第41話 エクストリーム・ドリーム
17年間築き上げてきた空っぽの器。見てくれだけは立派な泥の容れ物に、入りきらないほどの水が注がれていく。器はすぐに決壊を迎え、感情となって全身からあふれ出す。
佐久間を傷つけられた怒りも、
鷲尾を喪った哀しみも、
そして今、自分を認めることができた喜びも、
恭介の全身からあふれ出す。今まで空っぽと称されてきた恭介は、止め処なく流れ出る感情を制御する術を知らない。できることは、いま、目の前にある敵に全力でそれをぶつけることだけだ。構えを取ると同時に、全身からゴーサインが出る。境目を失くした凛の意識が恭介の意識に流れ込んでくる。行こう、恭介くん。
エクストリーム・クロス。
フェイズ3に到達した空木恭介の身体は、凛と細胞レベルで完全に融合している。分子や魔霊子といった、物理や魔法の極小単位においても同様だ。
力がヒトの姿をもって顕現したのは、足りないものを補うと言った凛の言葉の為だろうか。彼女は肉となり内臓となり皮となり、そしてすべてを突き動かす心となった。骨だけだった空木恭介に、欠けていたすべてを与えてくれた。
空っぽだって構わない。誰になんと言われたって構わない。この湧き上がる高揚感は、偽りなんかじゃ決してない。
認めてくれる誰かがいる。
中身を満たしてくれる誰かがいる。
それだけで、まだ自分は、戦える。どこまでだって、行ける。
「グオオオオオッ!!」
キマイラにあつらえられた獅子の顔が吼えた。ひっかくようにして、たくましい前脚部が叩きつけられる。だが恭介には通用しない。恭介の身体は直立した状態で水となり、ばしゃん、という音がして爪が水を掻くだけだ。
恭介は右の拳を振り上げ、キマイラの眉間へと叩きつける。怯むが、決定打には至らない。頭骨が硬いのだ。
視界の隅で、スオウが動くのが見えた。彼はこちらに仕掛けてくる気配がない。物理的な攻撃手段しかないナイトでは、やりあうのが不利と判断したのだ。
スオウは甲板に倒れた佐久間をさらおうとしている。恭介が助けに動くより早く、背後に控えていた他の生徒たちが、一斉にスオウへと跳びかかった。
「さぁせるかぁぁぁぁッ!!」
「ちいっ!」
切り込み隊長である剣崎の一斬を皮切りに、奥村、ゼクウ、籠井といった腕力自慢が次々にスオウへ食らいついていく。スオウの前ではいずれも微々たる力だ。それでも彼らは懸命に、佐久間へ近づけさせまいとスオウを足止めした。
恭介の攻撃の手が緩んだ隙に、キマイラも体勢を立て直す。鷲尾の翼を大きく広げた。毒羽根の発射だ。恭介はちらりと背後を見た。生徒たちが文字通り一丸となって、スオウの身体を押しとどめている。恭介が避けるなり液化による透過防御を行うなりすれば、毒羽根は彼らに殺到する。
『ようし!』
凛が叫んだ。自然に流入してきた彼女の意志に従って、恭介は両腕を広げた。
『やってみる!!』
キマイラが毒羽根を発射する。数十にも及ぶ羽根が、一斉に恭介の身体をめがけて殺到した。付け根の先端部が鋭利な棘となった鷲尾の羽根は、恭介の全身にぷすぷすと突き立てられていく。
こちらの様子を見た剣崎たちが、わずかに息を飲むのがわかった。恭介自身、毒の回る感覚に少し頭がくらくらする。
だがその瞬間、凛は彼女の持つ能力を十全に発揮した。滲みだした毒を抽出し、一点に集め、その一部をわずかに稀釈して全身に回す。恭介の全身を構成する融合細胞は、回った毒から身体の機能を守るため、抗体を精製した。
「ひ、姫水……。ずいぶん器用な真似を……」
『この抗体をさっちゃんに届ける!』
「お、おう……!」
恭介はキマイラを怯ませるために一発蹴りを叩き込んでから、佐久間に駆け寄った。倒れた彼女を揺り起し、身体に突き刺さった毒羽根を抜く。血の滲む傷跡に、そっと指先を当てた。
「う、うつろぎ、くん……?」
「ああ、俺だ。待たせて悪かった、佐久間」
