第40話 ひとつになりたい
「ヒュドラはこの先のはずだ」
茂みを掻きわけるように進みながら、竜崎は言った。
そこかしこに広がる、朽ち果てた建造物。木々をはじめとした植物は、おそらく石製と思われる壁や床板を突き破るようにして生えており、生命の持つ本質的な力強さを感じさせる。時折、大きな虫や蛇などを見かけるが、悲鳴をあげるような可愛げのある生徒は、この5人の中にはいなかった。
「しかし、原尾がよく来たね」
黙々と歩くファラオの原尾を見て、猫宮がぽつりと言う。
ファラオ、ファラオというが、要するにモンスターとしてのミイラ、いわゆるマミーのことだ。全身に豪奢な装飾を纏い、黄金のマスクをかぶり、手にはアンクと呼ばれるエジプト十字の小道具を手にしている。
原尾は人間時代からしょっちゅう眠りこけている怠惰な性格の持ち主だ。修学旅行で市街見物をした際も、歩きながら眠っていたと言われている。あまりにも不真面目な授業態度から教師のウケは良くないが、本人の成績が決して一定の数字を割らないのと、原尾の親族が誰も彼も街の名士や政界経済界の大物であるという理由で、なあなあにされている部分が多かった。
そんな原尾が、自らヒュドラ退治に協力すると言ってきたのだから、猫宮でなくとも驚く。
「我が友輩が一人、朝と夜の理に導かれナイルの眠りに就いたのだ……。我が棺桶の中でいびきをかいているわけにもいかぬ……」
ふと立ち止まり、天を見上げる原尾の言動はあまりにもキャラが濃過ぎて周囲の理解が追いつかない。紅井などは溜め息をつき、退屈そうに周囲を見回していた。セーラー服は森の中を歩くにはあまりにも軽装すぎるように見えたが、本人は気にした様子がない。
「つまり、原尾なりに鷲尾の魂の安寧を祈っているということだ」
先頭を歩くゴウバヤシが、熱心な仏教徒らしい言葉で強引にまとめた。
「ボクには、原尾がクラスメイトにそこまで仲間意識を持っていたことの方が驚きだね」
「鷲尾は我が友であった。クラスの中で孤立していた我に庶民の遊びを教えてくれたのがあの男であった。カラオケ、ボウリング……。奴の友情に報いるべく、すべて我がカネを払った」
「死者をどうこう言いたくはないけど、多分それタカられてただけだよ」
「構わぬ。我は楽しんだ。ノブレス・オブリージュである」
お調子者の鷲尾ではあったが、まさか交友関係を原尾の方にまで広げているというのは意外な話だった。
「俺としては、明日香がついてくることの方が意外だったんだけど……」
竜崎がちらりと、紅井の方へと視線を向ける。
「なに、悪い? 言ったでしょ。誠意見せるって」
そのあたりをあまり言及されたくないのか、紅井は不機嫌そうに応じた。竜崎は苦笑いを浮かべる。
「別に悪いわけじゃないんだけど……」
「だが、あまり紅井を長時間分校から離しておくわけにはいかん」
ゴウバヤシの言う通りだ。紅井に求められるのは、単純な戦闘要員としての役割だけではない。彼女がいることで、紅き月の血族による襲撃を牽制するという意味合いがある。今回は紅井自身が希望したので連れてきたのだが、念のため分校の方にも足の速い連絡要員を待機させていた。
とは言え、半分以下の力でもポーンを軽く葬ることができる紅井だ。竜崎、ゴウバヤシらと力を合わせれば、ヒュドラを仕留めるのにそう時間はかからないだろう。
がさ、という音がして茂みが揺れる。一同は足を止めた。
重巡分校から見えた古城が、かなり大きくなってきている。ヒュドラの姿が見えたのはこの付近のはずだが、茂みの物音はヒュドラのものにしては小さすぎる。フォレストウルフをはじめとした、魔獣の類か。あまり良くないパターンだと、血族のポーンなどという可能性もある。
「ヒトの子である」
茂みの奥にいる影を指して、原尾が言った。おまえは違うのか、というツッコミは一同が呑み込んだ。
一同を代表して、竜崎が口にする。
「そこにいるのは、誰だ?」
「その声、竜崎……やっぱり竜崎か!?」
