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第1話完結

「おまえは何歳になった」


少年はまっすぐに答えた。


「八歳になりました」


信長は鼻で笑った。


「大変だのお、お主も。親父たちに利用されよって」


その言葉に、少年――竹千代は一瞬だけ視線を落とした。


だが、すぐに顔を上げる。


「兄者がいつも世話してくださるゆえ、私は嬉しゅうございます。腹が減った時も熱田の杜にひそかに入れてくださる食べ物。幾度助かったか分かりませぬ」


信長はわずかに目を細めた。


「このわしを“兄者”と慕うてくれるのは、お主だけじゃ」


吐き捨てるように言う。


「わしはな、皆から嫌われとる」


竹千代は言葉に詰まり、困ったように黙り込んだ。


その様子を見て、信長はふっと笑う。


「まあよい」


そして、少しだけ声を落とした。


「わしらの織田家と、そなたの松平家は犬猿の仲じゃ」


「いずれ――戦で刃を交えることになるやもしれぬ」


竹千代の表情が強ばる。


信長は続けた。


「だが、覚えておけ」


その瞳は、年齢に似合わぬほど冷静で、深かった。


「わしと戦っても――勝てぬ」


竹千代は小さく首を振った。


「……兄者と戦いとうござりません」


信長は鼻で笑う。


「ならば、お主の敵は今川じゃ」


一瞬の沈黙。


「いずれ、お主は今川の人質となろう」


「だがな――」


信長はゆっくりと竹千代に背を向けた。


「いつか、松平を取り戻せ」


「そして、わしと――この世を変えるのじゃ」


振り返らぬまま、言い放つ。


「この腐りきった世をな」


信長は馬にまたがると、そのまま去っていった。


残された竹千代は、ただその背中を見つめていた。


――あの方は、きっと。


父のもとへ、わたしを返してくださる。


その思いを、幼い胸に深く刻み込んだ。


---


それから、八年の月日が流れた。


---


「今川義元が動きました」


急使の声が、静寂を裂く。


「織田家を潰すべく、こちらへ向かっております。兵は……二万以上」


信長は、ゆっくりと顔を上げた。


「……義元本人はおるのか」


「はっ。間違いなく」


わずかな間。


信長の口元が、ゆっくりと歪む。


「そうか――義元がおるか」


その目に、鈍い光が宿った。


---


――数か月前。


熱田の社。


風に揺れる木々のざわめきの中、二人の男が向かい合っていた。


「兄者。お変わりなく」


松平元康――後の徳川家康は、静かに頭を下げる。


信長は豪快に笑った。


「お主も大きくなったのお」


「わしは元気すぎて、うつけと呼ばれておるわ」


元康も、わずかに笑みを浮かべる。


「兄者は、変わりませぬな」


不思議なことに、八年の空白は感じられなかった。


信長はふと思いついたように言う。


「のう、相撲を取らぬか」


「……は?」


元康は思わず聞き返した。


「昔、ようやったではないか」


信長は楽しげに続ける。


「いつもお主の負けであったがな」


元康は静かに応じた。


「今は違います。義元殿のもとで鍛えられましたゆえ」


信長はニヤリと笑う。


「そうか。ならば面白い」


そして、軽く言った。


「ただの相撲ではつまらん」


一拍置いて。


「お主が勝ったら――わしはすべての砦から撤退してやる」


元康の目が見開かれる。


「……本当でございますか」


「ああ」


信長はあっさりと答えた。


「わしが嘘をついたことがあるか?」


そして、わずかに声を低くする。


「その代わり――わしが勝ったら」


元康の目をまっすぐに見据えた。


「義元殿を、織田へ向かわせよ」


一瞬、空気が張り詰めた。


「……正気でございますか」


元康の声は低い。


「大軍で攻められれば、兄者の国など一たまりもございませぬ」


信長は肩をすくめた。


「さあ、どうかな」


---


その瞬間。


元康の脳裏に、幼き日の言葉が蘇る。


――わしには勝てぬ。


――おまえの敵は今川よ。


胸の奥が、わずかに揺れた。


――この男は、本当に。


今川をも倒すつもりなのか。


---


「始めるぞ」


信長の声で、我に返る。


二人は組み合った。


激しい衝突。


土が舞い、呼吸が荒くなる。


「……強くなったな、元康」


信長は笑う。


「わしは負けそうじゃ」


だが、その声には余裕があった。


