不遜に 猥雑に そして 嫣然と
慇懃無礼で 皮肉で… 茹で過ぎたパスタが良く似合う
気の抜けた推理は 如何ですか。
「そう言う事だ ワトスン君、全てを受け入れ 日々の労働に感謝し
人間らしい生活を 共に喜ぶ 素晴しいだろう。」
「一寸待て 素晴しいだろう じゃないですよ。
其れに オレはワトスン君ではないし ついでに言えば お前も ホームズではない。
そして 此処は 安くて早い 配管工事務所で 断じて 探偵事務所ではない。
オレは 配管工として就職したのですからね 家出猫の捜索をする気はないですからね。」
そう オレは 二時間と 四十七分前に 一方的な転職を言い渡され 三回叫んだ。
馬鹿野郎 理不尽だ 労働者をなめんなよ と…
そして…
「では ワトスン君、昼食の準備をお願いしようかな。」
ニッコリと微笑を浮かべ… 此の事務所の 安くて早い配管工事務所の そう 断じて
貴方の猫を見付けます NNN 推薦 私設探偵事務所ではない の 道を挟んで 斜め前の
スーパーの 本日の特売品 75 セントのスパゲティー麺を 投げ渡してきた。
オレの 堪忍袋の緒が切れた 麺だけで 如何しろと言うのだ トマトもよこせ と
叫んでいた…
ああっ… そして カッン カッンと 階段を上がってくるハイヒールの足音が響く。
お願いだから 此の事務所の前に立ち止まらないでくれ
スパゲティーは 麺の茹で加減が大切なんだから 今は ダメだ。
事務所のドアの前で 暫しの静寂が 立ち込める。
「ワトスン君、依頼人だ 極上のミルクティーをお願いできるかな。」
こやつは 双眸を眇め 事務所のドアを見遣りながら 礼儀正しく 尊大な言葉を吐く。
「茹で過ぎて伸びきったスパゲティーでは ダメですか
それに インスタントのコーヒーしかないですからね。
そして 念の為言って置きますが 此処は 安くて早い配管工事務所ですからね。」
オレは 何故 此の事務所に就職してしまったのかと 込上げて来る後悔を
無理矢理に押し留め 波状攻撃をかける後悔を完全無欠に無視を決め込もうと…
「では 賭けてみるかい 水周りか 猫探しか はたまた 世紀の謎の幕開けか。」
「何を賭けるんですか 今月の給料とか言う オチはなしですよ。」
ああっ そうだった 此の事務所に就職した訳は 給料が良かったんだ…
こんな 訳の分らない罠があると 知らないオレは 喜んで 面接を受けたのだったなぁ。
ニッコリと こやつは ホントウに胡散臭い微笑を浮かべる。
「決まっているだろう 僕が賭けに勝てば お前は 僕の相棒 共謀者になってもらう。
僕達は 一生 親友だよ。」
オレは初めて 本気で祈った 神様助けてくれ と …
此れが 世紀末を駆け抜けた 俗に言う 黒猫事件の 幕開けである。
「どうぞ 心ゆくまで味わって頂いて 結構ですよ。
食事時を狙い済ましたかのように訪問する まるで ハロウィンのお菓子盗賊団の様な行い
とても 素敵ですよ。 気に入りました。」
こやつは にっこりと 胡散臭い笑顔を浮かべ 妙な皮肉と 厭味と 愚痴を散りばめたかの様な
言葉を吐き出し スッピンのスパゲティーモドキの皿を カタリと置く。
安っぽい 皿の白さが キラキラと… 妙にもの哀しさを覚える光景が広がる。
「おおっ 失礼を致しました お好みでお選び頂いて 結構ですよ。」
スッピンのスパゲティーの横に 塩とトマトケチャプを 当然の如く しれっと…
オレは どうせ 配管工に洗濯物でも詰まらせたか 家庭菜園にでも凝って 妙に本格的な
大根作りでもして 下水管でもぶち破ったかと ふんでいた。
そう…スパゲティーの成れの果てが 既に小麦粉に還ろうとしているが
そう言えば 極東の 決して辿り着く事の叶わぬ 島国には うどんと言う
白く たおやかな食べ物が存在するという 伝説があるとか。
何時もは 芸能人を追っ駆け回している 三流ゴシップ新聞で読んだ事がある。
其のうどんとは この様な姿では無いだろうかと 茹で過ぎたスパゲティーを見詰め…
Salt of the Earth 1キロ 1ドル 素っ気無い袋に入れられて
実験の試薬の様な扱いを 受けている塩と
道を挟んで 以下略の 特売品である所の 1キロ 1ドル50セントの品々…
オレは 此のトマトケチャップのラベルの笑顔のオッサンを 秘かにドナ…と呼んでいる。
あの 食い物が何でも馬鹿でかい国の ファストフードハンバーガーのマスコットキャラ
妙に恐いんだよ 此の目が笑っていない笑顔って…
