表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/115

第48話 乙女たちの宣誓

 心の中に、焦りのようなものがあったのは否定しない。


 結局、人間時代も、こちらに来てからも、自分は想いを打ち明けられずにいる。そうこうしている間に、空木恭介は姫水凛とどんどん距離を縮め、なおさら打ち明けにくくなってしまった。

 だからと言って、《魅了》を使うなんて、という思いがあったのは事実だ。そんなのフェアなやり方じゃないし、相手の気持ちを捻じ曲げてまで振り向かせたいわけじゃない。だいたい、そんなことをして、恭介と凛を無理やり引きはがそうだなんて思わない。凛といるときの恭介は、本当に楽しそうだからだ。


 それでも一瞬。ほんの一瞬だけ、自分の方を向いてくれたら。


 自分はサキュバスとして、今後もクラスに貢献していくことになる。いつまでも渾沌魔法による攻撃役というわけにはいかないだろう。それは決して、淫魔の本領ではないのだ。これから戦いは激化していくし、混戦ともなれば、敵を一時的にでも味方につける《魅了》の効果は絶大となる。


 いつかは、使わなければならない時がくるのだ。


 人間時代から、自分のことを『カマトトぶりやがって』と評価する声があるのは知っていた。

 佐久間だって、そこまで純情ぶるつもりはない。それでも、誰彼かまわず《魅了》を使うのは、どうしても気が引けた。だから今までは使わずにいた。もちろん、これで恭介を振り向かせるなんて、とんでもない話だと思っていた。


 それでも、いつかは使わなければならない。

 見たこともなければ、話したこともないような魔物を《魅了》しなければならない。


 だったらせめて、最初の一回は、好きな人が良い。


 佐久間の心を最後に後押ししたのは、そんな思いだった。


 丘間カオルは、好きな人を落とすのに《魅了》を使ったことはないし、使うつもりもないという。きっとそっちの方が正しいのだ。それでも、佐久間のやり方を否定はしなかったし、彼もまた後押しをしてくれた。《魅了》の使い方がわからないと言ったら、教えてもくれた。

 いっそのこと、そういう使い方は良くないと言ってくれれば、諦めもついたのだが。


 結局のところ、カオルの手伝いもあって、佐久間は最初に《魅了》を使う相手を、空木恭介に決めた。


 彼の心を蹂躙する行為なのかもしれない、とはわかっている。

 その効果が永遠に続くものでないことも、わかっている。

 威力は最小限に絞り込むつもりだ。彼の心から、一瞬でも凛の姿を消してしまおうとは思わない。ひょっとしたら、こっちを振り向いてもくれないかもしれない。


 それでも、最初の《魅了》は、恭介が良かった。


『良い、サチ。まずは相手に自分の目を見させるの』


 使い方の手順について、カオルはそうレクチャーしてくれた。


『ま、本当は別に見させる必要はないのよ。でも、自分の存在を相手にしっかりと感じさせることが大事なの。言葉に自信があるならそれでも良いのよ。でも、目を見させるのが一番確実だわ』


 人間時代から、恭介の顔を正面から見たことなんて、一度もなかった気がする。


 今の恭介はスケルトンだ。不気味でおどろおおどろしい、虚ろな骸骨人間。それでも正面から見れば、はっきりとそれが恭介だとわかる。空洞となった眼窩にも、視界というものはあるらしい。瞳の中に、自分の姿が映し出されていないことだけが、ほんの少し不安だったが。

 でも、できることなら、人間であった時に一度、彼の顔を前から見ておけば良かった。自分と同じで、決して冴えていると言い難かった空木恭介だが、その優しかった目つきだけは、覚えている。それでも、正面から見た姿を、今の恭介に重ねあわせることだけができない。


『恥ずかしがっちゃダメよ。こちらも相手を正面から見て、なんていうのかしら。目の前の子を自分のものにしたいって思いこめば、自然と《魅了》は発動するはずなの。ただ、その思いが強すぎると威力を絞れないから、ちゃんとそこは意識しなきゃダメよ』


