私が死んだ三日後、母はネイルを投稿して祝った。三か月後、感染爆発で家族全員が私に助けを求めてきた
プロローグ
私が死んで三日目の夜。
私は母の夢に出た。
お願いだから、お寺へ行って、私のために一度だけ供養をしてほしい。
卒塔婆を一本、立ててくれるだけでいい。
線香を一本あげてくれるだけでもいい。
花を一束、供えてくれるだけでもいい。
いちばん安い卒塔婆でいいから。
けれど、夢から覚めた母は、インスタグラムに一枚の写真を投稿した。
「娘がいなくなって三日。ようやく家が静かになった。生きている時から、いつも暗い顔をしていて、まるで世界中が自分に借りでもあるみたいだった。死んでくれて、少し楽になった」
添えられていたのは、母が新しくしたばかりのピンクのネイルだった。
爪先には細かなラメが散っていて、日差しの中できらきら光っていた。
その投稿を見た瞬間、私は悟った。
母は、私を供養してくれない。
けれど母は知らない。
三か月後。
大規模感染が日本中をのみ込むことを。
私が供養を求めたのは、冥府で楽をしたかったからではない。
守護獣契約を買い、現世へ戻り、あの人たちを守りたかったからだ。
1
コメント欄は、すぐに荒れた。
「娘さんが亡くなって三日で、よくネイルの写真なんて載せられますね」
「家が静かになった?そんなこと、よく言えますね。実の娘さんでしょう?」
「娘さん、うつ病で飛び降りたんですよね?反省もせずに祝っているんですか?」
「真理子さん、怖すぎます」
母、佐倉真理子は、少しも気にしていなかった。
東京郊外のマンションのリビング。
母はソファに座り、コメントを眺めながら、自分の爪先をうっとりと見つめていた。
それどころか、鼻で笑った。
「何も知らないくせに」
私は母の背後に立っていた。
もう体はない。
風に吹き散らされる煙のように、冷たくそこに漂っていた。
私は十九歳で死んだ。
飛び降りだった。
死亡診断書には、自殺と書かれた。
診断書には、重度のうつ病と書かれた。
私の名前は、佐倉澪。
姉が一人いる。
佐倉梨奈。
弟も一人いる。
佐倉翔太。
生きていた頃、母は私を「面倒な子」と呼んだ。
父は私を「役立たず」と呼んだ。
姉は私を「陰気な女」と呼んだ。
弟は私を「縁起が悪い」と呼んだ。
私が死んでから、家族の呼び方はひとつになった。
あの子は恥さらしだ、と。
葬儀の日、母は泣かなかった。
寺に頼むとお布施がかかるからと、正式な法要すら嫌がった。
父は言った。
「もう死んだんだ。そんな形式だけのことをして、誰に見せるんだ」
姉は言った。
「大げさにしないでよ。友達に知られたら恥ずかしい」
弟は横でスマホをいじりながら、顔も上げずに言った。
「どうせ姉ちゃんには聞こえないだろ」
結局、私の遺影の前に置かれたのは、冷めた白飯が一膳。
水が一杯。
それから、コンビニで値引きされていた白菊が一束。
卒塔婆はなかった。
読経もなかった。
きちんとした別れもなかった。
そのわずかな供養は、冥府ではほんの少しの金にしかならなかった。
二日で使い切った。
それからは、誰も私に線香をあげてくれなかった。
誰も花を供えてくれなかった。
誰も私の名前を呼ばなかった。
私は冥府で、半年も飢え続けた。
生きている人には、あの飢えはわからない。
胃が空くのではない。
魂そのものが、少しずつ冷えていく。
出口のない黒い水の底に沈められているようだった。
死後、いちばん苦しいのは、家族が私を愛していなかったと知ることだと思っていた。
けれど違った。
本当に苦しかったのは、愛されていなかったとわかっていても、それでも家族を救いたいと思ってしまったことだった。
その日、冥府の大殿に鐘が九度鳴った。
すべての死者が、閻魔大王の前に集められた。
大殿は広く、暗かった。
黒い柱は、見えない霧の奥までまっすぐに伸びていた。
閻魔大王は高座に座り、遠い場所から響くような声で告げた。
「三か月後、現世で大規模感染が発生する。感染者は理性を失い、生者を襲う。都市は崩壊し、交通は止まり、秩序は失われる」
大殿は一瞬で騒然となった。
泣き叫ぶ死者がいた。
その場に崩れ落ちる死者もいた。
「では、私の家族はどうなるのですか」と叫ぶ者もいた。
閻魔大王が、静かに手を上げた。
大殿はすぐに静まり返った。
「冥府は対策を用意している。守護獣契約だ。死者は契約を購入することで、守護獣となり、短期間だけ現世へ戻ることができる。守護獣には戦闘、偵察、庇護の力が与えられる。自分を供養した者を守り、感染者を避け、食料を探し、安全な拠点を築く助けとなる」
