第11話 それぞれの動き
結論から言うと、《トリニティ・フルクロス》は失敗した。バランスの調整が難しかったのである。意気揚々と作戦名をつけた瑛は、珍しく落ち込んでしまい、それを慰めるのには少し時間がかかった。恭介と凛、そして佐久間が代わる代わる言葉をかけるが、紅井は相変わらずつまらなそうに爪を磨いていた。
「いや、良いんだ……。もう少しバランス調整して、また挑戦しよう……」
少しして落ち着いた様子だったが、それでも酷く落ち込んでいる瑛である。
「う、ウツロギくん。火野くんと合体してあげてよ……」
「ん、ん?」
凛が、そっと恭介に耳打ちをした。
「あたしは結構練習したから、火野くんの必殺技、手伝ってあげて」
「お、おう……」
恭介は頷き、瑛に声をかける。
「なぁ、瑛。次は瑛との技を試そうと思うんだけど……」
「いや、今はもっと《トリニティ・フルクロス》について考えたい……」
「そんな根詰めるなよ。急ぎでもないんだし。俺だっていろいろ試したいしさ」
彼の言葉に、瑛はようやく、いつも程度の明るさを取り戻した。いや、性格や態度の話ではない。だいたい10ルクス程度の光が100ルクスになったというような話だ。
「そうか、君がそこまで言うなら仕方ないな……」
ふよふよと浮かびながら、瑛の身体が恭介に入り込む。全身に炎がめぐり、恭介と瑛が炎の魔人となった。
相変わらずカッコイイなぁ、と凛は思う。スライム合体よりはハッタリが効いていそうだ。
凛はひとまず、ずるずると岩壁の方まで後退し、佐久間や紅井らと共に恭介たちの訓練を見守ることにした。
こちらの2人は、人間の姿を完全に保っている、クラスでも珍しい存在だ。スライムになってしまった凛としては大変羨ましい。県下最速のエーススプリンターとしては、もちろん足があるだけで羨ましいのだが、手があるのだって羨ましいし、正直なところ顔があるのも羨ましい。
手があれば手がつなげるし、顔があれば笑えるからだ。今の凛が同じことをやろうとしても、それは結局、滑稽なまがい物にしかならない。
「……なんかついてる?」
紅井が半眼でこちらを睨んでくる。
「えっ、べ、べつに……。っていうか、よくあたしが見てたってわかるねぇ!」
「視線には敏感だから」
そう言って、彼女は再びネイルいじりに没頭しはじめた。
「いやぁ、二人とも人間形態で羨ましいなぁって……」
「私からすれば、姫水さんの方が羨ましいな……」
「うっ」
佐久間のぽつりと呟いた一言に、凛は硬直する。
彼女が恭介に好意じみた感情を抱いていたのは、凛も承知している。人間時代から、同じグループの竜崎がそのあたりの情報収集に敏感だったこともあって、結構情報は流れ込んできたのだ。その佐久間からすれば、異世界転移後、恭介にべったりくっついている(比喩ではない)凛の存在は、あまり面白くないものかもしれない。
「さ、さっちゃん……」
「あ、いや、別に、姫水さんが憎いとか、妬ましいとか、そんなことは……」
「う、うん……」
どうしよう。気まずい。
視線を前に向けると、瑛と合体した恭介は『ブレイズカッター!』などと叫びながら、炎を纏った剣を振り回している。やはりハデでカッコ良い。見ているだけでワクワクしてくる。
「サチ、姫水を妬んでもしょうがないでしょ」
ふーっ、と爪に息を吹きかけながら、紅井が言った。
「えっ、ね、妬んでないよ? 私は別に」
「妬んでるって。まぁ、しょうがないと思うけどね。ねぇ姫水」
「えぇー。そこであたしに振るの……」
凛も自身の社交性は高いつもりでいる。伊達に、クラスのトップグループでアイドル張っていたわけではないのだ。だが、その凛がいまいち話しづらいなーと思うのが、この紅井明日香だった。女の子はだいたい親しげに呼べる凛でも、彼女だけは『紅井さん』だ。
「だいたい、サチは人間時代にいくらでもチャンスがあったのに、やんなかったからね。ねぇ、姫水」
「だからなんであたしに振るの……」
凛としても恭介に対しては強い感謝の念がある。あるいは、そこよりもう少し。一歩先に進んだ感情かもしれないという自覚もある。恭介が佐久間と楽しそうに話していたとき、ちょっと心がムズムズしたから、まぁそういうことなのだろう。