ガサガサと動く茂みの中から姿を見せた少年を見て、彼らは目を見張った。
「俺だよ、俺! みんな、久しぶり……!」
「小金井……!?」
屈託のない笑みを浮かべるハイエルフの姿を見て、ゴウバヤシは何も言わず目を細め、原尾と猫宮はどういった態度を取ればいいかわからない様子だった。紅井は、少し離れた場所から腕を組み、感情を見せない。
血族にとらわれていたはずの、小金井芳樹だ。何故彼がここにいるのか。竜崎も安堵より先に困惑が立った。
「お、おまえ、どうしてここに……。今まで無事だったのか……?」
「うん。スオウ達がよくしてくれたからね」
スオウ、という言葉に聞き覚えがある。猫宮が身体を強張らせるのがわかった。ナイトのスオウ。一度、彼女や恭介たちと接触している血族のメンバーだ。確か名前は、“蘇芳貴史”。紅井の話では、自分たちと同じ高校生である。
「みんなにちゃんと話を通しておきたかったんだ。竜崎がいるなら話は早いんだけど、スオウ達は悪い奴じゃなくて……」
と、言いかけたあたりで、小金井は口をつぐんだ。彼の視線が、こちらのメンバーの一人へと向けられる。
「あ、紅井……」
「あたしのことは気にしないで」
紅井は腕を組んだまま小金井をひと睨みすると、冷たい口調で言う。
「蘇芳に何を吹き込まれたのか知らないけど、まず小金井が言いたいことを言えば良いよ」
「え、ええと……」
小金井はちらちらと紅井を見ながら話しを続けた。少しばかり気まずそうだ。
「うん、えっと……。そう、スオウ達は、悪い奴じゃないんだ。俺たちと同じ世界から来たわけだし、その……不幸なすれ違いはあったけど、協力はできると思うし……」
「鷲尾のこと知らないのか?」
「鷲尾?」
やや棘を滲ませた声音で尋ねると、小金井は首を傾げる。
「鷲尾、どうかした? そう言えば俺、あいつにも謝らなきゃいけないんだよね。元気にやってる?」
竜崎は確信した。彼は知らないのだ。鷲尾が死んだことを。鷲尾に直接手をかけたのはビショップのアケノという女のはずだったが、それがスオウに伝えられていないはずはない。スオウは意図的に小金井にそれを隠している。
「鷲尾は死んだよ」
それを告げたのは、紅井だった。
「……え?」
「もう一回言おうか? 鷲尾は死んだよ。朱乃と戦ってね。小金井、聞いてない?」
小金井は、まだへらへらとした笑みを崩していない。紅井の言った言葉を、おそらく理解できていないのだ。
「う、嘘だろ……? スオウはそんなこと、ひとことも……」
「言ったら小金井を引き留めておけないと思ったんじゃない。その分だと、あたしが王様を裏切ったことも聞いてるんでしょ」
おそらく小金井は、そのスオウに懐柔されている。それは間違いないだろう。血族が2年4組の生徒たちを戦力として補充しようと考えているなら、小金井を通して接触を図ってくるというのも想像できないことではない。
だが、鷲尾の死を彼が知らされていないというのは不自然だった。小金井がこちらと接触すれば、すぐに露見する事実だ。小金井に鷲尾の死を隠し通そうというのなら、こちらと接触させること自体、タブーとなるはずである。
「りゅ、竜崎……本当なの……?」
小金井がすがるような目つきで竜崎に尋ねてきた。竜崎は目を瞑り、息を大きく吸った後、頷く。
「本当だ。鷲尾は死んだ。葬式も、やった」
「そんな……。え、でも、鷲尾が……。え……?」
スオウが小金井を意図的にこちらに差し向けてきたのであれば、目的はこちらの懐柔ではない。
「あのヒュドラ自体が、こちらをおびき寄せるための罠だった可能性があるな」
ゴウバヤシが腕を組んで言った。びくり、と小金井の肩が震える。彼は嘘がつけない。
だとしたら、こちらの戦力を割く目的が敵にはある。
「急いだ方が良さそうだね」
「ああ、ヒュドラ退治はまた後にした方が良い」