私の胸が、大きく震えた。
守護獣契約。
現世へ戻る。
自分を供養した者を守る。
もし母が私を供養してくれたなら、私は戻れる。
母を守れる。
父も、姉も、弟も守れる。
私は証明できる。
私は役立たずではなかったと。
この家の重荷でしかない人間ではなかったと。
けれど次の瞬間、閻魔大王の声は冷たくなった。
「契約料は極めて高い。購入できるのは、一人につき一度だけ。そして守れるのは、自分を供養した者のみ。血縁は関係ない。涙も関係ない。後悔も関係ない。現世で本当に捧げられた供養だけが、契約の対象となる」
私は人波の端で、指先を強く握りしめた。
冥府は、死者一人につき二度だけ、無料で夢枕に立つ機会を与えてくれる。
二度。
一度は母に。
一度は父に。
それで十分だと思った。
感染爆発のことを伝えれば、きっと信じてくれる。
私はもう死んでいる。
死者が、こんなことで冗談を言うはずがないのだから。
2
最初に、私は母の夢に入った。
夢の中の家は、あの見慣れたマンションだった。
リビングではエアコンがつき、テレビからバラエティ番組の笑い声が流れていた。
母はソファに座っていた。
目の前には、弟の翔太が欲しがっていた新しいスニーカー。
姉の梨奈が買ったばかりの化粧品。
それから、高級そうなスイーツの箱が置かれていた。
母はそれを食べながら、テレビを見て笑っていた。
私はリビングの真ん中に立ち、小さく呼んだ。
「お母さん」
母は顔を上げ、私を見るなり眉をひそめた。
怖がる様子はなかった。
ただ、うんざりした顔をした。
「あら。またあなたなの」
喉が詰まった。
「お母さん、大事な話があるの。三か月後、東京で感染爆発が起きる。たくさんの人が怪物みたいになって、人を襲うの。冥府には守護獣契約がある。お母さんが私を供養してくれたら、私は戻って、みんなを守れる」
母は最後まで聞かなかった。
手にしていたフォークを、皿の上に乱暴に置いた。
「つまり、お金を出せってこと?」
私は慌てて首を振った。
「高いことをしてほしいわけじゃないの。お寺で卒塔婆を立ててくれるだけでいい。線香をあげて、花を供えてくれるだけでもいい。その供養が冥府通貨になるの。少しずつ貯めれば、契約が買える」
母は冷たく笑った。
「澪。あなたは生きている時から、本当にお金のかかる子だったわね。病院代、薬代、学費。死んでからまで、まだ私たちにお金を使わせるつもり?」
「お母さん、感染は本当なの」
母は立ち上がった。
その顔から、さっきまでの笑みが消えた。
「もういいわ。翔太は今年受験なの。塾代も模試代もかかる。梨奈は来月から新しい職場に移るから、きちんとしたスーツも買わなきゃいけない。家の中は何にだってお金がいるの。あなたはもう死んだのに、まだ生きている家族から奪うつもり?」
私は固まった。
「奪うつもりなんて、ない」
「あるでしょう?あなたが死んでから、私がどれだけ恥ずかしい思いをしたかわかる?近所の人に、下の娘さん最近見ないわねって聞かれた時、私が何て答えればいいの?飛び降りましたって?うつ病でしたって?みんな私をどう見ると思う?」
母は私の鼻先を指さし、声を荒げた。
「母親の育て方が悪かったんだと思われるのよ。でも違うでしょう。あなたが勝手に思い詰めただけじゃない。小さい頃から、あなたは本当に手のかかる子だった。少しは笑いなさいと言えば暗い顔をする。弟に譲りなさいと言えば傷ついた顔をする。心療内科なんて行かなくていいと言っても、もう無理だなんて泣く。澪、あなたはいつまで私を困らせるつもりなの?」
声が震えた。
「私は、ただみんなを助けたいだけなの」
母は私を見下ろした。
その目は氷のように冷たかった。
「本当に親孝行したいなら、黙って死んでいなさい。もう二度と出てこないで」
夢が砕けた。
私は冥府へ戻り、暗い隅にしゃがみ込んだ。
長い間、立ち上がれなかった。
黙って死んでいなさい。
私がこの家にできる最大の親孝行は、完全に消えることだったらしい。
いい。
まだ一度だけ、機会がある。
父に。
3
父、佐倉浩二の夢は、居酒屋だった。
父はカウンター席に座っていた。
目の前にはビールと焼き鳥。
隣の同僚に、仕事の愚痴をこぼしていた。
「お父さん」
父は顔を上げた。
私を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「なんだ、お前か」
その声に恐怖はなかった。