うぅむ、自分も女の子だったか。などと、呑気なことを考えている余裕はない。ここは下手したら、佐久間に宣戦布告をされてしまう。恭介は骨だが、男だ。色仕掛け勝負になってしまえば凛に勝機はない。
まぁ、人間時代の勝負であったとしても、色仕掛け勝負に自信はないのだが。
凛は、少しビクビクしながら恭介の特訓を眺めていたが、それ以上佐久間が何かを言ってくることはなかった。
恭介はまだブレイズカッターを振り回していた。
佐久間祥子が初めて空木恭介と出会ったのは、1年生の冬のことである。
祥子は1年生の時、図書委員をやっていた。クラスの勢いにはあまり馴染めず、休み時間は本を読み、放課後は図書室で本を読み、一年間をほとんどそうして過ごしてきた。退屈だとか、寂しいだとか思ったことは、あまりない。高校ではやや疎遠になったが、紅井明日香をはじめとした幼馴染たち(と言っても2人だが)はいつでも祥子を気にかけてくれたし、悩んでいるときは遊びに連れて行ってもしてくれた。
中学の時から時間が停まっていたというのは、否定しない。それでも構わないと思っていた彼女の時間が動いたのは、あの日である。
『あれ……? ないなぁ』
放課後、いつものように図書室で本を読もうとしていた祥子は、本棚に目当ての本がないことに気付いた。
あまり人気のないジャンルの、人気のない本だったから、油断していたのだ。ここは図書室。借りられてしまっていてもおかしくはない。祥子はがっくりと肩を落とした。
『あのー、すいませーん』
ちょうどその時、司書カウンターの前で佐久間を呼ぶ声がする。祥子は頭を切り替えて、カウンターの方を向いた。
今ちょうど、司書の先生がいない。カウンターの前の男子生徒は待ちぼうけを食らっていた。
『はーい、今行きまーす』
図書委員として、祥子がカウンターに座り込む。『お願いします』と言って差し出された本を見たとき、祥子はハッとした。
背が高いだけの、冴えない容貌の男子生徒が差し出したその本が、彼女のちょうど読もうと思っていた本なのだ。既に絶版となっている児童書で、彼女がよく覗くレビューサイトで、絶賛こそはされていないものの、心の琴線に触れるような感想が書いてあったので気になっていた。
『……あの?』
『あっ、すいません』
しばらくぼーっとして表紙を見つめていた祥子は、そのまま慌てて貸出手続きをする。貸出履歴を見ると、ここ10年以上、誰にも触れられていないような本だった。借りようとしていた日がちょうど重なってしまうなんて。
その時、祥子の心に大それた思いが芽生えた。
目の前の男子生徒に、何かしらの意志表示をするのだ。『私も読もうと思っていたんです』とか、『早く返してくださいね』とか、『読んだら感想聞かせてくださいね』とか……。
それは、単なる厚かましいお願いというだけではなく、単純に、初めて見つけた同志と同じものの話をしたいという、純粋な気持ちからも来るものであった。
祥子が顔を上げて、何度か口を動かそうとする。だが、結局それは口を衝いて出ることはなかった。
言えるはずがない。
頭を冷やして、そのまま貸出手続きを継続しようとする佐久間に、今度は男子生徒の側からこう告げられた。
『読もうと思ってたの? その本』
『えっ?』
『そっちがさっきまでいたの、この本が置いてあった場所だったし。別に良いよ。ネットでたまたま見かけて気になってただけだし、代わりに予約しといて良い? 早く返してくれると嬉しいんだけど』
『えっ、でも、あの、えっ?』
男子生徒は、いや、図書カードを見るところによれば、空木恭介は、カウンターの横にあった予約伝票を手に取って、さらさらと必要事項を記入していく。
『読んだら後で感想聞かせてよ。じゃあね』
恭介はそれだけ言って、図書室を出て行ってしまった。こちらが言えなかったことを全部言って。
図書室の外で待っていたらしい友人と親しげに言葉をかわし、廊下を歩いていく恭介の背中を、祥子は本を抱きしめたままじっと見守った。後日、この話を紅井明日香にしたところ、大笑いされてしまった。いまどき少女マンガでもそんな〝出会い〟はない、と。