虚ろな瞳で見上げる佐久間に、恭介は力強く頷く。凛の作りだした抗体を、傷跡から彼女の身体に流し込む。毒に対する治療としては一時的なものだ。おそらく、完全に治せるのは白馬くらいしかいない。だが、これでおそらく、だいぶ楽にはなる。
他のクラスメイトを押しのけ、スオウが恭介に向けて殴りかかってきた。恭介は身体を液化させて回避しながら、反撃の拳を鳩尾に向けて叩き込む。
「「うおーりゃあっ!!」」
「ぐっ……!」
腹を押さえて、スオウの身体がわずかに怯む。が、ぶっ飛ばすまではいかない。おそらく、身体を構成する水の質量が圧倒的に足りていないのだ。それでも、怯んだ隙に剣崎たちが、恭介たちの前に立つ。
「ウツロギ、おまえたちはキマイラを!」
「おう!」
『任された!』
そろそろ決めなければならない。恭介はキマイラを睨む。
あの冒涜的な怪物から、鷲尾の身体を取り戻す。友を殺され、その骸を弄ばれてなお平静としていられるほど、恭介はお人好しではない。いや、お人好しではなかった。
これほどまでに沸々と湧き上がる怒りを自覚したことは、恭介はない。その感覚は去る日、仲間を売ろうとした小金井に拳を振り上げた時の思いに、よく似ている。あの時よりも、恭介の感情は更に純化されていた。これが、怒るということなのだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
恭介は、改めて天に向かって吼えた。湧きあがった感情を処理する手段を、それ以外に知らないのだ。
「行くぞ、凛!!」
『よっしゃあ!!』
全身を液状化させ、恭介たちはキマイラの咥内へと飛び込んでいく。液化した身体を細胞の一片一片に浸透させ、鷲尾の身体の場所を探って行く。
身体を分散させれば、それだけ制御する力が弱くなる。下手をすればそのままキマイラの体細胞に取り込まれるか、あるいは異物として抗体に処分されてしまうだろう。だが恭介と凛は、そのまままっすぐにキマイラの身体の中を突き進んでいく。
キマイラの身体に埋め込まれた、鷲尾の上半身を探り当てる。恭介と凛の身体はその一点めがけて再集合し、身体の再構築を行う。
「「おりゃああああああッ!!」」
キマイラの背面を、真っ二つに引き裂く。恭介は鷲尾の上半身を抱えて飛び出した。激痛に身をよじるキマイラの悲鳴が、甲板を揺るがす。
恭介が着地したのは、ちょうど花園の菜園だった。にんじんとパセリが青々と育ち、花をつけている。恭介はその花の前に、鷲尾の骸を甲板に横たえた。虚ろに開かれた目蓋を、そっと下ろさせる。
あとは、倒すだけだ。
『恭介くん!』
凛の言葉に、恭介は頷く。キマイラは激痛に身をよじりながらもなんとか立ち上がり、こちらを睨んできた。
「グオオオオオオオオオウッ!!」
キマイラが咆哮と共にこちらへとびかかってくる。恭介は拳を握り、それを大きく引き絞った。
凛と呼吸を合わせ直す必要はない。意識は完全に、同じタイミングで重なる。
「「エクストリームブロォ――――ウッ!!」」
全身を乗せた拳が、キマイラの顔面めがけて叩きつけられる。衝撃が炸裂する瞬間、恭介の腕が水のようにはじけ飛び、搔き消えた。戦場に一瞬、凪の時間が訪れる。キマイラの動きが停止し、恭介も微動だにしない。
ふわり、と風が吹いた。キマイラの全身から鮮血が噴き出す。怪物の断末魔が、甲板へとこだました。恭介が拳を引くと、戻ってきた右腕が再構築される。
『ふしゅうっ!』
凛が息をつくのがわかった。だが、戦いはまだ終わりではない。
「ああ、くそっ!」
恭介が睨むと、スオウががしがしと頭を掻いた。跳びかかってくる生徒たちをいなしながら、その背中に翼を広げる。
「なんでこうなっちまうかなぁ……! ったく……!」
「逃げる気かっ……!」
「作戦失敗だ! 留まる理由はねぇな!」