面倒なものを見た時の声だった。
私は感染爆発のこと、冥府のこと、守護獣契約のことをもう一度説明した。
父は聞き終えると、数秒だけ黙った。
それから、ビールを一口飲んだ。
「その話なら、母さんから聞いた」
私の目に、わずかに光が戻った。
「じゃあ、信じてくれるの?」
父はジョッキを置いた。
「信じる信じないの問題じゃない。澪、お前はもう死んだんだ。生きている人間のことに、口を出すな」
「でも、三か月後にみんなが危ないの」
「それなら、運が悪かったということだ」
私は信じられない気持ちで父を見た。
「お父さん。私を供養してくれれば、私は戻れる。みんなを守れるの」
父はため息をついた。
「供養にも金がかかるだろう。翔太の塾代だけで、月に十数万円は飛ぶ。梨奈も最近仕事がうまくいっていないから、家が支えてやらなきゃならない。母さんだって、たまには美容に金を使いたいだろう。澪、お前は姉なんだ。少しは家の事情をわかってくれ」
わかってくれ。
また、その言葉だった。
私は十九年間、ずっとわかってきた。
病気になっても言えなかった。
お腹が空いても我慢した。
奨学金を姉に取られても、笑って大丈夫と言った。
弟が私の本を破っても、私のほうが我慢しろと叱られた。
最後には、屋上から飛び降りるところまで、私は家の事情をわかっていた。
私は小さく聞いた。
「お父さん。もし感染が本当に起きたら?もし本当に、みんなが死ぬことになったら?」
父は目をそらした。
「それはもう、仕方がない」
少し間を置いてから、父は言った。
「澪。お前はもう十分、この家を苦しめた。死んでからまで、余計な面倒を持ち込まないでくれ」
二度目の夢も砕けた。
私は冥府の空っぽの石段に立ち、ふいに笑いそうになった。
私はもう死んでいる。
それなのに、まだこの家の迷惑らしい。
二度の機会は使い切った。
誰も私を供養してくれなかった。
私は冥府の片隅に座り、他の死者たちが楽しそうに話すのを見ていた。
ある老女は、息子がその日のうちに寺へ連絡して、盛大な法要をしてくれるのだと言った。
ある若い男は、妻が毎日線香をあげ、好物だったカレーライスを供えてくれるのだと言った。
大きな額の冥府通貨を受け取った者もいた。
守護獣の姿を選び始めている者もいた。
私だけが、何もなかった。
友人の小野葵が歩いてきて、私の隣に座った。
葵も死者だった。
私より二年早く、冥府に来ていた。
彼女は私の空っぽの口座を見るなり、低く吐き捨てた。
「あんたの家族、人間じゃないね」
私はうつむいた。
「弟の塾代があるんだって」
「生きていた時は?」
「一か月の昼食代、三千円だった」
葵は黙った。
長い沈黙のあと、彼女はぽつりと言った。
「実は、まだ方法がひとつだけある」
私は顔を上げた。
「何?」
「無料で夢枕に立つ機会はもう使い切った。でも、自分の魂力を削れば、無理やり誰かの夢に入ることはできる。ただし危険だよ。相手が信じてくれなかったり、あんたの魂力が尽きたりしたら、そのまま消滅する」
「家族じゃない人にも、夢を見せられるの?」
「できる。相手があんたを供養してくれれば、あんたはその人を守れる」
私はゆっくりと立ち上がった。
ひとつの名前を思い出した。
ずっと、思い出すのが怖かった名前。
神谷悠真。
4
神谷悠真と出会ったのは、高校一年の時だった。
私はある文学投稿サイトに、短い文章を載せた。
誰からもコメントはなかった。
ただ一人、彼だけがそこに書いてくれた。
「最後まで読みました。とてもよかったです」
それから、私たちは手紙を交わすようになった。
メールではない。
手書きの手紙だった。
彼はその時、大学を卒業したばかりで、長野県の山村にある小学校で臨時教師をしていた。
山の子どもたちは可愛い、と彼は書いた。
学校の裏には小川がある、と書いた。
冬になると、雪が膝まで積もる、と書いた。
夜は街の明かりがないから、星が落ちてきそうなほど明るい、と書いた。
私は彼に言わなかった。
家で毎日、一食しか食べられないこと。
母に薬代が高いから病院へ行くなと言われていること。
父に、一日中死人みたいな顔をするなと言われていること。
姉に奨学金を取られたこと。
弟にノートを破られたこと。
最後の手紙にだけ、私は書いた。
「悠真さん、疲れました。もう、頑張れないかもしれません」
彼は長い長い返事を書いてくれた。
けれど、その手紙が家のポストに届いた時、私はもう屋上から飛び降りた後だった。
あとで冥府の役人から聞いた。