別に良い。
翌週、祥子は読み終わった本を返し、恭介に予約していた本が返ってきた通知書を書いた。放課後図書室にやってきた彼に本を貸し出して、少し、好みの本についての話をした。楽しかった。
その日から、佐久間祥子の人生に、ちょっとだけ別の光がさしたのだ。
「……はぁー」
元・地味眼鏡の文学少女にして、今やクイーン紅井にも匹敵するクラス1の美少女、佐久間祥子は大きなため息をついた。場所は、紅井に割り当てられた専用の寝室だった。現在、拠点に個室を持っている生徒は、紅井と小金井しかいない。
空木恭介が小金井芳樹を殴った日から、さらに数日が経過している。
あれ以来、佐久間は食堂に顔を出していない。当然、小金井がいるからだ。食事は、紅井の取り巻きであるハーピィ春井かラミア蛇塚が運んできてくれる。聞くところによれば、恭介も、意図的に小金井のいる時間を避けて食事を摂るようになったらしい。あれだけ仲が良かった2人なのに、と思うと、佐久間は少し寂しい。あの一件が影響で、小金井に対して生理的な恐怖を感じることになった佐久間だが、その一件に関しては、素直にそう思う。
小金井の周囲に対する態度は相変わらずだ。というよりも、以前より傍若無人に振る舞うようになり、男女問わずちょっかいを出すことが増えたという。今ここにいない紅井は、徹底的に小金井から佐久間を遠ざけようとしているので、そのあたりは伝聞でしか知らない。
クラスでの小金井への対応はふたつに割れた。媚びへつらうか、距離を置くかだ。
嫌悪する者がいなかったわけではない。だが、あの日小金井に殴りかかって返り討ちにされた恭介を見れば、抗することが如何に愚かであるかは想像がつく。恭介を返り討ちにした鷲尾と白馬の四足歩行コンビは、その戦闘能力を盾に、すっかりクラスの重鎮としての地位を取り戻しつつあった。トップグループほどでないにせよ、彼らは十分に強かったのだ。
しかし距離を置いたところで、安寧が約束されたわけではない。小金井の派閥は様々なグループをどんどん飲み込んでいき、従わない者には容赦ない制裁が加えられるようになった。完全に我関せずを貫けるのは、佐久間を含む紅井のグループと、完全に一匹狼であるワーウルフ犬神くらいなものだ。小金井は犬神にも手を出そうとしたが、不良と元いじめられっ子では胆力が違った。肩に手を回された犬神は、その小柄さに見合わぬ凄みを発して小金井を退け、それ以来寝るも食うも迷宮の中へと移ってしまったらしい。完全に野生化が進行している。
「あーあ、ヤんなるよねー。こーゆー空気さぁー」
ハーピィ春井が、大きく伸びをしながら言った。
「わかるわかるー。息が詰まるってゆーかさぁ。佐久間もさぁ、そう思うじゃん?」
ラミア蛇塚がこちらに意見を求めてきたので、佐久間は思わず苦笑いで対応する。
紅井明日香の取り巻きであるこの2人は、昔から佐久間が苦手としていた人種、言わばギャルだ。死語かもしれないが、ギャルだ。
物静かな美人、それでいて超然としたカリスマを漂わせる紅井明日香は、昔からクラスのクイーンだった。彼女の周りにいることが女子生徒のステイタスとすらなり得る。そうしたポジションを、クラスでいち早く確保したのが、この2人だったのだ。
紅井は、犬神とは違った意味での素行不良生徒でもある。大人びたその雰囲気から、ヤクザの愛人である、という噂まで飛び交ったほどだ(根も葉もないデマであることを佐久間は知っている)。そうした紅井の隣にいるだけで、春井と蛇塚は、クラスの誰からもナメられずに済む。学校という閉塞的な社会で、もっとも狡猾で賢い生き方なのだ。
「あれー、佐久間、なんか悩んでんの?」
「なに? 小金井に言い寄られたことまだ気にしてんの? あんなの忘れなって」
「そ、そういうわけじゃないんだけど……」
2人とも、佐久間の苦手な人種ではある。が、あの紅井明日香が傍に置いているのだから、そう悪い人間でもないのだろう、とも、思っていた。まあ、今では人間ではないのだが。
「わかった! じゃあウツロギのことだ!」
蛇塚が手を打って叫ぶので、佐久間は全身が熱くなるのを感じた。