それだけ叫ぶと、スオウは未練がましい台詞のひとつも残さず、甲板を蹴りたて蒼穹に浮かび上がった。そのまま、古城のそびえる方面に向かってまっすぐ飛んでいく。あの城が、スオウ達のアジトなのだ。
だとすれば、小金井もあそこにいる可能性が高い。
「恭介!」
飛び去るスオウを睨む恭介に、後ろから瑛が声をかけた。
「立ち直ってくれたようで、何よりだ。この数日、君の力になれなくて、済まなかった」
「なんだ瑛、気にしてんのか?」
「まあ、多少はね」
火野瑛の言葉は、やや気まずそうだ。彼はこの数日船酔いですっかり動けなかったのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが、別にそんな慰めを求めているわけではないだろう。恭介は額を掻きながらこう言った。
「別に、瑛にはいつも助けてもらってるし、どうってことないよ。これからもよろしくな」
「君は相変わらずだな。そういうところは好ましいと思うが」
瑛の言葉を受け、凛が『おお、いつもの火野くんだ』と呟く。
「あとで同じ言葉を、佐久間にもかけてやると良い。彼女は君の傍に居られなかったことを、ずっと気にしていたから」
佐久間は、紅井が自らの事情をクラスに語ってから、彼女に対するヘイトを解消するためのガス抜きや、フェイズ3能力についての勉強に走り回っていたという。結果として、恭介の近くには顔を出せなかったということだ。
他の生徒たちが、倒れた佐久間を寝室に運ぼうとしている。そんな様子を見て、恭介はしっかりと頷いた。
「なんだ、片付いちまったのか」
拍子抜けするような声が聞こえ、降ろされたタラップを蹄の叩く音がする。このクラスで蹄と言えば白馬だけだ。同時に、大きく翼を広げた神成鳥々羽も、分校に戻ってくる。
緊急時の連絡要員として分校に待機していた2人である。スオウの襲撃とまったく同じタイミングで分校を飛び出し、主力部隊を呼びに行ったはずではあったが。
「せっかく紅井さん連れてきたのにねぇ」
「ああ、そうだな」
白馬が複雑そうな声で呟く。見れば、彼の鞍の上には、紅井明日香がまたがるではなく腰かけるようにして、座っていた。その様子を見て、佐久間を運ぼうとしていた男子たちが何やら顔を突き合わせてヒソヒソと話し合っている。彼らは剣崎に思いっきり殴られていた。
紅井はまず、床に倒れた佐久間を見、満身創痍気味ながら彼女を運ぼうとする犬神を見、そして、最後に恭介たちを見た。
「フェイズ3、思ってたより早かったね」
「お、おう……」
鷲尾と親しかった白馬は、紅井に対する不信感を募らせていたはずだ。その彼が、紅井を背中に乗せてくるというのは意外だった。
白馬は紅井を降ろすと、甲板の一角、菜園の手前に横たえられた、鷲尾の亡骸に気付く。無言のまま近づき、頭を垂れる彼に、かけられる言葉はない。
『紅井さん、乗れたんだね……』
気まずい沈黙を破った方が良いと考えたのか、凛が余計なことを口にする。
「なに、悪い?」
『いえ、若者の性の乱れが叫ばれる昨今すばらしいことだと思います』
凛の言葉に対する、紅井の『悪い?』は、いつもの三割増しで剣呑な空気をはらんでいた。
「ウツロギ、蘇芳を追いかけるなら急いだ方が良いよ。あっちには小金井達がいるから」
紅井の言葉に、恭介は顔をあげた。やはりそうなのか。足を勇ませんとする恭介に、彼女は更に続ける。
「フェイズ3の能力は“血”の力を引き出すから、活動限界がある。それだけ気を付けて」
「“血”の力?」
「燃料みたいなものだよ」
紅井の言葉を、瑛が補足した。
「紅井達の血には、転移変性ゲートをくぐったモンスターの潜在能力を引き出す力が備わっているが、が、力は長時間使い続けると枯渇する。一度枯渇すれば、“血”の力が回復するまで待つしかない」
『おお、安易なパワーアップを許してくれない……』
「恭介たちのそれは既に十分安易なパワーアップだ」
凛の言葉に対する瑛のツッコミは、ミもフタもないものである。