元康は組み合いながら、考える。


――もし、織田が退けば。


今川が勝つ。


だが、それは――再び従属するだけ。


――では、もし。


今川が敗れれば。


その先は――。


「一本!」


声が響いた。


元康は、はっとする。


思考に囚われ、体が止まっていた。


二本目も、同じだった。


勝ったのは、信長。


信長は息を整えながら笑った。


「無理もない」


「相撲の最中に、どちらが得かなど考えても答えは出ぬであろう」


そして、愉快そうに笑った。


「はははっ」


その笑いの奥にあるものを、元康は見抜けなかった。


ただひとつだけ、確かに感じていた。


――この男は、何かを見ている。


まだ誰も見ていない未来を。


「兄者……義元様を出陣させても、勝機はあるのですか」


松平元康は、静かに問うた。


信長は、ゆっくりと顔を上げる。


そして――


ニヤリと笑った。


「お主次第じゃな……松平元康」


その言葉に、空気がわずかに揺れる。


「お主とわしは敵同士」


信長は一歩、近づいた。


「こうして二人で会うておること自体――あり得ぬことよ」


一瞬の沈黙。


「……その油断を突く」


元康は、顔を上げられないまま立ち尽くす。


信長は続けた。


「何万おろうと関係ない」


「大将の首を取れば、それで終いじゃ」


淡々とした声だった。


「だがな――」


わずかに間を置く。


「それには、大将ができるだけ近くにおること」


「そして――正確な位置が要る」


その言葉は、風のように静かだった。


元康は何も答えなかった。


いや、答えられなかった。


うつむいたまま、何かを選ぼうとしている。


だが――まだ選べない。


信長は、その様子を一瞥すると、興味を失ったように言った。


「……わしが言うべきことは、これだけじゃ」


それ以上は何も言わない。


振り返りもせず、馬にまたがる。


――あの日と同じように。


そして、そのまま去っていった。


残された元康は、しばらく動かなかった。


ただ、地面を見つめていた。


「元康め……」


今川義元は、輿の中で小さく呟いた。


「わしが出てこねば、このままでは城が奪われるなどと……」


口元が歪む。


「大袈裟なことを申す」


わずかな沈黙の後、ふっと笑う。


「まあよい」


「見ておれ、信長」


声が低くなる。


「わしの恐ろしさを、思い知らせてやる」


輿はゆっくりと進んでいた。


その先にあるものを、誰も知らぬまま。


今川義元が最初に布陣したのは、沓掛の城であった。


その日のうちに、軍議が開かれる。


だが――


それは戦略を練る場ではなかった。


持ち場の確認。


隊の配置。


それだけであった。


誰も疑わない。


疑う必要すらなかった。


兵は二万を超える。


対する織田は、遠く及ばぬ。


勝敗は、すでに決していると――


誰もがそう思っていた。


翌朝。


松平元康より、報が届く。


大高城への兵糧搬入、成る。


義元はそれを聞くと、声を上げて笑った。


「わっははは……!」


その笑いは、広間に響き渡る。


誰もがそれに続き、笑った。


勝利を疑う者など、ひとりとしていなかった。


ただ――


その笑いの届かぬ場所で、


静かに動き出しているものがあった。


今川義元の本陣では、軍議が開かれていた。


 大軍を率いる主の前に、諸将が整然と並ぶ。


 駿河、遠江、三河――各地から集められた万を越える兵がそこにはいた。


 その空気は、勝利を疑わぬものだった。


 織田など、もはや敵ではない。


 誰もがそう思っていた。


 一方、清洲城。


 織田家でもまた、軍議が開かれていた。


 だが、その空気は対照的だった。


 重苦しい。


 沈黙と焦燥が入り混じり、誰もが口を開くことをためらっている。


 やがて、一人が口火を切った。


「籠城すべきにございます」


 それを皮切りに、次々と同じ意見が上がる。


「この兵力差では、野戦は無謀」


「城に籠もり、時を待つべきかと」


 誰もが、理解していた。


 戦えば負ける。


 それは、もはや疑いようのない現実だった。


 だが――


 その中心に座る男だけが、違っていた。


 織田信長。


 彼は、黙ってそのやり取りを聞いていた。


 まるで、他人事のように。


「籠もるか」


 ぽつりと、信長が言った。


 その声は低く、静かだった。


「籠もって、どうする」