 佐久間祥子は、恭介を見続けた。


 空木恭介が欲しい。正確には、彼の心が欲しい。全部なんて言わない。ずっとなんて言わない。ただ、ほんの一瞬だけでも、ほんのちょっとだけでも……。


「佐久間、」


 目の前に立つスケルトンがそう言ったので、思わず肩を震わせた。


「はっ、はいっ……」

「目、見てるけど……どうした?」

「えっ……? あ、えっ……?」


 スケルトンに表情はない。だが、その声は、わずかに困惑しているように感じられた。


 少なくとも、《魅了》の効果が表れているようには思えない。効いていないのか? それとも、発動できていないのか? 佐久間にはよくわからない。想いの力が弱かったのが原因なのか。それとも、もっと別の理由なのか。

 ただ、これ以上想いを強くして、恭介の心を根こそぎ全部奪ってしまうのは、たとえ一時的なものであるとは言え怖かった。佐久間の《魅了》実験は、効果を得ないまま、そこで止まってしまう。


「えっ、え、えぇと……。別にその、深い意味があるわけじゃなくて。えっと……」


 あるいは、あるいは、あるいは、そうだ。

 ちょっと前に話したフェイズ2能力《洗脳強化》。あれは、《魅了》の効果範囲を広げるものだと聞いていた。あれが発動していなければ、同性を《魅了》することはできないし、モンスターの種によっては効果をまったく及ぼさないという。


「何でもないのか? そうやって言いかけて引っ込めるのは、一番よくないらしいぞ」

「そ、そうだね……。ごめん……」


 でも、『今、あなたを洗脳してみようとしました』なんて、言えるはずもない。


 そう、洗脳なのだ。《魅了》は、精神操作系能力を強化する《洗脳強化》の恩恵を受ける。つまり、立派な洗脳なのだ。それをたった今、恭介にやろうとしていた。自分勝手な感情のために。最初の一人は、彼が良いという、ただそれだけの想いのために。


 言語化してしまえば、自己嫌悪が酷い。

 今、彼に効果がなくて良かったとさえ思う。


 ああ、だがきっと、この気持ちさえ一時的なものだ。

 またいつか、誰かを《魅了》しなければならないという話になった時、佐久間は最初の一回のことを考えるだろう。それが、好きでもなんでもないどこかの魔物だなんていうのは、絶対に嫌なのだ。


 じゃあ、せめて、本人に了解を取るのは、どうだろうか?


「ウツロギくん」

「おう、なんだ?」


 一度でいいから、私に、《魅了》されてください。


 そのひとことだけ言えれば良い。ダメだったら諦める。諦められる? 本当に? 自分の頭の中で、意識がぐるぐると渦を巻いている。だいたいこれでは、今まで自分が散々恐れて口にしなかった『愛の告白』と、なにひとつ変わらないではないか。

 拒絶されるのが怖い。断られてしまうのが怖い。かぶりを振られてしまうのが、怖い。


「きょ、今日、良い天気で良かったね!!」


 なんだ、それは。


 なんだ、その、ベタな誤魔化し方は。


 もっと他に、言いようはなかったのか。


「そうだな。海上キャラバンは嵐に流されたって聞いてたから心配だったんだけど、晴れてて良かった」

「うん……」


 恭介は、甲板の縁に手をかけて海原を眺めている。波は穏やかだ。視線の先には、広い水平線が広がっていた。


「で、本当は?」

「えっ?」


 不意を打たれて、佐久間は思わず顔をあげる。


「驚いたか。俺もな、人の心がわからないとか、空っぽとか、いろいろ言われて癪だったからな。竜崎を見習って、他の奴の考えを見抜く練習をしてるんだ」


 恭介は、ぐるりとドクロをこちらに向けた。


「佐久間はさすがに図書室からの付き合いだからさ。何か、隠してるのかなって。当たってた?」

「……ううん」


 佐久間は、小さく笑って、二度目の嘘をつく。


「そうか。俺もまだまだだなぁ……」


 やはり、《魅了》が効かなくて良かった。今でさえ罪悪感に押しつぶされそうだ。こんなに待ち望んでいた、彼との“何気ない会話”を、心のどこかで楽しめていない。


 いつかきちんと、断りを入れるべきだ。最初の1回は、恭介が良いのだと。きちんと決意を固めてから、改めてお願いする。恭介だけに言うのはフェアではないから、凛にもちゃんと言う。いや、瑛にも言った方が良いだろうか?

