第62話 蒼海を朱に染めて(後編)
※現在4章を読みすすめている方へ
平素より人外転生をご愛読いただきありがとうございます。
この4章なんですが、8月18日あたりを目処に一気に改稿を行う予定です。
改稿といっても細かい展開の修正や入れ替え、冗長な描写の削除がメインになり、全体の流れに変化はありません。
「王ッ!」
翼を広げて飛び去った紅井の身体を見上げ、ポーンの1体が追従しようとする。強引に押し留めたのは、横合いから殴りつけてくるような、豪林元宗の拳であった。
「行かせん……!」
「ぐっ……!?」
全長3メートル近いオウガの巨躯。黄金色の闘気を纏うその右腕は、丸太のような太さを持つ。クラスの中でも図抜けた戦闘能力を持つゴウバヤシは、完全に1対1となる形で、ポーンと対峙していた。
“王”の逃走。正確には、カオル達の追跡だ。それを追うようにして、佐久間と春井たちも、続けて甲板を飛び立った。カオル達の目的は、吸血鬼の逃走用に手配された船を破壊することであり、“王”の目的はそれを阻止すること、そして佐久間たちの目的は、その“王”を足止めすることである。
重巡分校の甲板は、既に乱戦状態となっていた。残るポーンは3体。その3体を、確実に撃破しなければならない。ここで逃がすわけには、行かないのだ。ゴウバヤシは、残るポーン達の中で、もっともダメージの少ない個体に挑んでいた。
ゴウバヤシの拳を辛うじて回避したポーンは、両手の間に黒い稲妻を奔らせながら、こちらを睨んだ。
吸血鬼のポーンに、ゴウバヤシは一度敗北を喫している。拠点を離れ、カオルコ達と大陸の荒野を歩いていた時のことだ。相手の放つ黒い稲妻に身体の自由を奪われ、気を失うまで叩き伏せられた。こうして生きているのは、人間の騎士達による介入があったからに他ならない。幸運の賜物だ。
その際にいた妙齢の女騎士にかくまわれ、傷が癒えるまで人間の領地で過ごした。わずか一週間にも満たない間の出来事だが、傷が癒える頃には、吸血鬼と互角以上に立ち回れるその女騎士に稽古をつけてもらい、心技体の向上に努めた。
結果、今の自分がいる。
ゴウバヤシも拳を握り、ポーンを睨み返した。
“闘気”自体は、自らのフェイズ2能力によって発現したものだ。ゴウバヤシと交流した騎士たちは、いずれも自らの鍛えられた肉体と、名匠によって鍛えられた得物を武器としていた。ゴウバヤシの持つ超重量のマントも、先ほど放ったドロップキックも、その女騎士から与えられたものである。
「(自分の成長をここで試す……。いや、そんなものでは、ないな)」
握った拳は、友の為のものだ。
結局自分は、自分の中に巣食う“鬼”を捨てられない。豪林元宗は、寺の息子でありながら、幼少時より手の早いところがあった。大柄な体躯も相まって喧嘩にはめっぽう強く、自制心を得るために始めた拳法と、経年による落ち着きを得て、徐々に丸くはなっていったものの、それでも強い者と拳を交えて戦うことに小さな悦びを見出す部分があった。
その結果が、この姿であるというのならば、是非もない。
自分の魂の在り様など、今ここには関係ない。
目の前の敵を、倒す。倒さねば、また誰かが犠牲になる。
そのシンプルな事実が、ゴウバヤシの心の中に生まれた、あらゆる疑問を断ち切る。
「行くぞッ!!」
ゴウバヤシは、甲板を蹴りたて、ポーンに向けて勢いよく肉薄した。ポーンは両腕に纏った黒い稲妻を放つ。黄金の闘気を纏った大胸筋が、その稲妻を受け止めた。身体の痺れるような感覚があるが、それは、ゴウバヤシの巨躯を足止めするには至らない。
「ふゥン!!」
ぶぉん、と空気を引き裂き、拳が唸る。
拳は僅かな抵抗を振りきって、音の壁をぶち破った。放たれた拳が、ポーンの黒甲冑へと激突する。他の生徒のあらゆる攻撃を寄せ付けなかった甲冑に、ぴしり、とひびが入った。ポーンの表情が、衝撃に大きく歪む。
