第35話 さよならを言うのは、少し死ぬことだ
「アケノ!!」
古城に帰って来るなり、スオウはアケノへと詰め寄った。魔獣の調整を行っていたアケノは顔をあげて振り返る。
「スオウか、早かったな。連中はどうした?」
「逃がしたよ。連中のアシは陸上戦艦だ。多分だがフェイズ2まで入ったグレムリンがいる」
「慎重を期して帰ってきたというわけか」
「いや、俺が帰ってきたのは嫌な予感がしたからだ」
言うなり、スオウはアケノのシスター服の胸倉をつかみ上げた。
「てめぇ、あのグリフォンを殺したな。どういうつもりだ?」
スオウの額には青筋が浮かんでいる。端正な作りの顔を獣性に歪め、威嚇をするように牙を剥いていた。
ナイトであるスオウと、ビショップであるアケノの実力はほぼ同等だ。だが、総合的にはアケノの方がわずかに優れている。ナイトは黒紅気を扱うことができないからだ。なので、振り払おうと思えば振り払えるし、反撃しようと思えばできる。が、アケノはしなかった。戸惑ったのである。
「む、いや。少しばかり手を焼いた。勝手なことをしてすまなかったが、フェイズ2能力を見ても将来的には……」
「そういうことを言ってるんじゃねぇ!」
スオウが呆れたり怒鳴ったりするのはいつものことだ。
だがここまで真に迫った怒りをあらわにすることはほとんどない。アケノは肩をすくめる。
「良いか、しっかり言っとかなかった俺の方にも問題はあるけどな! 殺しちまったらもう『交渉』って手は使えねぇんだよ! あのまま連中に会いに行ってたらどうなってたと思う!? クイーンが裏切ってるとしたら、こっちはもうそう悠長には構えてらんねぇんだ! もっと真剣になれ!」
スオウの剣幕に対し、アケノは必死に首を縦に振った。
舌打ちをして、ようやく手を放すスオウ。アケノは皺になった胸元を正す。
「いや、俺もウツロギには多少強引な手を使っちまったから、偉そうなことは言えねぇんだよ。悪ぃな」
「う、うむ……」
スオウはがしがしと頭を掻いた。彼の言う通り、クイーンの裏切りは確定的だ。だが、先ほどの教会でのやり取りを見る限り、連中がクイーンから今回の集団トリップについて事情を聞いている様子はない。スオウは、事情を説明してある小金井を間に立たせ、改めて交渉の場を設けるつもりだったのかもしれない。
「そ、そんなにまずかったのか……?」
「かなりな。ウツロギだったら、多少強引な手を使っても、間に小金井を立たせりゃもなんとかなると思ってたんだが、さすがに一人殺しちまうとなるとどうしようもない。ったく! てめぇは! 元の世界の時から! ったく……!」
アケノは人の心というものがまったく理解できない。が、この時ばかりは、スオウが本気で怒りと苛立ちを露わにしていることを悟り、大人しくなった。
「小金井になんて言やぁ良いんだよ……」
「まだ言っていないのか。やはり離反の可能性が出るからか?」
「そもそも言えるわけねぇだろ」
スオウの言葉は吐き捨てるようだった。まだ怒りが収まっていないと見て、アケノは小さくなる。
「そのグリフォンの件は、小金井にはまだ言うな。あいつには悪いが、隠し通せ。連中に対してどう動くかは、もうちょっと考えてから決める」
強制執行か、なんとかして交渉の場を設けるか。そういった話になると、アケノが口を挟む余地はない。
強制的な捕獲を試みる場合、連中の拠点に乗り込んでいくのは危険だ。今まではクイーンの裏切りが確定していなかった為ポーンを派遣して様子を見ていたが、彼女の前で強制執行を試みた場合、クイーン自身との戦闘にまで発展しかねない。
クイーンとルークは大駒だ。保有する能力の半分でも発揮すれば、王にその場を悟られる。裏切り者のクイーンがモンスター化した軍勢を率いてこちらを攻めて来ない理由のひとつだと思われるが、さすがに強引に攻め入ってしまえばその限りではないだろう。
