第30話 紅い影
『フェイズ2からフェイズ3に移行するのに必要なのは、あたしの血だから』
紅井の言葉を、恭介は訝しむ。至近距離にまで近寄った彼女の顔が、月光に照らされ怜悧な色合いを帯びる。
クラス三大美少女の一人である紅井明日香を、ここまで間近で見たのは初めてだ。170センチ近い長身に、すらりとした体躯。一切の粗目が見つからないきめ細やかな肌。見れば見るほどに、まるでこの世の存在ではないかのような、魔性の美しさを帯びてくる。
恭介は一切の身動きを取ることができず、かろうじてこう尋ねることができた。
「どういう、意味だ……」
「さぁね。どういう意味だと思う?」
くるりと振り向いて、紅井は2歩、3歩、前へと進む。
「そう聞くってことは、ウツロギはまだ気づいてないんだ」
「なに」
「ネタ晴らしをするには少し早かったな」
そのまま、紅井明日香は、革靴で真っ赤な絨毯の上を歩いて行った。
紅井は何かを隠している。今の言葉だけで、それはもう確定的だ。
気になることは、いくらでもある。なぜ、紅井はろくに使ったこともない能力の副作用について詳しく知っていたのか。なぜ、紅井と犬神だけがほとんど姿を変えずに転移してきているのか。なぜ、フェイズ2からフェイズ3への移行条件を知っているのか。紅井は、一連のトリップ事件について、何かを知っている。
あの、“紅き月の血族”と名乗る者たちと同様に。
「待て、紅井!」
恭介は、金縛りにあったような身体を強引に動かして、紅井を追いかける。
彼女が、ふわりと振り返った。
一瞬、窓から差し込む青白い月明かりが、血を垂らしたかのように紅く染まる。この広い王宮に、たった二人しかいなくなるような感覚。それまでいた世界とは隔絶され、まるでまた新しい世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。
窓から覗く、紅い月。
恭介が紅井の腕をつかんだ直後、彼女は鋭い視線を恭介へと向けた。
「邪魔なんだけど」
直後、恭介の身体を、強い衝撃が突き飛ばした。身体が大きく数メートルは吹き飛び、絨毯の上に転がる。不思議と、骨はバラバラにはならなかった。一瞬の怒りを苛立ちを経た後、紅井の目つきは、いつもの怠惰なクイーンに戻りつつあった。自分以外のすべてを睥睨するような超然とした視線が、恭介へ向けられる。
「機会が来たらまた続きを話すから。ウツロギは、さっき言ったことまで覚えてれば良いよ」
「待て、紅井……。ひとつだけ、聞かせてくれ」
「あたしに命令しないでくれる?」
「……頼む」
ようやく自由になった身体を起こしながら、恭介が頭を下げる。紅井は爪をいじりながら言った。
「で、なに?」
「拠点が2回目の襲撃を受けた時、赤い翼の悪魔を倒したのは……紅井なのか?」
「ああ、それはわかったんだ」
紅井の口元が、少し緩み、わずかな弧を描く。
「それともサチに聞いたのかな。どっちでも良いけど」
彼女の言葉は肯定を意味する。やはり、と恭介は思った。
「これ以上は言わないよ。知ってる奴が増えると気づかれやすいから。あまり時間の猶予がないから、焦ったんだよね」
ふう、と溜め息をつき、紅井はらしくないことを言う。窓の外から月明かりを見上げた。
夜空に浮かぶ月の輝きは、いつもの冷涼な色の光を取り戻している。
「俺はまだ強くなるって言ったよな」
「言ったけど、その分じゃまだ遠そう。ウツロギは自分の問題を解決する必要があるよ」
「問題? 俺の? そんなのあるか?」
「なかったら、そんなダッサい姿になってない」
これ以上は言わない、と言いながら、紅井はずいぶん彼女なりのヒントを出してくれているように思えた。
だが、恭介にはわからない。この姿になったことに何の意味があるのか。自分の問題とは、何なのか。
ふと、ゴウバヤシのことを思い出す。彼は、オウガと化した自分の姿を、自分の中にすくう“鬼”によるものだと判断し、それと向き合うための旅に出た。自分の姿には、どんな意味があると言うのだろう。それと向き合うとは、一体どういったことなのだろう。
わからない。
恭介がふと顔をあげると、いつの間にか、紅井明日香の姿はなくなっていた。