猫宮の言葉に竜崎は頷いた。おそらくヒュドラと小金井を使ってこちらの主戦力を引き付け、その間にスオウかアケノ、あるいはその両方が分校の方に接触を図っている。であれば、ここで時間を使っている余裕はないだろう。
ゴウバヤシや原尾たちも無言で同意を示した。竜崎は小金井に背を向ける。
「竜崎……!」
「悪い、小金井。急いで分校に戻らなきゃいけない。この話はもっとちゃんと……」
「ま、待って……! 待って竜崎、俺は……俺はえっと、まだ……!」
小金井は困惑と狼狽を露わにしながら、必死にこちらを引き留めようとした。だが、話を聞いているだけの余裕は―――、
「―――《風霊憑依》!」
その時、小金井がそれまでとは明らかに雰囲気の異なる言葉を吐いた。
「《風刃》!」
「っ……!!」
背後から、空気を切り裂く風の刃が強襲してくる。竜崎は辛うじて反応が間に合い、この中で一番防御力の低いであろう猫宮を庇う。黒猫を抱きかかえるように茂みの上に転がると、腕の中で『に゜ゃあッ!?』という悲鳴が聞こえてきた。
振り返ると、何かに脅えたような表情をした小金井が、右腕を突き出していた。全身が薄緑色の光に包まれ、身体と服の一部が可視化された風のように変化している。さらわれる以前の彼では見られなかった能力だ。紅井の方を見ると、彼女は難しい顔で頷いていた。フェイズ2だ。それもおそらく、かなり強力なものを引き当てている。
「ご、ごめん……! ごめん、竜崎、でも、俺……! スオウと、話して……!」
同時に、メキメキと木々を押し倒すようにして、ぬめりけのある鱗皮が竜崎たちの周りを取り囲み始めた。
「ヒュドラか」
「やはり罠であったか」
ゴウバヤシが腕を組みながら呟く。原尾も頷いた。連中は、何が何でもこちらをこの場に釘づけにするつもりなのだ。小金井は鷲尾の死という新しい情報を受けて混乱している。結果、当初スオウらに言い含められたであろう役割だけに、集中しようとしている。
重巡分校の戦力は今、ほとんどガラ空きだ。ここでナイトやビショップによる襲撃を受ければ、壊滅的な被害を受ける。せめて紅井だけでも、重巡に帰さなければならない。
「紅井ぃっ! 紅井はいるかっ!!」
ちょうどその時、茂みをかきわけるようにして蹄の音が響いた。
“それ”は、重量を感じさせる音を響かせて、重巡分校へとまっすぐに落着した。虎か熊を思わせるたくましい前脚部が、甲板を深く抉り取る。顔は獅子のものとヤギのものが生え、尾は蛇だ。恭介はすぐに、それが合成獣であるとわかった。全長5メートルにも達する巨躯からは、不気味な威圧感が放たれている。
落着地点はちょうど佐久間の背後。彼女の退路を完全に遮断し、スオウと共に挟み撃ちをする形になった。佐久間と恭介は、前をスオウ、後ろをキマイラにとられている。
そのキマイラを見たとき、恭介が冷静さを保ち続けることは、極めて難しかった。
獅子の顔とヤギの顔、そして蛇の尾までは良かったのだ。だが、そのキマイラは背中に、猛禽の翼を生やしていた。ただ翼を生やしているだけではない。背面に埋もれるようにして見えた、鷲の頭部。虚ろな瞳で宙を眺めるそれを、恭介は知っている。
「鷲尾くん……?」
「ひどい……」
佐久間が目を見開き、かすれた声で呟いた。凛の声も震えている。
「悪趣味な真似を……!」
これを叫んだのは剣崎だ。彼女の言葉にも、聞いて明らかにそうとわかるほどの怒りが滲んでいる。
剣崎だけではない、明らかに鷲尾の亡骸を流用したと思われるキマイラの姿を目の当たりにして、生徒たちは闘志を燃え上がらせていた。怒りの矛先は、当然スオウに向く。スオウはフンと鼻を鳴らし、それから自嘲気味に呟く。
「こんなだから、もう、“交渉”の余地は残ってねぇわけだ」
恭介も拳をぐっと握り、スオウを睨んだ。
「もう全員、“血”で言うことを聞かせるしかねぇ。てめぇらも、小金井もな」
その言葉が最後まで終わらない内に、恭介は駆け出していた。握った拳を振り上げ、叩きつける。しかしそれは、いともたやすく、スオウの片手で受け止められた。
