第58話 王の足音
※現在4章を読みすすめている方へ
平素より人外転生をご愛読いただきありがとうございます。
この4章なんですが、8月18日あたりを目処に一気に改稿を行う予定です。
改稿といっても細かい展開の修正や入れ替え、冗長な描写の削除がメインになり、全体の流れに変化はありません。
それでも、彼我の戦力差は圧倒的だ。
最下級クラスたる“ポーン”とは言え、黒甲冑のおかげで、そのあたりのモンスターよりはよほど上等な戦闘能力を獲得している。
加えて、こちらの数は5人。
いかに相手がアタリ種族にアタリ能力を引いていたといえど、この戦力差を覆すのは不可能だ。さほど苦戦することもなく蹂躙できると踏んでいたし、事実、そうなった。
「だから言っただろう。命の無駄遣いだと」
デルフ島の沖合に浮かぶ重巡洋艦。クイーンの身柄を奪取するため、そこを襲撃したポーンの1人は、目の前に倒れ伏すボロ雑巾のような男を睥睨して、そう呟いた。
マミーの上位種たるファラオに転生したこの男は、卓越した念動力を以って彼らの行く手を阻もうとしたのである。実際、彼の力は大したものだった。不可視の壁をぶち破るには、5人の膂力をもってしてもまず、無理だったのである。これが1対1なら、絶望的な戦いを強いられていただろう。
だが結局のところ、このファラオもポーン1体とせいぜい互角程度の実力しか持ち合わせてはいなかった。壁の出現に力を注いでいる間、本体はほぼ無防備である。あるいは、自分自身が壁の向こう側に退避していれば話は別だったのかもしれないが、このファラオはあえて身体を壁の外に晒すことで、ポーン達の攻撃を誘発しているような節が見受けられた。
時間稼ぎのつもりだったのか。
あるいは、1人で5人を相手取る自信があったのか。
だがそのいずれにしても、叶うことはなかった。
ポーンの呼びかけにも、ファラオは答えない。うつぶせに倒れふしたままである。全身の装飾品が弾けとび、包帯が破け、黒ずんだ素肌を晒していた。黄金の仮面だけはやたらと頑丈にできているのか、ヒビひとつ入ってはいない。
「こいつ、死んだんですかね」
ポーンの1人である浅緋が、ぽつりと呟いた。
「さぁな。だがもう動けんのは確かだ。船内に入ってクイーンを探しに行くぞ」
その身柄の奪取こそが、もっとも優先すべき目標ではある。
ポーンたちが船室に向けて歩き始めたとき、背後から凄まじい衝撃が襲いかかった。
「ぐおっ……!?」
「ひいっ!?」
振り返れば、まるで糸に吊るされたかのように、ファラオがゆっくりと起き上がろうとしているところだった。黄金のマスクに表情は浮かび上がらない。だが、ファラオは、右手に持った折れたアンクを掲げ、不可思議な力をもってポーンたちに向けて攻撃を開始したのだ。
「こ、こいつ、やっぱり生きて……!」
浅緋の悲鳴が、やけに耳障りに響く。
「だったら殺せばいい!」
一人の叫びに、ほかのポーンたちも頷いた。
黒紅気を収束し、槍のような形を紡ぎ出す。
黒甲冑は、本来何の戦闘能力も持たないポーンに、他の駒の力を擬似的に付与するものだ。
ナイトの持つ身体能力、ビショップの持つ黒紅気。そしてルークの持つ圧倒的な防御能力。
とりわけ使い勝手が良いのが、この黒紅気である。
「………!」
もはやファラオは言葉すら発することなく、折れたアンクを掲げた。
「死ねぇっ!!」
ポーンの1人が、槍を投射する。ファラオが念力を放つより早く、その槍は真っ直ぐに伸び、ファラオの胸部に深く突き刺さった。
「………!!」
槍の勢いは止まることなく、ファラオの身体を船室の壁に貼り付けにする。