「あの…」
ついに 依頼人である女性が 意を決したかのように 話し出した。
「そうですね 稀代の名探偵とでも お呼び下さい。
では スパゲティーを召し上がってくれない お嬢さん、御芳名を伺っても 宜しいでしょうか。」
こいつは さらっと しれっと… 辞表の書き方は 本棚の二段目 左隅にあったかなぁ。
「あっ はい ゾーラ です。」
にっこりと ああっ 本当に胡散臭い。
「ゾーラ と言う事は 綴りは Zora ですね 素晴しい名前ですね
A B C … とアルファベット順に 殺人が起こった時に 最後まで生き残れる。
名付けた両親の愛を感じる事が出来る 素晴しい名前です。」
「はぁ……。」
ごめん ごめんね 対応できないよね 単に 配管工事の依頼に来ただけなのにね。
此の 馬鹿を馬鹿で煮込んで 煮詰めたような
社会人の常識としては 言ってはいけないのだが 少なくとも 給料日には
言ってはいけない言葉なのだが
此の馬鹿 何を言っているのだと…
「猫が… 私の猫が 消えたのです。」
えっ 配管工事ではないの…
… 私の猫が 消えてしまった 如何か 取り返して欲しい。
依頼人の女性 ゾーラは 微かに震える 消入りそうな声音で 猫の奪還を訴え掛けてきた。
「猫ですよね 食事に不満を持った脱走 または 恋に身を任せた 危険な逃避行
ああっ… 残念ですね 大切に育てたきた箱入り娘は 五つ子を抱え帰って来ますよ。
慰謝料や 養育費の請求は難しいですね。」
こやつは 芝居がかったセリフで 無責任な感想を述べ…
「ゾーラさん、 何故 消えたと 何か確信があるのですか 出来れば お伺いしたいのですが。」
オレは… オレは… 負けた ついに 見かねて 自ら厄介事に係わってしまった。
おそらく いや 絶対に 後で後悔すると 解り切っているのに 自分の常識が恨めしい。
ゾーラさんは オレの様な紳士が手に取る事も 憚る様な三流ゴシップ新聞を…
すみません 嘘吐きました 愛読しています。
此の 嘘とホラで 塗り固められ 偽悪趣味でコーティングした 一切の真実も 一片の誠実もない
確か… 昨年のクリスマス頃 隣町の商店街で 醜悪なサンタ人形の横に 錆付いて転がっている
真実の報道にかける情熱 を 見たのが最後の様な気がする。
此の 三流ゴシップ新聞 日付だけは 間違わないと言う矜持を 誇っており…
失礼、天気予報と 今日の占いだけは 妙に高い 的中率を誇っている。
「此の記事の写真 私の兄と 私の猫のプルートです。」
画質の荒い 白黒の写真には 痩せた男と 妙にでかい黒猫が 写っていた。
此の屋敷と修道院 其れに付属する一切を 此の黒猫へ譲渡する為の 遺言状が作成された。
別名 幽霊屋敷と呼ばれる この屋敷は… 中世から 地域の病院の様な役割を担っていた
修道院は … 個人所有の 歴史的にも 価値の高い……
ゾーラさんは 写真の黒猫を指差し きっぱりと 言い放つ。
「此の猫 私の プルートです。」
「冥界の王プルートに 幽霊屋敷 そして遺言状ですか。
あまりにも 大仰で 些か露骨で 出来の悪い 二時間サスペンスロマン映画ですか。
最後は 崖の上で 犯人がベラベラと 如何でもいい事を喋って 飛び降りるか
はたまた ゾンビの群れから 逃げ延びた ヒーローとヒロインが 抱き合うか
其れとも 季節柄 雪に閉じ込められる 密室劇もありえますね。
さて どれがお好みですか 最後まで生き残る予定の お嬢さん。」
こやつは… 話が進まないだろうが。
… 私は 二度と 此の古びた屋敷を 訪れる事は無いと 思っていました。
私は 此の屋敷から 要らないと 捨てられたのですから。
ゾーラは ボソボソと 女性にしては 些か低目の声音で 言葉を紡ぎ始めた。
「私ゾーラと 兄のアーロンと…
此の 幽霊屋敷と呼ばれる 辺境の片隅の田舎で 生まれ 育ち…
仲が良いと 仲が良い兄妹とだと ずっと信じていました。
其れが 理由も解らない突然に 私だけが 屋敷から遠く離れた 都会の全寮制の学校に編入され
長期休暇にも 帰郷が許されず… 屋敷から遠ざけられた。
それに対して 兄は 屋敷で 専属の家庭教師が付き 生活の全てが 屋敷に閉じられ
兄は 屋敷で閉じ篭る……
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
オレは やる気無く ボロボロの簡易ソファーで チャッカリとブランケットにもぐり込み