 誰も答えない。


 答えなど、分かっていたからだ。


「死を待つだけじゃ」


 その一言で、場の空気が凍りついた。


 信長は、ゆっくりと立ち上がった。


「城とは何じゃ」


 誰に向けたものでもない問い。


「守るためのものか」


 一拍。


「――違う」


 信長の目が、鋭く光る。


「動かぬ者が、死ぬのじゃ」


 家臣たちは顔を見合わせた。


 理解できない。


 いや、理解したくなかった。


 すでに、織田家は動いていた。


 丸根砦。


 鷲津砦。


 善照寺砦。


 中島砦。


 丹下砦。


 各地に築かれた砦は、大高城を包囲する形となっていた。


 だがそれは――


 結果として、今川義元を呼び寄せることとなる。


 万を超える大軍。


 それが、この尾張へ向かっている。


 誰の目にも明らかだった。


「なぜ、このようなことを……」


 誰かが呟いた。


 その声は、かすれていた。


 砦を築き、敵を誘う。


 それは策ではない。


 自ら滅びを呼び込む行為だ。


 家臣たちは右往左往していた。


 不満。


 不安。


 恐怖。


 それらが、城の中に渦巻いていた。


 だが――


 その中心にいる信長だけが、静かだった。


 まるで、すべてを見通しているかのように。


 あるいは――


 すでに勝敗が決まっていることを知っているかのように。


 織田家の滅亡。


 それは、誰の目にも避けられぬ未来に見えた。


 ただ一人を除いて。


結論が出ぬまま夜が更けていった。


深夜、信長は、静かに舞っていた。


敦盛――。


その調べは、戦の前とは思えぬほど、どこか儚く、そして澄んでいた。


「人間五十年、下天のうちをくらぶれば――」


声は低く、しかしよく通った。


周囲に控える者たちは、誰一人として言葉を発することができなかった。


これは単なる舞ではない。


信長という男の、生き様そのものだった。


やがて舞は終わる。


信長は、何事もなかったかのように歩みを進め、


熱田神社へと向かった。


境内には、重たい空気が満ちていた。


ふと、信長は一人奥の部屋に入り紙切れを握りしめて出てきた。


信長はフッと笑う。



空はどこまでも低く、雲は不穏にうねり、今にも崩れ落ちそうである。


信長は立ち止まり、ふと空を仰いだ。


――風が違う。


それは、肌で感じる確かな違和感だった。


ただの風ではない。


流れが変わっている。


「……神も、われに味方したか」


信長は小さく呟いた。


その声に迷いはなかった。


確信であった。


その時だった。


遠くに、細く立ち上る煙が見えた。


すぐさま一人の兵が駆け寄る。


「殿! 大高城に兵糧が運び込まれたようにございます!」


信長の目が、すっと細まる。


次の瞬間、彼はすでに立ち上がっていた。


迷いは一切ない。


「出陣じゃ!」


その声は鋭く、空気を裂いた。


「われに従え!」


信長は馬にまたがると、振り返ることなく駆け出した。


まるで、すべてを見通しているかのように。


家臣たちは一瞬、息を呑み――


そして、慌ててその背を追った。


その時。


ぽつり、と。


冷たい雨粒が地に落ちた。


次の瞬間には、空が裂けるように雨が降り出す。


土を叩き、鎧を打ち、視界を奪う激しい雨。


だが、信長は止まらなかった。


むしろ――


その口元には、不気味な笑みが浮かんでいた。


「来たか……」


誰に向けた言葉でもない。


だが、それは明らかに“何か”を迎えた声だった。


鞭が鳴る。


馬が応える。


信長は進路を東へと変えた。


静かに。


だが、誰よりも速く。


雨の帳の中へと、溶けるように消えていく。


やがて、その背は霞み――


戦の気配だけが、そこに残った。


そして信長は、一度――


手綱を引いた。


大雨が、天地を叩いていた。


視界は白く煙り、地も空も溶け合ったかのようである。


その中で、信長は――不意に、馬を止めた。


後続の兵たちも次々と足を止める。


誰もが息を潜めた。


「元康…」信長はなぜか元康の名を小さく呟いた。


雨音だけが世界を満たしている。


信長は前方を見据えたまま、低く言った。


「この向こうに、義元の陣があるはずじゃ」


その声は静かで、しかし確信に満ちていた。


「雨が上がったら突撃する。狙うは――義元の首一つ」


誰一人、異を唱える者はいない。