「おおおおおおおッ!!」
続けて2発目。左の拳が、ヒビの生えた箇所をガードしようとクロスされた腕に、叩きつけられる。
「ぐぅっ……!」
やや下方から、すくい上げるような一撃だ。ポーンの身体は、一瞬宙へと浮かび上がる。
ゴウバヤシは、浮かび上がった甲冑に更なる追撃をくわえようと膝を打ち込む。撃ち込んだ直後、膝を伸ばして横なぎに振るい、吸血鬼の身体を蹴り飛ばした。甲冑に身を包んだポーンの身体が、壁に激突する。
それでもポーンはすぐさま立ち上がり、黒い稲妻を両腕で練りながら、ゴウバヤシを睨んだ。やがて稲妻は収束して一本の槍のようになり、ポーンはそれを投射するように放つ。回避運動を行おうかと動いたゴウバヤシの脳裏に、背後の乱戦がよぎる。避けるわけには、と足を止めた瞬間、厚い胸板に黒い槍が突き立てられた。
「………ッ!!」
槍は心臓や肺までは到達していない。隙を突くように、ポーンは2本目の槍を生み出した。このまま遠距離から攻め続けるつもりらしい。間髪おかずして放たれた2本目を弾くため、ゴウバヤシは闘気を右腕に集中させる。
「ふゥンッ!!」
「なにっ……!」
投射された黒い槍を、手刀で叩き落とす。ポーンが怯んだ瞬間、ゴウバヤシは胸に突き刺さった槍を引き抜き、投げ捨てる。もともとエネルギー体だった槍は、空中に溶けるようにして消えて行った。
ゴウバヤシは、黄金色の闘気を更に右拳へと圧縮していく。
この黄金のエネルギー体を“闘気”というのは、竜崎たちの部屋に残された資料に書かれていたことだ。紅井が残した、フェイズ2能力に関する覚え書き。そこには、ゴウバヤシのフェイズ2能力が《闘気覚醒》であると書かれていた。
一方、セレナという人間の少女が書き残したメモにも、闘気と呼ばれるエネルギー体についての記述は存在した。生命エネルギーを戦闘に転用したものであり、大陸の東側の方では、これを使う戦闘民族がいるという。
資料を読む限り、闘気の使い道は様々だ。身を覆う鎧にもなれば、武器にもできる。今、ゴウバヤシは全身を覆っていた闘気をすべて右の拳へと集約させていた。全身の守りが、完全に疎かになる。更に目を閉じ、精神統一を図る。
戦場では、わずか数秒の隙さえも命とりになる。だが、ゴウバヤシはその数秒をすべて、闘気の強化へとつぎ込んだ。貴重な数秒間を、ただ一撃のために費やす。右拳を覆う闘気が、周囲の風さえ巻き上げて、ごうごうと音をたてていく。
かっ、と目を開く。ポーンが、ゴウバヤシに向けて、3本目の黒い槍を放つのが見えた。
「うおおおおおおおおッ!!」
ゴウバヤシは拳を振りかざし、ポーンへ向けて突撃する。大きく引き絞った拳をまっすぐに突き込み、それによって黒い槍は粉砕される。大股で、右から一歩、二歩、そして三歩。
三歩目の踏み込みと同時に、ポーンの胸元に拳が突き立てられた。
「がはぁっ……!!」
吸血鬼は、心臓部を破砕すれば死ぬ。容赦のない一撃は、その助言を忠実に実行した。
ポーンは決死の形相で、ゴウバヤシを睨む。口から吐いた血反吐を被り、ゴウバヤシは冷静に見返した。
「……! ……!! ………」
何かを言おうとし、しかし喉から言葉が出ることはなく、ポーンはやがて動かなくなる。
ヒトに近しい者を殺した。ヒトと意思の疎通ができるものを殺した。
ゴウバヤシは、やがて灰となり、かつてヒトであった痕跡すら残さない者に、静かに両手を合わせた。
「てめぇ……どうして生きてる!!」
片腕を失ったポーンが、まるで理解できない者を見るかのような目でそう叫ぶ。
ハンデのある相手を回されたことは、原尾真樹にとっては甚だ遺憾ではあった。自然と1対1に持ち込まれたこの流れは、2年4組のクラスメイトの人数が、初めて有効に機能した証でもある。だが、五体満足の敵はゴウバヤシが相手をすることになり、自分の担当として回されたのは、片腕を欠いたポーンだった。