翌朝、姫水凛は大浴場を訪れていた。
王都には朝風呂の文化がある。正確には、転移してきた日本人によってもたらされた文化だ。公衆浴場の文化がある大陸南方から、わざわざ大量の風呂技師を呼びつけて、王宮や王都のあちこちに風呂を建造することになったのだとか。そんなマンガ、なんか元の世界で読んだなぁ、と凛は思う。
で、凛が訪れたのは王宮の大浴場だ。基本、王宮に寝泊まりする来賓や貴族などが使用するものだが、貴族はともかく来賓となると今は2年4組の生徒しかいない。というわけで、大浴場は男女どちらのものも、現在はモンスター浴場と化しているのであった。
だがはっきり言って、凛は公衆浴場が嫌いだ。
風呂は嫌いではない。公衆浴場が嫌いなのだ。銭湯とか温泉とかが、ダメなのである。
理由はひどく単純で、劣等感に苛まれるからだ。
人間時代、凛は自らの発育の遅れを、中学校の林間学校で知った。中学生なんだから発育なんてたかが知れてるだろ、という意見もあるかもしれないが、第二次性徴を迎え、あるいは終えた少女たちの中で、凛の切り立った断崖のような胸板はひどく悪目立ちをした。で、笑われた。凛にはそれが苦い思い出だ。
それでも凛は毎朝風呂に来る。クラスメイトとのコミュニケーションをとるためだ。裸の付き合いって奴である。
ただ、スライムになってから訪れる大浴場というのは、なんというかこう、彼女の劣等感を無駄な方向にグングン加速させていくものでもあった。
「あれー、すらりんじゃん」
湯気のあふれる大浴場にするりと入ると、真っ先に声をかけてきたのは杉浦彩だ。
スキュラというのは上半身が女の子、下半身がタコになっている怪物のことだ。下半身がタコというとディズニー映画の悪役を思い出すが、杉浦はあそこまで立派なウェストを持ってはいない。
凛は、親しげに話しかけてくる杉浦の身体を、触手の先から頭の先まで、食い入るようにじっと見つめる。
「すらりん、お風呂好きだねー。その身体、洗えるの?」
「いやー、別に洗えるわけじゃないんだけどね……。でも、一応お湯を浴びて、身体の中の余計な老廃物を出してすっきりするよ」
「え、それってマナー違反……」
「違うよ!? 何を想像してるの!? あたしそこまで自由じゃないよ!?」
ちなみに凛の父と兄は風呂場でよく“それ”をやる。発覚した時は母親と一緒にお説教だ。
「あ、姫水さんだ。やほー」
「おー、イトミちゃん」
カシャン、カシャンという音と共に歩いてくるのは、蜘蛛の下半身を持つ少女、蜘蛛崎糸美である。
スキュラとアラクネは下半身の占める面積が常人の数倍なので、この二人が並ぶだけで、浴場はやけに手狭に感じられてしまう。凛は、やはり改めて、蜘蛛崎の頭の先からつま先を、じぃっと視線で追った。なめまわすように見つめても、目がない分気づかれにくいのがスライムの良いところだ。
「くそう、みんな良いなぁ……。顔もおっぱいもあって……」
つまるところ、凛の感情とはそこに集約される。
みんなモンスターに転生したが、だいたいの女子生徒には、顔とおっぱいが残されているのだ。モノの大小はあるし、形も様々ではあるが、あるのだ。杉浦のモノは豊かだったし、蜘蛛崎のモノは美しい。
顔と胸が全てだとは言わない。人間時代の凛の武器は健康的な脚線だった。もうひとつの武器だった溌剌さは、スライムになった今でも失われてはいない。
ただ、風呂という剥き出しの空間に訪れると、凛の女子としての劣等感が刺激されるのである。
「別に良いじゃないか。おっぱいがなくても」
後ろから気取った声でそう言うのは、ケット・シーの猫宮美弥だった。
彼女のいでたちは、ネコそのものだ。ネコ耳獣人なんて甘えた姿ではない。完全な黒猫。直立できるという違いはあるが、ほとんどただの猫である。
このまま湯船に浸かると毛で一杯になるので、彼女は大きめの桶に湯を汲んで浸かっている。
「ボクは顔もこれだからね。まぁ、これはこれでボクの魅力に合った“らしい”姿だと自負してはいるが」
「気になってたんだけど、みゃーちゃんってやっぱ乳首いっぱいついてんの?」
「そういうマニアックな質問はやめたまえ。結局おっぱいかキミは」