神谷悠真は私の死を知った夜、山村小学校の宿舎で一晩中泣いていたらしい。
それから彼は、毎月一度、東京まで来てくれた。
長い時間電車に乗り、バスを乗り継ぎ、私の墓まで歩いた。
山の野花を持ってきてくれた。
線香をあげてくれた。
小さなおにぎりを供えてくれた。
時にはあんパン。
時にはコンビニで買ったプリン。
私に届いているかどうか、彼は知らなかった。
それでも、ずっと続けてくれた。
毎月一日。
雨の日も、風の日も。
私は目を閉じた。
自分の魂を引き裂くようにして、無理やり夢への道を開いた。
神谷悠真に会いに行くために。
彼の夢は、山の中にあった。
深い夜だった。
彼は小学校の玄関前の階段に座り、空を見上げていた。
山は静かだった。
虫の声と、木々を渡る風の音だけが聞こえていた。
私は彼の背後に立ち、小さく呼んだ。
「悠真さん」
彼が振り向いた。
私を見た瞬間、その目が赤くなった。
「澪?」
彼は立ち上がり、私のほうへ歩いてきた。
けれど、あと一歩のところで止まった。
私を怖がらせないように。
あるいは、触れたら壊れてしまうと思ったように。
「本当に、澪なの?」
「うん。私」
私の声は小さかった。
「悠真さん。伝えなきゃいけないことがあるの」
「話して」
私はすべてを話した。
冥府のこと。
感染爆発のこと。
守護獣契約のこと。
そして、父と母が供養を拒んだこと。
これが最後の機会だと伝えた。
話し終えた時、私はもう断られる覚悟をしていた。
彼と私は血がつながっていない。
私の死後、彼はもう十分すぎるほどのことをしてくれていた。
けれど彼は少し黙ったあと、静かに笑った。
「澪。僕が手紙に何て書いたか、覚えている?」
私は瞬きをした。
彼は星空を見上げた。
「疲れたなら、僕のところにおいでって書いた。山へ来て、星を見ようって。僕は待っているって」
それから彼は、私を見た。
その声は、泣きたくなるほど優しかった。
「今、来てくれたんだね」
私はもう涙を流せない。
それなのに、胸の奥が痛くてたまらなかった。
「悠真さん、供養のこと……」
「任せて」
「でも、悠真さんのお給料、高くないでしょう」
彼は少し照れたように笑った。
「高くはないね。山村小学校の臨時教師だから。でも、毎月きちんと供養する。君がいなくなった日から、ずっとそうしてきたんだ。澪が僕を守りに戻ってきたいと思ってくれたなら、僕は嬉しい。本当に嬉しいよ」
彼は手を伸ばした。
昔、手紙の中で書いてくれたように、私の頭を撫でようとした。
けれど、その手は私の髪をすり抜けた。
私は魂だった。
彼は、私に触れられない。
彼は小さく言った。
「待っていて。明日、お寺へ行く」
5
翌日、冥府の役人が私を訪ねてきた。
「佐倉澪。あなたに供養が届いています」
私は自分の冥府口座を見下ろした。
振込人、神谷悠真。
供養換算額、二千万冥府通貨。
私は長い間、動けなかった。
あとで知った。
悠真さんは、私の墓の近くにある寺へ行った。
私のために卒塔婆を立てた。
線香をあげた。
花を供えた。
その月の給料の半分近くを、私の供養に使ってくれた。
彼の給料は多くない。
山の子どもたちに文房具を買ってあげなければならない。
自分の食費もいる。
雨漏りする校舎の屋根を直すために、少しずつ貯金もしていた。
それでも、彼は私にくれた。
私は冥府の石段にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。
鬼に涙はない。
けれどあの時、私は確かに泣いていた。
その日から、私は金を貯め始めた。
悠真さんは毎月、私を供養してくれた。
私は供え物を売り、冥府通貨に替えた。
彼が供えてくれたおにぎりも、お菓子も、温かいお茶も、全部しまい込んだ。
売れるものはすべて売った。
自分では、いちばん安い白飯だけを買った。
飢えて歩けなくなる時は、冥府の川辺へ行き、他の死者への供養からこぼれ落ちた小銭を拾った。
葵は見ていられないと言って、よく自分の供え物を押しつけてきた。
「澪、そんなことを続けていたら、魂が砕けるよ」
「大丈夫」
「神谷悠真に、もう少し少なくしてもらえば?あんたも少しはいいもの食べなよ」
「だめ」
私は遠くに沈む、冥府の門を見つめた。
「一円でも多く貯めて、契約を買う。私は戻る。悠真さんを守る」
三か月が近づく頃、私はようやく必要な額を貯めた。
その日、私は閻魔大王の殿へ走り、すべての冥府通貨を差し出した。
「守護獣契約を買います」
閻魔大王は私を見下ろした。