 断られるかもしれない。たとえ了承の上であっても、空木恭介の心に余計な干渉をしてしまうことには変わりないのだ。きっと凛も、良い気持ちはしないだろう。彼らのうちの、誰か一人にでも断られたら、諦める。


 諦めて、


 諦めて、それから、どうしよう?


 その時はスパッと、他のまったく知らない魔物を相手に、《魅了》を使うことを試せるだろうか。好きでもない相手の心を自分の物にしたいと念じられるだろうか。


「(その時に、考えよう)」


 佐久間祥子は目を閉じて、静かにそう思った。


 どのみち、今のままでは恭介に《魅了》は効かないのかもしれない。フェイズ2まで、自分の力を引き上げる必要があるかもしれない。これは自分の問題だ。そろそろ、自分も自分自身と向き合う時期が来ている。

 あるいは、それは問題の先延ばしであるかもしれないが、佐久間はどうにかして、恭介を《魅了》したいという気持ちを、先送りするしかなかった。





「微速前進! よーそろー!」


 五分河原の威勢のいい号令が、キャビンに響き渡る。竜崎は、腕を組んで正面を見ている。


 海上キャラバンの商船を追いかける形で、重巡分校も発進した。先導する船が帆船であるため、かなりゆっくりとした速度での進行となる。幸い、古城で入手したテレビゲームやボードゲームの類は充実していて、生徒たちの暇つぶしには困りそうにない。

 帆船に風を送ったり、水属性の精霊魔法を使って波を穏やかにしたり、と、生徒たちの役割もまだ数多くある。船を動かすうえでの知識はほとんどないので、ウェルカーノ氏から聞いたことを、地道に実行していくしかなかった。


「まぁ、小金井の残したメモもあるんだろ?」

「ああ、一応ね……」


 竜崎が保管している“メモ”は、現在かなりの数に昇っている。


 この世界を知る上で、一番役に立っている“セレナメモ”。

 フェイズ2能力や、レッドムーンなどについて書かれた“紅井メモ”。

 そして重巡を改造する際、小金井芳樹に書かせた“小金井メモ”だ。


 この小金井メモが、現在彼がこのクラスにいた唯一の証拠となっている。彼のミリオタ知識を最大限に生かして書かれたこのメモは、余計な情報も多かったが、読み物としてそう退屈するものではなかったし、結果としてその“余計な情報”であった航海に関するメモが、これからは役に立つ。


「で、竜崎。これから向かうアルバダンバって、どういう国なんだ?」

「聞いたところ、複数の島国がまとまって出来た連合国みたいだ。ひとつの島に、ひとつの国……まぁ、複数の国がある島もあるんだけど、そこの酋長たちが話し合って国の方針を決める合議制だとか」


 ミクロネシアやポリネシアのような、南の島国と言った感じなのだろうな、と竜崎は思っている。帝国の支配域からは外れているので、ウェルカーノ達がきちんと手引きしてくれれば、滞在を認めてもらうことはできるだろう。

 気になるのは、帝国の支配域から外れている分、レッドムーンの活動拠点としての条件を満たしているということだ。紅井の話では、活動の地盤固めの為に、この世界で言うと10年近く前から潜入している血族はいるそうなのだが、それがどこか、ということまでは、彼女は知らされていないらしい。


 これから数日、長ければ数週間は海の上になる。

 もし、レッドムーンに動きを察知されれば、彼らとの海戦にも発展しかねない。


「(まあ、鉢合わせないことを祈るしかない、か……)」


 竜崎は、腕を組んで水平線を見つめ、そう思った。





 船が出航してしばらく、生徒たちはキャアキャア言いながら甲板で外の景色を眺めていた。生まれて初めて海の上を渡る、という生徒だっているのだ。ちょっとした遊覧船気分だった。

