第104話 臨界
黒かった空がうっすらと青みがかる。山間の街には、やがて朝が訪れようとしていた。
ここには皇下時計盤同盟の名を掲げた3人の勇士が存在する。
帝国創設の最初期から名を連ね、皇帝と共にこの国の繁栄を願い続けてきた思慮深き竜人、すなわち第1時席“銀狼竜”アンスロック。
かつて世界を脅かした冥瘴気を体内に宿し、かつて世界を救った少女と同じ顔を持つ者、すなわち第2時席“冥獣勇者”メロディアス・キラー。
神話戦争の時代に多くの魔獣を葬ったとされる神の槍を、自らの右腕に宿す武侠家、すなわち第7時席“神槍賜わりし”リー・シェンフー。
いずれも一騎当千、万夫不当のつわものである。1人赴くだけでも、戦場のバランスを覆しかねない彼らが3人、その場に集うことは、それだけで事態の重要性を示しているようなものだった。
おおよそ、3人そろえば不可能なことなど何もないとうたわれる皇下時計盤同盟ではあるが、ここに集った3人の顔は一様に重い。
彼らは一切の比喩誇張なく、いつ爆発するかわからない爆弾を抱え込んでいた。そして、その爆弾が爆発した場合、この街は熱と衝撃に飲まれ跡形もなく消滅する。そこに、人々の暮らした形跡を一切合切残さないほどに。
おおよそ、3人そろえば不可能なことなど何もないとうたわれる皇下時計盤同盟である。彼らは、“そうさせない”ために、ここにいるのだと言えた。
火野瑛の引き起こす可能性のあるメルトダウン。未然に防ぎ、それを発生させないことこそが最善であるが、ではそうできなかった場合の次善の策とはなんであるか。
「苦労をかけるな、第2時席殿」
アンスロックは、孫娘に語り掛けるような優しい口調で、そう告げた。
「いいってことよ」
メロディアスはややおどけた返答をしてみせる。
「俺たち皇下時計盤同盟にかかれば、メルトダウンのひとつやふたつ」
壁に背を預けたリー・シェンフーが、腕を組んだまま小さくつぶやく。
要はメルトダウンの発生時、誰かひとりが火野瑛の近くにいれば良いのだ。そのひとりが貧乏くじを引くことにはなるが、想定しうる最大限の被害を食い止めることはできる。
もちろんそのような事態が起こらないのが一番だ。先手を打つ必要がある。こちらから早急に、相手方へ接触を図る。今日にでも、アンスロックが使者として直接、“彼ら”の場所へと赴く予定であった。
夜明けを迎えた街の、小さな詰所の中で、一同が静かにたたずんでいた、その時だ。
彼らの耳に、聞きなれぬ歌声が響いてきた。
「む……?」
真っ先に顔をあげたのはアンスロックだ。ついでメロディアス、リー・シェンフーも、窓の外に視線を向ける。
歌声は女のものだった。だがそれは、単なる空気の振動によって生じる旋律などではない。どこか物悲しく、耳朶の奥にある神経中枢すら刺激する魔性の歌。人間の可聴領域を超越した部分に重なるようにして、魔力を帯びて響く。
同時に、風が室内に流れ込んでくるのがわかった。空気に交じって流れる微粒子の存在。それもまた、吸引した人間の神経系に作用して思考を緩慢にする薬品であることを、一同は即座に悟った。
「2時席殿、7時席殿!」
アンスロックが叫ぶ。
「正気を保たれておるか!」
「じじさま、へーき!」
「化学物質と催眠音波程度で正気を失う我らではない」
当然と言えば当然の返答に、安堵する暇はない。
「(この程度の催眠音波で、我々を操ろうとしているはずがない。となると、目的は……!)」
ばたん、と詰所の奥に設けられた扉が開く。そこには、うつろな目つきをしたヴェルネウスの騎士たちが、まともな装備も身に着けずに立っていた。
「おぬし達……!」
アンスロックの言葉にも耳を傾けず、半分寝巻姿の騎士たちは、まるで操り人形のようにゆっくりと詰所の外に向かっていく。
「ぬぅ、これは……!」
扉を開けるのももどかしく、壁を吹き飛ばしながら外に飛び出るアンスロック。そこで目にしたもの、視界に収めたものを検めて、アンスロックは低くうなった。