続いて、ほかのポーンたちも次々と黒紅気による槍を放った。槍はいずれもファラオの身体に命中する。乾いた身体からは血も流れなかった。がくり、と、重いマスクのついた頭が項垂れる。手から力が抜け、折れたアンクが音を立てて甲板の床に転がった。
「や、やったか……?」
「手こずらせやがって……!」
「余計な時間をかけた……!」
ポーン達は口々に悪態をつきながら、それでも慎重にファラオから距離を取った。
倒した、殺した、死んだ、と確信した直後に起き上がり、不意を打たれたのは一度ではないのだ。これでトドメをさせた、という確信を持てる者は、ひとりとしていなかった。だが、ようやくファラオがその動きを完全に止めたことを確認し、一同は船の中へと進んでいく。
強敵だった、というよりは、不気味な敵だった。幾度となく倒しても、蘇るようにして立ち上がってくるのである。アンデッドモンスターというのはもともとタフなイメージはあるが、それでもあのファラオは郡を抜いているように思われた。
ポーン達が全員船内へと入ったあと、そのファラオの指先がまたピクリと動いたことに、気づく者はいなかった。
船の中に入ると、船員室と思われる扉が、左右にずらっと並んでいる。ポーン達は、そのうちのひとつひとつを慎重に開けていった。
「妙だな……」
一人のつぶやきに、ほかの面子も頷く。
「ああ、他のモンスターの姿が見当たらない」
冷静に考えて、この重巡洋艦の守りを固めているのが、あのファラオとインキュバスのみであったとは考えにくい。インキュバスが、インプなどの野生モンスターを手懐けていたとは言えだ。
アルバダンバで近々交易会が開催されることや、この重巡の生徒たちがそれに参加することは、朱鷺原から聞いている。生徒の大多数はそちらに回るらしく、重巡の守りが手薄になるだろう、という予測から、このタイミングで襲撃した。それを考えれば、人数が少ないこと自体は、そう訝しむものではない。だが、やはりあまりにも少なすぎる。
こちらの襲撃を察知して逃げたのか、あるいは息を潜めてこちらの隙を伺っているのか。どちらにしても油断はできない。
狭い通路を慎重に進み、扉を一つずつ開けていく。そんな時、一人の吸血鬼がふと声をあげた。
「おや……?」
「浅緋さん、何か見つかったか」
「ああ、いえ……。艦長室のようです。やたら広い部屋が」
浅緋の覗き込んでいる部屋を見ると、確かに他の船員室より広めに取られている。
ここにクイーンはいないようだが、代わりに大量の書類が見受けられた。机の上には、思った以上に正確なこの世界の地図があり、日本語で何かが書き加えられている。
「これは……」
ポーンの一人がそれを拾い上げ、言った。
「今後の予定進路か」
「アルバダンバを出たあとは、ヴェルネウス半島を目指すようだな」
その横から覗き込んできた仲間も呟く。
ヴェルネウスは、大陸の南東に大きく突き出た半島だ。帝国の支配地域から大きく外れているので、連中のようなモンスター軍団は比較的活動しやすい。矢印をたどっていくと、半島からそのまま北上して、大陸東部の森林地帯を目指すような進路が書かれていた。
「東ですか。連中、なにを目指してるんでしょうね」
「わからんな。闇雲に我々から逃げ回っているだけなのか……」
“アルバダンバのポーン”朱鷺原が、ビショップのアケノから指示されたのは、今後の連中の予定進路を割り出すことだった。連中の動きさえわかれば、血族側としても行動しやすい、という理由による。
クイーンの身柄さえ押さえておけば、どうとでもなる話ではあるのだが、覚えておいて損のない情報ではあるだろう。
「まだ気になる資料はたくさんあるが、まずはクイーンだな……」
その言葉に、ほかのポーンたちも頷く。彼らは部屋を出て、再び船員室を調べ始めた。
そう、クイーンだ。