「小金井はいま、竜崎たちと戦ってる。急いでもらって良い?」
「わかった。神成!」
恭介が呼ぶと、船室の上で羽を休めていたサンダーバードが、びくんと顔をあげた。
「もう一度、小金井達の場所に行ってもらって良いか! 運んでくれ!」
「あ、はい!」
神成は翼を広げ、ひと羽ばたきして宙へと舞い上がる。恭介は右腕を伸ばすと彼女の足に絡みつかせ、縮む勢いを利用して背中に飛び乗った。
「小金井、こっちの話を聞け!」
フェイズ2能力を発動させた小金井の魔法は、木々を軽く薙ぎ倒し粉砕していく。竜崎は攻撃をかわしながら、彼に呼びかけた。だが、小金井は相変わらず何かに怯えるような表情を浮かべて、魔法を次々と連射していく。
肉体の精霊化による魔法の無詠唱速射、および威力と範囲の強化。小金井のフェイズ2とはそれである。紅井は《精霊憑依》だと説明していた。おそらくは血族による直接の指導のもとで開花させたものだろう。ハイエルフが獲得しうるフェイズ2能力の中でも、レアリティは極めて高い。
「委員長! もうそいつ、こっちの言うこと聞こえていない!」
「わかってるよ! だから聞かせようとしているんだろうが!」
「ああ、もう! ゴウバヤシも原尾も、なんとか言ってやってくれよ!」
竜崎から少し離れた場所で、猫宮が怒鳴りたてる。いま、小金井と向き合っているのは竜崎だけだ。ゴウバヤシと原尾、そして猫宮は、こちらを取り囲むヒュドラを相手にしている。紅井も竜崎も抜きで戦っているのだから、当然、戦況は芳しくない。
小金井の魔法能力は強力だが、竜崎が《完全竜化》を用いれば制圧することは容易い。物理耐性、魔法耐性に優れた竜の鱗で精霊魔法を受け止め、尻尾の一撃や火炎ブレスなどでとっとと彼を黙らせるべきだと、猫宮は主張しているのだ。
だが、
「好きにさせろ。ああいう奴だ」
「然様である」
「このクラスの男にはバカしかいないのか……!」
この中では攻撃力の一段劣る猫宮は、迫りくるヒュドラの顎から必死に逃げ回る。
「っていうか、なんで原尾はフェイズ2能力を使いこなしているのさ!」
「我は育ちが良いのでな」
同様に次々と迫るヒュドラの顎を回避しながら、原尾が答えた。猫宮のように逃げ回ることはない。両手を背中に回した姿勢のまま、その姿をフッと掻き消す。その直後には、原尾は別の場所に立っていた。瞬間移動だ。右手に握ったアンクを掲げると、ちょうど原尾の動きを追っていた首の一本が、金縛りにあったように停止する。
その隙を突くようにして、黄金の闘気を纏ったゴウバヤシの跳び蹴りが、ヒュドラの首をひとつ叩き落とす。この2人による連携プレイは、寡兵ながら既に2本の首を粉砕し終えていた。戦況は芳しくない、が、決して劣勢とも言えない状況だ。
「ボクだって相当、育ちは良いつもりだよ!」
「ならば教養の差だ」
「くそう!!」
気取り屋の猫宮も、原尾の言葉には何も言い返せず、やはり逃げ回るしかない。
猫宮には気の毒だが、あちらはまだ支援を必要とするほど追いつめられてはいない。竜崎は、目の前の少年に集中することにした。
相変わらず、小金井は土壇場で最悪の選択をしてしまう少年だ。生来持つ気の弱さから来てしまう行動なのだろう。おそらく彼の口にした、『スオウが良い奴である』という発言は、決して嘘ではない。そのスオウの言いつけを、忠実に実行しているだけだ。
スオウと自分たちが天秤にかけられた、などとは思わない。
小金井は、2つのものを天秤にかけることができるほど、器用な男ではないはずだ。今までは、スオウと竜崎たちの両方を両立させることができるという前提で動いており、今はそれが崩れてしまった。
「小金井、攻撃をやめろ! 鷲尾に謝りたいって言ったろう!」
「い、言ったよ! でも、でも鷲尾はもう、死んじゃったんだろ……!」
「そうだ! だから、仏壇に手くらい合わせてくれ!」
