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クラスまるごと人外転生 ―最弱のスケルトンになった俺―  作者: 鰤/牙
外伝 乾物ティーチャーかつぶし
46/115

Lesson03 おまえは優しい子だ、紅井

「そうか、鷲尾が……」


 その報告を受けた時、厨房には重苦しい雰囲気が流れた。


 拠点を離れ、移動を開始するようになってから、俺たちの居場所は“重巡分校”と呼ばれる陸上艦のキッチンへと移った。俺は旧日本海軍の軍艦にはさほど詳しくないが、見たところこの厨房には、必要なものが揃っているように見える。杉浦はここ最近、毎日うきうきした様子で食事をこしらえているように思えた。

 だが、今日、その報告をしにきた杉浦の声には、いつもの元気がない。視線を落とした顔にはどんな表情を浮かべているのか、俺には見えなかった。


 俺の名前は勝節出彦かつぶし・だしひこ。市立神代高校2年4組の元担任にして、今はかつおぶしだ。

 指をさして笑ってもらっても構わないんだが、説明や弁解はまた今度にさせてくれ。さすがに今は、ちょっと参っている。


 俺が受けた報告は、生徒の1人である鷲尾吼太が死んだ、というものだった。鷲尾とさほど親しかったわけではない杉浦の声は沈んでいたし、ひとことも会話をしたことがないであろう本野さんも、言葉を失っていた。

 鷲尾に手を下したのは、以前から敵対していることがぼんやりとわかっていた“赤い翼の悪魔レッドウイング”の一味。すなわち“紅き月の血族レッドムーン”だ。この山間部に見えるかつての居住区跡を探索しようとし、そうして連中と遭遇した。鷲尾は、空木と姫水を逃がすための囮となって、そして死んだ。

 俺の身体を支配したのは、強い無力感と喪失感だ。それは、小金井がさらわれたとわかった時の比ではない。俺はまた、生徒の危機に何もすることができず、鷲尾を救うことができなかった。


 ただ、あの時のように塞ぎ込む余裕も、腐る余裕もなかった。辛い思いをしているのは、俺だけではなかったからだ。


「杉浦、大丈夫か?」


 俺が声をかけると、彼女は驚いたように顔をあげた。


 そうだ。今、辛い思いをしているのは俺だけではない。クラスメイトの“死”という実際的な問題。人生経験において、俺とは10年以上の隔たりがある2年4組の子供たちにとって、それを単独で乗り越えるのは極めて難しいことだ。

 死んでしまった者は戻らない。その事実を知らない生徒はいないはずだが、その意味を知っている生徒が、果たしてどれだけいるのだろうか。ただ、死者ひとりに対して、生者の数は多い。生き残った者は手を取り合い、前を見ることができるはずだ。杉浦たちに必要なのは、そうした心構えであると、俺は思った。


「うん……。大丈夫じゃ、ないね。ちょっと辛いよ」


 そう言ってほほ笑む杉浦の表情に、元気はない。


「杉浦さん……」


 専用の本棚を設けてもらった本野さんも、心配そうに声をかけた。俺は小さく咳払いする。


「そうだ。辛いな……。だが、辛いのはおまえだけじゃない」

「みんな辛いから我慢しろって?」

「いやいや、逆だ。みんな辛いから、色んな奴と話して、色んな奴と辛さを共有して来い」


 塞ぎ込んで、考え込んだところで、気持ちは沈んでいくだけだ。


 杉浦は、難しい顔をして考え込んだ。厨房の台所、まな板の上には切りかけの野菜がある。夕食の準備中に、艦内放送で生徒たちは集められ、そして鷲尾の死を知ったのだ。戻ってきてから、杉浦はまったく調理に手がついていない。

 ここで杉浦を立ち直らせるには、俺は語彙力に欠けていた。それに、大人ひとりの凝り固まった意見を聞くより、身近な友人と死者について語り合った方が、よほど心を慰められる。俺はそれを勧めているのだ。