老若男女を問わず、この街に住まうあらゆる人間が、うつろな目つきをしたまま街を出歩いていた。彼らの向かう先は一か所。すなわち街の出口だ。人間だけではない。家畜やペットなども同様だ。皇下時計盤同盟を洗脳するにはあまりにも脆弱だった化学物質と催眠音波による波状攻撃は、多くの人間と動物を操るには、余りあるものであった。
「先手を打たれたな」
リー・シェンフーが抑揚のない声でつぶやいた。
「このような器用な芸当までできるようになっていたとは……! 迂闊であった!」
この街の住民は、“彼ら”に対する人質としての意味がある。彼らの命を盾にすれば、メルトダウンの危険性がある火野瑛に向こうから接触してくることはないと、そう踏んでのことだった。
その上で彼らが、住民の生存を考慮せず無理にでもせめてくるのであれば、こちらも強硬的な手段に出ざるを得ないと、そう覚悟を決めてのことだった。
「これは、なおさら彼らをヒノに会わせるわけにはいかん!」
アンスロックは叫んだ。
“彼ら”は、街の住民の命を蔑ろにしているわけでは、決してない。こちらに気づかれることを承知の上で、住民を極力被害から遠ざけるために、このような無茶苦茶をやってのけているのだ。
おおよそ非現実的だ。仮にメルトダウンが起こったとして、その被害圏内から完全にすべての住民を避難させることなど、できるものだろうか。彼らのやっていることは、いたずらに被害を増やすだけのことだ。
「俺はヒノの警備にあたる」
リー・シェンフーが静かにつぶやいた。
「承知した。頼んだぞ、7時席殿」
「うむ」
返答をした次の瞬間には、リー・シェンフーの姿は掻き消える。風だけを残して、彼は瞬時に火野瑛を収容している詰所へ向かった。
「じじさま、あたし達は?」
「住民1人1人を正気に戻している時間はない。私は化学物質と催眠音波の出所を探る。2時席殿は、おそらく街に潜入してくるであろう“彼ら”を探せ」
「りょーかい!」
豪林元宗、猿渡風太、奥村曙光、ゼクウ、茸笠シメジ、壁野千早、御座敷童助、犬神響、杉浦彩、花園華、魚住鮭一朗、魚住鱒代、姫水凛。
そして、空木恭介。
こちらの戦力は、総勢14人。
いずれも人間の兵士1人1人を圧倒できるほどの力を持つが、それが皇下時計盤同盟相手ともなるとまた話が違ってくる。クラスメイト総出でかかってなんとか互角といったレベルの相手が、敵方には3人、火野瑛を含めれば4人といった状況は、決して芳しいものではなかった。
加えて、彼らの駐留地には小さくはない街が存在する。ここで戦闘が発生し、そして瑛に関して懸念される最大の事故――炉心溶融が発生した場合、甚大な被害は免れない。極力、被害を生じさせない方法で、戦う必要があった。
明朝、魚住鱒代と茸笠シメジ、そして猿渡風太による『ハーメルン作戦』が開始された。
目的となる街は、四方を山に囲まれた温泉地である。この3名は風上となる山の斜面に待機し、住民を街から連れ出すための作戦行動に集中する。
人々を惑わせ、舵の方向さえ操るマーメイドの歌声と、人々の神経系に作用してその行動を支配するマタンゴの胞子、そしてそれらを効率的に散布するため、空気の振動と風の流れを自在に操るハヌマーンの能力が求められたのだ。ただ、これらの能力を十全に駆使しても、街から即座に人々が姿を消すわけではない。メルトダウンの規模がどれほどのものかは不明であるが、その被害圏内から全員を脱出させるにはかなりの時間を要するはずだ。
街の外には、花園や魚住兄が移動手段を携えて待機している。魔魚化した魚住が住民を載せて川を下ったり、あるいは花園のアルティメットロジャー3号が住民を載せて移動したりだ。割ける戦力をさらに削ることになるが、本気で人的被害を失くそうと思えばそれくらいはしなければならない。
皇下時計盤同盟が人道を重んじるのか、あるいは単なる外道の集団であるのか。そこはわからない。わからないからこそ、救出には全力を注ぐ必要があった。