血族のクイーン、紅井明日香。彼女の裏切りは、そろそろ王の耳にも届いているだろう。だが、王による支配権能は、その居城から遠く離れた場所にいるクイーンには効果がない。
血族因子のオリジナルを持つ王は、その因子のコピー品を持つ血族全員に対して、圧倒的な権能を持つ。どれだけ強く意思を保とうが、決して逃れることのできない鎖のような呪いだ。言ってしまえば、全ての血族は王の分身のようなものである。それはクイーンとて例外ではない。王の前に立ち、そして王がその気になりさえすれば、彼女の自由意思は奪われ、その身体は王の思うが侭となる。
無論、この支配権能も万全ではない。
王が相手を支配するには、その正確な居場所を知る必要がある。もっと具体的に言えば、その存在を明確に知覚している必要がある。だから、こうも離れた場所では、王も裏切り者のクイーンを操ることができない。
基本的に、王は血族に対し、その血を献上することを強制している。王は一度飲んだ血の味と匂いを決して忘れない。どこに居ようと、対象の居場所を正しく知覚できるようになる。血を捧げるということは、世界中のどこであっても、王にその存在を知覚されるという意味であり、そしてそれは血族にとって、永遠に外せない首輪をつけられるという意味でもある。
唯一、王に血を捧げていないのはクイーンだけだ。彼女は、王に目をかけられていた。元からあれだけ従順に接していたクイーンが裏切るとは、王も考えていなかったのだろう。
だからこそ、自分たちはクイーンの身柄を確保するのだ。彼女を王の御前にまで引きずり出せば、あとはどうにでもなる。王が支配権能を用いてクイーンに情報を吐かせることも、自害を強要することも、血を差し出させて完全な支配下におくことも、すべて可能だ。
もちろん、彼女も抵抗するだろう。そろそろ渇血症を発症しているころだが、それでもクイーンである。ポーンの自分たちでも、無事に取り押さえるのは難しい。人狼族の唾液を仕込んだナイフを装備してはいるが、それでも彼女の力を押さえ込めるかどうか。
身柄の確保が厳しい場合、血液の回収のみに留める。血液さえ王に届けることができれば、あとは同じことだ。その場合は、奥の手を使わざるを得ない。一同は浅緋を見た。彼が朱鷺原から託された血の瓶とナイフこそが、その奥の手である。
「頼むぞ、浅緋さん」
「はっはっは。任せてください」
ポーンたちは、やがて、ひとつの部屋の前に来た。中には、何かのいる気配がする。
おそらく、ここだろうか。そう思って扉に手をかけようとした、瞬間である。
彼らは、全身が総毛立つような感覚に襲われた。強烈な敵意と害意が、圧迫感となって頭を締め付けるような、そんな感覚である。身体中が硬直する。今にでも逃げ出したくなるような悪寒。そしてその源は、間違いなく扉の向こう側から発せられていた。
もはや疑いようはなかった。ポーンの1人が硬直を振り払って、扉を蹴り開ける。
そこには、セーラー服を着た一人の少女が、ベッドに腰掛けながらこちらを見ていた。
「ようやく見つけましたよ、クイーン」
「……何しに来たの?」
少女は、底冷えするような冷たい声で、そう言った。
腰のあたりまで伸びたストレートなロングヘア。だが、清楚な印象はまったくなく、どちらかといえば、抱くイメージは攻撃的だ。切れ長の瞳の奥には、血色の怒りが渦巻いている。ポーン達は、その口元に自然と笑みを浮かべてしまっていた。全身が震え上がるような感覚がある。
「……あなたを、」
そのポーンは、かろうじて口を開くことができた。
「王のもとに、お届けするために来たのですよ」
「冗談はやめて」
少女は、きっぱりと言う。
「あの男のところには、2度と行かない。次に行く機会があるとすれば……」
クイーンは立ち上がって、こちらの方を睨みつけた。