「……うん、わかった」


 杉浦は、最終的にそう言って頷いた。


「花園とかと、話してくる。ごめんね、しばらく戻らないかも」

「気にするな」


 杉浦は、元気のない足取りで、厨房を出て行く。タコ足にいつものハリがない。


「……先生も、大変な立場ですね」


 本野さんが、優しい声でそう言ってくれた。


「大人ですからね。大人ってのは辛いもんです」


 自分が哀しい時でも、カッコつけなければならない。このあいだ生徒たちから教わったことだ。


 俺は、静まり返った厨房で、鷲尾のことを思い出す。鷲尾はバスケ部だった。中学の時はサッカー部と聞いていたから、ひとつのスポーツに打ち込む性格というわけではないのだろう。事実、あらゆることが長続きせず、集中力が散漫になりやすいという欠点があった。

 その鷲尾が、一度だけ俺に相談に来たことがある。どうしても好きな相手がいるので落としたいと言ってきたのだ。俺は正直、大学生の時に1回年上の彼女が出来ただけで(就職後半年で別れた)、恋愛経験が豊富ではないから大いにたじろいだ。が、大人としてもっともらしく『ならばひとつのことに打ち込んでカッコイイところを見せろ』と言ってやった。

 鷲尾がバスケ部でレギュラーをもぎ取ったのは、その半年後のことだ。意中の相手にはフラれたらしいが。


 その鷲尾が死んだ。あの調子のいい声を聞くことは、もうない。


 俺はやはり、拭いがたい喪失感を感じていた。





 それからしばらくして、杉浦は返ってきた。元気が戻ったとは言い難いが、笑みには幾らかの活力が戻っている。

 杉浦は花園と話をし、自分たちのできることを続けると決めたらしい。花園は鷲尾の好きだったにんじんを育てると言い、杉浦はそのにんじんを調理すると言った。彼女たちの、死者を供養しようという気持ちなのだろう。良いことだ。俺はそれを尊重する。


 俺は杉浦に、まだ傷ついて立ち直れない生徒がいるなら俺のところに連れて来いと言った。まあ、結局杉浦が俺のところに連れてくる生徒はいなかったのだが。めちゃくちゃ寂しかった。

 その晩、それとは別に竜崎が、俺のもとに意外な生徒を連れてきた。


 豪林ごうばやしだ。俺は唖然とした。口があれば口をあけていただろう。何しろこいつは1ヶ月前に姿をくらましてから、まったく連絡がつかなかった生徒の一人なのだ。あとはこいつについて行った丘間おかまもいたはずだが、そいつとは途中ではぐれてしまったらしい。

 豪林は、俺に頭を下げ『御心配をおかけしてすいませんでした』と言った。相変わらず、生真面目な奴だ。


「まぁ、おまえが元気ならそれで良いよ」

「先生も、お元気そうで」

「……どう見たらそう思えるんだ……」


 話題は、そこから自然と鷲尾の死の話へと移った。


 生徒の間で、鷲尾の葬式をやるという話に決まったらしい。これも、良いことだ。死と向き合うことは大切だろう。できることなら俺も参列したかったが、かつおぶしなので無理だ。葬式が終わったあと、仏壇を食堂に運んできてくれるということなので、俺はそこに自分の削り節を供えることに決めた。


「先生の削り節ですか……」


 豪林は渋い顔をした。


「な、なんだ。まずいのか? いやまずくないぞ。俺の削り節だからな。良い出汁が出る」

「いえ……。かつおぶしを供えるという話は聞いたことがないので……」

「そうか、やっぱり果物あたりの方が良いのかな……。鷲尾はにんじんが好きだったんだ」

「ええ、まあ……」


 まぁ、豪林は寺の息子だ。俺なんかよりは、そうした知識はよほどあるだろう。ここは素直に、こいつの言うことに従っておくことにする。


「勝臥先生」


 竜崎が豪林を連れてきたのは、軽い挨拶をさせるためだったらしい。その後もいくらか会話をかわし、豪林は厨房を出て行く。だが、出て行ったあいつは、すぐにひょっこりとこちらに顔を戻した。


「ん、どうした?」

「先生の目から見て、今のクラスはどうでしょう」


 それは意外な質問だった。


「先生に目は無いんだが……」

「では感じられることでも構いません。自分は、どうにもこの、集団異世界転移そのものに、引っ掛かりを感じているのです」

「ふむ……」


 豪林の奴が、俺にこうした直接的な疑問を投げかけてくるというのは珍しい。こいつはだいたいの疑問は自分の中で解決してしまう、手のかからない生徒だったからだ。おかげで教師陣からの評判は大変良かったのだが、担任教師としてはちょっぴり物足りない。