「誰を守る」
「神谷悠真です」
「血縁ではない」
「私の家族です」
私は顔を上げ、一語ずつはっきりと言った。
「私を供養してくれた、たった一人の人です」
大殿は長い間、静まり返っていた。
やがて閻魔大王は手を上げ、契約書に印を押した。
「契約成立」
次の瞬間、私の魂は白い光に包まれた。
骨が軽くなる。
耳が研ぎ澄まされる。
風の匂い。
土の匂い。
水の匂い。
遠くに漂う亡者の気配。
そのすべてが、鼻先に流れ込んできた。
私は足元を見た。
自分は、一匹の白狐になっていた。
全身は雪のように白い。
瞳は琥珀色。
尾はふわりと大きく、爪は軽やかだった。
閻魔大王が言った。
「白狐形態。足が速く、嗅覚に優れ、偵察、隠密、魔除けを得意とする。現世に留まれる期間は一年」
私は顔を上げた。
「一年あれば十分です」
「行け」
6
感染爆発が起きたのは、十一月十五日だった。
最初に異変が起きたのは、東京だった。
新宿駅で、一人の男が突然発狂し、隣にいた会社員に飛びかかった。
続いて、渋谷、池袋、品川、上野でも感染者が現れた。
高熱。
失語。
黒く濁る白目。
そして最後には、生きている人間に噛みつき始める。
ニュースは三十分ほど流れたきり、すべて途絶えた。
電車は止まった。
高速道路は封鎖された。
コンビニは空になった。
病院は陥落した。
現世へ戻った私が最初に向かったのは、佐倉家だった。
私は、あの人たちに愛されていなかった。
それでも、そこは私が十九年間暮らした家だった。
ひと目だけ見たかった。
ひと目だけ。
もし、まだ生きていたら。
もし、本当に後悔していたら。
もしかしたら。
私はマンションの下で足を止めた。
血の匂いが、階段の奥から流れてきた。
エレベーターは三階で止まっていた。
中から、爪が鉄板を引っかく音がした。
階段には、血の足跡がいくつも残っていた。
家の扉をくぐった時、リビングはすでに地獄だった。
姉の梨奈が、母の上に馬乗りになっていた。
母の腕に噛みついていた。
母はまだ死んでいなかった。
半身をローテーブルの下に挟まれ、右手は白い骨が見えるほど食い破られていた。
「梨奈!私よ!お母さんよ!」
母は泣き叫んでいた。
梨奈には聞こえていなかった。
片目はすでに白く濁り、口元から黒い血を垂らしていた。
喉の奥から、獣のような音を漏らしていた。
父はキッチンの入口に倒れていた。
腹が裂け、床一面に血が広がっていた。
目は開いていた。
唇はまだ動いていた。
けれど、もう声は出ていなかった。
翔太はリビングにいなかった。
私は匂いをたどり、ベランダへ回った。
翔太はベランダの隅に縮こまっていた。
膝を抱え、震えていた。
ガラス扉の向こうでは、三体の感染者が扉を叩いていた。
ベランダの扉は、血まみれの手形で埋まっていた。
翔太は私を見た瞬間、目を輝かせた。
「姉ちゃん!」
彼は泣きながら、ガラス扉に飛びついた。
「姉ちゃんだろ?狐になったんだろ?助けてよ!」
私はベランダの外に立ち、静かに彼を見ていた。
翔太は鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、震える声で叫んだ。
「姉ちゃん、悪かった!早く中に入ってきて!感染者を殺せるんだろ?戻ってきたんだろ?早く助けてよ!」
私は動かなかった。
幼い頃、翔太が私の貯金箱を壊したことを思い出した。
半年かけて貯めた金を、ゲームカードに使われた。
母はそれを知っても、こう言った。
「お姉ちゃんなんだから、弟に譲ってあげなさい」
中学の頃、翔太がクラスメイトの前で言ったことを思い出した。
「うちの二番目の姉ちゃん、陰気で気持ち悪いんだよ」
みんなが笑った。
私が死んだ後、翔太の夢に出た時のことも思い出した。
彼はへらへら笑って言った。
「そんなにすごいなら、最新のスマホに変えてよ」
翔太は、私を姉と呼んだことがなかった。
今、この瞬間までは。
「姉ちゃん!聞こえないのかよ!助けて!」
彼はガラスを叩いた。
私は背を向けた。
翔太の声が、すぐに変わった。
「佐倉澪!お前、逃げる気かよ!この人でなし!見殺しにするのか!」
私は振り向かなかった。
背後で、ガラスが割れる音がした。
続いて、翔太の悲鳴が聞こえた。
鋭く、短い悲鳴。
それはすぐに途切れた。
私は廊下の端に立ち、その声が消えていくのを聞いていた。
思ったほど、胸はすかなかった。
悲しくもなかった。
ただ、静かだった。
今日から、佐倉家はもう私と関係がない。
7