「………ッ!!」
恭介は空いた左腕で殴りつけようとするが、それもやはり受け止められる。凛が叫んだ。
「ウツロギくん、そんな無茶しちゃ……!」
「そうだ、気持ちはわかるが、ここで張り切っても俺は倒せねぇ」
スオウは冷めた口調で言い、腕力だけで恭介の身体を甲板に叩きつける。
「がッ……!」
「その調子じゃあフェイズ2能力だって死んでるんだろう。前の時より弱くなって、何しに出てきた」
それだけ言って、スオウは恭介の身体を蹴飛ばした。直後、背後から跳びかかってくる剣崎の剣を受け止め、その腹部めがけてヤクザキックを叩き込む。剣崎も悲鳴をあげて、再び甲板の上を転がった。
「面倒ごとは無しだ。キマイラ、さっさと片付ける」
「グオオオオウッ!!」
スオウの命令に応じ、キマイラは咆哮をあげた。鷲尾の翼を広げ、ひと羽ばたきすると、羽根のひとつひとつがミサイルのように射出される。あれも鷲尾の技だ。佐久間は迫る羽根を迎撃しようと呪文を唱えようとした瞬間、背後からスオウによって首筋を掴まれる。
「あっ……!」
魔法詠唱を中断された佐久間の身体に、射出された羽根が突き立てられた。一際強く目を見開き、スオウが手を放すと同時に、彼女の身体は甲板に倒れ込んだ。
「さっちゃん……!」
「さ、くま……!」
凛が叫び、恭介も立ち上がろうと片手をつく。
倒れ込んだ佐久間は、雪花結晶のように白い肌をさらに青くし、苦しそうな表情を浮かべている。弱々しい手の動きが、鎖骨から右の二の腕にかけて突き立てられた羽根に伸びた。
「まさか、毒か……?」
「御明察」
籠井の呟きに、スオウが答える。キマイラは低く唸ると、今度はその籠井らに狙いを定めて甲板の上を駆けだした。籠井や奥村、ゼクウなどが、その突進を受け止める。魚住兄が鱗を飛ばし、魚住妹が水属性の攻撃魔法で迎撃に入った。
その間に、スオウは改めて床に倒れ込んだ佐久間に視線を落とす。
佐久間が、鎖骨付近に刺さった羽根を抜く。刺傷から、血の玉がぷっくりと浮かび上がった。
「ひとまずサキュバスだけでも連れて帰りゃあ良いんだ。あとはこの船をぶっ壊したいところだが……」
そう言いながら佐久間の腕を掴んで、スオウは強引に彼女を立たせた。必死に抵抗しようともがく佐久間だが、毒のせいか身体に力が入っていない。他の生徒たちは、キマイラに動きを阻害されて救出に行けない。
「や、めろ……っ!」
恭介は立ち上がって、スオウを睨む。
「姫水、いけるか……!」
「あたしはいつでも平気だよ」
凛の穏やかな心が、頭の中に響いた。だがそれでもまだ、彼女の身体はこちらになじんでこない。恭介は拳を握り、甲板を駆けた。佐久間の腕をつかみ上げたままのスオウは、冷たい視線を恭介に送ると、やはりその拳を軽く受け止める。
「何度来ても無駄だ」
あっさりと言い放ち、恭介の身体を蹴り付けた。
「がっ……!」
「きゃっ……!」
「言っただろウツロギ、空っぽのてめぇじゃ幾らやったって同じことなんだよ」
スオウは恭介を睥睨する。甲板を転がり、立ち上がろうとする恭介を、スオウは思い切り踏みつけた。
「ウツ、ロギくん……ひめみず、さん……」
青い顔をした佐久間が、荒い呼吸を繰り返しながら恭介たちを見る。
恭介は立ち上がろうとするが、上から押さえつけるスオウの力に抗しきることができない。このままでは、佐久間がさらわれてしまうというのに。佐久間だけではない。キマイラの力を前にして応戦するのが精一杯の生徒たちだって、いずれは力尽き、羽根の毒に身体の自由を奪われて、連れ去られてしまうことだろう。そして、それを行うのはあの鷲尾の力だ。
恭介はそれを、見ていることしかできない。
どれだけ全身に力を込めようとしても、恭介は無力だ。スオウの言う通り、幾らやっても同じことだった。
「それ、でもっ……!」
「おっ……?」
立ち上がろうとする恭介の身体に、凛の肉体がわずかに馴染む感覚があった。
