! 《邪炎の凶爪イヴィルフレア》!」

「《影方刃シャドウスクエア》!」

疾風剛弾ブラスブラスター!」

「おっ! う、うおおおっ!!」


 一同が魔法を次々とぶち込んでいく中、魔法を使えない籠井は、洞窟の隅っこに転がっていた大岩を投擲した。

 いかに高級クルーザーとは言えど、所詮は民間用である。数々の攻撃魔法に曝されて形を保っていられる道理もない。あっという間に黒い煙を吹き、使い物にならなくなった。


「ぐああああ――――ッ!!」


 ちょうどその頃、もみくちゃにされていたポーンが、ようやく群がる魚人たちを跳ね飛ばす。腹に大きな穴を開けてはいるし、あまり機敏そうには見えない、やや肥満体の中年吸血鬼ではあるが、それでも有象無象のサハギンを寄せ付けないだけの力を残しているらしい。

 先陣を切っていたギルマンの魚住鮭一朗も、ごろごろと洞窟の床を転がった。ポーンは赤く光る双眸で、ぎらりと猫宮たちを睨んだ。どこかで見覚えのある顔つきなのだが、それを思い出すだけの余裕はない。


 ポーンは、ぶすぶすと煙をあげるクルーザーを見ると、肩をいからせて声を荒げる。


「くっ、き、キサマら……!!」


 猫宮やカオルコ達は、いっせいに構えをとる。いつでも迎撃できるように、といった具合だ。相手のポーンは手負い。こちらが全力で応戦すれば、あるいは勝てない相手ではないかもしれない。猫宮たちは、慎重に相手の出方を窺う。

 だが、そのポーンが次にとった行動は、逃走だった。翼を広げ、洞窟の外に向けて飛翔する。てっきりこちらに向かってくると思っていた猫宮たちは、対応が遅れる。


「いけないわ!」


 カオルコが叫んだ。


「あいつ、まだ明日香の血を持ってる!」


 逃走手段のひとつを潰したといっても、紅井の血を持って逃げる以上安心はできない。猫宮も確かに、そのポーンの腰のあたりに、ベルトとともに赤い液体の入った瓶が収められているのを目撃した。体型に合った全身甲冑である以上、隠せる場所はないはずだ。

 だが、ポーンの逃走スピードは存外に早い。追いつけるか、といったところ、まさにその瞬間に、水音とともに海面から飛び出してくる影があった。


「てやあああああああッ!!」


 それは、この場で唯一戦闘要員ではない少女。クラスの料理当番、スキュラの杉浦彩であった。

 触手で海面をたたくように飛び出した杉浦は、片手にどこで調達したのかわからない、木刀のようなものを構えている。一直線に突き出されたその木刀は、身をひねったポーンの腰のあたりを掠め、ビンを真っ直ぐに突き割った。


「おおっ!?」


 猫宮は思わず身を乗り出す。ポーンは、瓶を割られたことに気づいているのかいないのか、そのまま一気に洞窟の外へと飛んでいった。杉浦は、やはり大きな水音を立てて海の中へと落下していく。


「や、やったか!?」


 籠井が余計なことを言った。が、この時点では間違いない。やった。


「やるじゃない、彩! ファインプレーよ!」

「え? ああ、あたし、上手くやった?」


 ばしゃばしゃと海水をかき分けながら、杉浦が泳いでくる。猿渡も両手を広げて賞賛した。


「狙いすましたような一撃、見事なコントロールだったぞ!」

「え、ああ、いや……。ぐ、偶然だよ……」

「まるでその木刀の声が聞こえているかのようだったな!」

「偶然だよ偶然。あはは……」


 なにやら隠し事をするかのように苦笑いを浮かべる杉浦を見て、猫宮はため息をつく。彼女も、来ていたらしい。

 とにかく、こちらの戦闘は終了だ。余計な手間をとってしまったが、結果として敵の逃げ足はひとつ潰すことができたし、万一なんらかの方法で島から脱出する手段を得られたとしても、既に紅井の血が入った瓶は破壊に成功している。