 だが、この思慮深い少年(と、表現することに少し躊躇はあるが、豪林は少年だ)が疑問を口にする時というのは、おおよそ答えまでの道程が、難解であることが多い。俺は教師ではあるが、ぶっちゃけ頭はそんなに良くないのだ。


「俺たちが当初、転移してきたダンジョンは、生活のための物資が揃いすぎていました。それだけではない。竜崎の話では、この重巡分校のメインエンジンもダンジョンから発掘できたものだという」

「都合が良すぎるということか?」

「はい。正直なところ、かなり作為的なものを感じます」


 だが、それがクラスに何かを感じるのかということと、どうした関係があるのだろうか。

 そう考えて、俺ははたと顔をあげた。いや、顔はなかった。ガタリと全身が動いた。


「ひょっとして豪林、おまえ、生徒たちの中にこの転移事件に関与している奴がいるって言うんじゃないだろうな」

「あくまで可能性の話です」


 とはいってもな。困ってしまう。


 豪林は『クラスに何か感じるものはないか』と尋ねてきたわけだが、俺はかつおぶしに転移してからというもの、ずっとこの厨房にこもりっきりだったのだ。そんなもん見えるわけがない。俺がわかるのは、杉浦のタコ足に吸盤がいくつあるかくらいかというようなものだ。暇だから数えたのだが、ひょっとしたらこれはセクハラかもしれないので黙っておく。


「まぁともあれ豪林、俺から見て、特にそういう様子はない」

「そうですか。ヘンな質問をしてすいません」


 それだけ言って、豪林は厨房を出て行った。入れ替わりに、大量のニンジンを抱えた杉浦が戻ってくる。


「ただいまー、先生。ゴウバヤシくんなんだって?」

「俺たちの転移事件に関与している生徒がいるんじゃないかって話だ」


 俺がそう言うと、杉浦は目を丸くした。


「えっ、そうなの?」

「あくまで、可能性の話だ。なぁ、本野さん」

「え、ええ。そうですね……」


 本野さんはちょっとためらいがちに頷いている。ゴウバヤシのインパクトにあてられたのだろうか。


「まぁ、ともあれだ杉浦。そんな生徒がいたら連れてきてくれ。きっと、一人で悩んでいるに違いない」

「やだなー先生。そんな子がいても、あたしが見つけられるわけないじゃん」

「それもそうだな」


 あははははは、と和やかな笑いが、厨房に響く。


 だが、杉浦がそんな生徒を連れてきたのは、それからわずか数時間後のことであった。





「……紅井、もう一度言ってくれるか?」

「だから、」


 紅井明日香は、少しいらついたように顔をあげて、言った。


「今回の転移事件、あたしのせいなんだって」


 そう言って、紅井は頭を掻く。厨房でそんな長髪を掻くと髪の毛が落ちて衛生上よろしくないのだが、それを注意するだけの精神的余裕はなかった。杉浦の方を見ると、さすがに彼女も言葉に詰まってしまっている。


 杉浦が紅井を連れてきたのは、夕食のあとのことだ。なんでも、こいつは食後、珍しく一人難しい顔をして食堂に残っていたのだという。普段なら遠巻きに見ているだけの杉浦だが、この時ばかりは違ったのである。俺が『何か悩んでいる生徒がいたら連れて来い!』と言ったせいもあり、嫌がる彼女を半ば強引に厨房に連れてきた。

 紅井は厨房に入るなり、言葉を話すかつおぶし(つまり俺だ)を見て絶句していたが、杉浦が俺のことを紹介すると、すぐに冷めた目つきになって『ふーん』と鼻を鳴らした。相手が教師であっても、見下すような目つきは変わらない。紅井明日香は、生粋のクイーンだ。


 もちろん、そうだからと言って、俺も態度を変えるつもりはない。彼女の大人びた色香はおおよそ17歳の女子高生とは思い難く、無言のうちからにじみ出る高圧的な姿勢にたじろぎ、顔色を窺う教師も多かったはずだが、俺は違う。