多くの生徒たちは、皇下時計盤同盟と事を構えるために街の正面から入り込んだ。魔獣の進行を防ぐためか、3メートルばかりの防壁によって囲まれたこの街だが、門番が腑抜けとなっているこの状況では入るのはたやすい。ゴウバヤシが中心になって、中央通で腕を組み、夢遊病のように街の外へと出ていく住民たちを眺めている。
瑛との接触を図るために、恭介と凛はほかの生徒たちとは別のルートで街に潜入している。エクストリーム・クロスで液化し、地下水脈を伝って街の水道に入り込むのだ。当然ながらこの周辺の水脈は地熱によって温泉になっているので、今の恭介と凛は肩こりやリウマチに大変効能のある身体を形成していた。
まず真っ先に皇下時計盤同盟の動きを察知したのは、山の斜面でハーメルン作戦を展開する3人であった。
風と空気振動を操作しながら、猿渡は街の全域を見下ろしている。すでに見取り図をもとに、皇下時計盤同盟が待機していそうな建物のいくつかには、目をつけていたのだ。そのうちの一つに、動きがあった。人間時代から視力は左右2.0、さらには超人的な動体視力からくる選球眼が自慢であった猿渡風太の視覚は、モンスターとなったことでさらに飛躍的に向上しているのであった。
「むうっ! 皇下時計盤同盟に情熱的な動きがある!」
「なぁ猿渡、余計な形容詞は取っ払ってくんないか」
家庭菜園をキノコまみれにして以来、花園から菌類のように嫌われている茸笠は、久々に花園のいない作業環境に心もちリラックスしながら、そんなことを言った。
「動きがある? こっちのほうはバレちゃった?」
それまで気持ちよさそうに歌っていた魚住鱒代だが、歌を中断していぶかしげに尋ねる。
「空気と風の流れは様々な変化球を織り交ぜて出所をわかりにくくしているはずだが! うぅむ、これは念のため一度場所を移したほうがいいかもしれないな!」
「わかった。じゃあここにキノコを設置していくぜ」
茸笠が両手を地面にかざし力を込めると、地中からボコッという音がして大きな子実体が盛り上がってきた。
「このキノコから俺と同じ化学物質が分泌されるはずだ。こっちは風上だから、まぁ、流れてくれると思う」
「ともあれ情熱的退却をするぞ! 2人とも、俺とあの朝日に向かって競争だ! 青春は逃走だぁ!」
「あたし、足ないから。尾びれだから。抱えて行って欲しいんだけど……」
ハーメルン作戦によって夢遊病患者のようになった街の住民たちが、次々と門をくぐって外に出る。じきに日が明けるとはいえ、この山の中を意識のないまま歩かせるのは危険だとも言えた。山にはオオカミがいるし、ベヒーモスだって生息している。
なので、魚住や花園の手で安全に移動させる必要があった。瑛のメルトダウンによる被害規模がどれほどのものかは未知数だが、最低でも山をひとつかふたつ越えなければ安心はできない。
「まったく、これではただの集団拉致だな……!」
ゴウバヤシは腕を組んだまま、自虐的につぶやいた。
歩いてくる人影はみな、無抵抗だ。うつろな目つきのまま、大半は寝間着姿で、ゆっくりと大通りを歩いてくる。ハーメルン作戦の名前の通り、やっていることはハーメルンの笛吹き男だ。罪もない一般人をいいように操って、本人の望まぬ土地まで連れていく。
瑛のメルトダウンに巻き込まないための措置とは言えど、人道にもとる行為であるのは間違いない。そもそも、メルトダウンの危険を承知で瑛に接触を図ること自体が、こちら側のわがままであることをゴウバヤシはよく理解していた。結果的に、そのわがままでこの街、彼らの故郷が焦土と化してしまうかもしれないという、これはそういう状況なのだ。
「あんまり気にしても仕方ねェな」
ポケットに手を突っ込んだまま、犬神響が興味のなさそうな声でつぶやいた。
「アタシらが攻められないと踏んでこんな場所に火野を隠したってんなら、責任の半分は向こうにあンだろ。気にしたってしょうがねェ」