まあ、良い。民に花を持たせるも、大事なことではある。
原尾は、折れたアンクを掲げながら、ポーンの問いにこう答えた。
「我は育ちが良いのでな」
「ふざけろっ……!」
ポーンは、黒い稲妻をエネルギー状にして投射する。原尾の眼前に展開された半球状の障壁が、稲妻を阻んだ。
魚住妹による回復魔法のおかげで、調子は戻ってきている。水属性精霊魔法による回復は、白馬の使う生命魔法に比べて効果は大きくないものの、原尾のようなアンデッドにも効果があるので助かる。その魚住妹は、まだ甲板に残って負傷した生徒のリカバリーに回っていた。
「1対1ともなれば、容赦はせん」
「ちっ……!」
遠距離戦闘では不利と判断したのか、ポーンは片腕ながら、一気に原尾の方へと肉薄してくる。素早く繰り出されるポーンの拳を、しかし原尾は片腕で払う。思わず前につんのめったポーンの背中を更に払って、土をつけた。
傷は癒えたものの、全身の壊れてしまった装飾や、破れた包帯などはまだ直っていない。まるで墓荒らしにあったかのようにみすぼらしい出で立ちだが、原尾は胸を張り堂々としていた。両腕を背中に回し、大股で歩いていく。
「てめぇっ……!」
ポーンは背後から殴りかかってくるが、原尾は両手を背に回したまま、ひらりひらりと避けていく。
「気取ってんじゃ……うごっ」
皆まで言わせず、放たれた裏拳が顔面を鞭のように打つ。原尾が更に追撃を加えようと蹴りを入れるが、崩した体勢を持ち直し、ポーンはその蹴りをしっかりと受け止めた。
「む……」
原尾の身体能力は決して卓越しているわけではない。なので、基本戦法は受け流しが主流だ。相手の攻撃の隙をついて素早く打撃を加え、バランスを崩したところに追撃をかける。なので、体勢を立て直されると、今度はこちらが致命的な隙を晒すことになる。
ポーンは片腕で原尾の足をすくい、甲板へとひっくり返した。倒れた隙に間髪を入れず、黒い稲妻を放つ。稲妻は原尾の方へと伸びて、その身体を塗りつぶすように覆った。
「は、原尾くん!」
魚住鱒代が名前を叫ぶ。
「心配は無用だ」
だが、原尾は欠けたアンクを掲げ、稲妻を放ち続けるポーンの身体を吹き飛ばす。
「て、てめぇ……っ! なんでそれで動けるんだ……!」
それでもなんとか立ち直りながら、ポーンが怨嗟の言葉を漏らす。
「黒紅気はモンスターの動きを止めて、無力化できる攻撃じゃなかったのか!? なんでてめぇは……」
「教養の差だ」
原尾はあっさりとそう告げると、両腕を胸の前で交差させたまま、ゆっくりと立ち上がる。全身を伸ばしたまま、まるで糸に引っ張られるかのような不気味な立ち上がり方である。そしてまた左腕を背に回し、右手に握ったアンクを掲げた。
「我が友輩の眠りを妨げしものよ、原尾の怒りを受けるが良い」
呪文のように唱えたその言葉に応じて、ポーンの身体が、ゆっくりと宙に釣り上げられていく。黒甲冑の吸血鬼はじたばたともがくが、それ以外の抵抗をすることがまったくできない。原尾は宙に浮かび上がったポーンを睨むと、より一層の念力を込めた。
「むん!」
「がっ……!」
生命の源である心臓を、ぐしゃりと握りつぶす。ポーンは空中でその身体をびくりと跳ねさせると動かなくなり、そのまま灰になったようにサラサラと崩れていった。
「………」
原尾は両腕を背中に戻し、吸血鬼の崩れた灰をじっと眺めていたが、やがて糸が切れたかのように、甲板に身体を投げ出した。
「原尾くん!?」
魚住鱒代が、甲板の上を滑るようにして駆け寄る。
「おい原尾!」
「原尾くん、しっかりするんだ!」
「原尾くん!」
蛇塚や半馬、画原なども駆けつけ、倒れ込んだ原尾の上体を起こした。