城に残ったいくらかのポーンを、王のもとに向かわせている。やがて王もクイーンの裏切りを知るだろう。その後、連中に対する沙汰は改めて下るのだろうが、それまでは以前に下った命令に従って、行動していくしかない。
「ひとまずはポーンに連中の監視をさせる。分散して行動する可能性があったら、そいつらは各個囲んで連れ帰る。良いな。原則として殺しはナシだ」
「わ、わかっている」
「本当か?」
スオウの目つきに白々しさはないが、それでもどこか懐疑的だ。
「それで、連中は今どこに向かっている?」
「渓谷をまっすぐこちらに向けて進んでいる。どのみちこのあたりには来るだろうな」
「だが、その前に“渓谷のヒュドラ”がいる土地を抜けるな」
アケノの言葉に、スオウが頷く。
渓谷のヒュドラ。数百年前に世界を恐怖に陥れた魔王が、この付近の国を滅ぼすために放った大型多頭モンスターだ。今でも渓谷に陣取り、我が物顔で這いずりまわっている。ポーンを数体狩りだせば討伐できないものではないのだが、番犬替わりにはなるのでそのまま放置していた。
「どうする。ヒュドラに連中が食われてはさすがに元も子もないぞ」
「あんまりこういう手を取るのは好きじゃねーんだが、まぁ、しばらく放っておこう。ただ、監視のポーンは増やす」
スオウは頭を掻いた。
「仲間の一人が死んで動揺しているところに、あのデカブツを見りゃあ腰を抜かす。連中の連携基盤がガタガタになったところに助けに行きゃあ、まあ何人かはこっちに流れるんじゃないか」
「そういえば、結局あの転生オウガは見つけられなかったな」
「あー、そうだなぁ。ったく、面倒事は山積みだな……」
鷲尾吼太が死んだ。甲板に集めた生徒たちにその事実を話した時、彼らは一瞬、完全に凍りついた。
戻ってきた恭介と凛を収容してすぐに、重巡分校は発進した。その場にとどまっては追撃を受ける可能性があったからだ。周囲への警戒は怠らず、しかし可能な限りの最大船速で渓谷を前進していく。
甲板には、次第に動揺が湧きあがり、ざわめきとなって広がって行く。どこか現実を受け止めきれず、衝撃や悲嘆よりも戸惑いの方が先に生じてしまっている。
「そ、それは……事実なのか……?」
デュラハンの剣崎恵が恐る恐る手をあげて尋ねた。竜崎は頷く。
「凛から聞いた話だけど、事実だ。だから鷲尾の帰りを待たずに発進している。猫宮たちを襲った赤い翼の悪魔から逃走する途中、追撃を受け、殺された」
事前に知らされていた何人かの生徒が、俯き、震えている。ようやく、彼らの間に鷲尾の死が実感として広がり始める。
「ど、どういうことだよ……!」
鷲尾といつもつるんでいたユニコーンの白馬が、絞り出すような声を出した。
「なんでおまえはそんなに冷静なんだよ……。なんで、どうして鷲尾が……」
「鷲尾が死んだ原因は、俺の決断にある」
竜崎は、クラス一同をぐるりと見回し、はっきりとそう言う。
「俺がクラス全員で王国を発とうと言わなかったり、もしくはここで足を止めて探索をしようって言わなければ、鷲尾は死なずに済んだ。それは認める。でも、俺は拠点で死霊の王に襲われた時みたいに、鷲尾の死を理由にリーダーの座を降りるつもりは、ない」
クラスメイトが竜崎を見る目は様々だ。憤り、哀しみ、嘆き、不信感と恐怖。
およそ30名ばかりのクラスメイト全員の感情を、竜崎は正面から受け止めた。
ここで降りることも、逃げることもできる。だが、またあの時のように食堂の片隅に逃げ込むつもりは、竜崎にはない。鷲尾の死によって、恐怖心を揺り起す生徒はいるだろう。むしろそちらが大半であるに違いない。深く考えず、安全であるはずの王国を発ち、その結果が仲間の死だ。この選択を後悔する生徒は必ずいる。
果たして王国での生活が本当に安全だったのか、という問いは、ここでは意味をなさない。自分たちは選択をし、その結果、鷲尾が死んだ。次に死ぬのは、もしかしたら自分かもしれない。ここに蔓延しているのはそうした空気だ。