「あいつの寝首を掻く時だから」
その直後、クイーンの全身から吹き出した黒い波動が、ポーン達の身体を容易く吹き飛ばす。彼らの身体は鎧ごと浮き上がり、そのまま壁に叩きつけられた。彼女は、本当に渇血症を患っているのか、と、疑問が脳裏をかすめる。それほどまでに、圧倒的な力だった。
だが、疑問はすぐに振り払われる。顔をあげてクイーンを見れば、彼女は顔に汗を張り、荒い呼吸を繰り返していた。普段のクイーンなら決して見せない姿だ。力の行使で、疲労が一気に襲いかかってきている。
やはり、今のクイーンは本調子ではないのだ。
「クイーンをなんとか取り押さえろ!」
ポーン達は、朱鷺原から手渡されたナイフを一斉に取り出した。こいつで傷をつければ、人狼に噛まれた時と同じ症状を引き起こす。残された因子も基底状態に戻り、渇血症が更に進行する。すべての吸血鬼因子が基底状態に戻れば、生命活動にまで支障をきたすレベルになる。そうなったら、いかにクイーンとは言えど、もはや人間の赤子よりも無力な存在だ。
その状態のクイーンを、ギリギリの段階で生かしながら王のもとへと運ぶ。
当然、一発では無理だろう。だが、一発当てれば確実にクイーンは弱体化するし、そのまま何度も何度も切りつけて行けば、その時は必ず訪れる。当初の予定はそれだった。
だが、
「舐め……るなっ……!」
怒気を孕んだ声とともに、クイーンが右手を掲げる。その腕から伸びた黒い波動が、真っ先に突っ込んでいったポーンの身体を縛り上げた。
「があっ……!」
狭い船室の中で、男の悲鳴があがる。その隙を突くようにして、別のポーンが、真横からナイフで切りつけようとする。
「………っ!」
「うおっ!」
クイーンは、縛り上げたポーンの拘束を解除し、素早く振られたポーンのナイフを、指の間で受け止めた。
ナイフの構造は、毒蛇の牙と同じ構造だ。内部に溜め込んだ人狼の唾液を、切っ先から分泌する。ゆっくりと垂れてくる透明の液体を見て、クイーンは目を細めた。
「……犬神が、行方不明になったって聞いたけど」
「察しがいいですな」
狭い部屋の中で、ポーン達が左右に離れにじり寄る中、一人がクイーンの言葉にそう応答した。
「ですが、しょせんイヌでしょう。あなたの他のクラスメイトとは違いますよ」
「……甲板にいたはずの、カオルと原尾は?」
「インキュバスの方は取り逃がしましたが、ファラオの方は抵抗したので、少し痛めつけさせていただきました。まぁ、おそらく無事ですよ」
「そう」
たった二文字の短い言葉には、それまでクイーンが発したどの言葉よりも、明確な怒りが込められていた。
クイーンは、片手の指でナイフを受け止めたまま、もう片方の手で抜き手の形を作る。ずわっ、という音がして、白く細い指の先端部から、毒々しいまでの血色の爪が伸びた。その場にいる全員が、クイーンの次に取る行動を理解したが、対応の間に合うものは一人もいなかった。
抜き手が、ポーン1人の胸元を貫く。甲冑を砕き、肋骨をへし折り、吸血鬼の命の源である心臓を破砕した。
「がっ……!」
男は悲鳴をあげ、白目を剥くと、そのまま灰のようにサラサラと消えてしまった。
クイーンが殺したのだ。ポーンの1体を、なんの躊躇もなく、一瞬で。
呼吸は荒く、今にも倒れそうなクイーンだが、抵抗する間さえ与えてはくれなかった。彼女がその気になれば、ここで全員を返り討ちにすることも、あるいは可能なのかもしれない。ポーン達は冷や汗を浮かべ、戦慄した。
こうなった以上、身柄の確保などという甘いことは言っていられない。血を奪い、逃走しようとしたところで、逃げられるかどうかも危ういところだ。
で、あれば、