「うわあー、白い肌が真っ赤……。佐久間ってわかりやすいわー」
「アスカから聞いたよー? 佐久間ってウツロギが好きなん? あんな骸骨が?」
「べ、別に初めて会った時は骸骨じゃなかったし……」
彼女たちには、あまりこの件の相談はしたくない。恋愛観が絶対に合わないからだ。きっと相談すれば親身になってくれるし、彼女たちの言葉には一定の真理が付きまとうのだが、それはコミュニケーション能力の高いギャルの真理であって、地味で根暗な文学少女にとっての真理ではない。
佐久間がいま、一番気になっているのは、空木恭介と姫水凛の関係だ。
人間時代は、彼女こそが紅井明日香に比肩するクラス1の美少女、その1人だった。竜崎やゴウバヤシらと同じ、クラスのトップグループ層、それもいわゆる〝陽〟の側にいた人間である。〝陰〟が紅井のグループだ。当然、クラスは彼らを中心として動いていたし、その中に凛の姿はあった。
誰にでも明るく、優しく、天真爛漫に接する少女。それだけに、恭介たちからは距離のあった存在でもある。少なくとも1ヶ月前の時点では、凛にとっての恭介は数あるクラスメイトの1人でしかなかったはずだ。
それが、急接近である。
合体までしている。
それが、佐久間たちの言うような、その、いやらしい意味での〝合体〟でないことはわかっている。ただ、佐久間が長い時間かけてゆっくりと近づき、縮めて行った恭介との距離に、凛はあっという間に追いつき、あるいは追い越して行ってしまったような印象があった。
凛はスライムになった。佐久間はサキュバスになった。美貌や女性的な魅力は、逆転したと言っても良い。だが、佐久間はそれによって恭介へのアプローチが有利になったとは全く考えられず、むしろ、距離が遠ざかってしまったような気がしていた。
「私もスライムになりたかったな……」
ぽつりと佐久間が言うと、春井と蛇塚がほぼ同時に『はぁ!?』と言った。
「何言ってんの佐久間。そんな恵まれたカッコになっときながら!」
「バカじゃないの!? 今クラスで1番おっぱい大きいの佐久間じゃん!」
「私おっぱいなんていらないし……」
それに元から結構大きくて困ってたし。
「アタシら姫水とはグループ違うけどさぁ。アイツの前でそんなこと言わないように気をつけろよ」
「ど、どうして? その……えっと、姫水さん、可愛かったから?」
「それもあるかもしんねーけどさー」
春井は甲高い声で言って、バッとその翼を佐久間の前に差し出した。
腕の付け根から生える、ハーピィの翼だ。白く美しい、ふわふわとした感触が鼻先をくすぐる。
「これ、アタシの手。どう思う?」
「ど、どうって……。綺麗な手じゃない?」
「綺麗な手だよ。綺麗だけどさ、でも、佐久間知らないかもしんないけど、アタシ、ネイルが趣味だったの」
「あ……」
そういえば、人間時代、紅井がそんなことを言っていた気がする。
取り巻きの1人である春井はネイルを弄るのが好きで、手入れを欠かさない。高校2年だが細やかなネイルアートも得意で、将来はそうした道に進むことも考えているのだと。
だが、ハーピィに転生してしまった春井には、ネイルがない。
「アタシもさー、この足じゃ、自慢のパンプスやブーツも履けないよなぁ……」
ラミア蛇塚も、大きく溜め息をついて、蛇の下半身でとぐろを巻く。
2人な何を言わんとしているのか、佐久間もすぐにわかった。
姫水凛。陸上部の最速スプリンター。クラスで誰よりも走ることが好きだった少女が、スライムになってしまった。好きだったものが、予期せぬ形で奪われてしまうこと。その痛みを、凛は確かに感じたはずなのだ。
だからこそ、恭介は助けを差し伸べたのだろうか。
たとえば、佐久間に借りたい本を譲ってくれたように。
たとえば、死霊の王に襲われた佐久間と剣崎を助けてくれたように。
たとえば、彼がこれから、行おうとしていることのように。
「…………」
恭介は何も変わっていない。そして、自分も、何も変わっていない。凛だって何も変わっていない。
佐久間も凛も、助けの手を差し伸べてもらったという点では同じことなのだ。