小金井の放った《風刃》を、竜崎は避け損なう。鱗の幾つかが軽々と剥がれ、吹き飛び、血が散った。《完全竜化》すれば防御力はまだあがるが、あの姿は小金井を更に怯えさせ、委縮させるだけだ。
竜崎は肩を押さえ、小金井を見た。激痛を堪えるため、自然と表情が硬くなる。それでも、彼を緊張させないように、辛うじて穏やかな笑みを保った。
「あ、りゅ、竜崎……」
小金井は泣きそうな顔のまま、一瞬、攻撃の手を止める。
「あ、お、俺、ま、また……」
「ああ、“また”だ。小金井、だから、もう終わりにしよう」
クラスメイトを、傷つけるなんてことは。
「でも、俺、もう、こんな……」
「謝れば良いさ」
小金井は、自らの両手を眺め怯えている。取り返しのつかない罪を重ねているという自覚があったのかもしれない。血族の陣営に所属し、その血族が鷲尾を殺したとあれば、まるで知らずのうちに裏切り者になってしまったような心地だったのだろう。そうして更に、竜崎に矛を向けたことで、自分の居場所を失ってしまったと、思っていたのではないか。
「小金井、鷲尾の最期の言葉を伝える」
竜崎が注げると、小金井はびくりと肩を震わせた。
「ウツロギ達が死霊の王を倒したあと、小金井は取り乱して酷いことを言ったかもしれないけど、でも、鷲尾は―――」
「友情ゴッコはそこまでだ」
「―――!?」
まったく別方向から聞こえてきた言葉に、竜崎は思わず振り向く。そして、視界に映るものに身を強張らせた。
そこにいたのは、黒い甲冑に身を包んだ吸血鬼が数人。そしてそれに囲まれるようにして、シスター服を纏った女性の吸血鬼が立っている。黒甲冑はポーン、そして、シスター服の方にも報告に名前がある。気配を察知した猫宮が、一瞬その動きを硬直させるのがわかった。
「あ、アケノさん……」
小金井が呟く。ビショップのアケノ。鷲尾を手にかけた本人だ。その情報を聞いていた小金井も、明らかにおびえた目をアケノに向けている。
しかし紅井や凛から聞いていた人物像と、目の前にいるアケノの姿は微妙に重ならない。朱乃雅。ビショップのアケノとは、いつも生真面目で気難しそうな顔をした女性であると聞いていた。だが、今目の前にいる“アケノ”は、口元を緩め、どこか妖しげな微笑を浮かべている。
いや、そんなことよりも、問題は、
アケノの周りに立つポーンを、竜崎は確認する。数は5人。その内1人はどこかで見かけたような顔をしていたが、それであるかまで、思い出すことはできない。
ポーンが5人に、ビショップが1人。戦力差は絶望的だ。まさか、紅井を分校に帰したことが、このような形で響いてくるとは。
後ろでゴウバヤシ達の戦いは続いている。いま、3本目の首を叩きおとしたところだ。ヒュドラは放置していても片付くかもしれない。だが、いま目の前にいる連中は、果たして。
「アケノさん……。鷲尾を、殺したの?」
「ああ、どうやら聞いているようだな」
アケノは口元の笑みを崩さないまま、言った。
「あのグリフォンにはあたしが手を下した。スオウはおまえに隠したがっていたようだが、もう黙っている意味はないだろう。どのみち、おまえはもう、交渉役としては役に立たない」
「な……」
アケノの言葉に、小金井は一瞬呆けたような表情を浮かべたが、すぐにその顔つきを強い感情に歪ませた。全身に宿した精霊の力を巡らせ、風の刃を作り出す。
「よ、よくもっ……!!」
その言葉と共に、小金井は《風刃》を撃ちだす。前に躍り出たポーンが、アケノに向けて放たれたそれから彼女を庇おうとする。風の刃は、黒甲冑を真っ二つに切断し、ポーンの左腕ごと叩き切った。
ごろん、と転がるポーンの腕を眺め、アケノは笑った。
「従順な兵士としても期待できそうにないな。だが、ここまで育っているなら価値は十分だろう」