 船の上で主な労働力となっているのは、五分河原に引き連れられたゴブリン達と、カオルコが連れてきたインプやサハギンだ。サハギンは特に、魚住兄妹たちと同じように海に潜って魚を取ってくるのに役立った。


 姫水凛は、甲板の片隅でそんな生徒たちを眺めながら、塩と真水の生産にいそしんでいた。


「精が出るな、凛」


 デュラハン剣崎がその横で、腕を組んで座り込んでいる。


「出るのは塩だけだよ……。いやあ、つらい。しょっぱい……」


 そう言いつつ、器の中に溜めこまれた塩の量は、既に10キロを超えようとしている。


「普通に天日干しすれば、塩ができるような気もするんだが……」

「まーそーだね。でもそうすると、蒸発する水がもったいないから。まぁ、あたしにとって水はMPみたいなもんだからさ。貴重なリソースだし」


 いざというときに、水属性の精霊魔法が使える生徒が待機できているとは限らない。なるべく、真水を溜め込んで、非常時に備えなければならない。水の量は、通常時はもちろん、恭介とエクストリーム・クロスを行った際の戦闘能力にも直結するのだ。

 EX合体は、恭介の骨に蓄えられた“血の力”を消費する。そのため迂闊に合体はできないのだが、あれ以来何度か、恭介と凛は合体の練習をしていた。さすがに初合体の時のような甘い感覚はもうなくて、それが残念と言えば残念だったが、合体自体はスムーズにできるようになっている。ストリーム・クロスの状態から、状況に応じてEX化も可能だ。


「凛、この際なので聞いておくんだが」

「ほう。なんだろう、つるぎん」

「ウツロギとは付き合い始めたのか?」

「ぶホッ……!」


 思わず噴き出してしまった。


「さ、最初にその……が、合体をしていた時から怪しんではいたのだが……」

「ま、待って。待ってつるぎん。あの合体はあまり関係な……くはないけど、えっと。とにかくアレはそういうソレじゃないから」


 凛は今まで一度も、自分が恭介と付き合い始めたと公言はしていない。

 ただまぁ、雰囲気を察して気づく生徒は大勢いるだろう。その最たるものが竜崎邦博だった。彼は満面の笑みで『おめでとう』を言いに来たのである。『ウツロギなら俺も良いと思う』まで言ってくれた。ヒジョーに気まずかったのだが、そんな感情をおくびにも出さず返礼するのがフッた女の義務であるとして、凛もポーカーフェイス(顔はない)で『ありがとう』と返した。


「と、言うのもだな。凛」


 こほん、と首なし風紀委員は咳払いをする。


「私は、佐久間もウツロギのことが好きなのではないか、と思っている……」

「思っている、っていうか、それはもうガチだよつるぎん」

「な、なにッ。そうなのか……!?」


 そう、佐久間祥子も、恭介のことが好きだ。だから凛は、ちょっとだけ彼女に負い目がある。


 ただ、佐久間に対して申し訳なく思うこと自体が、驕りであるかもしれないので、彼女とその件について話したことはない。佐久間だって、恭介のことはずっと想っていて、ずっと心配していたはずなのに、今、彼に一番近いところに居座っているのは自分なのだ。


「そ、そうか……。見ていれば気づくことだったのか、うぅむ……」

「つるぎんはそういう人いないの?」

「私は風紀委員! さらに言えば、剣に青春を捧げた身だ! 今は特定の男と付き合うつもりはない!」

「まぁ、あたしも陸上に捧げたつもりだったけどね……」


 恭介の場合は、出会いが悪かった。いや、良かったというべきなのか。


 陸上に青春を捧げたつもりだったが、“走る”ためには恭介との合体が必要不可欠であり、“走る”ことと恭介は同じようなものだった。そのうちに、まぁ、ずるずると気持ちが引きずられて、今ではこのザマだ。