猫宮は露骨に表情を曇らせる。ネコなのに毎朝この風呂にやってくる彼女は、その実単なる風呂好きだ。
「外見の女子力が著しく低下したのって、あたしとみゃーちゃんと、あと誰だろうね。鳥々羽ちゃん?」
「そうだな。やっぱり神成だな。ボクとキミとアイツでクラス三大ガッカリ美少女だ。あとは箱入とか壁野とか……ああいや、カオルコもいるな」
「あー、カオルコちゃんねー。元気にやってっかなぁ……」
サンダーバードに転生した神成鳥々羽は、身体が大きすぎて浴場には入れない。そもそもお湯に浸かるとみんな感電させてしまうので、朝風呂からはハブられてしまっている。
サンダーバードと言えば、父親が大好きな人形劇くらいしか思いつかない凛であるが、聞けばどうやらネイティブアメリカンの間に伝わる神の鳥であるらしい。こちらの世界でも存在は確認されるが極めて珍しいらしく、ポテンシャルで言えばドラゴン化した竜崎などにも匹敵するはずだというのがセレナの見解だった。が、気弱な性格なのでその力が発揮されたことはない。そもそも本人が雷が怖いというのが致命的であった。
凛は身体の老廃物を流してから、湯船に浸かる。お湯を吸収しないよう心掛けた。
猫宮が腕を組んで、天井を見上げる。
「神成もなぁ……。あいつも、この国に残るって言いそうなんだよね」
「あー、みゃーちゃんと仲良いんだっけ」
「同じ演劇部だよ。まぁ、付き合いはもっと古くて、ボクが誘ったようなもんだけど。役者にしたかったんだけど、あの性格だから結局裏方になっちゃった」
「ふんふん」
滔々した猫宮の語り口は、演劇部なだけあってサマになっている。凛は相槌を打ちながら、彼女の言葉を聞いた。
「ボクは帰るつもりだよ。役者になりたいからね。こっちでケット・シーの舞台女優を目指しても良いけど」
「あっちは子役時代に築いた実績もあるしねぇ」
「昔の話だよ。ただ、神成はどうかな。ボクほど、あっちに未練はなさそうなんだ」
確かに神成鳥々羽の名は、竜崎に見せてもらったリストの中に入っていた。根回しが必要な一人だ。
そうそう。こういう情報を得るために、裸の付き合いって奴は欠かせないのである。
「みゃーちゃんが一緒に帰ろうって誘えばいいのに」
「今まで散々ボクのワガママで振り回して来たから、命がかかるかもしれない状況にまで突き合わせたくはない」
「ふーん。素直じゃないんだ」
友人関係というのは、得てして面倒くさいものだ。
「花園も、残るって言いそうだな……」
杉浦も湯船に浸かりながら、小さくぽつりと呟く。
なるほどなるほど。凛は頷いた。やはり竜崎の言った通りだ。みんな、友達と離れたくはないのである。杉浦にだって、実家の和食料理屋を継ぐという夢がある。だから、元の世界にはどうしても帰りたい。
だが、その夢の為に、安全で平和に暮らしたいという友人たちを、巻き込むことはできない。
友達を慮ったその発言は、一方では真実だが、一方では誤りだ。
凛だって、元の世界に帰りたい。できることなら、全員でだ。そのために、これからしなきゃいけないこと。元クラスカースト最上位に君臨した姫水凛の、政治手腕の見せ所である。
「ねー、すらりん」
決意を新たにする凛を、杉浦がつんつんと突っついた。
「ん、なにー? 彩ちゃん」
「湯船が空になってるんだけど」
「げげっ」
いつの間にか全部飲んでいた。
これから、残留希望組への根回しに向かう。その前に、長風呂の凛が出てくるのを待たなければならない。
恭介と瑛は、王宮に設けられた来賓用のサロンで時間を潰していた。何か暇を潰せるものはあるのだろうかと探してみたところ、なんと将棋があった。これも、誰かが日本から持ち込んだ品なのだろうか。チェスやトランプなど、ボードゲームの数はそれなりに豊富だ。将棋だと瑛が燃やしかねないので、チェスにした。駒は石でできているので焦がす心配もあまりない。
「恭介、昨日、何かあったのか?」
ポーンをひとつ動かしながら、瑛がいきなり、鋭く切り込んでくる。
「わかるのか。参ったなぁ……」
「当たり前だよ。何年の付き合いだと思ってるんだ」