 ただ、飛び出してきた言葉が言葉なので、俺も少しばかり驚いた。


 まさか、本当に豪林の言った通りであったとは。


「……で?」


 紅井は腕を組み、冷めた声で言った。


「悩んでることあったら話せっつってたから、話したけど?」

「ああ、いや……。うむ」


 俺は言葉に詰まったが、すぐに咳払いをする。


「杉浦、本野さんを連れて少し外に出ていてくれるか」

「わかった。何かあったら呼んでね」


 杉浦がすぐに本野さんを抱えて厨房を出て行くので、中には俺と紅井だけが残される。


 木刀のような巨大かつおぶしを、冷たい目で睥睨する美少女。絵になるのかならないのか、よくわからんシュールな光景だ。


「紅井、悩んでることを話したと言ったな。その転移事件のことが、悩んでいることなのか?」

「まーね」


 自らの爪を眺めて、紅井が答える。


「巻きこんどきながら黙ってるって、あんまり気分のいいもんじゃないし」


 彼女の口から飛び出す言葉は、いずれも容易には信じがたいものばかりだ。なんでも彼女は生まれながらにしての吸血鬼で、元の世界で生きづらくなってきたから異世界に転移する計画を打ち立てて、戦力的に不安が残るから生徒たちをモンスターにして自分たちの軍団に組み込もうとしたらしい。

 こうして言うとわけがわからんな。かつおぶしに転生してしまった身としては、本当に戦力として生かすつもりがあったのかどうか聞きたい。


「ま、センセーはイレギュラーっていうか。計画の中ではどうでもよかったみたい」


 やっぱそうなのか。俺はちょっぴり落ち込む。


「でさ、」


 と、紅井は続けた。


「鷲尾が、死んだでしょ」


 その瞬間、厨房の中の空気が、少し陰鬱なものへと変わる。


「あたし、ああいうお調子者嫌いだったんだけど。でも、何も悪くない奴が、あたしのせいで巻き込まれて、結果として死んだわけ」


 彼女の語り口は、いつものように淡々とした、冷たいものだった。感情を感じさせない、高圧的な物言い。紅井明日香という少女はいつもこうだ。

 だが、語っている内容は、いつもとは違う。無理をし続けたものだけがわずかににじませる、心の弱さのようなものが、垣間見えていた。


「なるほど、な」


 俺は言葉ではそう言いながら、正直、めちゃくちゃ混乱していた。


 教師として、落ち込んでいる生徒を励ますくらいのことは考えていた。例えば猫宮なんかが、自分のせいで鷲尾が死んだと考えていたのなら、そこに教師としてそいつを立ち直らせるくらいの言葉は言えるつもりでいた。だが、この告白は予想外だ。あまりにも重すぎる。


 ただ、今、目の前であの紅井が苦しんでいるということに、同時に俺は居たたまれない気持ちになっていた。大人たちを震え上がらせる2年4組のクイーンも、こうして弱さを見せることはあるのだ。

 紅井はきっと、教師としての俺を信用していない。ここでぽつりと本音を吐露してくれたのは、おそらく俺がかつおぶしだったからだ。壁に独り言をつぶやくような心境なのかもしれない。


「サチには話したんだ」

「佐久間にか」

「うん。詰め寄られてね。話しちゃった」

「佐久間は別に怒らなかっただろう」

「まぁね」


 ここでふと、俺は疑問に思うことがあった。そもそも何故、紅井は黙っているのだろう。

 何故、クラスメイトに事実を話そうとしないのだろう。


 俺がそれを尋ねると、紅井は『はぁ?』と、また苛立ちを込めた返しをしてきた。


「言えるわけないでしょ。あたしのせいで、みんな巻き込まれたんだよ」

「クラスのみんなに嫌われるのが、怖いのか?」

「そんなわけじゃない」


 嘘だな。俺は直感的に思った。紅井は、孤立することを本質的に恐れている。


「……クラスメイトとか、」


 紅井は、俺が何も言っていないのに、そのまま言い訳をするように言葉を繋げた。


「目的を果たすための、道具くらいにしか思ってない」

「そういうのをな、紅井。偽悪的って言うんだぞ」


 俺が言ってやると、紅井はキッとこちらを睨みつけてくる。


「語るに落ちるとはまさにこれだな。黙ってりゃ本心を気取られないし、今までずっとそうしてきたんだろう」

「……黙ってよ。かつおぶしの癖に」

「そのかつおぶしに延々とクダを巻いているのはお前なんだぞ」


 紅井が、いつにもましてイライラしている理由というのが、俺にもようやくわかってきた。


 紅井は、クラスメイトのことを“目的を果たすための道具”と言っていた。それは本心ではないが、そのように思わなければならない局面というのが、存在するから出てくる言葉だ。こいつは、自らの目的を果たすために、クラスメイト達を利用している。