作戦を切り替える必要がある。ポーン達の意識は、自然と浅緋の方へと向けられた。彼は、ナイフを2本所有している。
一本は他の者と同様、人狼の唾液を仕込んだタイプのもの。そしてもうひとつは、同じ構造を持つ血入りのナイフである。
このナイフはそもそも、ビショップのアケノが戯れに作ったものだ。本来の用途は、毒を相手の身体に流し込むような類のものではない。血族化のための、儀式の簡略化を追求する過程で誕生したものだ。すなわち、本来仕込むべきは、毒でも人狼の唾液でもなく、血族の血。それも新鮮なものでなければならない。
浅緋の持っているもう1本のナイフには、それが仕込まれている。
やれるか? 一同はクイーンを見る。
彼女は怒っている。血族の中でももっとも古い血筋である紅井家はプライドが高く常に物事に対しては余裕をもってあたる。常に優雅に。どんな時でも、自身の優位性を態度で表し、決してそれを崩さない。戦い方ひとつをとっても、そうだ。
それを、全身に汗を貼りつけながらも力を放ち、決して優雅とは言えない血爪による白兵攻撃を行うのは、渇血症によって押さえ込まれている為ではないだろう。彼女は怒っている。
一回。せめて一回で良いのだ。こちらのプランであれば、そう何度も切りつける必要はない。
「………!」
躊躇しているうちに、クイーンが動く。素早い踏み込みから、まっすぐに血爪を伸ばしてきた。そのポーンは身体を反らせてかろうじて回避をとるが、狭い室内である。逃げ場はない。すぐさま追い詰められてしまう。他のポーン達が、背後から紅黒気を使ってクイーンの身体を押さえ込もうとするが、すぐに跳ね返されてしまう。
そのポーンは、自らのナイフを握り、クイーンへと突撃した。クイーンは血爪で迎撃する。爪は容易く甲冑を砕き、胸元にえぐり込んだ。身体をひねらせて、辛うじて心臓への直撃は、免れる。血が気管に入って逆流した。喉から吹き出しそうになるが、クイーンはそれを被らないよう、空いた片腕で首を捻り、壁へと叩きつけた。船室の白い壁が、血で汚れる。
この瞬間、クイーンの両手は完全に塞がる。残った3人のポーンが、ナイフを抜いて一斉に駆け出した。
クイーンはポーンの胸元に突き刺した血爪を引き抜き、3人の迎撃態勢に入る。血爪を振りかざして、まず1人目のナイフを持った腕を切断し、2人目のナイフを片手で受け止める。そして最後、浅緋が突っ込んできた瞬間、やはり空いた右手の血爪で、ナイフを握ったその手首を、鮮やかに叩き切った。
腕の切断面から吹き出る血を、クイーンは真上からかぶることを嫌う。1人目の身体を蹴り倒し、3人目、浅緋の顎骨を砕いた。
「ふがあ!」
顎を砕かれた浅緋が奇声をあげる。彼が掲げたその腕には、もう一本のナイフが握られていた。
この一撃が当たれば、勝機はある。
クイーンの指先に生えた血爪が、浅緋の胸元を貫く。だがそれは先ほどの一撃同様、かろうじて心臓部を避け、致命傷は免れた。だがその直後、宙を裂くようにして刃がクイーンの肩のあたりを貫いた。
「……っ!?」
クイーンは片腕で押さえ込んでいた2人目のポーンと、浅緋の身体を蹴り飛ばしてから、肩に刺さったナイフを引き抜く。だがもう遅い。仕込まれた“血”は、既に静脈を通してクイーンの体内へと流れ込んだ。
そのナイフに仕込まれていたものが、人狼の唾液でないことに気づいたのだろう。クイーンはナイフを捨て、それを踏みつけてから、ポーン達を睨んだ。
「あんた達、まさか……!!」
「やはりおわかりですか」
胸を貫かれ、首を捻られたポーンが笑いながら、それでも、決して油断はせずに距離を取りながら、言った。
「それは朱鷺原さんの血ですよ。新鮮なものです。因子も励起状態にある」