凛は、持ち前の元気印で恭介とは親密な関係を築いている。彼女がどういうつもりなのかは知らない。だが、強敵だ。佐久間は改めて認識した。今まで自分が恭介に対して持っていたアドバンテージは、なくなったようなものなのである。それは、このあいだ紅井明日香に言われた通り、今まで状況に甘えて事態を進展させようとしなかった自分の責任だ。
今度から、もっと積極的にならねば。凛に負けてしまう。佐久間はぐっと拳を握った。
「そういえば、そのウツロギや姫水たちは今何やってんの?」
「《トリニティ・フルクロス》の練習だって」
「あー、あの混ざる奴……」
後ろで、春井と蛇塚がそんな話をしている。
そう、《トリニティ・フルクロス》。現在行っている特訓の最終段階で、命名は火野瑛によるものだ。
「なんか、火野、アレらしいよ。仮面ライダーとかなんちゃらレンジャーが好きなんだって」
「マジで!? オタクじゃん!」
「いやオタクだよあいつ。小金井のグループだったじゃん」
「いやー、でもなんか……カワイくね?」
「わかる」
「なぁー、杉浦、良いじゃん。一緒に行こうよー」
「ダーメだって。あたし、これから夕食の仕込みもあるんだから」
「俺さぁ、杉浦のタコ足見るたびに、ちょっとそそるなぁって思ってたんだよ。一度、その吸盤とかで、ぎゅっ、てさぁ……」
「なにキモいこと言ってんの! もーう、邪魔だから厨房から出てってって!」
ぺちんぺちん、とスキュラ杉浦のタコ足に追いやられて、小金井が厨房から食堂へと出てくる。彼はヘラヘラとした笑みを崩すことなく、頭を掻いていた。そんな彼の様子を見て、鷲尾や白馬が囃し立てる。
小金井は笑顔とネコ撫で声で『良かったら今夜俺の部屋来てよー』とだけ、厨房に呼びかけるも、中から杉浦の返事はない。数秒後、小金井はその笑みを豹変させて、露骨な舌打ちをしてみせた。
そんな様子を、竜崎は食堂の片隅で、死んだような目で眺めている。
通常であれば、このあと杉浦は小金井のグループから何かしらの制裁を受けていたことだろう。それは暴力かもしれないし、もっとおぞましい手段であったかもしれない。だが、杉浦に限っては、その心配はない。現状、料理当番はほぼ杉浦一人で回している。彼女がいなくなれば、せっかくの食材を調理する生徒がいなくなるのだ。
せいぜい、細やかな嫌がらせが続くくらいのものだ。杉浦には悪いが、彼女なら耐えられる。竜崎が、手を出すようなことではないし、手を出して解決することではない。
先日、空木恭介が小金井を殴り飛ばした一件。
竜崎はあの光景を目の当たりにしたとき、空気が少し変わることを期待した。間違っているものに立ち向かおうとする恭介の心が、クラスに新しい風を吹き込んでくれるのではないかと思った。あるいは、小金井が何かしら心を入れ替えてくれるのではないかと思ったのだ。
だが、結局そうはならなかった。小金井を諌めようという風潮は委縮してしまい、小金井はなお一層調子に乗った。鷲尾と白馬が恭介を蹴り飛ばし、バラバラになった恭介を、小金井は見て鼻で笑った。
竜崎がぼうっと見ている中、食堂に二人の女子生徒が入ってくる。蜘蛛崎と、木岐野だ。
「お待たせー、小金井! ……あれ、小金井? どうかした?」
明るい声で挨拶した蜘蛛崎は、不機嫌そうに厨房を睨む小金井を見て首をかしげる。小金井は『いや……』とだけ短く呟いた。
蜘蛛崎は、少し前まで小金井を嫌悪する生徒の一人だった。少し前、というのは、人間時代の話だ。だが、こちらに来てからは、目に見えて違う。彼の姿に惹かれ、力に惹かれ、そしてやがては、心にも惹かれていった。小金井は傍若無人だが、おそらく、仲間には優しい。
「もー、そんな怖い顔しないでよー! 小金井、今日は地下10階まで連れてってくれるんでしょ?」
蜘蛛崎が小金井の腕に抱きつくと、ようやく彼も表情を和らげ、その髪をそっと撫でた。
「ん、ああ……そうだね。今日は地下10階まで行こうか」
「地下11階は、さすがにアレがいるしねー……」
「ただ、パーティメンバーが少し足りないかな」
小金井は、ぐるりと周囲を見回す。