「まぁ、かも、しれんな……」
それでもゴウバヤシの声は、苦々しいものである。
「よし、それじゃあ先に川を下ってるぜ!」
大型のイカダいっぱいに住民を乗せ、魔魚化した魚住鮭一朗が叫ぶ。街の近くを流れている川を、魚住は一気に下流へ泳ぎ始めた。当然、イカダを引っ張りながらである。
花園も、アルティメットロジャー3世やトマト付きのベヒーモスなどに住民を乗せ、街道を一気に走らせる。それでも、まだ全員を運び出せるわけではなかった。
次のグループは奥村に運搬してもらう予定だ。徐々に数が削れていくと、それだけで皇下時計盤同盟との戦いが不利になるが、ここまできた以上、最後までやりきるしかない。ゴウバヤシが腕を組んだまま、街の中央通りを眺めていると、不意にその奥からこちらに迫る影に気づいた。
すでに住民の多くは街の外に出ている。中央通りを歩く人影もまばらな、そんな中、まっすぐにこちらへ駆けてくるのは、背丈も腕周りも脆弱な少女、あいや、幼女の矮躯であった。
「冥獣勇者……!」
ゴウバヤシは緊張に満ちた声と共に、その幼女を正面からにらむ。
「冥瘴奔破ッ!!」
皇下時計盤同盟第2時席“冥獣勇者”メロディアス・キラー。
彼女はゴウバヤシ達の姿を見るや、口元に笑みを浮かべ、そう叫んだ。体内からあふれ出るドス黒い冥瘴気が、その背面から噴き出るようにして少女の身体を突き飛ばす。さらに瘴気は、白く細い少女の掌の中で、一本の剣へと形を変えていった。
「冥瘴剣ッ!!」
「むゥッ!!」
ゴウバヤシは全身から黄金色の闘気を噴出させ、少女の剣を正面から迎撃した。まるで金属同士がぶつかるような激しい音がして、闘気が斬撃をはじく。
「やっぱり君たちかー! 街の住民をさらって、どうするつもり!?」
「俺たちはクラスメイトを取り戻しにきただけだ」
冷や汗を浮かべるゴウバヤシとは対照的に、冥獣勇者は余裕たっぷりだ。彼女の剣と、にじみ出る冥瘴気の黒が、徐々に黄金色の闘気を侵食していく。
それでも、ゴウバヤシは冷静な語調を崩そうとはしなかった。
「その際、生じる迷惑を考えて、ちょっと住民には避難をしてもらう。それだけだ」
「なるほどね!」
メロディアスはうなずき、空いた左腕を思いっきりゴウバヤシの胸板にぶち当てる。物理法則の上では到底ありえない運動量の変位が起こり、オウガの巨躯が軽々吹き飛ばされる。
「ゴウバヤシ!」
「かまうな、行け! 奥村!」
すでに数台の馬車に住民の収容を終えていた奥村が慌てた声をあげるが、ゴウバヤシは短く叫び返した。奥村はほんのわずかな躊躇を見せたが、即座に馬車の綱を自らの身体に結わえ、街道を出発する。
「ふおおおおッ!!」
馬車を4台近く。人数にして5、60人を1人で一斉に引きずり、奥村は街道を走り始めた。
それでもまだ住民はすべてではない。まだ周囲には50人ほどの住民が、うつろな目をしたまま佇んでいる。このまま目の前の冥獣勇者と戦えば、彼らにも被害が及びかねない。ゴウバヤシは再度、メロディアスをにらみつけた。
ここに残っているのは、ゴウバヤシを除けば犬神響、御座敷童助、壁野千早、杉浦彩、そしてゼクウだ。たった6人で相手をするには、敵はやはり強大すぎる。
「……まさか、こんな手に出てくるとは思わなかったからね」
身構える一同に対し、メロディアスはそう言って冥瘴剣を放った。剣は空中で黒い瘴気となって霧散し、そのまま少女の身体へと帰っていく。
「ひとつ、整理させてね。君たちは、ここの住民をどこまで連れていくの?」
「………」
追撃を仕掛けてくる気配はない。だが、ゴウバヤシはそこで、正直に答えたものかどうかを迷った。
ちらり、と周囲の仲間たちに目くばせをする。ここで嘘をつくメリットは、はたしてあるだろうか。
いや、あるにはある。正確な場所を説明することで、すでに住民を連れて行った生徒たちの居場所を、目の前にいる少女に特定されるということだ。
「……安全な場所に」