 果たして、恭介たちは分校にたどり着けているだろうか。


 そこまで考えて、猫宮はふと顔をあげた。


「そういえばカオルコ、キミ、分校の警備を担当してなかったっけ」

「あー、それも話し始めるとめんどいのよねぇ……」


 人差し指で前髪をクルクルと巻きながら、ぼやくカオルコ。


 どうやら、自分たちの知らない場所でかなり状況が変化してしまったらしい。


「こういう時、ケータイって道具は便利だったなぁ、なんて思わない?」

「思うわ。通話テレパス魔法だっけ。この世界にもあるらしいし、勉強したほうがいいかもしれないわねぇ」


 勉強はちょっと嫌だな。猫宮は怪物になって2ヶ月経っても、まだ抜けきらない学生思考でそう思った。






「………!」


 恭介は、正面からがっしりと紅井の身体を押さえつけている。一切の感情を表に出さず、ただ腕力だけで対抗してくる紅井明日香の身体は不気味だった。そして、“王”に操られた紅井の身体は、それ自身は不調であるにも関わらず、エクストリーム・クロス状態の恭介と完全に拮抗してしまっている。

 これが“クイーン”たる紅井明日香の持つ、力の片鱗なのだ。これから自分たちが挑むことになるであろう“血族”の強さ、恐ろしさを、改めて実感する。


『恭介くんっ……!』


 凛の悲鳴が、頭の中に響いてきた。


『も、もぉ……限界……!』


 わかっている。既に、フェイズ3《完全融合》の能力が持たない段階まできてしまっている。


 フェイズ3能力の恩恵は大したものだ。凛と霊子レベルまで一体化することで、恭介の持つ《特性増幅》の能力が、恭介自身にも適用されるようになる。身体能力が大幅に向上するのだ。全身を液化できるエクストリーム・クロスの効果もあいまって、物理的な戦闘では無類の力を発揮する。

 はずだった。だが、そのエクストリーム・クロスですら、クイーン紅井明日香には及ばない。こちらが限界を迎えれば、押し切られてしまうのは目に見えていた。


「くそっ、紅井! 聞こえないのか! 紅井!」


 全身から、どろどろと凛の身体が溶け落ち始めるのを聞きながら、恭介は必死に叫び声をあげる。しかしそれは、紅井に通じる気配がない。


「無駄だ……!」


 “王”の苛立ちに満ちた声が聞こえる。両腕がみしみしと音をたて、強引にこじ開けられていく。

 それでも恭介と凛はめげず、大きな声で叫び返した。


「無駄かどうかは、おまえが決めることじゃない……っ!」

『やってみなきゃわかんないもん!』

「月並みな言葉を!」


 力の均衡が崩れる、と思った瞬間、恭介はわざと、その両腕から力を抜いた。


「………っ!」


 同時に、両腕を一瞬で液化させ、紅井の腕力が向かう先を全て奪う。勢い余って、紅井明日香の身体はつんのめるようにして、恭介の胸元へと飛び込んでくる。

 その瞬間を見計らって、恭介の身体は、さらに全身を液化させた。


 ばしゃあんっ、という水音とともに、紅井の身体を半液化した恭介の身体が包み込む。大きな異物が入り込んでくるような感覚だ。さすがに、その華奢な身体を抱きとめるような感覚にはならない。完全に全身をスライム状態に変えた恭介は、密度を圧縮させて、紅井の身体を固定しようとする。


『お上手お上手』

「茶化すな! 凛も手伝えよ!」

『手伝ってるってば!』


 恭介の身体は今、直立したスライム人間のようになっている。その腹の中に、紅井明日香の身体を抱きとめている形だ。“王”は必死にもがいて、なんとか恭介の身体から脱しようとする。いや、既に脱しかけている。全身を半液化させたところで、紅井明日香の身体を留めておくには至らないのだ。


「明日香!」


 後ろの方から、春井の声がする。


「明日香、聞こえるか! もう一度、もう一度、出てきてくれ!」

「小賢しい……!」


 怨嗟のような声を漏らして、紅井の身体が恭介から這い出た。だが、その身体を完全に自由にはしまいと、今度は凛が踏ん張る。恭介の身体と凛の身体は既に分離しつつあったが、それでも全身の粘性で、這い出ようとした“王”を凛が押しとどめる。

 恭介も腕を伸ばし、紅井の肩を両手で押さえ込んだ。


『あ、あたし達……今、すごいカッコしてる……!?』

「ああ、してるな! 紅井の、ためだ!」


 そうとう奇っ怪な形状にはなっているだろう。そこでもう一度、春井が叫んだ。


「明日香!」

「紅井!」


 恭介も声を荒げる。


 春井と蛇塚の姿を重巡分校の中で見かけたのは、ほんの昨日のことだ。紅井のそっけない態度に苛立ちを顕にしていた。

 春井由佳は紅井明日香のことを助けたいと思っているし、その気持ちに嘘偽りはない。少なくとも春井にとって、2人の関係性は“友人”だからだ。例え、紅井がそう思っていなかったとしても、春井は紅井のことを本気で友達だと思っている。