そこにいるのは、いつもの小金井のグループ。小金井、触手原、鷲尾、白馬。それに蜘蛛崎と木岐野だ。小金井は、ここに杉浦を加えるつもりだったのだろう。杉浦はずっと調理当番を続けているが、その気になればソロで地下2階から食料調達してくるくらいの力はある。
実力を見た場合現実的なのは佐久間だが、佐久間は紅井たちがガッチリとガードしている。五分河原や奥村を強引に引き入れるか、あるいは実力が下がっても他の女子生徒を漁るか。そんなところだろう。
そんなことを考えている竜崎の耳に、小金井たちの会話が届いた。
「なぁ、小金井。竜崎連れていかね?」
「えっ、あのトカゲ?」
「良いじゃん。そこそこ強いし頑丈だし、盾くらいにはなんじゃん」
寝耳に水だった。竜崎はびくんと身体を跳ねさせる。それを見た小金井のグループが、くすくすと笑っていた。
「おい、聞き耳たててるぜ……」
「うっわ、引くわ……」
こちらに聞こえるくらいの、ギリギリの声でそうささやき合う。そんな中、蜘蛛崎を連れた小金井が、竜崎の方へと歩みを進めた。小金井はにこやかな笑顔でこんなことを言う。
「なー竜崎、聞こえてたならわかるだろ? どうする? 一緒に行かない?」
「ああ、いや、俺は……」
竜崎が視線をそらそうとすると、小金井はバンと机を叩いた。
「行くだろ? なあ、竜崎」
「……わかった。行く」
小金井の口元が大きく吊り上る。竜崎は、今まで小学、中学、高校と生活してきた中で、こうした笑顔を何度も見てきた。いじめっ子が獲物を確保した時の、特有の笑顔だ。
竜崎は、こうした笑みを向けられた生徒のことは、常に気にかけてきたつもりだ。幼いころからクラスの中心にいた竜崎は、常にその立場を活かし、クラスの調和を保つために努めてきたつもりだ。
少なくとも、人間であった頃は。
この笑みを、まさか小金井が浮かべることになるとは。
この笑みを、まさか自分が向けられることになるとは。
竜崎は、この時初めて、自分がいじめられる側になっていることを自覚した。
凋落。都落ち。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「じゃあ、竜崎。俺たち先行ってるから。おまえも準備して早く来いよ」
「なんだよー、小金井、連れてくとか言って置き去りかよー」
「鬼畜ー! ゲスー!」
鷲尾と白馬が、いつものようにゲラゲラと囃し立てる。竜崎には、もう笑う気力さえ残っていない。
小金井のグループが賑やかに食堂を出て行く。竜崎はゆっくりと立ち上がり、それを追おうとした。ちょうどそこで、食堂に入ってくる別の影がある。竜崎は、呆然とその名を呟いた。
「……明日香」
「んー」
特に興味もなさげに、紅井明日香はそう挨拶した。
異世界トリップ移行、目まぐるしく変化するクラスカーストの中で、一貫して上位の立場を保ち続けているクイーンだ。リーダーからいじめられっ子に転落した竜崎とは、えらい違いである。
「珍しいな、こんな時間に食堂なんて」
「サチのご飯、取りに来たの」
「ああ……」
小金井は相変わらず佐久間祥子を狙っている。紅井がいなければ、おそらく小金井が佐久間に手を出すことを、止められていた生徒はいなかっただろう。紅井は、クラス内のもめごとにほとんど干渉しなかったが、それでも最低限の調和を保つために、よくやっていると言えた。
いや、よくやっている、なんて、偉そうなことを言える立場ではないな。竜崎は自嘲する。
「あんた、小金井のグループと地下潜るんだって?」
紅井は佐久間の分の料理が出てくるのを待ちながら、壁に背を預け爪の手入れをしていた。
「あいつら楽しそうに話してたよ。新しいおもちゃが来たって」
「………」
「ずいぶんと落ちぶれたね。あの竜崎がさ」
紅井が、こんなに喋るなんて珍しい。彼女なりに、思うところでもあったのだろうか。
責めるような口調に、心当たりはある。例えば先日の、小金井が佐久間に言い寄った一件。あれを止めたのは恭介だ。だが、本来ああいったクラス内の問題に、真っ先に切り込んでいくのは竜崎の立場だった。
あそこで竜崎が矢面に立てば、あるいは恭介のように無様に殴り倒されて終わることはなかったかもしれない。竜の鱗に覆われた竜崎の身体は頑丈だ。鷲尾や白馬の攻撃程度ではびくともしない。