猫の様に 丸まって…
どうも やる気の電源が落ちたらしい 自称 稀代の名探偵を見遣る。
暇なのか マザーグースを口ずさみ…
放っておこう… 静かな方が 話が進む。
ああっ…… 何時の間に オレは 積極的に 面倒事に係わっているのだ。
オレは 第三者 野次馬 ひやかしの類の立場を貫こうとしていたのに
此れでは 立派な関係者になってしまう。
オレは オレは 配管工で 此処は 安くて早い配管工事務所
既に 無駄な足掻きと 口の端で嗤われても… 断じて此処は 配管工事務所。
「 …… ええっ 私は 此処で 屋敷とも 兄とも 関係が切れていました。
全寮制の 其れなりの資産家の子女が学ぶ学校でしたが 其れに見合うだけの仕送りがあり
金銭的には 不自由を感じた事はなかった…
其れなのに 帰郷は許されなかった。
兄は 私を 嫌っていた のでしょうか…
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
「最後まで生き残る予定のお嬢さん、一番初めに殺されたと見せかけて 実は犯人のお兄さんとは
其の 全寮制に編入以来 会っていないと言う事ですか。
此れは 胡散臭くなってきましたよ 処で お兄さんは 好き嫌い多いでしょう。
是非 ワトスン君の 作る料理 シェフの気紛れパスタ 茹で過ぎた小麦粉の末路
トマトケチャップ風味 大地からの贈物 塩を添えて を 召し上がって頂きたいな。
処で 屋敷に付属している 修道院の現状は解りますか 解る範囲でいいので
凄まじく 詳細に 事細かに 洗い浚い 吐き出して頂きましょう
幽霊屋敷に 帰りたがる 謎のお嬢さん。」
こやつの やる気の電源 まだ落ちていなかったのか…
突然に ズルズルと ブランケットを身体に巻きつけ 一歩一歩と ゾーラさんに 迫り…
こやつは 何をする心算だと 何時でも 何処ででも 叩き落とせるように
極東の 伝説の神剣 全てのものを一撃で薙ぎ払うと言う ハエ叩きを 両の手で
握り締め 見守り…
「挨拶が 遅れましたね。」
ボロボロに折り目の付いた カードを一枚 差し出す。
… 安くて 早い 配管工事務所 …… …
「はぁ…… では 話の続きを 修道院に付いて 語っても宜しいでしょうか。」
うっおっっっっっ ゾーラーさん 適応能力 処理能力 高い。
此の事務所の 事務兼 電話番として 就職してくれないでしょうか。
待遇は 応相談と言う事で 如何でしょうか。
「私と兄は 修道院に立ち入る事を 禁じられていました。
其の為 実際の現状は まったく知る術はなかった 唯 言える事は 私は 一度も 幽霊に遭った事はない。」
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
こやつは また 猫の様に 簡易ソファーの定位置に戻り 丸くなる。
「赤い薔薇は 咲いていたのですか。」
こやつは 何を言っているのだ。
「さぁ 長らく帰郷していないので 記憶が曖昧で わからない…」
ゾーラさんは 突然の横槍に 困惑を隠せないようで 声音が震える。
「すみません 修道院に付いては ほんの少しの知識しか 持ち合わせていなくて…
元々は 単なる神への祈りを捧げ 神へ 其の一生を捧げ 神の傍を歩む事を 至上の喜びと
感じる その様な 敬虔な修道院だったようです。
其れが 中世の頃から 医者に掛かる事の出来ない 地域の貧しい民に対して
医療の真似事のような 診察を始めたようです。
薬は 高価な為 とても処方できない 其の為 修道院の薬草畑で 育てた薬草を煎じて 処方し…
其の程度の 診療でしたが 評判良かったようですよ。
魔法の様に 楽になった と…
其の後は 近代医療の普及に拠り 其の使命も終わりを迎えて 静かに修道院の役目を終えたと
聞き及んでいます。
今では 修道院は 廃墟同然で 危ない為に 私や兄に 立ち入る事を禁じていると
教えられていました。
「ワトスン君、 我が事務所は 福利厚生に力を入れている。
先ほども 小麦粉の末路と言う食事を共に 楽しんだ。
素晴しい季節だ そろそろ 霙まじりの長雨が降り続き 人類を鬱に落し入れる。
実に 社員旅行に打ってつけだ。
趣き深い 歴史の裏側に隠された 廃墟の修道院を尋ねて 二泊三日の旅。
ワトスン君、次の列車の切符と 駅弁を用意しなさい。」
本当に 本当に 二泊三日で 帰れるのでしょうか…
…… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
赤い 赤い 薔薇が 咲き誇る
「ええ 世に発表されていない ルーベンスの宗教画 ラファエロの素描等々
此れ程までの 名家ともなれば体面を維持する事も 容易くない。
秘密裏に こっそりと 代々受継き収蔵してきた 古美術品を 一時の体面の為に
二束三文で売り払いたいと 目下の噂なのですがね。」
古色蒼然たる 壮麗な家屋敷の 呆然とする程までに 天井が高く
近所の 一ヶ月十五ドルの 駐車場全体よりも 遥かに広いエントランスで 茫然自失と佇む。
そう 妹の帰郷すら 拒んでいる兄に 屋敷に入り込む術はあるのかと尤もな 問いに
こやつは 列車の中で 駅弁を食しながら 自信に満ち満ちた態度で
策はあると 言い放った。
まさか 策とは コレなのか 胡散臭い古美術商に成済ますのか。
ああっ あの時 もっと深く 追求すべきだった。
そう 駅弁が 全ては 極東のエキゾチックな味わい スウシイに気を取られた為に…
スウシイとは 米と言う野菜を蒸したものに 甘いドレッシングをかけて
各種の魚の切り身や 果物をスライスしたものをのせて 食す。
黄色いサフランの味の米に 薄くスライスしたアボガド
赤い米の上には 薄切り肉をのせて 塩とコショウをアクセントに飾り付け加えて。
オレが作った スパゲティーには 一片の慈悲すら見せなかった ゾーラさんが
黙々と 東洋の神秘弁当を 食している 顔色一つ変えずに…
オレの味覚は 可笑しいのでしょうか。
東洋の神秘とは 奥深く オレの手には 負えないものなのでしょうか。
あやつも 東洋の神秘弁当を ご機嫌に食している。
甘いドレッシングの掛かった米に パイナップルが 色鮮やかで…
味のアクセントと称して わさびと言う みどりみどりした 悪魔が 折を見て 隙を見て
人類と言う種を 奈落の其処へ落す。
そう 確かに オレが選んだ駅弁なのだが 確かに オレが選んだのだが 不吉すぎる。
オレは 謎の東洋の神秘弁当を 前に 呆然と 唖然と 悄然としている内に
屋敷の エントランスに佇んでいた。
自称 稀代の名探偵は また 折り目の付いた ボロボロのカードを 引っ張り出して
ゾーラの兄らしい人物に 手渡す。
… 安くて 早い 配管工事務所
「申し遅れましたね 古美術品を 特に絵画を中心に扱っております。
先祖代々 伝え守ってきた美術品を あなたの代で 二束三文の値で 売り払いたいと
お考えならば 相談に乗りますよ。
あなたが 祖先から怨まれるお手伝いの 一端を担いましょう。」
其の痩せた 骨ばった手が カードを受け取り 試す返す カードを調べる。
「配管工事務所と なっていますが…」
すっ すいません 配管工事務所です。
だから 古美術商なんて 無理なんだよ 行き当たりばったりで 何が 策はあるだよ。
すいません 水周りの設計 工事 三割引でどうでしょうか。
安くするから 許して。
「ええ 秘密裏ですからね 美術商が 堂々と屋敷に出入りしていては 何かと不都合でしょう。
人の口には 戸を立てられない 暇人の格好の餌食ですからね。」
こやつは しれっ と 言葉を放ち ニッコリと そう ニッコリと 例の胡散臭い微笑を浮かべる。
ゾーラの兄も また ニッコリと… ああっ 何て眩しい 正体不明 年齢不詳 住所不定の微笑。
こんなに 立派な名家の主なのに 何て板に付いた 正体不明さ。
「いいでしょう 気に入りました 客人として そして ゾーラの友人として
此の屋敷に招待しましょう。」
蛇の道はヘビ 正体不明には胡散臭さを 意外に あっさりと第一関門を突破した。
ひたひたと 冥界の王が彷徨す
足音を消え しなやかに すべるように
赤き薔薇の残骸を 通り抜け
幽霊の安住の地 廃墟と化した 修道院へ と
「実に 素晴しい。助手の創作料理 小麦粉の憂鬱に優るとも劣らない
実にシンプルで明瞭な主題 腹を満たせればそれでいい を掲げた 朝食
美味だと感想を述べておきましょう。」
こやつと言う奴は…
たっぷりと ポットを満たした紅茶 幾許かの卵料理と野菜 甘みのあるパン。
確かに 此の栗のジャムは あんこという 伝説の甘味料 人を三倍の体積へと変貌させる
謎の食物に よく似ている…
ひょっとして 朝食のお礼を述べているのか…
「其れは 良かった 今日の予定は 何か
其れとも 如何にモノ古美術商を装って 手慰みに所蔵の絵画で 戯れますか。