杉浦が小さく、そうつぶやいた。そうだ。今は、そう答えざるを得ない。
「なるほどねー」
そのまま、メロディアスは周囲をぐるりと見回す。
余裕ぶった態度だが、当然の態度でもある。この場における圧倒的な強者は彼女なのだ。こちらがメロディアスに一矢報いるには、その余裕の中に隙を見つけ出して一撃を叩き込むことだが。
小さな冥獣勇者は、外見年齢とは明らかに不相応な、物憂げな顔つきを作ってみせると、顎に手をあてたまま続けてこう尋ねた。
「あのスケルトンの子はどこ? キョースケ、って言ったかな?」
「……それを聞いてどうする?」
「これから君たちを見逃すかどうかを、決める」
そう言ったメロディアスの視線は、周囲にたたずむ街の住民たちへと向けられていた。
「もう一度言うけど、こんな手に出てくるとは思わなかったからねー。止められたら止める気だったんだけど……もし、キョースケがアッキーに接触するつもりで、もう街の中にいるっていうなら」
そこで、彼女は親指を背中のほうに、すなわち街の中に向けて、一度言葉を区切った。
「住民を一度逃がしたほうが安全かもしれない、と、あたしは思うわけね」
少なくとも、目の前にいる彼女は、いたずらに住民の命が失われることを良しとしていない。人間としての良心をわきまえているということだ。メルトダウンの可能性と危険性を、彼女たちも認識しているのだろう。すべての事態を穏便に抑えられるならそうするつもりであったが、状況次第では、住民の避難を優先してこちらを見逃そうというのである。
しばらくの沈黙ののち、ゴウバヤシは答えた。
「ウツロギはすでに街の中に潜入している。目的は火野との接触だ」
「ふむふむ」
メロディアスはうなずく。真剣に首肯するその姿は、見た目は純真無垢な幼女そのものではある。
「まぁ、何が起きるかはともかく、アッキーにとってはそれが一番いいよね」
そして、出てきた言葉は、今までの彼女を知る限りきわめて異質な感情をはらんでいるように聞こえた。
「ひとまずわかった。残り50人くらいかな。運んじゃって欲しいな。街の住民は全部で400人くらいのはずだけど、あっという間にいなくなったねぇ」
「魚住と花園が一気に運んだからな」
メロディアスは、こちらを見逃してくれるという。残り50人を馬車数台に分けて運べば、住民たちも自分たちも安全にこの場所を離脱できることになる。
だがはたして、本当にそれで良いのか。
「で、アタシらを見逃した後、てめェはどうすンだ」
犬神が鋭い三白眼で、メロディアスを正面からにらみつける。まるで小さな子供を威嚇している大人げない不良だ。
「それはまぁ、あたしのやるべきことをするよ。言わなくてもわかるでしょ?」
当然、一切動じることなく、メロディアスは答えてみせた。
やるべきこと。皇下時計盤同盟としてやるべきこと。任務の遂行だ。住民の安全を確保したうえで、瑛のメルトダウンを防ぐため、そして残るクラスメイトを確保するために全力を尽くす。その際、真っ先に標的にされるのは、恭介と凛のはずだ。
この街にいるのは、メロディアスだけではない。まだ一度もまみえたことはないが、“銀狼竜”アンスロックと、“神槍賜わりし”リー・シェンフーが、どこかにいる。彼らの横槍を受けては、恭介と凛が本来の目的を達成できるとは思えない。
「ゼクウ」
ゴウバヤシは、言葉をしゃべれぬオウガに向けて一言を発した。
「当初の予定通り、残りの住民はお前が運べ。良いな」
「………」
振り向かずとも、ゼクウが静かにうなずくのがわかった。
同時に、ほかの生徒たち、杉浦や犬神、御座敷などもため息をつく。まぁ、仕方がない。『そうせざるを得ない』のが現状だ。メロディアスも、こちらの覚悟を見てとったのか、目を細めてから、うなずいた。
「そうだね。まぁ、そうなるよね」
ゼクウが、先ほどの奥村と同じように住民たちを馬車に詰め、一度に数台のそれを引きずっていく。これで住民は全員だ。ゼクウの姿が完全に見えなくなれば、メロディアスは本来の目的を果たすために行動する。