だからこそ、竜崎はリーダーの座を降りるつもりはない。ここでクラスがバラバラになれば、犠牲者はもっと増える。この山の中で、協調性を失い離散すれば、結果がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
「俺は弁解をしない。恨むなら恨んでくれ。でも、ここでみんながバラバラになるわけにはいかない。そうだろう」
なるべく感情が言葉に滲まないように、淡々と竜崎は語った。そう、自分一人に責任を背負わせることで、クラスが協調性を保てるならばそれでも良い。鷲尾が死んで哀しい、恐ろしい、その一時の感情に流されて、今何をするべきかを見失うなど、あってはならないことなのだ。
「当然、俺はここで船を引き返すつもりもない」
「竜崎、おまえは……!」
白馬の声には、怒りと悲しみが滲んでいる。
「明日には、鷲尾の葬式を行う。それまでは、各々に割り振られた役割をきちんと遂行してくれ。以上だ」
「あっ、竜崎くん……」
竜崎は、くるりとクラス一同に背を向けると、足早に甲板を去った。佐久間が後ろから声をかけてくるが、立ち止まることはできない。甲板に集まった生徒たちのどよめきが大きくなる中、佐久間が改めて彼らをまとめようとする声が聞こえてきた。
情けない。あれだけ偉そうなことを言って、結局最後は人任せか。
竜崎はそのまま艦長室の扉を開け、中にこもった。決して快適とは言えない、やたらと揺れる重巡分校の艦内。扉を閉めるなり、その扉に竜崎は背中を預けて、ずるりと床に座り込んだ。頭を両手で抑え込み、うなだれる。
鷲尾吼太が死んだ。人間時代からお調子者で、冗談があまり面白くなくて、他人の顔色を窺ってばかりで、いつも人の後ろをついて来て、一言目にはバイトの愚痴、二言目には彼女が欲しいとばかり言っていた、鷲尾吼太が死んだ。
バスケ部の補欠だが人一倍頑張って、たまたま出られた公式試合では偶然決めたスリーポイントシュートでチームを勝利に導いた、あの鷲尾吼太が死んだ。試合を見た帰りにハンバーガーを奢ってやりながら日頃の努力を褒めたところ、『女の子にモテたいからだよ』と照れくさそうにうそぶいていた、あの鷲尾が死んだ。
目元が熱い。ぼろぼろと流れ出る涙を止めることができず、竜崎は嗚咽を漏らす。頭の中がぐしゃぐしゃで、もう何を考えればいいのかわからない。
「ごめんっ……。鷲尾……、ごめん……!」
もう帰らないクラスメイトを思いながら、竜崎邦博はただただ、慟哭を涙を流していた。
クラスの中には、よくない空気が蔓延している。当たり前である。人がひとり、死んだのだ。
姫水凛は甲板に出て、ぼうっと過ごしていた。恭介も誘ってみたが、彼は部屋にこもったきり出てこない。結局、自分は彼の為に何かをしてやることができなかった。おそらく、彼がずっと目を背けてきたであろう内面を、スオウの言葉によって無理やりにでも確認させられ、そしてその直後にクラスメイトを失った。
誰かを助けること、支えること、感謝されることでのみ、辛うじて人間らしさを保ってきた恭介が、目の前でクラスメイトを殺されたのだ。中身のない箱は脆い。恭介の心は砕かれた。
前回は身体、今回は心。どちらも粉々だ。
甲板に設けられた畑では、花園が黙々と土いじりをしていた。パセリによく似たハーブは、花園の能力も相まってグングンと成長している。
「華ちゃん」
凛が声をかけると、花園華は顔をあげ、微笑んだ。
「大変だったね、姫水さん」
「うん……」
そう言って、再び花園は土いじりに精を出す。気の弱い彼女は、てっきり今回の件で心を折り、帰りたいと言い張るようになるのではないかと凛は思っていたのだが、何やら意外な行動ではある。それを口にするのもマナーが悪いと思っていたところに、花園はこう言った。
「鷲尾くんね、私に告白してきたことあるんだよ」
「えっ!?」
「断っちゃったけどね。ていうか、同じクラスになって一週間くらい。あんまり話したことがないような時期」
「あ、ああ、うん……」