私は東京を離れ、長野へ向かった。
神谷悠真は山にいる。
東京からは遠い。
私は一晩中、走り続けた。
白狐の体は、思っていたよりずっと速かった。
風が耳元を抜けていき、都市の廃墟が少しずつ背後へ流れていった。
夜が明ける頃、私はようやくあの山村小学校に着いた。
学校は半分山の斜面に建っていた。
古い平屋の校舎が数棟。
小さな運動場。
その脇には、銀杏の木が何本か植えられていた。
悠真さんの手紙で読んだことがある場所だった。
秋になると銀杏の葉が運動場いっぱいに落ち、子どもたちがそれを教科書にはさんで持ち帰るのだと、彼は書いていた。
今、その運動場を七、八体の感染者がさまよっていた。
一体は、地下倉庫の扉に体当たりしていた。
扉の向こうから、子どもたちの押し殺した泣き声が聞こえた。
私は窓から飛び込んだ。
最初の感染者の喉を、爪で切り裂いた。
黒い血が壁に飛び散った。
二体目。
三体目。
四体目。
すべての感染者を片づけ終えた頃、空の端が白くなっていた。
地下倉庫の扉が、内側から慎重に開いた。
神谷悠真が立っていた。
手には包丁。
背後には、十数人の子どもたちをかばっていた。
彼はひどく痩せていた。
目の下には青黒い影があり、服には血と灰がついていた。
けれど、その目は夢で見た時と同じように優しかった。
私は彼の前に跳んだ。
「悠真さん」
彼は固まった。
「澪?」
「うん。私」
私は彼を見上げた。
「約束したでしょう。戻って、あなたを守るって」
彼の目が、すぐに赤くなった。
彼はしゃがみ込み、私を抱きしめた。
腕が震えていた。
耳元で、彼の声が聞こえた。
「来てくれたんだね」
その夜、私は学校の周囲にいた感染者をすべて排除した。
翌日、悠真さんは運動場の隅に小さな穴を掘り、私に線香をあげようとした。
「だめ。煙で感染者が寄ってくる」
彼は少し驚き、そして寂しそうな顔をした。
「でも、冥府でお腹が空くんじゃないの?」
「空かない」
「嘘だ」
彼は私を見下ろした。
「手紙でも、君はいつも「大丈夫です」って書いていた」
私は何も言えなくなった。
それから、私と悠真さんは山に避難所を作った。
私は外へ出て偵察し、食料を探し、感染者を片づけた。
彼は子どもたちの世話をし、生存者を落ち着かせ、柵を修理し、物資を分けた。
近くの村から、少しずつ人が集まってきた。
米を持ってくる人がいた。
薬を持ってくる人がいた。
種や道具を持ってくる人もいた。
山村小学校は、臨時の避難所になった。
夜、子どもたちは教室で眠った。
大人たちは交代で見張りに立った。
悠真さんは昼間、みんなと一緒に柵を直した。
夜になると、それでも子どもたちに勉強を教えた。
「世界は、逃げることだけで終わってはいけないんです。子どもたちはこれから大きくなる。文字も、数字も、物語も、春も、未来も、知らなければいけない」
私は教卓のそばに伏せ、彼が子どもたちに授業をするのを聞いていた。
窓の外には山の風。
遠くでは、感染者の低いうなり声。
それでも教室の中には明かりがあった。
子どもたちの小さな朗読の声があった。
悠真さんの、優しい声があった。
その時、私はようやく思った。
私は自分が役に立つ人間だと証明するために、現世へ戻ってきたのではない。
私を本当に大切にしてくれる人を守るために、戻ってきたのだ。
8
半年後、感染は少しずつ弱まり始めた。
完全に消えたわけではない。
けれど、生き残った人たちはようやく対処する方法を見つけ始めていた。
避難所はますます大きくなった。
悠真さんはみんなを率いて、近くの道を片づけた。
井戸を直した。
荒れた畑を耕した。
古い校舎も、少しずつ使えるように整えた。
いつか落ち着いたら、本当の学校を作りたいと、彼は言った。
「図書室があって、運動場があって、音楽室もある学校です。大きな美術室も作りたいですね」
私は彼の足元に伏せ、気のない声で聞いた。
「山の中に、そんなお金があるの?」
彼は笑った。
「ゆっくりでいいんです。人は生きてさえいれば、ゆっくり進めます」
私は彼に言わなかった。
一年の期限が近づいていることを。
守護獣契約が続くのは一年だけ。
それが冥府の決まりだった。
死者は、長く人間の世に留まってはいけない。
けれど、悠真さんは気づいていた。
その夜、彼は運動場の端に座り、満天の星を見上げていた。
そして、静かに聞いた。
「澪。そろそろ戻るんですね」
私は答えなかった。
彼は手を伸ばし、私の頭を撫でた。
今度は触れた。