吸血鬼因子は、決して万能ではない。抵抗意志によって押さえ込むことができる。だから血族化の儀式には、相手の抵抗をより押さえ込む必要がある。気絶させたり、眠っている間に行ったり、あるいは、従順な人間を対象にしたり。それを考えれば、この仕込みナイフは、注射器よりちょっと使い勝手がいいだけの代物でしかない。
しかし物事には例外がある。
吸血鬼因子を、既に血族化している対象に注入した場合だ。この場合、既に吸血鬼となっているため、意識で因子を押さえ込むことはできない。元からあった因子と、流れ込んできた因子の間に衝突が起こる。
因子の強弱は、吸血鬼としての血の濃さで決まる。血族誕生の瞬間から連綿と交配を重ねてきたクイーンの血筋は恐ろしく強く、血族化して1世代か2世代しか経ていないポーンは弱い。弱い因子が、強い因子の持ち主の身体に流れ込んだ場合、強い因子が弱い因子を駆逐する。
だから、この場合、クイーンに血を流し込んだところで、得られる変化は、一見して何もないように思われるのだが。
「発信機を埋め込んだようなものです。しょせんポーンの血ですから、クイーンのあなたの身体の中では長く持たないでしょうが、それでも2、30分は残留する」
すなわち30分、クイーンは王に、その存在を知覚される。30分ものあいだ、彼女の存在は丸裸となるのだ。
たった30分だ。それが過ぎれば、クイーンの身体から朱鷺原の血は完全に消え失せ、再び王は彼女の居場所を知覚することができなくなる。だが、30分もあれば十分なのだ。クイーンの血を回収し、彼女の攻撃可能範囲から逃げおおせるには。
「や、やめ……て……」
クイーンは、自らの額を押さえ、身体を折り曲げた。わずかに見えた表情は、苦悶に歪んでしまっている。
その言葉は、ポーンたちに対して向けられたものではないだろう。彼女の中に入り込み、身体を支配しようとする、別の意思に抗しようとする、儚い悲鳴に過ぎない。
「始まったか……」
こうなってしまえば、クイーンはもはや“敵”ではない。それは文字通りの意味だ。これから30分の間、クイーン紅井明日香は、自分たちの“敵”ではなくなる。
勝つには勝った。至善の策こそ取れなかったが、まぁ、及第点だろう。だが、勝利の喜びより苦い思いの方が強い。
まずは払った犠牲だ。ポーン1人程度、血族全体から見れば微々たる損害でしかない。だが、彼らにとっては同僚の一人だった。そしてなにより、次善の策とは言え、決して取りたくなかったこの手段を取ることになった、その事実がやはり苦い。
「あ、う……」
クイーンは頭を押さえ込み、苦悶の声をあげている。
「や、だ……。入って…‥来ないで……!」
苦悶はやがて悲鳴に変わる。だが、もう遅い。
「“王”に御足労いただくことになるとはな」
ベッドの上に身を投げ出し、やがて弱々しく呻くだけになったクイーンを眺め、ポーンは誰ともなしに呟いた。
ゴウバヤシと佐久間が重巡分校にたどり着いたとき、甲板は不気味なほど静まり返っていた。
激しい戦闘の跡は見られるが、そこには人っ子1人いない。この分校には、数人の生徒を残しているはずだ。甲板に、原尾とカオル。そして、カオルの率いるインプやサハギンの部隊。五分河原とゴブリンの部隊や、他にも数名の生徒が、紅井の護衛としてついていたはずなのだが。
姿が見当たらない、というのは、どうしたことだろう。
ゴブリンやインプ、サハギンなどの姿が見当たらないのは、おそらく統率者である五分河原やカオルがこの付近にはいない為だ。彼らはリーダーがいない場合、姿を潜めてじっとしていたり、リーダーを探してさまよい始める場合が多い。
「まるでゴーストシップだね……」
佐久間が、ぽつりと呟く。ゴウバヤシも無言で頷いた。