確か、2年生の1学期が始まってすぐの頃、そういった噂があったことを凛は覚えている。とにかく彼女が欲しいと思っていた鷲尾は、片っ端からクラスの女子に声をかけるというローラー作戦に出たのだ。当然悉く玉砕し、女子たちは彼に見向きもしなくなった。
クラスのカースト最上層である竜崎に取り入るようになったのは、その直後だったはずである。
「その時私は園芸部の花壇を弄っててね。ちょっとだけお花の話したよ」
「うん……」
「死んじゃったからなのかな。良い人に思えるの」
花園は良い子だな、と凛は思った。思い出は美化される、という言葉は凛も聞いたことがある。だが、クラスの中には、次には自分が死ぬかもしれないという恐怖に脅え、仕事が手につかない生徒も多い。その中で、彼女はしっかり鷲尾の死を悼んでいる。
「華ちゃんは今、何を育ててるの?」
「明日お葬式だから、お花、育てておこうと思って。鷲尾くんが褒めてくれたお花じゃないんだけどね」
そう言って花園が指すのは、白い花房が大量に集まった綿毛のような花だった。
「これなに?」
「にんじん」
「にんじん……」
「鷲尾くん、にんじん好きだったから、これくらいしか思いつかなくって」
花園は、以前ほど育てた作物を食材として提供することに消極的ではなくなっている。きちんと子を残し、苗木を残し、その種を次世代へと続かせていくことを条件に、根菜や葉菜などは普通に杉浦へ届けるようになっていた。
鷲尾の思い出か。凛は思い出す。
凛は陸上部、鷲尾はバスケ部だった。1年生の時から同じクラスで、比較的言葉をかわす機会は多かった。1年生3学期の終業式の日、いつものように短距離走の練習をしていた凛のもとにやってきてバスケの1on1やろうと言ってきたので、1回だけ付き合ってやったことがある。
凛は自分でもびっくりするくらいドリブルが上手くて鷲尾をコテンパンにしてしまい、ちょっぴり気まずい思いをした。記憶に残る思い出と言えば、そのくらいだ。
「やっぱり良い人だったよ、鷲尾くん」
凛は頷く。死者に対する図々しい感情であったとしても、決して彼は悪い奴ではなかった。
それを殺されたという怒りを燃え上がらせることもできる。だが、その感情は今は萎えていた。
「うん。彩ちゃんもね、今夜と明日はにんじんパーティーにするんだって」
「鷲尾くんのために?」
「一緒に話して決めたんだ。私達が仕事やめたら、みんな大変だからね。哀しいし、怖いけど、今はできることをやるしかないから。一緒にちょっとずつ、無理をしていこうねって」
「一緒に、ちょっとずつ……」
無理をする。それは、奇遇にも、以前の戦いで凛が口にした言葉と同じだった。
甲板に銃座に貼り付いたゴブリン達に、五分河原が声をかけながら回っているのがわかる。あのゴブリン達には鷲尾の死によるショックはない。だが、それほど衝撃を受けていないのは、五分河原と奥村も同様だった。
彼らにも、クラスメイトを悼むだけの気持ちはある。だが、それを引きずる様子がまったくないのだ。先ほど聞いてみたところ、回答はこうだった。
『俺たちだって、大切な人を亡くしてるからな』
五分河原の姉、『ゆかりさん』のことだ。彼女がどのような病気にかかり、どのようにして、いつ亡くなったのか。凛は知らない。だが、親しい人間の死を共に乗り越えた2人は、他の生徒が動けない分、普段以上に精力的に動き回っている印象がある。
班長として鷲尾の死にショックを受けている猫宮を、神成が慰めているのも見た。気取り屋で自信家な猫宮美弥が塞ぎ込む様子は見ていられないものがあったが、そんな彼女に付き添って、神成は親身になって言葉をかけていた。
自分と一緒に元の世界に帰りたいと言ってくれたことが、どれだけ嬉しかったかを語り、その気持ちがあるから今も頑張ろうと言う気になれるのだと告げた。それでも猫宮は、鷲尾が死んだ原因について自分を責めていたが、神成の言葉にどこか救われた表情を浮かべるようになっていた。
みんなができることを、少しずつやっていく。