ただ、時を待った。


雨はやがて、勢いを失っていく。


叩きつけるようだった音が、やがて細くなり――


ふっと、止んだ。


その瞬間だった。


信長の目が、わずかに光った。


「出撃じゃ!」


声は雷のように響いた。


「おお!」


応じる声が重なり、軍勢が一斉に動き出す。


信長は迷いなく丘を越えた。


まるで、そこに敵がいると“見えている”かのように。


次の瞬間、視界が開ける。


そこには――


今川義元の本陣があった。


「奇襲です!」


誰かが叫んだ。


しかし、その声はすでに遅かった。


織田軍は濁流のごとく天幕へとなだれ込み、布をなぎ倒し、陣中を切り裂いていく。


統制は一瞬で崩れた。


何が起きたのか、理解する間すら与えられない。


中央へ――


ただ一直線に進む。


その時、声が上がった。


「義元はここぞ!」


その一言で、すべてが決まった。


一斉に刃が閃く。


義元の周囲にいた者たちは、抵抗する暇もなく斬り伏せられた。


混乱の中で、義元は孤立した。


そして――


討たれた。


「義元の首、討ち取ったぞ!」


歓声が爆発した。


それは、嵐の後の静寂を破る、勝利の咆哮だった。


五千を数えた義元本陣の軍は、何が起きたのかを理解することすらできぬまま、崩れ去った。


戦は、あまりにもあっけなく終わった。


数刻の後、その報は各地へと伝わった。


だが――


松平元康は、大高城から動かなかった。


夜。


彼は岡崎城へと戻っていた。


多くのものが涙と共に出迎えた。


祖父と父が命を賭して守り抜いた城。


その門をくぐったとき、胸の奥に言いようのない感情が込み上げた。


「……兄者は」


ぽつりと呟く。


「わがあるじ、今川義元様の首を……本当に取ってしまわれたか」


幼き日々が、脳裏によみがえる。


今川家のもとで過ごした歳月。


人質としての立場。


その間に、父はこの世を去った。


だが今、彼はここにいる。


岡崎城に。


帰るべき場所に。


今川家への恩義は、消えてはいない。


「……ならば」


元康は、静かに自問した。


「此度の戦……わしは、兄者の策に乗った」


義元をおびき寄せるための布石。


それが、結果として自らの帰還をもたらした。


「……この城に、帰りたかったからではないのか」


答えは出なかった。


ただ一つ、確かなことがあった。


信長の策は、すべてを見通していたかのように的中した。


「恐ろしい人よ……織田信長」


元康は、静かに息を吐いた。


その後、今川軍は城を捨て、撤退していった。


当主・氏真に、再び攻める気配はなかった。


そんな折――


一通の書状が届く。


差出人は、織田信長。


元康は封を切り、目を走らせた。


「主君が討たれたというのに、その敵を討ちに来ぬのか。  それほど腰抜けであったか。  ――まっ、わしには勝てぬがな」


元康は、思わず笑みを漏らした。


「……兄者らしい」


そして、小さく頷く。


「ならば――胸を借りるとするか」


それから約二年。


両者は幾度となく刃を交えた。


だが、今川からの援軍は一度としてなかった。


元康は、自らの力のみで戦い続けた。


やがて――


再び、信長から書状が届く。


今度は、戦ではない。


同盟の申し入れであった。


後に言う「清州同盟」。


仲介したのは、水野信元であった。


会見の場は、不思議なほど穏やかだった。


敵味方という緊張はなく、


むしろ――


全力でぶつかり合った後の、晴れやかさに似ていた。


信長が口を開く。


「元康どの」


その声には、戦場のそれとは違う温度があった。


「今川家への忠義、しかと見せてもらった」


一拍置く。


「これからは友として、同盟者として末長く頼む」


信長はまっすぐに言った。


「わしは西へ。元康どのは東へ。  安心して進んでくだされ」


元康は、黙って頷いた。


その目には、わずかに涙が浮かんでいた。


幼き日に言われた言葉。


そのすべてが、今ここで現実となっていた。


独立。


そして――


信長には、勝てぬということ。


だが、それ以上に。


自分を見守り続けていた存在があったこと。


その事実が、胸に深く染みていた。


言葉は、必要なかった。


すでに――


言葉を超えた絆が、そこに生まれていた。






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