ゴウバヤシ達の役割は、それを阻止することだ。冥獣勇者を、この場で食い止める。
「剣闘公国でもそうだったけど、君は、いつも損な役回りをするよねー」
「なに、慣れたものだ。そしてそれを恥辱に思ったことも、『損』だと思ったことも、一度としてない」
ゴウバヤシがゆっくりと構えをとる。全身から、黄金色の闘気がにじみ出はじめた。
「あたしは今、自分の役回りがすっごい損だと思ってるんだけど……」
杉浦がぼやく。本来は戦闘要員ではないのだから、当然と言えば当然だ。彼女だけではない。犬神や御座敷や壁野も、まぁそう思っているだろう。
まぁ、貧乏くじをひかせたな。だが、彼らが戦意をくじいていないのは、幸運だった。目の前に立つ圧倒的な力を前にして、杉浦たちはまだ、立ち向かう気でいてくれる。人間であったころは、まともに言葉すら交わしたこともなかったであろう、恭介や瑛のためにだ。
「ここで君らを殺しちゃうと、メルトダウンがヤバいからね!」
メロディアスは叫ぶと、再び右腕に冥瘴剣を作り出した。少女の全身を覆う瘴気が、鎧のように張り付き、禍々しい光を放つ結晶体として硬化していく。
完全な臨戦態勢にうつり、少女は切っ先を突き付けてきた。
「殺す気はないけど、痛い目には遭ってもらうよ!」
火山帯に囲まれたヴェルネウスは温泉が豊富であり、今は無人の街となったここもまた、地下から湧いた温泉を各家庭に引っ張っている。もとは王都から国外へ連なる街道に設けられた宿場町だったが、現在は皇下時計盤同盟によって封鎖され、彼らの駐屯地として使用されていた。
街に設けられた温泉宿の一画。湯船の中から人影がひとつ立ち上がる。一切の色彩を持たず、陰影と光沢のみによって辛うじて有色であるように見えるそれを、人の影と表現していいのかどうかは、ともかくとして。
「ここで……良いのか?」
人影は、すなわち空木恭介は声を発した。
『いいんじゃない? たぶん、あんまり、自信ないけど……』
応答するのは姫水凛だ。
地下水脈を伝って街の内部に潜入した恭介と凛は、街の見取り図や茸笠の菌糸ネットワークから、おそらく瑛を隠しているであろう建物の場所に、ある程度目途をつけていた。この街はおおよそどの建物にも温泉が引かれているから、建物にあたりさえつけられれば、温泉を伝って誰にもバレずに内部に潜入できる。そういう算段だ。
浴室に窓は設けられていないから、ここがはたして正しい建物であるのかどうかは、恭介たちにはわからない。凛の能力で温泉のお湯を大量に吸い上げつつ、恭介は湯船から出た。
広めの浴室だ。大理石を切り出して作った調度品が並んでおり、それなりにカネのある家であることがわかる。
『町長さん家かな? 火野くんがいるのは、騎士団の詰所だっけ?』
「ああ。その騎士団も、猿渡たちが外に連れ出してるはず、だけど……」
浴室の戸に手をかけると、あっけなく開いた。そのまま脱衣場を経て、廊下に出る。廊下には、剣や槍、脱ぎ捨てた鎧などが、無秩序に散らばっていた。
「どうも、アタリっぽいな」
『てことは、この建物に火野くんがいる、のかな……』
そこで、恭介は凛と一度分離をした。肩のディメンジョン・ケースを改めて背負い直し、廊下を慎重に進んでいく。
瑛がいる。この建物にだ。
彼と離れてしばらくの時間が経った。自分は、いくらかの経験を経て、成長することができた。これは自惚れなどではない、と思う。
その上で、瑛との付き合いを考える。
瑛をここまで追い詰めたのは自分だ。彼の内心に正面から向き合ってこようとしなかった、自分自身の甘さだ。目をそらしてきたツケは膨らみに膨らんで、今ではもう爆発寸前になっているという。もし瑛の感情が暴走して、すべてを吹き飛ばすようなことになってしまったら。
「凛」
廊下をゆっくりと進みながら、恭介は言った。
「なぁに?」
「瑛のメルトダウンに巻き込まれたら、どうなるかわからないぞ。地下に隠れていても……」