何かあったか、と言われれば、当然あった。紅井との一件だ。だが、恭介はそれを口にするのは憚られる。彼女は、あの時彼女が口にした情報が拡散されるのを、あまり好んでいない様子だったからだ。恭介は信条として、人の嫌がることはあまりしないようにしている。
恭介はしばらく黙り込んでいると、瑛は小さく溜め息をついた。
「まぁ良いさ。なら言わなくてもいい」
「ごめん」
「謝ることじゃない。君との付き合いはずっとこうだからね」
瑛の言う通り、恭介と瑛の付き合いはずっとこうだ。友達の少ない瑛の隣にはいつも恭介がいたし、恭介の危なっかしい態度を諌めるのはいつも瑛だった。そして瑛は、必要以上の介入は決してせず、なるべく恭介の自主性を尊重しようとしてくれる。
まぁ、その恭介が優柔不断で煮え切らず、瑛を怒らせるということもしょっちゅうなのだが。
しばらくの間、無言のチェスが続く。
「恭介」
瑛が不意に口にした。
「昨日、姫水が言っていたことなんだが……」
「あぁ、うん? なんだっけ」
「覚えていないのか。君が……」
「チェックメイト」
「……!? ちょ、ちょっと待ってくれ恭介! あれ!? いつの間に!?」
「相変わらずボードゲームは苦手だな瑛は。頭脳派みたいなキャラして」
子供の頃からそうなのだ。昔から特撮ヒーローが好きだった瑛は、幼稚園で戦隊ゴッコをやるとき、いつもブルーかブラックをやりたがった。そうしてレッドを恭介にやらせるのだ。が、だいたいゴッコ遊びのさなかにアツくなって、熱血バカみたいな言動になってしまうのは、瑛の方だった。
恭介がこんななので、クールな二枚目、あるいは頭脳派参謀みたいな言動の目立つ瑛だが、実は考えた結果いろいろと裏目に出ることも多かったりする。最近ではフルクロスの正体を隠そうとした件もそうだ。まぁ、あれは半ば趣味も混じっていたようだが。
「も、もう一回だ。恭介、今度は飛車角落ちでやろう!」
「ないよそんなの」
二人がチェスの駒を盤上に並べ直していると、サロンの外からやや大きめの声の話し声が聞こえてくる。聞き覚えのある声。セレナだ。
この国のお姫様。プリンセス・セレナーデである。声のトーンはやや緊迫していた。恭介と瑛は顔(瑛にはない)を見合わせる。
「そ、それは本当ですか! た、大変ではないですか!」
「はい。ですからこの件は、できるだけご内密に……」
そんな会話をしているさなかに顔を出すのもどうかと思ったが、来賓用サロンの前で大声をあげて話しているのが悪いのだ。恭介と瑛は怖気づくこともなく、堂々と出て行った。
「やぁ、セレナさん」
「あぎゃー!」
とうていお姫様とは思えない悲鳴をあげて、プリンセス・セレナーデは跳びあがった。
セレナと一緒にいるのは、王宮内でよく見かける近衛騎士のリーダーだ。恭介たちの姿には慣れないようで、ギョッとしている。
「あんまり聞こえなかったけど、何かあったのか?」
「なな、なんでもありません! なんでもありません! 王都へ護送中の野盗団が、見張りの騎士を刺殺して逃げたなんて、そんなことはありません!」
「なるほど……」
「あー! ごめんなさいぃ! 忘れてくださいぃ!」
セレナは両腕を振り回して叫んだ挙句、壁に両手をついてがっくりとうなだれた。
「うう……。迂闊で無能なセレナを叱ってください……」
「まぁ、そうしたわけですので、この件はご内密に」
近衛騎士が苦笑いをしながら恭介たちに話す。恭介と瑛は頷いた。
「わかりました。他言はしません。でも、そうなると物騒ですね」
「はい。王都からそう遠くない場所で逃げられたのが厄介です。とは言え普通の人間ですから、みなさんからすればさほど恐ろしくもないかもしれませんが……」
「人をひとり平気で殺せるんだから、恐ろしくないわけないですよ」
セレナから、この世界のモンスターについてだいたいの知識は得ている。
単騎でモンスターと互角以上に渡り合える人間は、全体から見ればそう多いわけではない。特殊な訓練や生まれ持った才能。魔法や闘気などを操る力の有無。そうしたものの違いで、大きな差が出る。
何の力も持たず、訓練も積もうとしなかった一般市民にとっては、角ウサギですら危険なモンスターだ。恭介が街を歩くだけで、本当は大混乱なのである。