直後、アケノの両腕から黒いエネルギー波が放たれる。それは、まっすぐに小金井に伸びて彼の身体を拘束した。フェイズ2による《精霊憑依》が解除され、気を失ったのかぐったりした彼の身体を、ポーン達が捕まえる。
「小金井ッ!」
竜崎が駆けだすが、残ったポーン達が左右から彼の身体を押さえ込んだ。アケノは嘲るような笑みを浮かべて顎をしゃくる。
「連れて行け」
「はっ」
ポーン達は小金井の両腕をつかんだまま、背中に赤い翼を広げて飛び上がった。竜崎は双眸を吊り上げてアケノを睨む。
「小金井をどうするつもりだ、ビショップのアケノ!」
「知りたいなら、おまえも連れて行ってやろう」
そう言って、アケノは両腕に再び黒いエネルギーを纏わせた。これも紅井の説明にあった。ビショップとクイーン、そして黒甲冑を纏ったポーンのみが扱うことのできる黒紅気と呼ばれる特殊な霊子エネルギーだ。
このままむざむざとやられるつもりもない。竜崎は左右をポーンに固められたまま全身を竜化させようとするが、即座にポーン達の放つ黒紅気で行動を阻害された。
「ぐあっ……!!」
稲妻状のエネルギーが、全身を這いまわる。身体から力の抜けるような感覚があった。
「ドラゴニュート。フェイズ2能力は《完全竜化》だったか。さほど珍しいものではないが、力の引き出し加減は十分だと聞いている」
アケノは笑った。小金井に引き続き、自分のことも連れ去るつもりでいるのだ。反抗したいところだが、身体に力が入らない。せめてもの反逆の意志としてアケノを睨みつけるが、彼女は気にした様子もなく黒紅気を稲妻状にして放射した。
「………ッ!!」
思わず目を閉じそうになる竜崎だが、直後、目の前に何の前触れもなく人影が出現する。彼は、左腕を背中に回したまま、右手に握ったエジプト十字を掲げる。半円状の障壁が不可視ではあるが展開され、黒い稲妻を弾いた。
「む……?」
アケノの顔から一瞬、薄笑いが消える。
「原尾……」
竜崎が弱々しい声で名前を呼ぶ。目の前に一瞬で出現したファラオの存在にたじろぎながらも、ポーン達が背後から攻撃を仕掛ける。しかし、やはり原尾は一瞬で姿を消し、やや離れた場所からアンクを掲げた。ポーンの動きが、わずかに鈍る。
ヒュドラの動きを完全に停止させた金縛り能力でも、ポーンを縛ることはできないようだ。だが、動きの鈍った瞬間を突くようにして、突っ込んできたゴウバヤシの拳がポーンの身体を弾き飛ばした。
「ふゥン!!」
続いての2発目が、2人目の身体を木の幹に叩きつける。
「妙だな、貴様には黒紅気が効かんのか……」
「我は育ちが良いのだ」
アケノの言葉に原尾が胸を張った。猫宮が竜崎に《影紡ぎ》をかけながら、呆れ顔を作る。
「またそれか……」
「あるいは教養の差だ」
見れば、ヒュドラはすべての首を叩き落とされ、大きな骸を晒していた。ゴウバヤシの身体には生傷が目立ち、原尾も包帯がいくらか解れ、自慢の黄金マスクにも細かい傷が入っていた。おそらく、竜崎を助けるためにある程度無茶な戦い方をしたのだろう。おかげで、竜崎はなんとか無事だ。
だが、小金井は。
それに、この人数で戦力差を覆せるかというと、怪しい。フェイズ2の段階でも、ゴウバヤシはポーンと互角以上に渡りあえているが、それがビショップにまで通用するかというとわからない。
おそらくその事実はアケノの方でもわかってはいるのだろう。口元に浮かべた薄い笑みを、崩そうとはしていない。
どうやって逃げるべきか。原尾の瞬間移動が他人を運べるかどうかは怪しい。運べたとしても、せいぜい猫宮一人が限界だろう。竜崎とゴウバヤシは、自力で逃走するしかない。
竜崎が思案を巡らせていたとき、空から2つの人影が落下してきた。
稲妻を蓄えた神成鳥々羽の翼は風を喰らい、スオウの背中をぐんぐんと近づけていく。恭介を乗せたことで《特性増幅》の作用を受けているのだ。身体的スペックが大幅に向上し、神成はいつにない速度で逃亡するスオウとの距離を詰めて行った。