竜崎は拳を握った。
「じゃあ、俺に何ができるって言うんだ……!」
絞り出すように、本心を吐露する。
「力もない、ゴウバヤシだっていなくなった。信用だって失って、そんな俺に何ができるんだ! 俺には、もう何も残っていない!」
「何も残っていない奴は、何かを怖がったりしないでしょ」
綺麗に磨いた爪を眺めながら、紅井はそう言った。いつものような気だるげな一言だが、なぜか、妙に竜崎の心に刺さる。
「小金井が怖いから従うし、勘違いして笑われるのが恐いからサチを助けなかったんでしょ」
ふうっ、と溜め息をついて、紅井は続けた。
「ま、別に良いんじゃない。それでも。あいつらの苦労は無駄になるけど」
「あいつら……?」
「紅井さーん、ご飯できたよー」
「ん……」
竜崎が眉をしかめると、ちょうどその時、厨房から杉浦の声が聞こえる。タコ足が運んできた膳を受け取り、紅井は食堂を出ようとした。
「明日香、あいつらって誰だ?」
「教えない。あいつらだって、秘密に特訓してるんだし、あたしもそこは義理立てするかな」
それだけ言って、紅井は通路を去っていく。
結局、紅井は何が言いたかったのか。あるいは、いつものように気まぐれで話をしただけなのか。
だが、彼女の言う通りではある。竜崎は怖れているのだ。自分の立場が、これ以上失墜することを。小金井に逆らい、さらに虐げられるような状況に陥ることを。いじめられっ子の心理というものを、竜崎はその時初めて理解する。
何もない、と思っていても、結局は何かを恐れて守りに入ってしまうのだ。今の竜崎がそれである。
ならば、今の自分に何ができると言うのか。
竜崎邦博は無力だ。その事実は厳然としてある。握った拳を開き、その自分の手のひらを見たところで、結局答えは出ないままだった。
「おお……。やった……!」
目の前で粉々に砕け散る岩を見て、恭介の口から思わず感嘆の言葉が漏れる。
度重なる特訓の結果、ついに《トリニティ・フルクロス》は完成した。最初はバランスを取るのが難しかったが、徐々に慣れてくると動きも滑らかになり、次第には大岩を砕けるようにまでなった。岩を砕くくらいならば、流水拳でも十分できるので、大喜びとまではいかないが、ひとまず及第点だろう。
恭介が合体を解くと、纏っていた全身甲冑が支えを失ってバラバラと崩れて行く。ぼよん、と凛が足元へと落着した。
「いやぁ、これでなんとかなりそうだねぇ」
凛はやたらと上機嫌で、上下に身体を伸縮させている。恭介も、拳を握ったり開いたりしながら、感触を再確認する。
「まぁ、ゴウバヤシの代わりを務めるにはまだまだ力不足かもしれないな」
「恭介、やっぱりその話、本気なのか……」
瑛が少しトーンを落とした声で呟いた。
「ああ、やっぱりクラスが落ち着くにはリーダーが必要だと思うし、やっぱり、それは小金井じゃできないことだと思う」
「あたしはてっきり、ウツロギくんがリーダーやるって言い出すかと思ったよー」
たぷたぷ跳ねながら、呑気に声を上げる凛。さすがに視界の隅で鬱陶しいので踏みつけると『へぶっ』という妙な声をあげて黙り込んだ。
「俺じゃあ無理だよ。リーダーはさ」
「まぁ、そうだな。君がやるよりは、竜崎に押し付ける方がよほど現実的だ」
ゴウバヤシが去る前日、彼から恭介へと向けられた問いかけ。
このクラスのリーダーには誰が相応しいか。
それに対し、恭介が挙げたのは、竜崎邦博の名前だった。
親友のゴウバヤシを慮っての返答ではない。結局のところ、このクラスを纏めることができるのは、あの甘ちゃんを置いて他にはないのだ。もちろん、優柔不断なところや、判断力の甘いところ、そして誰に対しても良い顔をしようとするところなどはある。だが、それもひっくるめて、竜崎という男のリーダーの適正だ。
もちろん、足りない部分を補ってやる参謀は必要だ。今までは、それはずっとゴウバヤシの役割だった。
今度は、恭介がそれをやろうと言うのである。
「俺はまだ小金井のこと、友達だと思ってるけど」
床に転がった甲冑をまとめ、引っ張って運びながら、恭介は言った。