が、その直後、原尾のつけた黄金のマスクの下から、図の太そうないびき声が聞こえてくる。一同はいきなり気まずくなって、顔を見合わせた。原尾の上半身を起こしたマーメイド魚住が手を離すと、後頭部を甲板に思いっきりぶつけながらも、原尾はのんきにいびきをかき続けていた。
「ふおおおおおおおッ!!」
「ちいっ……!」
奥村渾身のぶちかましが、重傷を負ったポーンの身体に激突する。
相手は手負い。こちらは多勢。その条件下でなお、戦力は拮抗していた。フェイズ2に覚醒していない生徒と、血族のポーンの間には、それほどまでに戦闘能力の開きがある。ポーンは胸元に握りこぶし大の穴を開けていたが、両腕で奥村のタックルを受け止め、力技で強引にねじ伏せる。
「蛮勇だな、この程度で……!」
「がああっ!」
ポーンの両腕から、黒い稲妻が走る。奥村は悲鳴をあげて、膝をついた。
「………ッ!」
その瞬間、ポーンのちょうど死角にあたる部分から、球体がカーブを描くように射出された。御座敷童助の、気配を消しての必殺シュートであるが、ポーンは口元の薄笑いを浮かべて、わずかに上体を逸らした。蹴鞠はポーンに激突することなく、わずかに掠めていくのみだ。
「焦ったか? 殺気を消しきれていないな」
「いや、これで良いデブ」
しかし、笑ったのは奥村の方だった。
「なに……」
ポーンが視線を向けた先には、先程までは存在しなかったはずの壁があった。ずっ……とゆっくりと動いた壁は、まるで羽子板のように蹴鞠を弾き、弾かれた鞠は甲板の隅に置かれた宝箱へと向かう。箱の上蓋が勢いよく跳ね上がって、ボールを高く打ち上げた。
ぬりかべの壁野千早と、ミミックの箱入葉子である。彼らが何をしようとしているのかわからないままに、しかしポーンは目論見を阻止しようと、奥村の身体を突き飛ばす。
「行かせないんだから!」
伸びてきた蜘蛛の糸が、ポーンの腕を絡め取る。アラクネの蜘蛛崎が伸ばした糸を、キキーモラの木岐野が、《機織り》の力で強くする。その瞬間に、打ち上げられたボールに向けて、御手洗あずきが水属性魔法で液体によるコーティングを行った。
「こいつ……!!」
ポーンは苛立ちも顕に、腕に巻き付いた糸を引っ張る。非力な女子2名は悲鳴をあげて引きずられそうになるが、オウガのゼクウが唸り声をあげながら綱引きに参加した。力はわずかな間のみ、拮抗する。
「白馬、行けぇっ!」
「おりゃあああああああッ!!」
甲板の床を蹴りたて、白馬に跨った剣崎が駆け抜けた。象をも突き殺すというユニコーンの角が、もう一本の腕で蜘蛛崎の糸を引きちぎろうとする、ポーンの腕めがけて突き込まれる。剣崎の剣は、その反対側から、腕を挟み込むように振り下ろした。
「でええええいッ!!」
果たして、甲冑の関節面を狙いすました両者の攻撃は、ポーンの腕を一本、叩き落とすことに成功する。
「ぐっ、き、貴様らっ……!」
「やれぇっ! 雪ノ下!!」
ポーンの攻撃圏内から離脱して、剣崎が叫んだ。
宙に高く打ち上げられたボールをめがけ、バレー部員の熱血雪女、雪ノ下涼香が跳躍する。彼女の周囲を取り巻く冷気が陽光を受けてキラキラと輝き、ボールをコーティングする水を固めていく。
「バスタースマァーッシュ!!」
雪ノ下の放った渾身のスマッシュ。だが、ポーンは再びそれを避けた。水と冷気でコーティングされたボールは、足元の甲板に着弾する。それを見て、甲板に着地した雪ノ下は半分ほど溶けながら、腕を組んで不敵な笑みを浮かべた。
「マイナス1兆2000万度の冷凍光線、何が起こるかわからないわよ!」
「そんな温度はない!」
「しかも半端!」
総ツッコミを受ける中、果たして雪ノ下の宣言通り、着弾したボールは冷気を弾けさせ、ポーンの足元を一気に凍りつかせる。
「なにっ……!」
ポーンの声が驚愕に彩られた。熱帯の海洋国家に突如として召喚された銀世界。膝上のあたりまでを氷に覆い尽くされ、ポーンは完全に、身動きがとれなくなる。