スオウはこちらの追い上げに気付いたのか、一気に森の中に向け、高度を落としていく。神成が苦渋の混じった声を出す。
「くっ、これじゃあ追えない……!」
「いや、十分だ。神成、ありがとう」
恭介は森の中に降下していくスオウを見て、呟いた。
『鳥々羽ちゃん、カミナリ大丈夫になったの?』
「なってない! めちゃくちゃ怖かったんだから!」
『そっか、ありがと!』
神成の翼は、いまだに青い稲妻を纏いバチバチと音を立てている。彼女なりに、恐怖を堪えて頑張ってくれたからこその、この追い上げだ。クラスメイト1人1人の頑張りに、恭介の心は高ぶって行く。
「凛、行くぞ!」
『うん!』
恭介と凛は、神成の背中から飛び降りた。スオウを追っての急降下。肘や背中のあたりから水を噴きだして位置調整しながら、同じ落下地点を探って行く。
「これ、水噴き出して服破けないか?」
『服もあたしの身体のひとつだから、ヘーキヘーキ』
つまり、服を着ているように見えて理論上は全裸ということではないか。それは全然ヘーキではない。
『裸が恥ずかしいというのは主観的なモンダイなので、ヘーキヘーキ』
「そうかなぁ!?」
『恭介くんも、全裸でホネを晒してるけど恥ずかしいわけじゃないでしょーに』
屁理屈なのか正論なのかわからないが、いまいち納得しにくい。
『あ、恭介くん! スオウが見えた!』
「竜崎たちもいるな。それにあれは……」
恭介は目を細めた。あれはアケノだ。周囲にはポーンが2人いる。いや、3人か。1人は腕を1本失って、少し後ろに立っていた。
ポーンが数体というのは、それだけで大盤振舞だ。最下級兵士のポーンですら2年4組で白星をあげられたのは、今のところ紅井と圧縮状態のストリーム・クロスだけである。あとはゴウバヤシがどうこうできるかというレベルだが、無傷のポーン2体とビショップがいては厳しいと言わざるを得ない。
そこに、ナイトまで合流するとなると、
「凛! 噴かせていくぞ!」
『よっしゃ!』
背中から水を一気に噴き出して、落下の速度を速めていく。やがて恭介と凛の身体は、背後からスオウの身体に組みついた。
「なっ、てめぇら……!」
「そう簡単に、逃がすかっ!」
驚愕の声をあげたスオウの身体を押し込めるようにして、2人は森の中のやや開けた地点に向けて落下する。轟音が大地を揺らし、砂煙があがる。木々がしなって、森の中にいた鳥たちがギャアギャアとやかましい音をたてながら空へと飛び上がって行った。
地面にスオウの身体を叩きつけて、恭介は飛びのく。ナイトのスオウを前に睨みつけ、竜崎たちを庇うように2歩、3歩下がる。両腕は、自然とジークンドーの構えを取った。
「ウツロギ、か……?」
背後から竜崎が尋ねてくる。
『すごい、一瞬でわかってる!!』
「クラスの中でもブルース・リーの構えをするのはウツロギだけだからね」
背後にいるのは竜崎だけではない。ゴウバヤシ、原尾、猫宮。全員無事だ。見たところ、ヒュドラは既に退治し終えた後であるらしい。思っていた以上に、頼もしい面子であるらしかった。原尾がどのように戦っていたのかは、あまり想像がつかないが。
「ふむ、フェイズ3か」
警戒を露わにするポーン達とは対照的に、アケノは口元に手を当て、面白そうに笑った。
あの教会で会った時と比べて、態度が妙だ。恭介は眉根に皺を寄せた。
「逃げろ、アケノ……」
地面から身体を起こし、ボロボロになった学生服を正してスオウは言う。
「ふむ」
「王様に報告することが多すぎる。アケノ、てめぇはポーンどもを連れてさっさと逃げろ」
「なるほど、その方が良さそうだ」
アケノはフッと笑って、背中に赤い翼を広げた。口元に浮かべた笑みには含みがあるように思えたが、それ以上を探ることは、恭介たちにはわからない。
「逃がすか……!」
「おっと!」