 恭介にもその気持ちは、少しわかる。周囲がなんと言おうと、相手がなんと思っていようと、助けたい友達がいるのは恭介も同じだ。


「これ以上耳障りな声を……」

「おまえは引っ込んでいろ!」


 恭介は、苦々しく呟く“王”の頭を押さえ込む。


「紅井! 分校での春井と蛇塚のこと、覚えてるだろ! 春井にあんなこと言われて、ショックだったんじゃないのか! 俺にはわかるぞ!」


 嘘だ。恭介は、人の心がわからない。そう簡単に、変われるものではない。


 だが出まかせだとも思わない。あの時春井はこう言った、『あたしら、友達じゃなかったん?』と。

 それに応じる紅井の表情は、驚きに満ちたものだった。冷徹で酷薄なクイーンも、決して感情を持たない人形ではないのだ。それくらいのことなら、恭介にだってもう、十分にわかっている。


「明日香!」


 春井の何度目かの叫びに応じるように、紅井の身体がびくんと跳ねた。恭介の身体の中でもがく抵抗が、一瞬だけ弱くなる。


「今だ、佐久間!」

「うん!」


 瑛の合図に応じて、佐久間が目を閉じ、片腕を伸ばす。その後に見開いた目を、恭介は直視しそうになった。

 しそうになった、というのは、ギリギリのタイミングで凛が強制的に恭介の視界をずらしたからだ。わずかに視界を掠めただけで、心の浮つくような感覚が浮かび上がり、同時に佐久間の笑顔がやたらと脳裏にフラッシュバックするような感覚があった。なぜか凛に申し訳ないような気持ちになって、恭介は首を左右に振る。


 あ、これが《魅了》か。


 少しばかり間抜けな感想を抱く。


 そうだ、これが佐久間祥子の持つ、サキュバスとしての真の力だ。

 彼女はその力を、友人に対して使用している。その是非を問おうと考えるほど、恭介は場をわきまえないわけではない。何よりこの状況をよしと思っていないのは、佐久間の苦しそうな表情を見ても明らかだ。

 だが、“王”に乗っ取られた紅井の身体を留めておく手段は、もはやそれしかない。エクストリーム・クロスですら、完全な足止めにはならないのだ。


「明日香ちゃんっ……!」


 佐久間が小さな声で叫ぶ。


「その程度の力で、私を押さえ込もうなど……!」

「しぶとい……!」


 それでも“王”も負けてはいない。一瞬の隙をついて入り込んできた支配に、“王”の意志が拮抗している。

 紅井明日香の心を主戦場にした、両者のせめぎあい。だが、これ以上の拮抗は、彼女の心に悪影響を及ぼしかねない。


「凛! 離れるぞ!」

『あいよー!』


 恭介と凛はエクストリーム・クロスを解除する。スライム状となり、紅井明日香の身体を拘束する凛の中から、空木恭介が飛び出した。


「佐久間! 俺も力を貸す!」

「………!」


 佐久間はぴくりと眉を動かしたが、一切の返事はしなかった。恭介は、佐久間の隣に回り込んで、彼女の肩にそっと手を乗せる。

 ビッグバーストの要領だ。恭介のスケルトンの指先が、佐久間の白く柔らかい肩にわずかにくい込む。フェイズ2能力《特性増幅》によって、佐久間祥子の持つあらゆる能力が飛躍的に上昇していく。


「ぐうっ……!」


 紅井明日香の声帯を通じて漏れたその声は、王の苦痛の悲鳴だった。


「明日香ちゃんの身体から……!」


 佐久間の全身から揺らめくエネルギーが、周囲の木々や草花を大きく揺らしていく。

 《魅了》とは、果たしてどういった能力なのだろうか。恭介は未だによく理解できていない。今回の件にしたって、紅井明日香の肉体に、あるいはそこに眠る彼女の魂に対して働きかけているのか、あるいは紅井の身体をどこか遠くから操っている“王”に対して効果を生み出しているものなのか。それすらわからないのだ。

 だが、今この時点で、その場にいる全員の瞳は、完全に佐久間祥子へ向けられていた。春井も、瑛も、凛も、恭介も。一瞬たりとも、彼女の身体、両足を広げてしっかり大地にたち、強い意志とともに右腕を掲げる彼女の肢体から、目をそらすことができなかった。


 恭介によって増幅されたその力を、最後のひと押しとするように。佐久間は力強く叫ぶ。


「出ていけえっ!!」

今章はあと2話で終了予定です。

次回更新は28日……に、できるといいなぁ。

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