「よしきた、みんな避けろ!!」
五分河原の叫びに応じ、そのポーンと戦っていた生徒たちは、一気にバラバラと退避していく。
五分河原と彼の指揮するゴブリン部隊が、銃座についている。360度回転する機関銃の銃口は、身動きの取れないポーンへと向けられていた。全員の射線上からの退避を確認してから、五分川原は上げた片腕を振り下ろす。
「撃てェェ―――ッ!!」
甲板に並べられた25mm機銃から、弾丸が一斉に吐き出される。弾丸は、激戦によってヒビの入ったポーンの黒甲冑に、最後のトドメを加える結果となった。やがて甲冑は砕け、分厚い装甲で守られていた心臓部に、鉛玉が殺到する。
断末魔すら轟音にかき消される中、いくらかの生徒は目を背け、いくらかの生徒は顔をしかめながらも最後まで見届けた。
「やめ!」
五分河原の指示で、ピタリと銃撃が止む。氷に包まれたポーンの身体は、いつの間にやら完全に灰に返っていた。
「……か、勝ったの……か? 私たちの力で……」
剣崎がおそるおそる呟くと、白馬も頷いた。
「どうやらそうみたいだ」
「友情の勝利ね、素晴らしいわ」
拳を握って不敵に笑う雪ノ下の身体は、もうドロッドロである。
「おい五分河原、甲板に銃弾打ち込むなっつったろ! おかげで床がボロボロだ!」
「悪い悪い暮森、ああするしかなくってさぁ……」
見れば、ゴウバヤシと原尾も、それぞれ相対するポーンを倒したところであるらしい。分校を襲撃してきたポーン達のうち、3人は撃破に成功したのだ。うち2人は手負いであったとは言え、これは大快挙と言える。
生徒たちはひとまずの万歳三唱をはじめた。だが、剣崎は険しい顔で空を見上げる。
分校を守りきることには成功した。だが、紅井の身柄が奪われてしまってはなんの意味もない。
佐久間の指示は、逃げたポーンのことを懸念してのものだ。つまり、ここで佐久間たちが紅井を取り戻したとしても、ポーンがこのデルフ島から逃げ出してしまっては、なんの意味もない。
もちろん、ここまでの規模の戦闘を起こしてしまっては、竜崎たちにもなんとかベルゲル酋長ら島民の信頼を勝ち取ってもらわなければならない。
「(戦いはまだ続く、か……)」
剣崎は唇を噛んで、級友たちの健闘を祈った。
紅井のスピードで逃げられた場合、追いつけるかどうか。佐久間はそこが不安ではあったが、彼女の背中は徐々に大きくなってきた。あるいは渇血症によって、身体能力のパフォーマンス自体が低下し始めているのかもしれない。このまま放置すれば、彼女の生命活動自体にさえ、大きな影響を及ぼす。
佐久間祥子と春井由佳は、王に乗っ取られた紅井明日香の身体を追いかけていた。
紅井の身体自体は、30分もすれば元に戻る。問題は、その身体で先に逃げたポーンと合流されることだ。“王”が合流すれば、カオルや魚住たちでは対抗する術がなくなってしまう。もし紅井の血をなんらかの形で奪取することに成功したとしても、“王”がいればその血をまた抜かれてしまう。
その“30分”が経過するまで、どれだけの時間がかかるかはわからない。だからこそ、佐久間たちは、これ以上“王”を進まないよう、足止めをしなければならない。
「うおおおおおっ!」
春井は翼を広げ、勢いよく加速した。神成ほどではないが、彼女の最高飛行速度もなかなかに速い。
「明日香を、返せええっ!」
春井の空中タックルを受けて、しかし“王”は動じない。代わりにわずかに減速して、春井の首根っこを思い切り掴み上げた。
「がうっ……」
「邪魔をするな……!」
「《邪炎の凶爪》!!」
佐久間は呪文を唱え、黒い炎を“王”にぶつける。王はそれを避けきることができず、春井の首を手放した。春井は再度タックルをかまして、紅井の身体を地上へと叩き落とす。木々の枝をへし折るようにして、紅井明日香の身体がデルフ島の密林地帯に落下した。