私は守護獣の体を持っていたから。
彼の手は温かかった。
「また会えますか」
「わからない」
彼は長い間、黙っていた。
それから言った。
「それでも、僕は供養を続けます」
「私にばかりお金を使わないで」
「わかっています」
「わかってない」
私は顔を上げて彼を見た。
「悠真さんは、いつも自分の最後のひとつまで人に渡してしまう」
悠真さんは小さく笑った。
「澪も同じでしょう」
私は言葉を失った。
「澪。君はもう、たくさんの人を救いました。君は役立たずなんかじゃない。最初から、そんな子じゃなかった」
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
別れの日、山にはまだ雪が降っていなかった。
運動場には銀杏の葉が一面に落ちていた。
子どもたちは、私がいなくなることを知らなかった。
白狐が山へ見回りに行くのだと思っていた。
みんなで私を囲み、頭を撫で、こっそりおにぎりを持たせてくれた。
悠真さんは校門の前に立っていた。
泣いてはいなかった。
ただ、目が赤かった。
「澪」
「うん」
「次に会う時、僕のことを覚えていますか」
「覚えてる」
「もし、君が生まれ変わっていたら?」
「その時は、もう一度、私から会いに行く」
彼はしゃがみ込み、私を抱きしめた。
「わかりました。君が人でも、鬼でも、白狐でも。僕は必ず見つけます」
私の体が薄くなっていった。
風が尾をすり抜けた。
爪の下の土が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に、悠真さんの声が聞こえた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
私は目を閉じた。
そして、冥府へ戻った。
9
冥府へ戻ってから、私の暮らしはずいぶんよくなった。
悠真さんは毎月、変わらず供養を続けてくれた。
多くはない。
けれど、安定していた。
花が一束。
線香が一本。
小さなおにぎりがひとつ。
時々、子どもたちが折った千羽鶴の一部も届いた。
彼は、学校が再開したと書いてくれた。
みんなで学校に名前をつけたとも書いてくれた。
澪の森学園。
私は冥府で、小さな家を買った。
もう飢えなくてよかった。
他人の供養からこぼれた小銭を拾う必要もなかった。
葵が遊びに来た時、私の家の周りを三周も回った。
「やるじゃん、佐倉澪。いい暮らししてるね」
私は彼女にお茶を出した。
「葵が夢に入る方法を教えてくれたおかげだよ」
葵は笑った。
「神谷悠真に出会えたおかげでしょ」
そうだ。
私は、彼に出会えた。
そのおかげだった。
このまま静かな日々が続くのだと思っていた。
けれどある日、冥府の役人が私の家の戸を叩いた。
「佐倉澪。あなたの家族が来ています」
私の手の中で、茶碗が止まった。
「誰が?」
「佐倉浩二、佐倉真理子、佐倉梨奈、佐倉翔太。全員、死亡しました」
私はしばらく黙っていた。
「どこにいるの」
「閻魔殿です」
私が閻魔殿へ着くと、そこには見覚えのある四人がいた。
けれど、どこか知らない人たちのようでもあった。
父は片腕を失っていた。
母は全身血まみれで、顔の半分を食いちぎられていた。
姉は首が曲がり、眼球は濁っていた。
弟はもっとひどかった。
頭の半分がなく、腹から腸が垂れていた。
それでも、彼らが私を見た時、顔に浮かんだのは後悔ではなかった。
怒りだった。
母が最初に飛びかかってきた。
「佐倉澪!私はあなたを十九年も育てたのよ!」
私はその場に立ったまま、母を見ていた。
「あんた、白狐になって戻れたんでしょう?どうして私たちを助けなかったの?よその男を守るくらいなら、自分の家族を守りなさいよ!私はあなたの母親なのよ!」
父も怒鳴った。
「澪!お前には良心がないのか!俺たちはお前を十九年間養ったんだぞ!」
姉は曲がった首を押さえながら、甲高い声で叫んだ。
「私がどんなに苦しんで死んだかわかる?あなたが戻って助けてくれていたら、私は死ななかったのに!」
翔太は一番後ろで、一番大きな声で泣いていた。
「姉ちゃん!俺、あの時呼んだだろ!聞こえてたんだろ!なんで助けてくれなかったんだよ!わざとだろ!」
私は静かに彼らを見ていた。
全員が怒鳴り終えるのを待ってから、口を開いた。
「機会はあげた」
母が固まった。
「何の機会よ」
「お母さんの夢に出た」
私は母を見た。