直後、凛の意識がほんの少しだけ、恭介の身体に流れ込んでくる。どろどろとしたゲル状の身体の流出が止まり、身体に力がみなぎる。バイパスの繋がったような感覚だ。
立ち上がろうとする恭介を見て、しかしスオウの冷たい態度は、変わらなかった。
「無駄だ」
その言葉には、いくらかの苛立ちが含まれているように思えた。
スオウは足をどけ、直後に恭介の腹を、思い切り蹴とばす。その蹴りは、今までにスオウが放ったどの一撃よりも強かった。恭介の身体が吹き飛び、甲板の手すりに激突する。どろりと、全身から凛の身体が流れ出た。彼女が気を失ったのだ。今までずっと、恭介の身体と合体した“フリ”を続けていたのだから、限界が来るのもやむなしではあっただろう。
結局、こんなものだったのか。
最後の最後、わずかに取り戻しかけた力、自信、あるいは希望。それでさえも、この圧倒的な実力差の前では塵芥のようなものだった。小金井のことも、佐久間のことも、鷲尾のことも、他のクラスメイトのことも、結局、自分は、
「てめぇじゃ、誰も、救えねぇ」
スオウのその一言を聞きながら、恭介は闇の中にその意識を手放した。
空木恭介の意識が、闇の中に沈んでいく。底のわからない、どこまでも続くかわからない、闇の中に沈んでいく。
自分は、誰ひとりとして助けることはできなかった。
結局のところ、それが、自分の中身に目を向けようとしなかった木偶人形の、愚かで醜い末路なのだろう。
些細な遊びから家に火をつけ、親を殺し、せめてその親に言われた通り誰かの為に何かをできる、立派な人間になろうと努力した。その結果がこれだ。自分の醜い内面から目を逸らし続け、外側だけを泥で塗り固めて行った、見てくれだけは立派な建物。中身の伴わない器。それが自分だ。
佐久間を助けたかった。二度と小金井や鷲尾のような生徒を出したくなかった。そのためにがむしゃらになって、力を捻り出そうとしても、それは外側だけの力だ。中身なんて、伴っていない。
自分は姫水凛を、それに付き合わせた。
彼女は良い子だった。優しくて明るくて、自分なんかよりよっぽど、人の為に何かができるような、立派な子だった。その凛も、恭介は自分に付き合わせ、しかし結局、彼女の気持ちに応えることはできなかった。
自分はこのまま、死んでいくのだろうか。
凛も同じように、朽ちていくのだろうか。
佐久間も、剣崎も、他の生徒たちも。それを嫌だと唱えても、もう何をする力も、残ってはいない。
『空木くん』
不意に、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。聞けば心が安らぐような、この1ヶ月半でずいぶんと聞きなれた声だった。
『空木くん。空木恭介くん』
『ひめ、みず……』
目の前にぼうっと、姫水凛の姿が浮かび上がる。浮かび上がるというよりは、深く沈んでいく恭介のところに、潜水してきているようなイメージだった。人間の姿をしているように見えるが、恭介の記憶を元にしたイメージであるためか、細部が曖昧だ。
気を失う直前、恭介と凛はその身体を接触させていた。これはおそらく、恭介の能力を使った交感だ。合体途中に、互いの意識を言葉にせずともやりとりすることができる、その延長線上のものである。あるいは恭介の身体の機能がほとんど停止してしまったから、こうした闇の中でのやり取りになっているのかもしれない。
『大丈夫だよ、空木くん。まだ戦えるし、なんとかなるよ』
目の前の凛が笑顔を浮かべていることだけは、なんとなくわかる。
『なるのかな。結局、俺、何もできなかったよ。自分のやりたいことなんて特になくて、他の人に褒めてもらいたいだけの、空っぽの奴で』
『別に良いじゃない。それで』
ぽん、と凛の手が恭介の頭に乗せられた。
『やりたいことがなくたって良いし、他の人に褒めてもらいたいだけでも良いし、空っぽでも良いよ。それが空木恭介くんって人なら、別にそれで良いじゃない。他の何かになる必要、ある?』