2年4組の生徒たちは成長している。それぞれの抱える大小の問題と向き合い、遅々たる変化ではあるが、少しずつ前に進んでいる。トリップ当初に同じことが起きていたら、クラスはその日のうちに崩壊していたかもしれない。
自分にできることは、なんだろう。凛は考える。
恭介のために。あるいは、鷲尾のために。姫水凛ができることとはなんだろう。
「姫水さん、もうすぐパセリができるよ」
花園は、少し嬉しそうに言った。
「ウツロギくんのこと、心配だよね。パセリができたら、一杯食べさせてあげようね」
「うん、そうだね……」
渓谷の底を走る重巡分校の甲板で、凛はしばらくの間、揺れるパセリをじっと眺めていた。
空木恭介のことも、竜崎邦博のことも心配だ。佐久間祥子は唇を噛みしめ、艦内の通路を歩いている。
彼女の後ろには、クラス1の不良少女である犬神響もついていた。文学少女と、不良少女。人間時代では考えられなかった組み合わせだ。犬神は、その表情をいつもの数割増しで不機嫌にし、佐久間の後ろを歩いている。
鷲尾吼太が死んだ。この報告を受けた時、佐久間の頭の中が真っ白になった。
言葉を交わしたことがそう多くないと言っても、クラスメイトである。それもただ死んだのではなく、殺されたのだ。何を考えて良いのかわからず、しばし呆然自失とし、我に返った時には悲嘆よりも先に恐怖の感情が湧き上がってきた。
サキュバスに転生して以来、今までに幾度か死線を潜り抜けてきた佐久間である。クラスメイトの死という、今まで起こらなかったのが奇跡的とも言える現象を受けて、麻痺していた恐怖心が鎌首をもたげたのだ。
その恐怖を押さえつけたのは、空木恭介の存在だった。
鷲尾の死を目の前で見た恭介は、佐久間とすれ違っても何の言葉を発することもなく、ただ自室へとこもった。彼と一緒にいたという凛はひとこと、佐久間にこう言ったのだ。『ごめん、ウツロギくんのこと、守れなかった』と。
恭介の虚ろな態度と、凛の悔しそうに語る言葉。佐久間はその時初めて、今まで恭介に助けられていた自分が、今度は彼を助けなければならなかったのだと知った。凛は今まで、ずっとそれをやろうとしていたのだ。
鷲尾の死を受けて、クラスの中には微細な変化が起きつつある。
その中で、佐久間が一番驚いたのは、犬神響の変化である。クラスの一匹狼である不良少女は、鷲尾の死にもそう関心を示すことはないと思っていた。が、佐久間の見たところ、竜崎の報告を受け、もっとも純粋な怒りを燃え上がらせているのは、犬神だったのだ。
『紅井のところに行くぞ、佐久間』
犬神は、ぶっきらぼうにそう言った。
『明日香ちゃんの?』
『今までなぁなぁにしてたけどな、今度こそあの吸血鬼を問いただす』
その言葉には、犬神と紅井の間にある浅からぬ因縁を感じさせる。
佐久間は、犬神があの紅き月の血族の存在を知覚できるということを、ずっと疑問に感じていた。それだけではない。犬神が紅井を語るとき、彼女は必ず、レッドムーンを語るときと同じ目つきをする。
「犬神さん……」
通路を歩きながら、佐久間はふと口を開いた。
「なんだ?」
「鷲尾くんが、その、死んじゃったこと、怒ってるの……?」
「ああ」
相変わらずぶっきらぼうな声が、後ろから聞こえてくる。
「アタシはこれ以上、アタシの周りで誰かを殺すような奴を、許しておけない」
「それが、明日香ちゃんなの?」
「そいつを確認しにいくんだろうが」
佐久間は、紅井の扉の前にくると、呼吸を整えてノックをした。
「明日香ちゃん。私」
『サチか。良いよ』
扉の向こうからは、代わらないトーンの声が聞こえてくる。佐久間は、犬神に頷いて扉を開けた。
椅子に腰かけ、丸窓から外の様子を眺めていた紅井明日香が振り返る。紅井はすぐに、佐久間の後ろの犬神を認め、不機嫌そうに顔を歪めた。
「……なんで犬神がいるの?」
「一族と、あと鷲尾の分の御礼参りつったら信じるか?」
「………」