「感染が起きると伝えた。守護獣契約のことも伝えた。私を供養してほしいと頼んだ。お母さんは言った。生きている時も面倒だったのに、死んでからまで面倒をかけるのかって。本当に親孝行したいなら、黙って死んでいろって」
母の顔がこわばった。
私は父を見た。
「お父さんの夢にも出た。お父さんは言った。翔太の塾代がかかる。梨奈にもお金がいる。私はもう死んだんだから、生きている人間のことに口を出すなって。もし本当に死ぬことになったら、それは運が悪かったということだって」
父は目をそらした。
私は姉を見た。
「私が死んで三日目、お姉ちゃんはお母さんのインスタの投稿にいいねを押した。コメントもしてたよね。「やっと毎日暗い顔を見ることがなくなった」って」
姉は口を開いたが、何も言えなかった。
最後に、私は翔太を見た。
「翔太の夢にも行った。あなたは私に、最新のスマホを出してみろって言った」
翔太の残った半分の顔が、真っ赤になった。
「そんなの、昔のことだろ!」
私は笑った。
「昔?あなたたちが死んで、まだ半年しか経っていないのに?」
母の声が急に変わった。
目を潤ませ、柔らかい声を出した。
「澪。お母さんが悪かったわ。ねえ、私たちはもうみんな死んだの。冥府で家族がまた一緒になれたんだから、それでいいじゃない。あなたには家がある。お金もある。神谷悠真が供養してくれている。私たちは来たばかりで、何もないのよ。少しくらい分けてくれてもいいでしょう?」
姉もすぐに近づいてきた。
「そうよ、澪。私はお姉ちゃんなんだから。あなたが家に住んで、私たちが亡者宿舎なんて、ひどすぎるでしょう?」
翔太は泣きながら叫んだ。
「姉ちゃん、俺は唯一の弟だろ!助けてくれよ!あの家、部屋余ってるんだろ?一部屋くらい俺にくれてもいいじゃん!」
私は彼らを見た。
父。
母。
姉。
弟。
私の家族。
血のつながった家族。
けれど、彼らは一度も私を家族として扱わなかった。
生きていた時、私は道具だった。
死んでからは、面倒だった。
そして今、冥府へ来た彼らにとって、私は金を引き出せる財布になった。
「嫌です」
母が目を見開いた。
「今、何て言ったの?」
「嫌だと言ったの」
私は一語ずつ、はっきり告げた。
「私のお金は、神谷悠真が私に供養してくれたものです。一円一円、彼が自分の生活を削って捧げてくれたものです。彼は山で子どもたちを守り、生存者を支え、学校を建て直しています。彼が私にくれた供養は、あなたたちが使い潰すためのものではありません」
父の顔が怒りで歪んだ。
「佐倉澪!この親不孝者が!必ず報いを受けるぞ!」
私は、彼らの壊れた体を見つめた。
そして静かに笑った。
「報い?あなたたちが今ここに立っていることが、もう報いでしょう」
母の体がこわばった。
「私を供養しなかったことが報い。感染者に食い殺されたことも報い」
「お母さんがお姉ちゃんに噛み殺されたことも報い。翔太がベランダで助けを呼んでも誰にも助けてもらえなかったことも、報いです」
「あなたたちは生きていた時、私に温かいご飯ひとつくれなかった。死んだあとも、私から一円だって奪えると思わないで」
母が悲鳴のように叫んだ。
「私はあなたの母親よ!」
私は母を見た。
「黙って死んでいることが、私にできるいちばんの親孝行だと言ったあの日から、あなたはもう私の母親ではありません」
私は背を向けた。
背後から、怒鳴り声と泣き声と哀願が追いかけてきた。
「澪!戻ってきなさい!」
「姉ちゃん!助けてよ!」
「佐倉澪!恩知らず!」
私は振り返らなかった。
冥府の役人が、彼らを引きずっていった。
父はまだ叫んでいた。
「俺は鬼になってでも、お前を許さない!」
役人が冷たく言った。
「あなたは、もう鬼です」
私は自分の小さな家へ戻り、戸を閉めた。
外はようやく静かになった。
その後のことは、もう多く語ることもない。
神谷悠真は山に、澪の森学園という学校を建てた。
それは、とても勇敢だった一人の少女を記念するための学校だと、彼は言った。
私は冥府で、生まれ変わりの日を待っている。
閻魔大王は、現世を守った功徳があるから、次は良い生を得られると言った。
「神谷悠真のそばに、生まれ変わることはできますか」
閻魔大王は、長い間、私を見ていた。
そして最後に言った。
「できる」
次の人生がどんなものになるのか、私にはわからない。
もう一度会った時、私が彼を覚えているのかもわからない。
けれど、ひとつだけ知っている。
私を待ってくれた人がいる。
私が人でも、鬼でも、白狐でも。
彼はきっと、私を待ってくれる。
それだけで十分だった。