誰もいない。まさしく幽霊船だ。いつも生徒たちが顔を並べ、賑わっている甲板を知っているから、余計にそう感じる。一歩一歩歩くごとに、最悪のケースを想定して不安が募っていった。誰もいない、というのは、やはりおかしい。
だが2人は船室に近づいたとき、その壁に貼り付けにされたクラスメイトの姿を見て、息を飲んだ。
「は、原尾くん……!?」
無惨な姿で晒されているのは、間違いなくクラスメイトの原尾真樹だ。
原尾の身体には、五本の槍のようなものが突き刺さっている。一瞬、抜いて良いものかどうか迷ったが、彼の身体では失血死するということがない。槍を抜き、その身体を重巡分校の甲板に横たえる。原尾は、ぴくりとも動かなかった。
一体何があったのか。戦闘があったのは確実だ。その結果として原尾は負け、こうして貼り付けにされていた。ここには原尾だけではなく、丘間カオルもいたはずだが、彼の方は姿が影も形も見当たらない。
「ゴウバヤシくん、原尾くんは……」
佐久間が震える声で尋ねるが、ゴウバヤシはかぶりを振った。
「脈拍や呼吸の有無では生死を測れんからな。生きているのか、死んでいるのか、俺にはわからん」
言葉は冷静だが、声には強い怒りが滲んでいる。
佐久間は、ぐったりとしたまま動かない原尾の手を握り、それを胸の前で交差させてやった。今は、『原尾は死なぬ。ただ眠るのみ』という、彼の言葉を信じてやるしかない。
「カオルちゃんは……どこなんだろう」
「わからん。だが、カオルコがおらず、原尾が倒されているということは、つまり……」
「明日香ちゃんも……」
佐久間は息を飲んだ。既に遅かった。最悪のケースに移行してしまっている可能性がある。
いや、だが、絶望するのは早い。一気に萎えそうになる心をなんとか立て直し、次の建設的なアイディアを模索する。
まずは状況の確認を済ませるべきだ。紅井の安否も確認しなければならない。そして彼女が無事なら、この件について何かを知っている可能性が高いのだ。
「佐久間、おまえはここで原尾を見ていてくれ。俺は船内に向かう」
どうやらゴウバヤシも同じ結論に至ったらしい。佐久間は一瞬首肯しかねたが、それでもすぐに頷いた。中に敵がいる危険性を考慮すれば、佐久間がついていってもむしろ足手まといとなる可能性がある。
しかし、ゴウバヤシが立ち上がった直後、船内へと向かう扉が、がちゃりと開いた。
佐久間は身をすくめ、ゴウバヤシは構えを取る。
ぴんと空気が張り詰める中、扉の向こうから姿を見せたのは、意外な人物だった。
「……紅井?」
ゴウバヤシが、口を開く。
そう、それは、彼らが真っ先にその安否を気遣った、紅井明日香その本人に見えた。彼女が無事、ということは、襲撃者はなんとか撃退できた可能性が高い。だが、それにしては、やはりカオルの姿が見当たらないのが、妙である。
「紅井、状況を説明してくれ」
ゴウバヤシが彼女に歩み寄って、そう尋ねた。
「原尾は倒され、カオルコの姿は見当たらないが、おまえは無事だ。いったい、何が起こっている?」
「………」
紅井は答えない。ただ、笑みを浮かべている。
「紅井……?」
妙だ、と思ったのは、佐久間だけではなくゴウバヤシもだろう。紅井の浮かべる微笑は、それまでに彼女が見せた類のものとか、どこか異質であるように感じられた。沈黙が、違和感をじわじわと拡張していく。違和感はやがて、全身を這うような怖気へと変わっていった。
「(違う……)」
怖気が確信へと到達する。
「離れて!」
佐久間は、思った瞬間言葉に出していた。
「その子、明日香ちゃんだけど、明日香ちゃんじゃない!」
直後、素早く放たれた回し蹴りが、ゴウバヤシの巨体を吹き飛ばした。
次回投稿は明日朝7時です。
気になるところですが次回は竜崎パートと恭介パート、あと余裕があったらカオルコパートです。