紅井は目を細めて犬神を睨み、そうしてそれから、佐久間を見た。彼女の眼は佐久間にこう尋ねている。話を聞いたのか、と。
佐久間はかぶりを振り、しかし毅然と自らの言葉を主張した。
「明日香ちゃん、お願いがあるの」
「なに」
「明日香ちゃんの知ってること、全部話して」
こちらの世界に来てからの紅井は、何かおかしい。
集団行動に非協力的なのは昔からだった。『命令』というものに過剰な拒否反応を示すからだ。だが、紅井はクラスメイトが自らの使える能力を試行錯誤していく中、最初からその血を自在に操ることができていたし、副作用についても知っていた。
それだけではない。以前、レッドムーンの悪魔が拠点を襲撃した際、あの悪魔を倒したのはおそらく紅井の仕業だ。紅井は明らかに、実力を隠している。
そして、犬神の紅井に対する態度。今日の言動。
恭介が紅井に告げられたという『問題』のことも、無関係ではない気がしていた。
佐久間に詰め寄られ、紅井はわずかに困惑した表情を浮かべる。
「いくらサチでも、それは……」
「鷲尾くんが死んじゃってるんだよ!」
佐久間は大声をあげた。ここで死者の名前を出すのは卑怯だろうか。
「鷲尾くんだけじゃない! 次に死ぬのは、ウツロギくんかもしれない、竜崎くんかもしれない、春井さんや蛇塚さん……もしかしたら、私かもしれない……!」
だが佐久間は止まらなかった。心の奥底に縛り付けていた恐怖を、明確な形で口にする。
鷲尾吼太が死んだ。だが、このままではきっと、犠牲者は鷲尾だけでは済まない。紅井は何かを知っているのだ。それはもしかしたら、次の状況を打開するための、手がかりになるかもしれない。
「別に言いふらすつもりはないさ、吸血鬼」
犬神はニヤリと笑った。
「てめーの正体を佐久間に話すくらいで、この場は許してやる」
「犬神……」
その時、紅井明日香が浮かべたのは、彼女にしては珍しい恨めしげな表情だった。
「明日香ちゃん、お願い……」
佐久間が彼女の手を取ると、紅井は大きく溜め息をつく。
それから、クイーンにあてがわれたにしては決して広くない船員室をぐるりと見回して、最後に視線を、丸窓の外にやった。
「わかったよ。サチ、それに犬神」
紅井明日香は、ぽつりと呟く。
「あんた達には話す。アタシも、一人で抱え込むには限界だったっぽいしね」
「む……?」
渓谷を歩いていた豪林元宗は、地面についた奇妙な痕跡を発見した。
まるでブルドーザーやショベルカーが通った跡のようだ。いわゆるキャタピラだが、その大きさが尋常ではない。ひとつの幅が5メートル以上はあるし、左右のキャタピラの間だけで30メートル近くはある。ここまでくると、空想上の陸上戦艦の方が近いように思えてくる。
戦艦と言えば、かつて拠点を発った時に見た、あの軍艦の残骸を思い出す。
竜崎たちは、ちゃんとやっているだろうか。途中で送り返したゼクウは、あの人間の少女を無事に届けているだろうか。思えば、ずいぶんと遠くまで来てしまった。
自分の中の“鬼”を見つめ直し、再確認ができたゴウバヤシとしては、出来うることなら彼らのもとへ戻り、再び合流したかった。だが、それにはもう少し、時間が必要だ。
カオルコとはぐれてしまってから、久しい。
アカハネによる襲撃がきっかけだ。ゴウバヤシはカオルコを逃がすための囮となり、瀕死の重傷を負った。その後人間の手で保護され、手厚い治療と稽古までつけてもらったのだから、それ自体は無駄ではない。だが、カオルコの行方は見失ってしまった。
逃げ足だけは早い奴だ。しっかり逃げおおせているとは、思いたいが。
ともあれ、このキャタピラ痕は非常に気になる。人跡未踏だと思われていた山奥に、こんなものがあるとは。
しばらく、辿ってみた方が良いかもしれない。
ゴウバヤシは、肩当からおろされたマントをたなびかせながら、そのキャタピラ痕を追った。
次回更新は明日朝7時です。
2年4組のクラスメイト達は鷲尾の死を乗り越えられるのか。明かされる謎。迫る敵。ついにあの男が帰ってきます。