やはり、身体能力は徐々に低下しつつある。紅井の身体にも限界が近いのだ。弱体化している、ということ自体は朗報だが、これ以上、“王”に紅井の力を使わせるわけにはいかない。佐久間と春井は、落下した“王”を追いかけて密林へと降り立つ。
「ずいぶんとしつこいな……」
“王”は、紅井のセーラー服についた土を払いながら、そんなことを言った。
「これ以上先へは行かせません。明日香ちゃんを返してもらいます」
佐久間は毅然とした態度で言うが、紅井の顔は無表情のまま鼻を鳴らした。
「君たちの所有物でもあるまい」
「てめーのモンでもねぇだろうが!」
「いや、私のものだよ」
いきりたつ春井に、“王”は小馬鹿にしたような声で言う。
「明日香は私の所有物だ。君たちにはこれ以上、いいようにされたくない」
「てめえっ……!」
春井が怒りに任せて翼を広げる。突撃しようとする彼女を、佐久間がたしなめた。
「待って、春井さん!」
だが、遅い。春井は佐久間の制止に先んじて、“王”へと飛びかかる。
「ふふ、まるで猪だな……」
“王”に操られた紅井の身体が、ゆっくりと腕をあげる。直後、紅井の足元に生まれた黒いエネルギー体。ほかの吸血鬼たちが使っているところを、何度も見たそれが、不気味な紋章の形を作り出した。“王”が前方につきだした腕を更に押し込むと、足元に生まれた紋章が、春井の身体に押し付けられる。
「うあっ……!」
またも、春井の悲鳴。
同じ黒色のエネルギー体にしても、その使い方が段違いだった。紅井の身体をもって生み出されたその紋章は、春井の身体を磔のように固定する。“王”がくいっと腕を引くと、磔にされた春井の身体が、“王”に向けて吸い寄せられるように飛んだ。
「ふっ……!」
「があっ……!」
飛んできた春井の身体に、王は容赦ない蹴り込みを入れる。再び春井の身体は、紋章の壁へと激突した。王はつかつかと磔にされた春井に歩み寄ると、うなだれた顔を髪を掴んで引っ張り上げ、無防備な腹に向けて更に膝蹴りを叩き込んだ。
「ごあっ……!」
春井が、目を見開く。佐久間は思わず叫んだ。
「やめて!」
“王”は、紅井の身体で鼻を鳴らす。
「君たちが追ってきたのが悪い。心配は無用だよ。痛めつけるが、殺しはしない……」
「それ以上力を使ったら、明日香ちゃんの身体にだって影響があるんじゃないんですか!?」
紅井の肉体は、渇血症を患っている。力の行使によって因子が基底状態に戻るのなら、症状はどんどん進行しているはずだ。そしてそれは、やがて吸血鬼の生命活動そのものにも、影響を及ぼすようになる。
「なに、後遺症が残ったところで半身不随だ。むしろそうなれば、明日香が私のところから逃げ出す危険も減るし、良いことだと思うけどね」
“王”に操られた紅井の指先が、ゆっくりとその身体のラインをなぞっていく。不快な光景だった。佐久間は、春井を、そして紅井を助けるために攻撃魔法の呪文詠唱を開始する。
紅井を助ける手段はある。だが、そのためには、一瞬でも“王”の支配から、彼女の意識を取り戻さなければならない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが大きすぎる。万全を期して挑み、チャンスは1度。まずは春井を救助する。
だが、
ここで春井を助けだしたところで、果たして“王”の隙を作り出すことはできるのだろうか。
“王”は、紅井の身体がどうなろうと、その力を緩めるつもりはないらしい。渇血症の進行によって力をセーブしてくれるわけではない以上、正面からぶつかり合うのは危険なのだ。そこは、誤算があった。
ならば、
「《邪炎の凶爪》!!」
佐久間は天に向けてその魔法を放った。黒い炎は、木々の合間をくぐり抜けて蒼穹へと届き、大空で弾けた。
次回投稿は明後日(19日)朝7時です。