そんなことを言われるのは、初めてだった。恭介は困惑する。
恭介はずっと自分の中身から目を逸らしてきたのだ。こんなのが自分の本性であるわけがないと。自分の中身がどれほど空虚で曖昧なものなのか、認めたくなかったからである。
だが、姫水凛はあっさりと『それで良い』と言ったのだ。恭介が今まで必死に否定してきたものを、凛は何の躊躇もなく肯定した。
でも、自分は、
『姫水が良くても、俺は嫌いだ……』
面倒くさい奴だ、と思いながら、視線を逸らす。
これだけ優しい言葉をかけられても、恭介はその言葉に、報いることができない。
『じゃあさ、恭介くん。自分のことが好きになれないなら、あたしのことを好きになって』
その言葉の意味がわからず、恭介は思わず首を傾げる。
『あたしや、火野くんや、さっちゃんや、クラスのみんなのことを、もっともっと好きになって。みんな、恭介くんほど、恭介くんのことを嫌いじゃないから』
『それは……』
『出来ないなんて言わせないよ。恭介くんは、みんなのことが好きなんだから。小金井くんや、鷲尾くんや、さっちゃんのことを、助けたいし、助けたかったんでしょう? 大丈夫だよ。みんなもきっと、恭介くんのことが好きだから』
少しずつ、少しずつ、身体の中に回った毒が抜けていく。
決して正視することができなかった自分の内面を、他人という鏡を通して覗き込んでいく。目の前の少女、姫水凛の瞳に映っている自分は、恭介が思っているほど、醜くはないのだろうか。それとも、その醜さも含めて、彼女は好きだと言ってくれるのだろうか。
『恭介くん、まだ自分のこと空っぽだと思ってる?』
凛が尋ねる。恭介は頷いた。
『足りない部分がたくさんあって、欠けっぱなしで、そんな自分が嫌い?』
凛が続ける。恭介は更に頷いた。
『わかった。良いよ、恭介くん。その足りない部分も、欠けてる部分も、全部あたしが埋めるから』
『ひめみず……』
『心が欠けているなら、あたしが恭介くんの心になる。中身がないって言うなら、その中身にあたしがなる。肉がないなら肉になるし、内臓がないなら内臓になるし、皮がないなら皮になる』
空木恭介の意識の中に、姫水凛の意識が流れ込んでくる。繋がったバイパスがより太く、強固なものになっていく。目の前にいる凛の姿が、彼女の記憶を伴って、より鮮明ではっきりしたものへと変わって行く。それと同時に、凛はぎゅっと、恭介に抱きついてきた。
『怒りたい時は、目と口と心をあげる。泣きたい時は頬と喉と涙をあげる。喜びたいときも、笑いたいときも、足りないものがあったら全部あげる。もう誰にも、恭介くんが空っぽなんて言わせない』
あなたを満たす水になりたい。
凛の意識がはっきりとそう告げた。
『合体しようよ。恭介くん。さっちゃん達を助けに行かなきゃ』
凛の言葉はわずかに緊張を帯びる。佐久間たちを助けに行く。望んでいたことだ。
だが果たして、それができるのだろうか。
『できるよ。あなたと一緒なら、どこまでも行ける。合体しようよ、恭介くん。ココロもカラダも、ヒトツになろう』
『ああ……』
恭介は頷いた。あれほどまでに虚ろに感じていた心の中に、何かが満ちていくような感覚があった。空の容器が一気に満たされていく満足感。湧き上がってくる感情の力を、恭介は徐々に抑えきれなくなる。身体を縛る呪いのような言葉は、姫水凛が全て洗い流してくれた。
足りないピースは多い。だが、それすらも補うようにして、凛の力が全身を満たす。
『あ、そうだ』
凛の姿をとったイメージが、はっと顔をあげて言った。
『どうした?』
『いや、どうせこんなこと、イメージの世界でしかできないんだし……』
凛の唇がそっと、恭介のそれに重なった。
「せぇいやぁッ!!」
佐久間を脇に抱え連れ去ろうとしたスオウに、火炎弾が襲い掛かる。予想外の方向からの不意打ちに、スオウの対処がわずかに遅れた。直撃したところで大したダメージではないものの、抱えた佐久間の身体を取り落す。
