第1話 帰る町
---これは、何者かになる物語ではない。
何者にもなれなかった人々が、それでも生きてきた時間を拾い集める物語である。---
海の匂いは、駅のホームに降りた瞬間からした。
正確には、海そのものの匂いではなかった。錆びた鉄柵、雨に濡れたコンクリート、古い魚箱、誰かが吸い殻を踏み消した跡。そういうものが混ざった、潮見町の匂いだった。
瀬戸遥は、小さなキャリーケースを片手に改札を抜けた。
十七年ぶり、と言うほどではない。盆にも正月にも、何度か帰ってきてはいた。けれど、それは帰省というより、確認に近かった。母がまだ写真館を開けていること。祖父がまだ庭の椿を切りすぎていること。港の向こうのクレーンが、一本ずつ減っていること。
今回の帰郷には、確認するものがなかった。
母は死んだ。
駅前のロータリーには、昔あったはずの菓子屋がなくなっていた。代わりに、白い看板の調剤薬局が建っている。遥はその前で足を止めた。菓子屋の二階には同級生の真紀が住んでいた。夏休み、二人でラムネを飲みながら、いつか東京へ行こうと話した。
真紀は東京へは行かなかった。
遥だけが行った。
そして、戻ってきた。
「遥」
声のした方を向くと、三崎透が立っていた。
紺色の作業着に、町役場の名前が入ったジャンパー。昔より少し痩せたように見えた。けれど、目元は変わっていない。何かを言う前に相手の表情を確かめる、慎重な目だった。
「迎え、頼んでないけど」
「啓造さんから電話があった」
「おじいちゃんが?」
「うん。三回。駅に迎えに行けって。二回目からは、誰を迎えに行くのか忘れてたけど」
透はそう言って、少しだけ笑った。
遥も笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「葬儀屋には?」
「叔母さんが行ってる。俺は、とりあえず遥を家まで送れって」
「役場は?」
「今日は休みを取った」
「そこまでしなくていいのに」
「そういうわけにもいかないだろ」
そういうわけにもいかない。
この町の人間は、昔からよくそう言った。理由を説明する代わりに、空気そのものを指差すように。
遥はキャリーケースの持ち手を握り直した。
「母さん、最後まで店を開けてたの?」
「うん」
「客なんて、もういなかったでしょ」
「いたよ」
「誰が」
「遺影の写真を撮りに来る人とか」
透の声は穏やかだった。
遥は返事をしなかった。
写真館は、駅から車で十分ほどの場所にある。商店街の端、坂道に差しかかる手前。遥が子供の頃は、七五三や入学式のたびに家族連れが来ていた。父が受付をして、母がカメラを構え、祖父が頼まれてもいないのに子供の髪を直した。
あの頃の写真館には、いつも人がいた。
今はどうだろう。
透の軽トラックに乗ると、シートからかすかに土の匂いがした。ダッシュボードには、町内会の祭りのチラシが挟まっている。
「今年も祭り、やるんだ」
「一応ね」
「人、集まるの?」
「集まらないけど、やめるって言う人もいない」
「この町らしいね」
「そうだな」
車は駅前を抜け、港沿いの道に出た。
海は灰色だった。
遥の記憶の中の海は、もっと青かった気がする。あるいは、子供だったからそう見えただけかもしれない。岸壁には古い漁船が三隻だけ繋がれていた。かつて造船所だった敷地には、錆びた鉄骨が残っている。
父は、あの海でいなくなった。
十年前の冬。
漁船の転覆事故。
同乗していた二人は助かり、父だけが見つからなかった。
母は泣かなかった。
少なくとも、遥の前では。
「透」
「うん」
「父さんのこと、母さんは最後まで何か言ってた?」
透の手が、ハンドルの上でわずかに止まった。
「何かって?」
「何でも」
「俺には、何も」
「そう」
嘘だ、と思った。
理由はなかった。
ただ、透は昔から嘘をつくとき、言葉を選びすぎる。
写真館の前に着くと、看板はまだ出ていた。
瀬戸写真館。
白地に黒い文字。端が少し欠けている。ショーウィンドウには、色褪せた成人式の写真と、古い家族写真が飾られていた。その中の一枚に、遥は幼い自分を見つけた。
父と母の間に立っている。
赤いワンピースを着て、泣きそうな顔をしている。
その写真を撮ったのは、誰だったのだろう。
透が車を降り、荷物を下ろした。
「俺、夕方また来る」
「いいよ。忙しいでしょ」
「忙しくない」
「町役場なのに?」
「町に人が減ると、役場の仕事も減るんだよ」
冗談のように言ったが、透は笑わなかった。
遥は写真館の戸に手をかけた。磨りガラスの向こうは暗い。鍵は開いていた。
中に入ると、古い薬品の匂いがした。
暗室。
現像液。
母の手。
赤いランプ。
忘れていたものが、胸の奥で一度に目を覚ました。
「ただいま」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
店の奥から、床板の軋む音がした。
祖父が出てきた。毛糸のベストを着て、片方だけ違う靴下を履いている。顔は少し痩せたが、背筋はまだ妙に真っ直ぐだった。
「澄子」
祖父は遥を見て、そう言った。
遥は息を止めた。
母の名前だった。
「おじいちゃん、遥だよ」
祖父は瞬きをした。
それから、困ったように笑った。
「ああ、遥か」
「うん」
「大きくなったな」
「もう三十二だよ」
「そうか」
祖父はゆっくりと店内を見回した。
「澄子は?」
遥は答えられなかった。
祖父の中で、母はまだどこかにいる。暗室か、台所か、二階の物干し場か。少なくとも、棺の中ではない。
「母さんは、今、叔母さんと一緒」
「そうか」
祖父は安心したように頷いた。
「なら、写真を焼かんとな」
「写真?」
「澄子が頼んどった」
「何を?」
「帰ってきたら、見せるって」
祖父はそう言って、奥の暗室を指差した。
遥は、暗室の扉を見た。
黒い布の隙間から、かすかに赤い光が漏れているような気がした。もちろん、電気などついているはずがない。
母は死んだ。
写真館は閉める。
葬儀が終われば、東京へ戻る。
そのはずだった。
けれど暗室の扉の前に立ったとき、遥はなぜか、もう戻れないのだと思った。
海鳴りは聞こえなかった。
ただ、古い家のどこかで、フィルムケースが小さく転がる音がした。
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