「怒るよ?」
「……だよなぁ」
予想通りの返事が返ってきたので、恭介は頭を掻いた。
「あたしを死なせたくないなら、そうならないように、恭介くんは必死の努力をするべきであってね?」
「……だよなぁ」
至近距離で瑛がメルトダウンを起こした際、放出される熱量に耐えきる自信は、恭介にはない。当然、凛もだ。彼女もそれをわかっているからこそ、恭介のそばを離れるつもりがないのだろう。
死ぬときは一蓮托生、などという殊勝な覚悟ではない。恭介を死なせたくないときは、恭介が一番死なせたくない人物を隣に置いておくのが一番だと、凛はよく理解しているのだ。頭が上がらない。
「とりあえず瑛が爆発しないように、か。ゴジラのときは、メルトダウン起こさないようにどうしてたんだっけな……」
ぼやきながら廊下を歩いていくと、ふいに、じんわりとした熱がこちら側に漂ってきた。
「う、熱い……」
凛がたじろぐようにつぶやく。
そう。熱い。暑いではなく、熱い。大気が焦げるような熱をはらみ、視界をゆがめていた。瑛は近いと、直感的に判断するに足る熱量だ。
その中で、ひときわ熱い一区画には、大きな扉が設えられていた。
「あたし、蒸発しそう……」
「縁起でもないこと言うなよ」
「身体の99%が水分だからねぇ」
恭介がドアノブに手をかける。熱い、と感じるだけの間隔はなかったが、じゅう、という音がして骨が焦げる。
「………!」
意を決して、扉を開けた。同時に、これまでのものとは比較にならないほどの熱が、こちらに押し寄せてきた。
「うおっ……!」
思わず、しりもちをつく。めいいっぱい歪む視界の中で、瞳を持たない恭介の眼窩は、その奥に崩れ落ちた黒い甲冑を目にとらえた。
甲冑の胸甲部が融解し、その中からは煌々と燃える火の玉が、顔をのぞかせている。
「瑛……!」
その名を叫ぶと、火の玉にはぴくりと反応があった。
「きょう、すけ……」
「俺だ、瑛。お前を助けに来たぞ」
「いまさら、なにを……」
朦朧とした瑛の言葉の中には、わずかに噛みつくような声音が滲んでいる。同時に、炎が勢いよく燃え盛るのが見えた。恭介はぎょっとする。
「ど、どうどう。落ち着け、瑛」
「いまさら、ぼくが、かえれると、おもうか……」
「そうやって、自分で決めつけて思い込むなよ……。いや、頑固なのは、おまえの良いところでもあるけどさ……」
恭介は、ちらりと凛に視線を向ける。凛は『がんばれ』とでも言うように、全身でサムズアップサインを作っていた。
「おまえは帰れるよ。大丈夫だ。今までさんざん迷惑をかけて、悪かったと思ってるよ。だから、さ……」
「………」
黙り込んだ瑛に向かって、恭介は一歩、踏み出す。熱気が骨を焼く感覚があった。
「だから、ええと……」
いざ、こうして対峙してみると、なんと言っていいのやら。だが、思ったよりも瑛の様子は安定している。こちらの話を、聞いてくれそうだった。
「……ぼくは、きみたちに、さんざんめいわくをかけた。いまさら、もどれるとは、おもっていない」
「それ! それだよ! おまえのそういうところ、良くないよ!」
ここまで来て、取り繕っても仕方がない。恭介ははっきりと言うことにした。
「そうやって自分だけで問題を解決しようとして、袋小路に陥って、それで、どうしようもなくなっちゃうのはわかるんだけどさ。俺もそうだったから。でもそうやって、意固地になること、ないじゃないか。迷惑かけたら、謝って戻ればいいんだよ」
「どんなかおをして、あやまればいい」
「どんな……顔だろうな。表情について考えることなんて、もう半年くらいしてないからなぁ……」
どこで地雷を踏むか、どこで瑛を爆発させてしまうか。わからないから内心は冷や汗ものである。
瑛とはどこかで衝突し、その本音を聞きださなければならないと思ってはいたが、この状態で爆発させてしまうのはさすがにまずい。せめて、この部屋の温度を通常に戻すくらいまでは、彼の心をクールダウンさせてやる必要があった。