「で、つるぎんとしては、さっちゃんを応援したいの?」

「そう言うわけではないのだが……。出航前に、ウツロギと佐久間が話しているのを見てな……」

「ふむ」

「なんというかその、見つめ合っているような感じだった……」


 なるほど。凛は、塩作りの作業を中断して考え込んだ。


 さもありなん、と言うべきなのだろうか。佐久間が本気を出して恭介を落としにかかっている、ということなのだろうか。佐久間はサキュバス、種族能力は《魅了》だ。その力まで使われてしまえば、さすがに勝負にならない。

 が、別段焦るような気持ちは、凛の中にはなかった。佐久間が《魅了》まで使うはずがないと、侮っているためだろうか。《魅了》の力でなびいている恭介の姿が、想像できないためだろうか。


 いや、《魅了》など使わなくても、普通に佐久間が本気を出せば、勝負にならないはずなのだ。


「さっちゃん、おっぱい大きいしねぇ……」

「やはりそこなのか……?」

「ま、さっちゃんとちょっと話をしてこよう」

「まさか……修羅場か!?」


 剣崎は、困惑したような叫び声をあげる。


「『あたしの恭介くんをとらないでよこの泥棒猫』とか、そういう話を……するのか!?」

「しないしない。つるぎん、結構昼ドラ脳だね……」





「ねぇ、カオルちゃん」


 船室でベッドに腰を下ろしながら、佐久間はカオルに尋ねた。


「なぁに、サチ?」

「カオルちゃん、最初の《魅了》って誰に使ったの?」


 ひとりで爪を磨いていた丘間カオルは、その言葉を聞いて顔をあげる。

 紅井そっくりのこの動作は、実は彼の方がオリジナルだったりする。


 カオルと合流してから、佐久間は彼と相談する時間がやたら増えた。人間時代からカオルのことをよく頼っていた佐久間だが、同種のモンスターに転生してからというもの、種族特有の悩みというものも打ち明けやすくなってしまっているのだ。


「あんたも知ってる子よ」

「え、ゴウバヤシくん?」

「違うわ。ゼクウちゃんよ」


 ゼクウ。ゴウバヤシが一度叩きのめし、言うことを聞かせるようになったという野生のオウガだ。

 なんだかんだ言って、このクラスの一員として今もこの船に乗っていたりする。ゴウバヤシだけではなく奥村などとも仲がよく、会話ができないなりにクラスにはなじんでいた。今は確か、クラスの男子たちと一緒にテレビゲームをやっているはずである。


 そのゼクウに、一度《魅了》を仕掛けていたというのは、意外だった。


「ゲンちゃんと一緒に荒野をさまよっていたときにね、一番最初に会ったのがあのコだったの。生きるか死ぬか、ってタイミングだったから、まぁ、反射的によね。一時的に言うことを聞かせて……」


 その後、ゴウバヤシが駆けつけ、魅了状態の解けた彼と一対一の殴り合いを演じ、最終的にはゴウバヤシが叩き伏せ、ゼクウという名前をつけたらしい。

 ゼクウはオスだ。インキュバスのカオルが魅了できたということは、彼はその時点でフェイズ2に移行していたことになる。


「……どんな気持ちだった?」

「覚えてないわよ。アタシ、多分殴られたら死んでたし。まぁ、最初に使った《魅了》がそんなんだったから、アタシは魔物に使って言うことを聞かせるのに、そこまで抵抗ないのよね。麻痺しちゃっただけかもしんないけど」

「そっか……」


 自分も、いっそ何かに襲われて、のっぴきならない状況まで追い込まれれば、こんなに悩まなくて済むのだろうか。一度《魅了》を使ったあと、果たして自分は恭介に使うことを諦められるのだろうか。それとも、やはり最初は彼にしておけばよかったと、後悔するのだろうか。