「それでもあいつには、このクラスを任せられない。佐久間みたいな思いをする生徒が増えるだけだ」
「君の甘さにもあきれ果てるけど、まぁ良いさ。僕も小金井に大きな顔をさせたくない」
まぁ、参謀、などと偉そうなことは言っても、瑛に言わせれば恭介も竜崎と同じタイプの人種である。竜崎を再びリーダーの座に返り咲かせるための作戦は、主に瑛が考えることとなった。
作戦といっても至極単純なものだ。迷宮内にいるスケルトン部隊を、ブラックナイトに扮した恭介達が率い、そしてそれを竜崎が指揮しているように見せかける。それを極力大勢の前で、効果的な状況で行うべきだというのが、瑛の判断だった。潜在的に小金井の支配を嫌う層はかなりいる。紅井の協力も得られているのだから、勝算は高い。
「ううーん……。なんかクラス内政治って感じだねぇ!」
恭介の足の下でうにょーんと伸び、凛がうきうきした声で言った。
「感じだねぇ……って、姫水、おまえ人間時代はクラスカーストの最上位だったろ」
「やだなウツロギくん。あたしが、そういう小難しいこと考えて立ち回ってたように見えた?」
「見えなかった」
「でしょおー?」
人間時代の姫水凛は、クラスを代表する元気印だった。誰に対しても明るく、快活に、そして優しく。甘ちゃんの竜崎をはじめ、クラスのトップを務める男女がそうした博愛精神を振りまくのだから、2年4組のクラスの雰囲気は、比較的良かった。陰湿なイジメが横行していた1年の時とはえらい違いだ。
だが、瑛はフッと笑う。
「姫水の能天気なマスクに騙されない方がいい、恭介。彼女は強かだよ。自分がそう振る舞えば、クラスの雰囲気が悪化しないと知っていたんだ。毒気を抜くと言う奴だな。スライムになって、クラス全体への効果は薄れたが、僕もよくやられる」
そう言って、瑛の視線(目はない)は恭介に向けられた。
「君と似ているところがある」
「そうかあ?」
「そうかなあ?」
恭介が首をかしげるのと同時に、凛もまた、全身を変形させてクエスチョンマークの形を作る。
瑛はもう一度、フッと笑った。
「まあ良いさ。食堂へ行こう。そろそろ、小金井たちもいなくなっている頃だ」
「火野くんって、よく『まあ良いさ』って言うよねぇ」
「口癖なんだよ。瑛の」
「余計なことを言うんじゃない。恭介」
これは照れ隠しだな。恭介が小さく肩をすくめると、凛は笑いをこらえるように、プルプルと震えていた。
迷宮の下層、地下10階。
この地下墓地を住まいとするスケルトン達は、非常に幅広い層を行動範囲とするが、ここより地下へ向かうことは決してない。スケルトンの天敵にして、この地下迷宮の覇者たる大型アンデッドモンスター〝死霊の王〟が生息しているからだ。
死霊の王は、全長5メートルにも達する巨躯の為、地下11階と地下10階を繋ぐ連絡階段を通過することができない。階段の大きい、地下11階から地下15階までが、この暴君の行動範囲なのだ。
その、はずだった。
狩りと警邏を兼ね、地下10階を定期巡回していたスケルトン達は、恐るべき痕跡を発見する。
階段の破壊。正確には、階段の幅を狭めている、壁と天井部の破壊。その跡として転がる、無残な瓦礫の数々である。これを見つけた時、彼らはまず首を傾げ、そしてその意味を理解して戦慄した。全身を震え上がらせ、カタカタという音を立てる。
これは、あの死霊の王が、自分たちの生息域たる地下10階にまで侵入してきたという、その証左に他ならない。
震え上がるスケルトン達の中で、一体が思いついたようにこんな提案をした。
あの、変わり者のはぐれスケルトン。スライムやウィスプ、サキュバスやゴブリンと言った奇妙な仲間を持ち、迷宮の上層部で暮らしているという風変わりなあのスケルトンは、一度死霊の王がいる地下11階にまで侵入し、そして見事生還を果たしている。
彼ならば、あの恐るべき怪物を、なんとか撃退してくれるかもしれない。
その提案に頷き、スケルトン達は一斉に走り出した。
明日は7時・12時・19時に更新予定!
いよいよ一章完結に向けたラストスパート! 明日の19時で一章フィニッシュです。お楽しみに!