 だが、きっと心の中ではクラスに対する帰属意識のようなものがある。それは、佐久間や丘間といった仲の良い生徒に限らない。春井や蛇塚といった取り巻きをはじめ、当初はなんの感情も抱いていなかったクラスメイトに対して、紅井は非情に徹しきれない。


 その事実と、本心のギャップが、今の紅井を苛立たせているのだ。こうして見ると、年相応の結構可愛らしい娘であることがわかる。

 そう、紅井明日香は、優しい子なのだ。


 まあ、俺の可愛い生徒に優しくない奴なんかいないけどな!


「どうやら紅井、ここは俺がひと肌脱ぐときが来たようだな」

「えっ、なにそれ」

「杉浦、俺を削れええええええ!!」


 俺が叫び声をあげると、紅井がびくんと肩を震わせた。


「よしきたー!」


 杉浦が満面の笑顔で厨房に飛び込んでくる。こいつ、ずっとチャンスを窺っていやがったな。


 杉浦は、王都のバザーで購入したというかんなを手に取ると、俺の身体にひっかけた。


 じょりっ、という音がして、俺の身体から一枚の削り節が削り取られる。


「ぐあああああああ!!」

「えっ、なにこれ。なにやってんの」


 紅井はドン引きしたような声をあげた。いや、実際ドン引きしているのかもしれない。

 そりゃあするだろう。俺たちにとっては慣れた光景ではあるのだが、いきなり担任教師(かつおぶし)が自らの身体を削れと叫び、生徒が喜々としてそれを実行し出すのだから、傍から見れば狂気の沙汰である。


 杉浦は、俺の削り節を鍋に投じ、出汁を取ると、それをお椀にすくって紅井へと手渡した。


「紅井さん、飲んで。先生からとれたお出汁だよ」

「え、ヤだ……」


 割と呆然と、それゆえに本心から飛び出てきたとわかるその言葉は、俺の心を思いっきり傷つけた。


「出汁って、これ要するにお風呂に染みだした汗みたいなもんじゃん……」

「しかも削ってるから垢みたいなものですよね」


 それまで黙っていた本野さんまで余計なことを言う。


「良いから飲めよ! 飲まないと話が進まないだろうが!」

「じゃあ飲んだ。美味しかった。はい、続き言ってよ」


 紅井は顔を思いっきりしかめている。苛立っているのとも違う、ナマの感情というやつだ。いつも鉄面皮の下に気持ちを押し殺している紅井がそんなものを見せたのは教師として嬉しかったが、それが俺の出汁に対する嫌悪であるということはかつおぶしとして哀しかった。


「え、えぇと、良いか! 良いか紅井、俺はな、おまえが心優しい子だと思っている」

「ああ、うん。ありがとセンセー」


 くそ、なんか反応が薄いぞ!


「あ、あのだな。おまえがクラスのみんなに巻き込んで申し訳ないと思っているなら、頭を下げて謝れば良い……。おまえは心優しい子だから、えぇと、その、なんだ……。きっとみんな……許してくれると思うし……えぇっと……佐久間だって、許してくれた、んだろ……?」


 だんだん自信がなくなって行く。本野さんがパラリと開いたページには『がんばれ! がんばれ!』と書かれていた。だからなんなんだそれは。


 紅井はしばらく腕を組んでいる。その表情はいつもの冷たいものに戻っていた。


「……それだけ?」

「……それだけだよ!」

「なんか……。ぜんっぜん心に響かないし……」


 ちらりと、紅井は杉浦が持っているお椀に視線を移す。


「その出汁からどういう発想でその話に繋げるつもりだったのか、まったく理解できないんだけど」


 うぅむ、さすがにクラスのクイーンは手ごわい。

 勢いと出汁の美味さに任せた俺の教育方針には、おのずから限界があったということか……。


 俺が自身の無力さに打ちひしがれていると、紅井はふっと小さな笑みを浮かべた。


 張りつめていた心が解けたような、自然な笑顔だった。


「ま、わかったよ。センセー」

「マジで!? 今のでわかったの!?」

「……わからせる気なかったの?」


 紅井が途端に、呆れたような顔になる。この少女は、こんなに色んな顔をする子だったのか。俺は担任教師でありながら、出席番号1番の紅井明日香のことを、まったく知らなかったことを思い知らされた。彼女は、冷たい目つきで大人を見下すだけの娘ではないのだ。