「一番最初を、好きな人にしたいって気持ちは、わかるのよ」


 カオルは言った。


「特にサチはおとなしいしね。誰彼かまわず《魅了》を使うのには抵抗あるだろうから、せめて最初だけは好きな人で済ませたいって。だからアタシは止められないわ」

「でも、カオルちゃんは好きな人には使わないんでしょ?」

「まぁ……。アタシが好きな人はクラスにはいないしねぇ。ゲンちゃんとか良いなって思うけど、……ま、アタシのことは良いわ。でもそうね、好きな人をオトすのに使う気はないわ。サチと同じ状況だったら、迷うかもしれないわね、って話よ」


 そこまで話した時、不意に扉をコンコンと叩く音がした。


「さっちゃん、いる? 姫水です」


 その名を聞いて、佐久間は一瞬、頭が真っ白になった。


 姫水凛だ。なぜ、わざわざここまで来たのだろう。まさか、自分が恭介を魅了しようとしていることが、バレてしまったのか。

 一瞬、居留守を使うかどうか迷った佐久間だが、最終的には観念した。かぶりを振って雑念を払い、扉の向こうの凛に声をかける。


「い、いるよ。姫水さん、どうぞ」


 がちゃり、と扉が開いた。


「おじゃましまーす。お、カオルコちゃん」

「はぁい、凛。アタシ、お邪魔かしら?」

「お邪魔でもないけど、まぁ、任せるー」

「じゃ、席を外すわ」


 残って、援護射撃をしてくれるわけではないのか。佐久間はそんなことを思いかけ、また自分の頭を叩いた。身から出た錆なのだ。ならば、自分で対処しなければならない。ここでカオルをどうこう言う権利は、自分にはない。


「凛、何かあったとしても、けしかけたのはアタシだから。あまり、サチを責めないであげてね」


 出て行く間際に、カオルはそれだけ言ってくれた。佐久間は自分が情けなくなる。


 部屋の中には、佐久間と凛だけが残された。


「ご、ごめんなさい!」


 まず真っ先に、佐久間は凛に頭を下げる。


 謝って許してもらえることかどうかはわからない。だが、謝らずにはいられなかった。人の彼氏に手をかけ、《魅了》を仕掛けるなど言語道断だ。こうなってしまうことは、わかっていたはずなのに。自己嫌悪の気持ちが大きくなる。


「いや、あのさっちゃん……」


 凛は若干、困惑したような声で言った。


「あたし別に、さっちゃんを責めるつもりで来たわけじゃないよ?」

「で、でも私、ウツロギくんに《魅了》を……」

「あ、使ったんだ。効いた?」


 意外とあっけらかんとした反応がかえってくる。佐久間はふるふると首を横に振った。


「そっかそっか。ちょっと安心」

「ごめんなさい……。ウツロギくんは、姫水さんと付き合ってるのに……」

「あぁ、それねぇ……」


 凛は、ちょっと気まずそうな声を出して、身体をうねらせる。


「あたしは、恭介くんのこと好きなんだけど、『付き合っている』とは、多分まだ言えない状況な気がする」


 飛び出てきた言葉は、意外なものだった。


「え、でも……。ウツロギくんも、姫水さんのこと、好きでしょ……?」

「言って良いのかわかんないけど、多分、そう」


 その言葉は自信に満ちているわけでもなければ、自慢するようなものでもなく、ただ戸惑いと揺れる心だけが感じ取れるものだった。


 このあいだの、カオルの言葉を思い出す。

 『付き合ってる』とか『好き』とか、言語化しないと付き合ってるという事実を認識できない。そういう話だった。


 だが、恭介と凛は相思相愛だ。それを自覚できているなら、もう恋人同士と言って差し支えないのではないか?


