第9話
ルシアンは、側妃の子として生まれた。
彼の母の身分は低く、王位継承の話題に彼の名が挙がることはほとんどない。
後ろ盾もなく、不安定な立場だった。
「……ごめんなさいね、ルシアン」
母はいつも、そう言った。
「私のせいで……あなたに、余計な苦労を……」
ルシアンは首を振った。
「違うよ、母上。俺がちゃんとやればいいだけだ」
「第二王子として、頑張るよ。母上は俺が守るから」
幼子にしては、あまりに大人びた言葉だった。
だが母は、その言葉に縋るように微笑った。
「……ありがとう。あなたは、優しい子ね」
ルシアンは、母のために努力した。
礼儀を守り、作法を身につけ、余計な感情を見せないよう努めた。
害のない王子として。
「側妃の子にしては、よく出来ている」
「出しゃばらないのが賢いな」
「母親想いの、良い王子だ」
周囲は、そう評価した。
(それでいい)
(そう思われているなら、母上は安全だ)
だが――。
ある日、母とともに王宮の外へ出されることが決まった。
名目は静養。
実際は、追い出しだった。
王宮から遠く離れた地で、
母は、静かに息を引き取った。
その瞬間、ルシアンの中で何かが切れた。
(あれほど努力したのに……
結局、守れなかった)
その日から、彼はやる気を失った。
王子という立場だけを残して、
中身を空にしたまま。
――そして今。
ルシアンは、仕立て屋の鏡の前に立っている。
「殿下、腕を少し上げてください」
職人の声に従い、無言で腕を上げる。
鏡に映るのは、整えられた第二王子の姿だった。
「うーん」
隣で腕を組んでいたクラリスが、首を傾げる。
「悪くはありませんけど、つまらないですわね」
「率直だな」
「事実ですもの。次はどれを着ていただこうかしら」
クラリスとの出会いは偶然だった。
王宮を訪れた用事のついでに、たまたま出くわし、
そのまま押し切られ、勢いで婚約した。
「この柄もいいですわね」
「……そうだな」
(公爵令嬢と婚約すれば、後ろ盾になる)
(王太子が一度手放した相手なら、王家にも貸しを作れる)
そう考えた時点で、
それが感情ではないことくらい、分かっていた。
――ルシアンは、クラリスのことを好きで婚約したわけではない。
(……だが、彼女の性格を、少しも考慮していなかった)
今、彼は後悔し始めている。
「次はこちらを」
クラリスが、にこやかに布を差し出す。
「……まだあるのか」
「一着で終わると思って?」
仕立て屋が慣れた手つきで、次の服を用意した。
「うふふ、殿下はどれを着ても絵になりますわ♡」
クラリスは心底楽しそうだった。
「……そうか」
それに反して、ルシアンの心はどんどん沈んでいく。
そして――十着目。
鏡に映った姿を見て、ルシアンは一瞬、言葉を失う。
『あなたは、この色が似合うのよ』
昔、母がそう言って微笑った声を思い出す。
「……」
「まぁ」
クラリスが満足そうに頷く。
「殿下の良さが映えて、素晴らしいですわ」
「……そうか」
ルシアンは、鏡に映る自分をしばらく眺めていた。
そのとき。
「――ルシアン殿下?」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、クラーラ公爵令嬢が立っていた。
「お久しぶりです」
「ああ……久しいな」
自然と、ルシアンの表情がわずかに緩む。
「お元気そうで……よかったです」
クラーラが微笑む。
二人の間に、あたたかい空気が流れ込んだ。
「今日はお買い物ですか?」
「ああ、まあ……」
答えかけた、その瞬間。
「まあ」
冷たい声が割って入った。
「クラーラ様、ではないですか」
扇を閉じ、無表情で立っていた。
その場の空気が、一瞬で氷点下まで下がる。
「クラリス様……」
クラリスは一歩前に出て、
「殿下とわたくしは婚約したばかりなのですよ」
そう言って、ルシアンの腕に手を添えた。
「誤解を招く行為は、やめていただきたいですわ」
どすの利いた声だった。
仕立て屋は視線を布に落とし、今見たものを記憶から切り離した。
クラーラは一瞬だけ表情を揺らすが、微笑んだ。
「……失礼いたしました」
「ええ。そうなさってくださいな」
そしてクラリスは口角を上げる。
「それに……あなたにも、婚約者がいらっしゃるはずですわ。
その自覚、お持ちになって?」
空気が軋んだ。
クラリスの言葉は、決して間違ってはいない。
だが、そこに居合わせた人々は、
心の中で「悪女だ……」と囁いた。
クラリスはクラーラを無視し、
何事もなかったようにルシアンに微笑む。
「さあ、殿下。行きますわよ」
「……どこへ」
「決まってますでしょう。次は宝飾店ですわ」
クラリスはルシアンの腕を引くように歩き出す。
ルシアンは一瞬だけ振り返り、クラーラを見た。
だがすぐに視線を戻し、
引きずられるように店を出た。
そしてその背を、
クラーラが静かに見つめていた。
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