佐久間は甲板の上に身体を転がし、小さくうめいた。両手をつき、顔をあげる。
「う……。ひ、の、くん……」
全身の炎をいつもの2倍近くに燃え上がらせた火野瑛が、そこには浮かんでいた。
「安静にしていろ、佐久間。君も恭介と同じで、放っておくと無茶をするからな」
相変わらずの喋り口だ。航行中は船酔いでほとんど寝込みっぱなしだった彼だが、今はずいぶんと饒舌である。佐久間は、『安静にしていろ』という瑛の忠告を無視して、手を床についたまま恭介たちの方を見た。
地面に転がる恭介の身体と、それに纏わりつく凛の身体。どちらも、ピクリとも動く気配がない。
一方、スオウは突然の闖入者に対し、苛立ちも露わに視線を向けていた。
「フェイズ2にもなっていないウィスプが、ずいぶんと余裕そうな態度じゃねぇか」
「こういう性分なものでね。君がスオウか。僕の親友たちにずいぶん酷い仕打ちをしてくれたみたいだ」
静かに語る瑛の言葉だが、その語調は強い怒りに揺れている。佐久間ですらはっきりとそう感じられるのだから、おそらく瑛自身、そうとう感情を持て余しているはずだ。2倍近くに膨れ上がった瑛など、なかなか見る機会もない。
だがウィスプ、低級モンスターだ。物理攻撃に対して強いとは言っても、指折りの戦闘要員が束でもかからないナイトのスオウ相手に、どれだけの善戦が見せられるというのか。
「ああ、戦うのは僕じゃない」
瑛がそう言った時、佐久間はハッとして恭介たちの方を見た。相変わらずぐったりとした2人の姿は、指一本さえも動かない。2人の身体からは、わずかに蒸気のようなものがあがり始めている。それは螺旋状に拡大し、恭介と凛の姿を包み込もうとしていた。
「う、うおずみ、さんっ!!」
佐久間はあらん限りの大声で、キマイラと交戦している魚住鱒代に向けて叫んだ。
「うつろぎくんたちに、みずを!!」
「なに……!」
佐久間の叫びに、スオウが気づく。彼女を黙らせようと蹴りを放つが、瑛が割り込んで火力を一気に上昇させた。甲板すらも溶かさんとする指向性の熱波に、スオウの足がさらされる。スオウは舌打ちをして蹴りを引っ込めた。
魚住鱒代は、佐久間に言われた通り水魔法の詠唱を開始する。キマイラは鷲尾の翼を広げ、毒羽根の投射体勢に入った。鱒代の兄、鮭一朗が彼女の前に割って入り、鱗弾で牽制する。発射が数拍遅れた毒羽根に、籠井のカバーが間に合う。発射された羽根はすべて鱒代に届くことなく、ガーゴイルの強固な石肌に弾かれる。
ただでさえ毒が回っているところに大声をあげた佐久間は、意識を朦朧とさせながら床に身体を預けた。
《特性増幅》のフェイズ2能力を得たスケルトンが到達するフェイズ3、それがどのようなものなのか、佐久間は紅井から聞いていた。恭介たちは、もうすぐそこにたどり着く。凛は、彼を再起させることに成功したのだ。
やっぱりな、という思いが、2つの意味を持って佐久間の胸に渦巻いていた。だが、今はできるだけのことをする。
魚住鱒代の唱えた魔法が発動し、恭介と凛の身体に水が降り注ぐ。凛の身体が水を吸い、恭介の身体を包み込んでいく。全身からあがる螺旋状の蒸気はやがて、竜巻となって2人を包み込んだ。
「……おおおおおおおおお―――」
竜巻の中から、唸り声のようなものが聞こえてきた。佐久間は安堵する。
この声は、“彼”のものだ。やはり彼は、また立ち上がってくれた。遅すぎる復活に、しかし安らかな確信を得ながら、佐久間はゆっくり目を閉じ甲板の上に身体を投げ出した。その間にも、唸り声は大きくなり、そして恭介と凛の姿を包んでいた竜巻が、徐々に弱くなっていく。
「―――おおおおおおおおおおおおおおおおおお―――」
その場にいる一同は、竜巻の中で叫び声をあげる人影の存在を確認した。
それは、歓喜の叫びであり、憤怒の叫びであり、悲嘆の叫びである。空っぽだったはずの器から、止め処なくあふれ出したあらゆる感情の発露。持て余した心の余分をのせて、彼は叫ぶ。