自称 古美術商の 調査員さん と言ったところでしょうか。
ゴシップ記事を求めての 潜入調査ですか 甚だ 悪趣味です。」
ゾーラの兄は ニッコリと 実に正体不明の微笑を浮かべ 辛辣に 隠す気もなく不審を表す。
「半分正解で 半分不正解 三十五点 頑張りましょう と言った処でしょうか。」
こやつも 負けず劣らず ニッコリと胡散臭い微笑を誇示する 何て 打たれ強い性格なんだ。
「残念ながら 配管工事務所の 自称 稀代の名探偵ですよ。
あなたの妹の ゾーラさんが心配しているのですよ。
妹の 黒猫 プルートを 遺産相続人に指名したでしょう 其の不可解な行動に不審を覚えている。
助手の 創作料理 小麦粉のラグナロク 其の後 を召し上がって頂けないほどにね。」
兄は 冷めた紅茶に 口を落す。
「そうですか では ゆるりと お過ごし下さい
御気の済むまでね 私には 何も後ろ暗い事はない とは言いませんよ 御気の済むまで滞在し
探索されるのが宜しいでしょう。
残念ながら 何も暴き立てる事は出来ないでしょう。
何故ならば 此処は 幽霊屋敷ですからね。」
慇懃で 柔らかな口調のオブラートで 皮肉を覆い隠し…
シュガーコーティングされた 毒薬の様な奴だなと オレは 妙な感想を刻んでいた。
「ありがとう では 心ゆくまで 傍若無人に跋扈させて頂きます。
処で 赤い薔薇は 今も 美しく咲き誇っていますか。」
こやつは 薔薇の季節は 過ぎているだろう。
妙に 薔薇にこだわって 薔薇でお茶でも作り 新商品として 事務所で売るつもりか。
「いえ 赤い薔薇は 昔の思い出ですよ 薔薇は 幽霊の心の中で 芳しく…」
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
ああっ まただ あの マダーグースの童謡を口ずさんでいる。
「さて ワトスン君 薔薇の芳しき芳香を求めて 幽霊を探しにピクニックに出かけよう。」
先生、バナナはおやつに含まれますか。
此れは 給料に含まれるのですか 残業費は五割増しでお願いします。
冥界の王の導きに拠り 地の奥底へと誘う。
一つの 歌と 共に。
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
「流石ですね さり気無く あからさまに門外不出の名画達 世に知られる事のない 秘された花達が
埃を被り 深い眠りについている。」
自称 稀代の名探偵は 古色蒼然たる屋敷の あちら此方に飾られた絵画に 一頻り悪態をつき
深く溜息を吐き出した。
聖像像 受胎告知 最後の晩餐 聖者達 美しい少女 遠い憧れの地 ……
「あの 陰険偏屈モノを慰め 愉しませるだけの為に 天文学的な価値が 誰の目に触れる事無く
埃を被り ひっそりと消え去っていく。
最高の無駄遣い そして贅沢 実に素晴らしい。」
ヒタヒタと 擦り減った大理石の床は 幾何学模様を描き出し ラテン語で神の言葉を描き出す。
汝の隣人を 愛せよ と …
くぐもった色硝子の 憂いを秘めた聖母は その視線で語りかける。
この犠牲を 見よ と …
そして 屋敷を通り抜け 廃墟とされている修道院の前には 一つの 黒っぽい二階建ての建物の残骸。
「あったね 赤き薔薇の残り香が」
回廊墓地。
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
こやつは ゆっくりと ゆっくりと言葉を噛み締めるように 味わう様に マザーグースを口ずさむ。
幾度となく繰り返された厄災 黒死病 ペストの大流行。
墓地も 埋葬の限度を超える それでも 積み重なる遺体。
そう 墓地に埋葬できなくなった遺体は 簡素な布を巻かれただけで この回廊墓地の一階部分に
放り込まれる。
そして やがて 骨だけになったものを 二階部分へと移す。
赤い薔薇とは 黒死病の赤い発疹の事 花束とは 薬草 …
この歌は 黒死病の大流行をなぞらえている。
そう 此処までは 歴史の話…
この修道院の処方する 薬草は 魔法の様に楽になった…
その薬草とは おそらく…
「それでは ワトスン君、魔法を確かめる為に 修道院へ行こうか。」
ああっ こいつは お昼にお茶でも飲もうと誘うのと同程度の軽さで 純粋無垢なオレを
地獄へと誘う。
… Ring-a-Ring-o' Roses, A pocket full of posies, Atishoo! Atishoo!