この国の野盗というのは、だいたいが騎士になれなかった従騎士崩れであるらしい。相応の訓練は積んでいるが、まぁ、良くて恭介一人と互角といったところだ。
自分が戦闘力の単位として使われるのは甚だ遺憾だったが、まぁ例えとしてはわかりやすい。おそらく逃走した野盗の戦闘力は、1人1恭介だ。平気で人を殺せるのだから、潜在的にはもっと高い。2恭介くらいあるかもしれない。
「しかし、たかだか2恭介だから、この国の騎士が数人集まれば捕まえるのは難しくないのでは?」
「瑛、おまえもその単位使うのか」
「そうですね。ただ、油断していたとはいえ、刺殺された騎士もウツロギさん3、4人分程度の実力があったはずですから、もしかしたら長引くかもしれません」
「近衛騎士さんまで」
恭介3、4人分か。恐ろしい相手である。早く捕まって欲しいものだ。赤い翼の悪魔とも戦ったばかりで、人間の犯罪者におびえるというのも妙な話だが、やはり明確な敵性存在よりも、そうした身近な悪人の方がはるかに恐ろしい時もある。
「ともあれ、ともあれですよ! 城壁の外にはキッチリお触れを出さないといけません」
「はい。王都周辺の警邏も強化しなければなりません」
城壁に囲まれた王都の外側には、広大な農耕地が広がっている。この国は治水技術が発達していて、北の山脈から引いてきた用水路のおかげで、そこかしこで農産業が盛んなのだそうだ。新鮮な野菜や川魚がたくさん取れて、これが結構悪くない。
ただ、農地が広がっているということは農家がたくさんあるということだ。王都民が雇われ農夫としてはたらく場合がほとんどだが、広大な農地を持つ大地主は、王都の外に屋敷を建てている。こうした家が、野盗に狙われる可能性はあった。
「皆さんも、王都の外にはあまり出られませんように」
「あ、はい。一応、わかりました……けど」
恭介の返事は妙に歯切れが悪い。近衛騎士は怪訝そうな顔を作った。
「どうしました?」
「ああいえ、多分なんですが……」
「うっつろっぎくーん!」
やけに弾んだ声の姫水凛が、文字通り身体も弾ませる勢いでボヨンボヨンとやってきたのは、その時である。
「鳥々羽ちゃんと華ちゃんの場所わかったよー! あのねー、王都の外の農耕地だって!」
「そんなことだろうと思った」
恭介の気持ちを瑛が代弁し、近衛騎士とセレナは顔を見合わせていた。
「神成と花園が凶悪犯によって拉致監禁されているだと!?」
そう言いながら詰所に入ってきた女騎士には首から上がなかったものだから、詰所の騎士たちはひっくり返った。
ここは王都の外壁部に設置された騎士たちの詰所である。護送中の野盗団が騎士を刺し殺して逃げたと言うニュースを受け、王都にはにわかに緊張が走っていた。先ほど、女王陛下と王裁審議会による沙汰が下り、止むを得ない場合は捕殺を優先してもよいという許可が出回っている。
で、そこには騎士でない者が4人ほどいる。
恭介、凛、瑛、そしてセレナである。
今しがた扉を開けて入ってきた剣崎恵を加えれば、5人だ。
「どこで伝言ゲームがそんな風になったんだ……」
「つるぎん、違うよー。鳥々羽ちゃんと華ちゃんは、お外。で、そのお外に凶悪犯がうろついているって感じだよ」
恭介と凛が口々に言い、剣崎は『む、そうか』と頷いて、自らの首をテーブルの上に置く。周囲から悲鳴があがった。
デュラハンは、スケルトンやウィスプなどとは明らかに格の違うモンスターらしい。詰所の騎士達の中でも初めて見る者が多いらしく、好奇と恐怖の入り混じった視線が、彼女に向けられている。
「ともあれ、風紀委員としては見過ごせんな。私も捜索に協力しよう。奥村や五分河原たちにも声をかけた」
「オークにデュラハン、ゴブリン……。野盗団を相手にするにはいささかオーバースペックですな……」
初老の騎士隊長が、やや困惑した表情で呟いていた。
「それを言うなら、花園たちだってアルラウネとサンダーバードだから、野盗に襲われたところでピンピンしてそうなもんだけどな」
「まぁ、そうだねぇ。助けに行かない理由にはならないけど、そもそもサンダーバードが休んでるところを襲いに来る野盗なんていないよねぇ」