「あたし、ちょっと怖いんだよね」


 凛はそう言った。


「怖い……?」

「恭介くんと『付き合ってる』って公言しちゃうとか、もしくは恭介くんに『付き合ってください』って言ってオーケーをもらうとか。なんかね、それを言葉にしちゃうと、今の気持ちのいい関係が、なんか崩れちゃうような気がするんだ。恭介くん、絶対意識するから」


 意識する、という言葉の意味が、佐久間にはなんとなくわかった。

 『恋人同士である』と、自分たちの関係を言語化することで、それが行動の重荷になるということだ。空木恭介は、確かにそういう部分を特に気にする傾向のある男だった。


「あたし、走るのが好きなんだけどさ」


 凛は、みんなが知っているようなことを今更言う。


「走るのが好きなんだ。ゴールテープを切ったあとよりも、走っている間の方が好きで……。多分、今、ゴールの一歩直前で足踏みをして、走っている気持ちになってるような、そんな状態」


 だから、と繋げた。


「だから、その間にさっちゃんがゴールテープを切っちゃったら、それは悔しいけど、あたしの油断が招いたことだよねって、思ってるかな」


 まだ、佐久間にもゴールテープを切る余地があると、凛はそう言っているのだ。


 だが、それは、今の佐久間にとって大きな慰めとなる言葉ではない。凛が佐久間を慰めるつもりで言っているのではないと、それはわかっているのだが、それでも心のわだかまりが解ける言葉ではないのが、心にしこりを残している。


「姫水さん、私……」

「うんうん」

「私、本当は……ずるくて、いやらしくて、そんな、どうしようもない女で……」


 違う。


 こんなことを言いたいのではない。こんなことを言って、許しを請おうとしているのではない。

 だが、凛と向き合ったことで、佐久間は改めてそれを自覚せざるを得なかった。


 どうして自分がサキュバスなんかになってしまったのか、今まで真剣に向き合おうとはしてこなかった。向き合って認めるのが怖かったのだ。

 男を魅了し、精気を吸い取る魔性の女。淫魔。自分の心を投影した魔物の姿がそれであるなどと、考えたくなかった。だが現実はどうだ。自分の中であれこれ理屈をたてて、空木恭介の心を奪おうとしていた。いや、今もまだ考えている。最初の一人は恭介が良い、という自分の想いは、果たして純粋な気持ちなのだろうか。


「さっちゃんが本当はエロエロなんて、みんな知ってるよ」


 凛はやはりあっけらかんとした言葉で、そう言った。


「サキュバスになるくらいだもん。みんな言わなかったけどね。恭介くんに振り向いて欲しいから、なったのかもしれないけど。でも、そういうの、恥ずかしがることじゃないよ。あたしもエロいことには興味あるしね……」

「……うん」

「さっちゃん、自分の内面と向き合うのも、フェイズ2の第一歩だよ。ふぁいとふぁいと」


 フェイズ2。その言葉を聞いて、佐久間祥子は顔をあげた。


 淫魔のフェイズ2能力を発揮できれば、《魅了》の効果対象範囲は大きく広がる。ひょっとしたら、自分の内面を強く自覚した今ならば、恭介にも《魅了》の効果があるかもしれない。

 だが、今はその気持ちは、一気に萎えてしまっていた。

 ここで恭介の下へ行き、《魅了》を使つもりには、どうもなれない。


 姫水凛が最初からそのつもりでここに来たのか、あるいは、結果として毒気を抜かれてしまったのか。


「姫水さん」

「うん」

「私、ウツロギくんのこと好きだから……」

「うん」

「頑張るね」


 そう言うと、凛は身体を思いっきり捻らせた。


「頑張れ、とも、なんだか言えないけど……。うん、あたしも頑張ります」


 認めなければならない。空木恭介に、《魅了》を使いたい自分がいることを。

 ずるくて、いやらしくて、どうしようもない自分がいることを。


 ただ、その前に、彼を振り向かせるのは自分の力でなければならない。『怖い』なんて、言っていられない。形こそ違えど、恐怖と戦っているのは、凛だって一緒なのだ。彼女がゴール前で足踏みしている今なら、まだチャンスはある。

 出来ることなら、最初の一人目は彼が良いけど。

 その前に、凛にゴールされてしまったらどうしようもない。


 どうなるかは、まだわからない。

次回更新は明日朝7時。

揺れる乙女心にひとまずの決着がつき、大海原で戦いの幕が上がる! アルバダンバの吸血鬼も動き始めるぞ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