We all fall down.
赤い薔薇 そして 花束。
「ほら 見てみろよ 雄弁に つぶさに 語っている。」
何時もの 何処か 人を小馬鹿にした 慇懃無礼な口調が鳴りを潜め
抑揚の消え失せた声音が 淡々と 唯 淡々と
廃墟と化したと 聞き及んでいた修道院は 妙に清潔で 端正で
そう 恰も ごく最近まで使用されていたかの様に 人が住んでいたかの様に…
陽の射し込む 妙に白々と明るい回廊を ゆっくりと確かめるかの様に こやつは歩を進め そして佇み…
其処彼処に 無造作に飾られた 幾枚もの小さな絵画が 陽に晒され 色彩が剥げ落ち 埃を被り
何が描かれているのか 猫の耳のようなサインを刻み込まれた絵画を こやつは 双眸を眇め 見詰める。
ふっと 一列に並んだ 個人用と思える小さな部屋の扉に手を掛け オレに気付と 悟れと促す。
「ほら 見てみろよ。」
こやつの冷めた視線は 扉のノブに落とされる。
回廊側 外側にはドアノブがあるのだが 部屋側 内側には ドアノブがない。
即ち 外側からは部屋に入れるが 部屋からは外に出る事は できない。
幽閉 又は 監禁。
妙に白々と明るい 陽が射し込む回廊には 同じ仕様の個人用の部屋が 一列に連なり。
聞こえる筈のない悲鳴が 呪詛の呟きが 陽の光の下で漂っているようで
幽霊。
其の 妙に居心地の良さそうな部屋が 禍々しく見えてくる。
こやつは 部屋の片隅に刻み込まれた文字を 愛しむように 指先で慰撫する。
… 何故 。
おそらく 食器類 スプーンで刻み込んだのか 唯 何故と
こやつは 其の文字へと 語り掛ける様に呟く。
「何故 何故 何故…。」
… 何故。
陽に晒され 時に浸食され 薄く砂色に変色した紙片に 書き殴られた感情 何故 と
修道院の片隅には 診察室 及び 資料保管庫であったらしき一室が 陽の光を浴びて…
紙の束が積み重ねられ 紙片が 部屋中に散乱している。
書き殴られた紙片 病状を書き綴ったカルテの束
どの カルテも 最後は 何故 と言う言葉が 書き殴られている。
其のカルテには 病の症状は 劇的に改善し 痛みが治まり 患者は 爽やかな幸福感に満ち
そして 一週間後には 地獄に落ちる。
恐ろしい 飢える様な 餓える様な…
確実に 痛みは和らぎ 苦しみは治まり 一時は笑顔を表すまでに 改善する そして
何故 何故 何故 ……
こやつは 床に散らばるカルテを 一枚 一枚 拾い集め 視線を落とし 文字を追う。
深く 遣る瀬無い溜息を 一つ吐き出し 何等かの確信を得たのか 無言で踵を返し
此の 妙に明るい 何故と言う言葉で埋め尽くされた部屋を 後にする。
唯 其の歩みは 戸惑い 滞り 知りたくないと 拒否しているかの様に。
薬草畑。
そう 修道院の薬草畑には 在る筈のない 在るべきではない 嗜好品が広がっている。
こやつは オレの嫌悪を露わにした視線を 諌める様に 抑揚の消え失せた声音で
事実を 確かめる様に 自身に言い聞かせるかの様に 言葉を綴る。
法で規制されたのは 最近 其れ以前 単なる 薬草の一種。
それ以上でも それ以下でも ないよ。
野生で育つほど 栽培は容易 特別な栽培技術も施設も必要ない。
ほら ゾーラさんが 言っていただろう
… 修道院では 高価な薬は使えなかった 其の為 修道院の薬草畑で育てた 薬草を処方していたと
魔法のように 良く効いた と
そう 阿片だよ。
芥子が風に揺れ オレは 幻覚を見ていたのだろうか。
ゾーラさんの兄が 儚い 壊れそうな微笑を浮かべて こやつの背後に佇んでいた。
「だから だからこそ ゾーラさんを 此の屋敷から遠ざけたのですね。
貴方が 此の屋敷の 修道院の 全てを負う事と引き換えに。」
こやつは 振り返る事もなく 既知の事柄を口にするかの様に 淡々と 淡々と 滞る事無く…
「あの 監禁可能な一群の部屋は 阿片中毒者の為に… 治療を試みていた。