もちろん、王都の外には普通の人間もたくさん暮らしている。恭介たちはもともと花園たちに用があって出向くのだが、そこに悪党がうろついているのなら、捕まえるのに協力しよう、というつもりでここにいた。
既に、王都の騎士が小隊を組んで警邏を始めている。また大地主の屋敷にも農夫を家に帰したり、屋敷にかくまったりして外に出さないようという通達を出して回っているらしい。
だが、直後詰所に届けられた書簡に目を通し、セレナが難しい顔を作った。
「……もしかしたら、ただの野盗騒ぎより、少し厄介なことになるかもしれません」
「姫殿下、何かございましたか?」
騎士隊長が尋ねると、セレナは頷いて書簡を渡す。騎士隊長の顔もみるみる内に雲っていった。
「これは……」
「刺殺された騎士の遺体が、屍鬼化したそうです」
詰所の中に、一気にざわめきが広がる。恭介たちも互いに顔を見合わせた。
屍鬼。先日、要塞線での戦いで嫌というほど見たアンデッドモンスターだ。屍鬼というからには、人間の死体が変化するタイプのものだとは思っていたのだが、ここでその話を聞くことになるとは思わなかった。
「セレナちゃん、屍鬼ってそもそもどういうモンスターなの?」
「アンデッドモンスターには大きく別けて二つのタイプがあります」
すっかりモンスター博士となったプリンセス・セレナーデが、2本の指をたてる。
「ひとつがスケルトンやデュラハンのように、それそのものが“種”として確立されるようになったもの。そしてもうひとつが、屍鬼のように外的要因によって死者を強制的にモンスター化させるものです」
「ふんふん」
「呪法によって死者を蘇らせるタイプのものもありますが、屍鬼は感染によって仲間を増やします。吸血鬼と同じですね」
吸血鬼、と聞いて、恭介は昨晩の紅井を思い出した。血。フェイズ3。抱えている問題。
連想的に様々な単語が浮かび上がってくるのを、かぶりを振って無理やり打ち消す。
セレナの話によれば、屍鬼あるいは屍鬼の因子を持つものによって殺害されれば、その者は屍鬼になるという。だがそれ以外のことはわからない。そもそも屍鬼自体がここ十年近くで発見された比較的新しいモンスターであるために、研究があまり進んでいないのだそうだ。とにかく高い感染力を持つのが特徴で、帝国の方では小さな村がひとつ壊滅したこともあったという。
下手をすれば、この王都の近くでも似たようなことが起こり得る。騎士達の緊張が、一気に高まった。
「なるほど、単なる野盗ではない。モンスターならば、遠慮する必要はないな」
ガン、と拳を掌に打ち付け、剣崎が言う。瑛も頷いた。
「そうだな。僕や剣崎、恭介なんかは元からアンデッドだから感染しなさそうだ」
「疑問なのは、何故野盗がいきなり屍鬼化したかです。騎士団によって捕縛された時点で、既に感染していたのか……」
セレナは、真剣な顔で考え込んでいる。
それを聞いて恭介の脳裏に、いくらかの想像がよぎる。感染によって数を増やすという新種のアンデッドモンスターを、紅き月の血族は大量に従えていた。そして、屍鬼の仲間の増やし方は、吸血鬼に似ている。
吸血鬼と紅い月。昨晩言葉をかわした、紅井明日香の姿。符牒の一致は偶然なのだろうか。すべてを繋ぐには、間にはめるピースがまだまだ欠けている。
「……ウツロギくん?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
凛が心配そうな声を出したので、恭介は顔をあげる。
「騎士隊長さん、俺たちはクラスメイトを探しにいきます。ただの野盗ならともかく、屍鬼となると不安なので……」
「わかりました。お気をつけて」
「剣崎は、奥村や五分河原がついたら、騎士の人たちと一緒に屍鬼退治に協力してくれ」
「わかった。他にも手の空いている生徒を探しておく」
テーブルの上に置いた首が頷く。恭介は、瑛や凛と互いに頷きあって、すぐに騎士団の詰所を出た。
次回は明日朝7時更新!
神成さんと花園さんを無事に説得することができるのか! 屍鬼とレッドムーン達の因果関係はあるのか! 待て次回!