「―――おおおおおおおおおおおおああああああああああああぁぁぁぁぁッ!!!」
叫びの〆に、人影は竜巻を自らの腕で打ち払った。その場にいる一同は、誰もが彼から視線を逸らすことができずにいる。それはスオウですらも同じだった。動くことを忘れ、身体をその場に釘付けにする。
打ち払った風の隙間から覗く紅蓮の双眸が、スオウを睨みつけた。
「このタイミングで、フェイズ3だと……!」
スオウの声が、わずかに掠れている。
「クイーンは、こいつだけは眷属化してたってことか……!? くそ、だが何故……!」
「アテが外れたようだな。ナイトのスオウ」
瑛が何故か自信満々といった口調で語った。
「紅井の資料を読ませてもらったので間違いない。《特性増幅》のフェイズ3だ。一時的な合体ではあるが、今、恭介と姫水は細胞レベル、分子レベル、魔霊子レベルで完全に融合状態にある。いわば、EXストリーム・クロス。そう、名づけるならエクストリーム・クロス!!」
「勝手に名前つけんなよ……」
恭介は呆れ顔を作って言う。一時的とはいえあまりにも変わってしまった姿に、他の生徒たちは完全に唖然としている。
男とも女とも言えない中性的な顔立ち。細身の身体に水色の髪。精緻に築き上げられた“ヒト”のような姿は、恭介と凛の意識交感の中で組み上げられた理想の姿だ。2人が完全融合した状態であるからこそ、できる真似である。
「すまない。だが、君を立ち直らせる重要な役割をすべて姫水に譲ったんだ。これくらいの役得はあっても良いだろう」
「だってさ、凛」
『まぁ役得を言えばあたしもなので何でもいいです』
肩をすくめる恭介の身体のどこかから、自然と凛の声が聞こえてきた。間延びした会話だが、それを眺めるスオウの顔つきは厳しい。
「う、ウツロギ……!」
唖然とする生徒たちを代表して、剣崎が声をあげた。
「それに姫水も……。もう、大丈夫なのか?」
『バッチリだよ!!』
凛が叫んで応答する。恭介も頷いた。
「ああ、心配かけた。ひとまずここは俺たちに……おっと」
「グオオオオウッ!!」
スオウの警戒心が伝わったのだろうか。キマイラは取り押さえようとする奥村とゼクウの身体を振り払い、恭介の方へ顔を向けた。キマイラが吼え、恭介へと突撃していく。恭介はそれを避けようともしなかった。ぶつかる瞬間、ばしゃん、という水音がして、キマイラの身体がつんのめるようにして甲板に転がる。
「なっ……!」
スオウが驚愕に満ちた声をあげた。キマイラの一撃は、まるで水に突撃したかのように手ごたえがない。それを見守る生徒たちの中でも、やはり剣崎が一番素直に驚きを表現している。
「え、液化した!?」
「驚くことはない。完全融合した恭介と姫水だ。体組織の組成すらも自在に操ることができる。当然、骨を含めた液化など初歩中の初歩だよ」
「火野はなんでそんな嬉しそうに解説してるんだ……」
解説はご満悦の親友に任せるとして、恭介はキマイラの方に振り返った。液化は一瞬。身体の構造はすぐもとに戻る。
立ち上がったキマイラの顔面に、渾身のパンチが放たれる。
「「おーりゃああっ!!」」
意識のリンクにはわずかなズレさえ存在しない。密度操作から硬化までを一瞬でこなし、果たして炸裂した衝撃は、そのキマイラの持つ山羊の首をたったの一撃でもぎ取った。残された獅子の頭が悲鳴をあげて、傷口を押さえながらのたうちまわる。
ちらり、と恭介の視線が甲板に転がる佐久間へと向けられた。気を失っているだけのようだが、おそらく先ほどの毒がまだ強く残っている。治療が遅れると、後遺症を残す可能性があった。
『恭介くん、さっちゃんが……』
「ああ、わかっている。佐久間の毒も、すぐに治す。そのためにも……」
恭介は拳をぐっと握り、ジークンドーの構えを取ってキマイラと相対した。
「まずは、その身体から鷲尾を返してもらう!!」
この後白馬くんはすらりんを乗せてくれなくなったそうです。
次回投稿は明日朝7時です。