医療従事者の勘でしょうね 芥子に 阿片に 何か引っ掛かりを感じて 足掻いていたのでしょうね
何故 と…
そして あの一群の部屋 陽が射して 居心地良さそうだっただろう。
おそらく 知らなかったとは言え 修道院で処方した薬草に拠って 中毒症状を引き起こしてしまったが為の
罪悪感の表れでしょうね。」
こやつは 芥子を一本 手折り ゾーラの兄に手渡す。
兄は 其の芥子を受け取る 愛しそうに
「黒死病で積み重なる 遺体 そして 阿片中毒… 此の屋敷には 死の残り香が満ちている。
ゾーラは 此の屋敷から解き放たれ 外で 生きていって欲しかった。」
オレは 疑問を口にする。
「では 何故 今更 ゾーラさんを 此の屋敷の訪問を許したのですか。」
「其れは 最後の幽霊が… 死んだから ですね。」
こやつの声音が 低く震える。
幽霊が死ぬ… オレは 此の芥子畑で 酔い 幻覚を 幻聴を 神経が徐々に 浸食されているのか。
「ええ 最後の阿片中毒者は 私の母は 先日 白昼夢の中で 命を絶ちました。
私は 母が 阿片に惑溺した中で生まれた。
私は 生まれながらに 阿片に侵されている しかし ゾーラは違う。
だからこそ ゾーラには 此の屋敷から 自由になっていい…。」
オレは 酷い眩暈を覚え 倒れそうに 掠れた声音を 咽喉の奥底から絞り出す。
「何故だ 其れならば ゾーラさんの方が 阿片に侵されている筈だ。」
ゾーラの兄は 弱々しい 壊れそうな微笑を浮かべ 終焉を促す。
「さぁ もう終わりです お帰り頂ましょうか 古美術商さん。
其処の 稀代の名探偵さん、此の絵画を気に入っていた様なので 預けておきましょう。」
ゾーラの兄は あの修道院の回廊に飾られていた 猫の様なサインが刻まれた 絵画を無造作に手渡す。
そして 彼は ゆっくりと 屋敷へ帰って行った。
オレの 瞳に焼き付いた光景 芥子畑が見せた 幻覚だったのだろうか。
炎が 意志を持った獣の様に しなやかに躍り掛かり 全てをその手に掛け 貪欲に飲み込む。
古色蒼然たる屋敷が 修道院が 回廊墓地が 此の閉じられた屋敷の 哀しい歴史が 記憶が
すべてが 炎に飲み込まれていった。
新聞の紙面には 淡々と 当たり障りのない言葉が連なり 在り来りの悲劇を告げる。
… 古い歴史を湛えた屋敷 及び 地域医療に貢献してきた修道院が 全焼。
其の当主である男性は 行方不明であり 捜索は困難を極める。
警察当局は 当主は 屋敷と運命を共にしたと推測している。
オレは 茹で過ぎて小麦粉に回帰したスバゲティーに マヨネーズを振りかけ 激しく後悔し…
一口 二口と 訥々と口に運び 思索に振り回される。
「やはり ゾーラさんのお兄さんは 屋敷と運命を共にしたのだろうか…
あの言葉は 自分は阿片に侵されているが 妹は ゾーラさんは 違うと
ゾーラさんと お兄さんには 血の繋がりがないとか 其の様な 何か 秘された事実があるのか。」
オレは 辻褄を合わせ様と 解答に近付こうと 足掻いていた。
足掻いて 足掻いて 足掻いて 白旗を これ見よがしに掲げ 降参を示す。
「如何いう事なんだ。自称 稀代の名探偵殿、御教授頂きたいね。」
オレは 実に丁寧に 解答を求める。
こやつは オレ作の 茹で過ぎたスパゲティーに 東洋の神秘 豆から作られるという 漆黒の
塩っ辛い ソイソースと言う液体を タップリかけ
一口 二口と 口に運び 顔色一つ変える事無く 完食している。
オレは こいつの味覚が 解らなくなってきた…
「おやぁ 未だ終業までには たっぷりと 書類と戯れる時間がありますよ。
錆び付いている 黴の生えた古臭い大脳皮質に 油を注して ギシギシと動かしてみては
如何でしょうかね、親愛なる ワトスン君。」
こやつは 腹が満ちたせいか 嫌味に磨きが掛っている。
「綺麗な 綺麗な表面も事実 そして また 秘された裏面も事実。
