第7話
「クラリス様、ご機嫌ですね♡」
マリアの声に、クラリスは足を止めずに応じた。
「ふふ……そうね」
横顔だけで微笑み返す。
その仕草ひとつで、侍女はすぐ察した。
「第二王子殿下に、会いに行かれるのですよね」
クラリスは、否定も肯定もせず、ただ微笑を深めた。
婚約が公になって以降、王宮の空気は微妙に変わった。
王太子の婚約は新興貴族に喝采をもたらしたが、
その反動として――旧貴族たちは、はっきりとルシアン側に安堵の色を見せている。
(当然ですわ。――貴族とは、そういう生き物ですもの)
第二王子の婚約者が姿を見せないなど、
殿下に余計な“隙”を与える行為にほかならない。
だが、クラリスにとっては――
(ふふ……ルシアン殿下。
今日もどんなお顔をしていらっしゃるのかしら)
ただ、それだけの理由だった。
深紅のドレスの裾が、王宮の回廊を静かに撫でていく。
門衛も侍従も、彼女を止めない。
元・王太子妃候補であり、現・第二王子の婚約者――
それだけで、通行証は十分すぎた。
(まさか、こんな気軽な気分で、王宮を訪れる日が来るなんて……)
足取りは自然と弾み、石床に落ちる音さえ楽しげだ。
(わたくしが訪ねたら、きっと喜んでくださるわよね。
あの少し照れた顔……ふふ)
謁見室に足を踏み入れた瞬間。
クラリスは、微笑みを崩さぬまま、内心で首を傾げた。
「……」
そこに立つルシアンは、きちんとしている。
侍従が整えたであろう礼装は、寸法も色味も正確。
非の打ち所はない。
――だが。
(悪くはないけど……)
「ごきげんよう、ルシアン殿下」
「来てくれたのか。最近は慌ただしくてね」
「ええ。婚約者が様子を見に来るのは、当然でしょう?」
言葉は柔らかい。
だが視線は容赦なく、全身をなぞる。
肩線、襟元、袖口、靴先。
どれも“規定通り”。
微笑みを貼り付けたまま、心の中で小さく舌打ちする。
(……相変わらず融通が利きませんのね。
以前あれほど、殿下には“似合う装いを”と申し上げたのに)
婚約前、クラリスは侍従たちに何度も釘を刺していた。
殿下の立場と気質に合わせて繕え、と。
「……何か、気になる点が?」
「さすが殿下。ご理解が早くていらっしゃること」
扇を閉じ、にこやかに首を傾げる。
「?」
「デート、なさいません?」
「……デート?」
「ええ。買い物も兼ねて」
相談ではない。
選択肢でもない。
“そう決まっている”という声音。
「殿下、今のお召し物は悪くありませんの」
一拍置き、柔らかく――しかし逃げ道なく続ける。
「ですが――わたくしなら、もっと素敵に仕上げて差し上げられますわ」
拒否権は、最初から提示されていない。
ルシアンは一瞬だけ視線を逸らし、
それから短く息を吐いた。
「……分かった。付き合おう」
クラリスは満足げに微笑み、腕を差し出す。
(うふふ……誰かと違って、素直なところも本当に素敵♡)
――同じ頃。
王太子の執務室では、目に見えない歪みが積もっていた。
書類は遅れ、印章は滞り、報告は噛み合わない。
新興貴族たちは理想を語るが、誰も実務を整えない。
「……なぜだ」
机に手をつき、王太子は眉を寄せる。
(以前は……こんなことはなかったはずだ)
決定的な“欠落”に、まだ名前は付けられない。
だが、違和感だけは確かに胸に残る。
「アリアナは……戦力にならない。
悪気はないのは分かっている。
だが……それでは困るんだ」
言い切ったはずの言葉の奥に、
自分でも整理しきれない苛立ちが沈んでいた。
苛立ちの中で、ひとつの影が脳裏をよぎった。
「……クラリス……?」
思い至った瞬間、王太子は立ち上がっていた。
回廊で、深紅の背に追いつく。
「クラリス!」
呼び止める声には、焦りが混じっていた。
振り返った彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。
「まあ。王太子殿下。何か?」
「……最近、政務が思うように進まない」
声は低く、苛立ちを隠しきれていない。
「調整が利かん。報告も、人も……」
縋る、というより――不満の吐露。
それでも、答えを期待する視線。
クラリスは一瞬だけ彼を見つめ、
それから、あっさりと言った。
「そうですか……頑張ってくださいまし」
「……何?」
「婚約中にして差し上げていたことは、役目ですわ。
今のわたくしには、関係ありませんもの」
扇を優雅にあおぐ。
王太子の表情が、わずかに引きつった。
「……っ、冷たいな……
だが……君は昔から、そうやって一線を引く女だった」
「さすが殿下。ご理解が早くていらっしゃること」
クラリスは微笑んだまま、一歩退く。
「わたくし、急いでおりますの。
もうよろしいでしょうか?」
「ま、待て……!」
押し殺した声が、背後から追いすがる。
「君は……王太子を助けようとは思わないのか?」
「はい」
間髪入れずに返す。
「……」
王太子は、それ以上何も言えなかった。
その横を、ルシアンが静かに通り過ぎる。
「兄上。失礼する」
それだけ告げ、クラリスの手を取った。
「行きましょう、ルシアン殿下♡」
「……ああ」
二人は並んで歩き出す。
背後で何かが軋む音を、振り返りもせずに。
(……あら?)
クラリスは、ふと気づいた。
いつもなら、もう一言、余計に刺していたはずなのに。
(なんだか……殿下のことが、どうでもよく思えましたわ……なぜかしら)
「どうかしたか?」
「何でもありませんわ♡」
それは――
クラリスが、今、幸せだからである。
(さて……どこのブティックに参りましょう?
殿下には、少し遊び心のある装いもお似合いですもの)
だが彼女は、まだ知らなかった。
そしてその様子を、
回廊の影から一人の女が、扇を強く握り締めながら見つめていた。