「あたしもね、多分、これからどうしなきゃいけないか、わかってたんだと思う」


 紅井は組んでいた手を解いて、そう言った。


「いつまでも黙っていられるわけないし、ずるずる引きずっていたら、どんどん言えなくなっていくし、そろそろ言える最後のラインなんだろうな、ってずっと思っていたけど、踏ん切りがつかなかっただけかなって。サチに話した時から、ずっと考えてたんだ」

「俺がその最後の一押しをしたということか……」

「んなわけないじゃん」


 きっぱりと言われた。傷つく。


「でも言うよ。言うし、謝る」

「そうか……」


 結局のところ、紅井にとってこの時間というのは、壁に向けて独り言をつぶやくのと、大して変わらなかったのかもしれない。心の中で決まっていた結論を、自分の中で納得させるだけの時間が欲しかったのだ。紅井は、他のたくさんの生徒とは違って、大人の偉そうな助言を、必要としない子だったのだ。

 それでも別に良い。教師という立場にあっても、自分の言葉で生徒の心を簡単に変えられると思っているほど、俺は自惚れてはいない。それに、紅井の様々な顔を見れたというだけで、俺にとっては価値のある時間だった。


 紅井は、杉浦の手からお椀を取ると、その中身を一気に呷った。


「あっ」

「あ……」


 俺と杉浦は、同時に口にする。


「あたし、子供の頃から人の血を吸ってたから、よく考えたら汗とかどうでも良いんだけど」


 コトリ、と空になったお椀を、シンクの中に置く。


「でも、やっぱあんま美味しくなかった」

「そ、そうか……」

「ま、一応言っとく。ありがとね、センセー」


 そう言って、紅井は厨房を出て行った。入ってきた時より足取りは軽く、背中から苛立ちは消えていた。


「紅井さん、子供の頃から血を吸ってたのか」


 杉浦は、お椀を洗いながらぽつりと呟く。


「あたし達の世界って、思っていたより広かったんだね」

「そうですね……。本当の吸血鬼、って、すごいですよね! もっと話聞きたかったな!」


 本野さんもやけにテンションをあげていたが、俺は、紅井に言われたたった一言に心を痛めたまま、立ち直れずにいた。





 その後、葬式の席で、紅井はクラスにすべてを告白したらしい。


 これまで事情を黙っていた紅井に、反発する生徒は確かにいた。特に鷲尾と仲の良かった白馬などは、彼女に食ってかかる勢いだったという。それでも、紅井はクラスメイト達に素直に頭を下げ、竜崎や豪林のフォローなどもあって、角が立たずに済んだということだった。

 紅井は、クラスに様々な情報提供を行い、その情報が新しい行動指針や能力運用に大きな影響を及ぼした。結局のところ、彼女が心配していたようなことは、杞憂だったということだろう。


 まぁ、それは良かった。


 それは、良かったのだが。


「うおおおおお! 杉浦、もっとだ! もっと俺を削れ!」

「ええ、まだあ……? あたし、もう手が疲れたよ……」


 厨房に、俺の叫びがこだまする。杉浦は俺を削り、それを様々な火加減の鍋に投じていた。


 紅井が最後に漏らした一言、『やっぱあんま美味しくなかった』は、俺の心に深い傷跡を漏らしていた。このままではいけない。もっと、もっと美味い出汁を取れるようにならなければ。俺は身体中にカビを生やすなどの努力をし(高級かつおぶしは製造工程の最後にかびを生やす)、更により良い出汁の取り方を、杉浦と一緒に研究した。


 いつか、あのツンとしたすまし顔に、『美味しい』と言わせてやらねばならないのだ。

 心の底から湧き上がる官能的な美味という奴に、心も体もトロットロにしてやらねばならない。


 教師としてはおおよそ最低な心意気なのは理解しているが、それでも俺は、かつおぶしとしての使命感に燃えていた。

四章開始は4月23日朝7時です。

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