物事は 清濁の両面からの事実を鑑みて 初めて 立体的に物事が立ち上ってくる。
ワトスン君、君の得意分野だ。」
嫌味をたっぷりと振りかけ オレが愛読している 三流ゴシップ紙のある記事を
此れ見よがしに オレの眼前に翳す。
… 匿名の人物に拠り 数多くの 未発表の名画が オークションに出品されている。
此れだけのコレクションは 希少で 幾つかの美術館が 匿名の人物との接触を試みている。
「要するに 我々は 利用されたのですよ。
偏屈 陰険な あの人物が あの屋敷から解放される為に 我々は 切っ掛けにされたのですよ。
我々は 陰険なあやつの 復讐譚の滑稽な道化師を 演じていたのですよ。」
おそらく… と こやつは 細やかな前置きを述べ 二皿目のスパゲティーを
ボソボソと 実に不味そうに 口に運ぶ。
おそらく ゾーラさんと あの陰険は 血の繋がりのある兄妹だろう。
陰険偏屈で塗り固めた あの男は 古色蒼然たる屋敷 修道院の
陰惨な過去を 秘する為の犠牲となっていた。
阿片の幻覚を 幻聴を利用し 此の屋敷から出て行く事は不可能だと 思い込まされていた。
彼は 妹が ゾーラさんが 阿片に捕らわれる事を恐れ…
自分が 全てを 此の屋敷の 修道院の過去を負うから 妹は 自由にと願ったのでしょうね。
切っ掛けは 今となっては 解らないが…
そう ワトスン君、君も疑問に感じただろう 何故と 生まれながらに 阿片に侵されているのならば
後で生まれた ゾーラさんの方が より 阿片への耽溺が起こる筈。
しかし ゾーラさんには 阿片への依存はみられない。
薄々 此の辺りの矛盾に疑問を感じ 自身の阿片への嗜好は 後天的に植えつけられたものだと
阿片の幻惑の中で 自身を 此の過去へ縛り付ける為に 記憶を操作されていると…
其れでも 最後の幽霊 最後の阿片中毒者の母が存在している間は
唯々諾々と 古色蒼然たる屋敷の主として 振る舞っていた。
そして 先日 最後の幽霊が 消えた。
彼を縛り付けるものも 彼が 主を演じる理由も消えた。
こやつは フッと思い出したのか 古新聞に無造作に包んでいた 小さな荷物
ゾーラさんの兄が 手渡した絵画を取り出し 業務予定表の横に掲げる。
実に ニッコリと 例の胡散臭い微笑を浮かべて 絵画を見つめる。
「うん 実にいいね 素晴らしい 人の頭脳にこびり付いた常識を剥ぎ落として
人を路頭に迷う 野良の子羊に突き落とす。
奴は 赤ずきんの あの狼と知り合いとみた。」
オレは 此の 強調して言うが 配管工事務所の 唯一の良心として 苦言を口にする。
「其の絵画 預かったものだろう 勝手に掲げては 不味いと思うが…。」
こやつは 小馬鹿にした様に 子供に言い聞かす様な物言いで ああっ 腹が立つ。
「ワトスン君、此れは口止め料だよ。
あの 陰険偏屈な人物が 新たな人生を得るためのね。
因みに 此の 猫の耳の様な 特徴的な M のサインを書き込むのは ミロだね。」
そして もういいだろうと 言わんばかりに 何時もの簡易ソファーでブランケットに包まり
瞳を閉じる。
… では 何故 あの 黒猫を プルートに 全てを相続させると遺言したのだろう。
オレは 誰に言うでもなく ぼんやりと呟いていた。
… おそらく 本当の 最後の幽霊は あの黒猫 プルートだったのだろう。
瞳を閉じ 眠ったと思っていたのだが こやつは 其の双眸を虚空へ放っていた。
「そう ワトスン君、新聞への求人広告の手配をお願いできるかな。」
こやつは 先ほど スパゲティーを食していたテーブルに視線を落とし 注意を促す。
近所のスーパーの広告の裏に 読み難い癖字で書き殴った一文。
… 事務 兼 電話番を求む 食事補助あり
そして 例の胡散臭い微笑を浮かべ オレに語り掛けてくる。
「残念ながら ワトスン君、 賭けは 私の勝ちだ。
此れで 君と私は 一生 親友だよ。」
眩暈が ゆっくりと 意識が遠ざかる……