駆け出そうとする恭介の前に、スオウが立ちはだかる。液化して通り抜けようとした直後、スオウは爪で自らの動脈部を切断し、血を噴出させた。スオウの血はそのまま壁を作って、恭介たちの身体を閉じ込める。
『これ、紅井さんの血界兵団と同じだ!』
凛が叫ぶ。恭介も頷いた。だが、液化によるトリッキーな動きだけが、このエクストリーム・クロスの真骨頂ではない。恭介は拳を引き絞り、壁を勢いよく殴りつけた。血で出来た密室はいともたやすく破壊され、形を保てなくなった血の箱がばしゃりと崩れる。
「あいつに謝っといてくれ! 黙ってたことと、鉄拳できねぇこと!」
両手を学生服のポケットに突っこんだまま、スオウは飛び立つアケノにそう叫んでいた。
しんがりを務める気なのだ。言動からして、おそらく生きて帰るつもりはない。“あいつ”というのが誰のことなのかも、察しがついてしまった。紅井の言っていた名前が、ここには見当たらないのだ。
恭介は空を見上げるが、既にアケノの姿はなかった。スオウは役割を立派に果たしたことになる。
「さて、」
がしがしと頭を掻きながら、スオウは言った。
「やるかい、ウツロギ。まぁ、俺じゃてめぇに勝つ方法は、もうねぇわけだが。調子にのってたら一瞬で逆転されたなぁ」
「………」
恭介は言葉を発さない。ジークンドーの構えを崩さないまま、スオウを睨んでいた。
恭介たちとスオウの睨み合いに、竜崎たちは一切の口を出さない。彼らは黙したまま、こちらを見守っていた。
『今更こんなこと、言いたくないんだけど』
凛が、ぽつりと口にする。
『仲間のことを気遣えるのに、どうして鷲尾くんやさっちゃん達には、あんな酷いことができたの?』
「ヤンキーってのは、そういうもんじゃねぇの?」
スオウの言葉に、一切悪びれるものはない。恭介が仕掛けてこないと悟るや、彼はため息をついた。
「クイーンもさ、バカなことをしたよ。幾ら足掻いたって、眷属は王様の言うことには逆らえない。なぁウツロギ、てめぇだってクイーンに血をわけてもらったなら、わかるだろう」
確かにスオウの言葉に、恭介は思い当たるものがある。要塞線でポーンと戦った時、心の底から湧き上がった、正体不明の感覚。あれはおそらく、情報が敵に漏れることを嫌った紅井が、ポーンの口を封じるために発した“命令”だ。
同じような“命令”を、スオウや紅井が王から下されれば、それに逆らうことはできない。
紅井は王宮で、『あたしに命令しないでくれる?』と言った。それは、到底命令とは思えない些細な言葉ではあったが、それに対してすら過敏になってしまうほどに、彼女は“命令”や“支配”といったものに、拒絶反応を抱くようになっているのだ。
「だがまぁ、ここでそのクソみてぇな血の支配から逃れられるなら、それも悪くはねぇ。俺がここでてめぇと戦うのはそーゆー理由だ」
「手の込んだ自殺に力を貸すつもりはない」
恭介はきっぱりと言った。
「そうかい。だがまぁ、てめぇは俺を倒さなきゃならんな。なんせホラ、いつ王様の命令が届いて、自由にされるか、わかんねぇだろう? 俺たちはクイーンとは違って、王様に常に場所を把握されてるもんでさ」
ここで見逃しても、いつ王の尖兵と化したスオウが襲い掛かってくるかわからない。そうしてその時、恭介は今のようにエクストリーム・クロスの状態でいられるかはわからない。彼を生かしておくというのは、危険な爆弾を野放しにしておくのと、変わらない。
「スオウ」
恭介は言った。
「なんだよ」
「小金井と友達になってくれて、ありがとう」
「よせやい」
スオウは苦笑いを浮かべる。恭介は拳を引き絞り、エクストリーム・ブロウの構えを取った。スオウも、学生服に手を突っ込んだまま前かがみの姿勢を取って恭介を睨む。
恭介が大地を蹴り、スオウが迎撃態勢に入る。
両者が交錯し、勝負が決するまでは、ほんの一瞬だった。
次回で第三章完結です。
第三章完結から、数日お休みをいただくかもしれません。