「きょうすけ、きみは、ばかだ」
「俺も、」
瑛の言葉を正面から受け止めて、恭介はうなずく。
「そう思うよ。でも瑛、お前も、相当だ」
短い言葉を交わしたのち、しばらくの沈黙があった。瑛の炎の昂ぶりが、ほんの少しずつ、沈静化していく。
「……ここで君の言葉に甘えても、僕はまた、同じことをするかもしれない」
「そうしない為にもだな。もっとこう、お互いに言いたいことがあると思うんだよ。まぁ、今は置いといた方が良い気がするけどな」
「……ああ」
徐々に、室内の温度が下がっていく。背後で、凛が小さく安堵するのがわかった。スライムである彼女にとって、高熱は一番の天敵であるから、まぁ当然の反応だ。
一難は免れたということになるのだろうか。このまま瑛を連れて離脱をしたいところではある。現段階で皇下時計盤同盟の誰ひとりとも遭遇していないのが、かえって不気味だ。できることなら、出くわす前に退散するのが理想である。
「思ったより穏便に済みそうで良かったねぇ」
凛が安堵した声でつぶやいた。恭介も、ため息こそ出ないが一心地をつける。そして、それが瑛にも伝播しようとした、その時だ。
「だが、穏便に済まされては困る」
轟音の中に、済ました男の声がはっきりと聞こえた。壁がはじけ飛び、瓦礫が礫となって降り注ぐ。そのうちのひとつの直撃を受けて、骸骨の身体が床に転がった。
「恭介!!」
「恭介くん!!」
自身を呼ぶ声が聞こえる中、恭介は顔をあげる。もうもうと舞い上がる粉塵の中に、ひとりの男が立っていた。皺を年輪と刻み込んだ顔のつくりは、およそ壮年の域に差し掛かった人間のそれである。恭介たちの世界でいう白人系とは異なり、どちらかと言えばアジア系、モンゴロイド系を思わせる顔だちだ。
鎧の一切をまとわず、男が着用しているのは簡素な衣服だけであったが、同時に首からぶら下げた懐中時計にも視線が行く。金色のその時計は、7時のところでピタリと針を止めていた。
皇下時計盤同盟だ。第7時席、すなわち“神槍賜わりし”リー・シェンフー。遭遇したくない、と思ったところでいきなり出くわすとは、つくづく運がないと言わざるを得ないが、それ以上に恭介には気になる点があった。
穏便に済まされては困ると、この男はそう言ったのか?
つまり、恭介が瑛を暴走させ、メルトダウンを発生させることを、望んでいたとでも言うのか? 帝国側の人間が?
恭介がそれを尋ねるより早く、リー・シェンフーは恭介にとびかかり、骨だけの身体を器用に組み伏せた。
「がッ……!」
「どういうつもりだ、リー・シェンフー!」
融解した鎧の中で、瑛が叫び声をあげる。同時に、この部屋を取り巻く空気が、ふたたび激しい熱を帯びた。リー・シェンフーは答えようとしない。組み伏せられた恭介からは、その表情すら伺いしることはできなかった。
彼が何を思って、何を目的としているのかはわからない。だが、現時点で恭介にははっきりと言えることがあった。この男が恭介に攻撃を加えているのは、安定しかけた瑛の精神を再度突き崩すためだ。そして今、その目論見に正しく従い、瑛の能力は再び制御不能域にまで突入している。
「瑛、抑えろ!」
「火野くん、暴走しちゃダメ!」
恭介と凛が口々に叫ぶが、室温の上昇は止まらない。やがて部屋の窓ガラスが溶け、窓枠が発火する。
「あと一息、と、いったところか」
リー・シェンフーの冷淡な声が、恭介の耳に届く。同時に背中側で、拳を振り絞っているのが理解できた。それだけで、熱を帯びた大気が渦を巻き、力の奔流がリーの右腕に集約されていく。それこそが、二つ名の由来となった“神の槍”の発動だ。振り上げられた槍が、恭介の頭蓋骨をめがけて、勢いよく放たれる。
「やめろォォォォッ!!」
瑛のその叫びを最後に、すさまじい光と熱が、すべてを飲み込んだ。
恭介は視界の片隅で、辛うじてリー・シェンフーの顔をとらえていた。男は口元に、笑みを浮かべていた。




