第14話
「夜会の席次? 私がですか?」
イレイナは首をかしげた。
「夜会の席次は、王家の序列を外部に示すために定められております」
儀礼官は淡々と説明を続ける。
「ですから、殿下の婚約者様として――」
「……お任せします。私には、分かりませんので」
そう言って、イレイナは微笑んだ。
「承知いたしました。では、規定に従い、こちらで定めさせていただきます」
「お願いします」
儀礼官が一礼して退がると、イレイナはすぐに関心を別のところへ移した。
「これから殿下に会いに行くの。どれがいいかしら?」
侍女に問いかけ、イヤリングを手に取る。
「この宝石にしようかしら」
◆
「イレイナは可愛いなぁ」
それは、父の口癖だった。
商家として裕福な家に生まれたイレイナは、欲しいものを与えられ、笑えば褒められ、泣けば守られて育った。
「将来は、お姫様みたいになるんじゃないか」
そんな言葉を、何度も聞かされてきた。
可愛い容姿は早くから評判になった。
商家の娘としては、十分すぎるほどに。
「あの子、なんだか“選ばれる側”よね」
周囲の囁きも、自然と耳に入ってくる。
イレイナは、自分のことを特別だとは思っていなかった。
だが、繰り返し向けられる言葉と視線の中で、次第に一つの感覚が形を持ちはじめる。
――私、どこかへ行く人なのかもしれない。
漠然とした予感。
それは夢というより、予定のように胸に収まっていた。
「お姫様に……なれるのかしら」
そこへ目をつけたのが、バルネス伯爵だった。
「ご令嬢の評判は、以前から耳にしております」
「市場でも教会でも、実に評判がよろしい」
その場にイレイナもいた。
給仕として茶を運びながら、会話を聞いていた。
「率直に言おう」
伯爵は姿勢を崩し、声を落とす。
「あの子を――我が養女として迎えたい」
イレイナは目を瞬いた。
「王宮という場所にはな、
強い女よりも――そばに置きたくなる女が、必要な時がある」
前かがみになり、続ける。
「伯爵令嬢であれば、王太子殿下のお目にかかる機会も、自然と巡ってくるだろう」
驚きはあった。
だが同時に、胸の奥で何かが静かに噛み合った。
(……やっぱり)
それは、納得に近い感覚だった。
こうして、イレイナは養女となる。
伯爵家での教育は、驚くほど控えめだった。
「伯爵家で学ぶのは、“賢くなるため”じゃない。
失礼をしないためだ。それだけでいい」
(それだけで、いいのね)
イレイナは素直に頷いた。
◆
程なくして、王妃との謁見が組まれた。
「イレイナ・バルネスでございます。
本日は、お目にかかる機会をいただき……ありがとうございます」
イレイナの声は震えていた。
王妃は、その様子をじっと見てから、ふっと微笑んだ。
「……まあ。想像していたより、ずっと愛らしい方ですこと」
「え……?」
思わず、イレイナが顔を上げてしまう。
慌てて視線を伏せると、王妃はくすりと笑った。
「そんなに身構えなくてもよろしいのよ。
今日は、顔を見せに来ていただいただけですもの」
「あ、あの……はい……」
「伯爵。……この子を、どこまでお考えで?」
バルネス伯爵は一瞬だけ言葉に詰まり、慎重に答える。
「まだ、何者でもございません。
ですが……学ばせ、必要とあらば、王家のお役に立てるようにと」
「そう」
王妃は再びイレイナを見る。
「近いうちに、身内だけの小さな茶会を開きますの。
その時に――またお会いしましょう」
――数日後。
王妃主宰の茶会で、イレイナは王太子と出会った。
イレイナは、言葉を失った。
目の前に立つ姿が、あまりにも――物語の中の王子そのものだった。
金髪に青い瞳。
絵本から抜け出してきたような姿。
(……本当に、王子様みたいな人)
そう思った瞬間だった。
イレイナの肘が花瓶に当たった。
「あ――」
花瓶が傾き、水がこぼれ、白い花が音を立てて崩れ落ちた。
周囲の視線が、一斉に集まる。
「……っ、す、すみません……!」
イレイナは反射的に膝を折り、手を伸ばした。
「ごめんなさい……! 私が……私が不注意で……」
その時――
「大丈夫だよ」
落ち着いた声が、すぐ近くで響いた。
顔を上げると、王太子殿下が立っていた。
彼はしゃがみ込み、迷いなく花瓶を起こす。
「怪我はない?」
「は、はい……!」
イレイナは慌てて答える。
王太子はそれを確認すると、ふっと微笑んだ。
「花瓶が倒れただけだ。誰だってある」
「殿下……」
「ほら。立って」
差し出された手を、少しだけ迷ってから取る。
「緊張するよね。初めての茶会なら、なおさらだ」
(庇ってもらえた……)
イレイナの胸が、じんわりと温かくなった。
茶会以来、イレイナと王太子の会話は少しずつ増えていった。
その日も、イレイナは王太子と約束をしていた。
サロンには静かな時間が流れていた。
イレイナは長椅子に浅く腰掛け、両手を膝の上で重ねている。
「……殿下、まだかしら……」
イレイナは落ち着きがなさそうに、キョロキョロしていた。
次の瞬間――
扉が、勢いよく開かれた。
クラリスだった。
ためらいもなくイレイナに向かって、歩み入ってくる。
「……あなたが、イレイナ・バルネスですの?」
「あ……は、はい」
返事を終えるより早く――
ばしゃり、と音がした。
熱い紅茶が、胸元を濡らす。
「……っ」
イレイナは熱と驚きで、頭が真っ白になる。
クラリスはイレイナを見下ろす。
「立場も分からず、殿下に近づいているのではありませんわ」
「あ……」
息が詰まり、声が出ない。
周囲の空気が、凍りついた。
その時。
「――何をしている」
王太子が、そこにいた。
一歩で距離を詰め、イレイナの前に立つ。
「……殿下」
「下がれ、クラリス。……彼女に、何をしたか分かっているのか」
クラリスは首をゆるく傾げる。
「自分が何者か分かっていないようでしたので、教えて差し上げただけですわ」
「――必要ない」
「殿下?」
王太子は、イレイナを庇うように立ったまま、低く言う。
「彼女が何者かなど、僕が判断する」
イレイナは、ようやく我に返る。
「……だ、大丈夫です……殿下……わたしが、不注意で……」
王太子は、ゆっくりと振り返った。
「――無理をしなくていい」
柔らかな声で続ける。
「……君は、悪くない」
イレイナは、無意識に胸元の布をきゅっと握りしめていた。
指先が熱を確かめるみたいに震え、それでも目だけは王太子を追ってしまう。
クラリスの扇が、ぎり、と音を立てる。
「殿下……! 婚約者である“わたくし”より、その方を庇うのですか?」
その問いに、王太子は一拍だけ黙った。
「そうだ」
ざわり、と空気が揺れる。
「……殿下?」
「彼女は、守られるべき立場だ。少なくとも、この場で責められる理由はない」
クラリスの瞳が、わずかに見開かれる。
「……それが、答えですの?」
「君は――強すぎる」
王太子は、苦しげに眉を寄せた。
「正しい。聡明だ。非の打ち所もない。
でも……僕には、それを受け止める余裕がない」
沈黙が落ちる。
「……君といると、息が詰まる」
クラリスは唇を噛み、深く息を吐いた。
「……そうですか。
では殿下、どうぞ彼女を相手に、その喜劇をお楽しみくださいませ」
そう言い残し、踵を返す。
背筋は伸ばしたまま、サロンを後にした。
イレイナは、ただ立ち尽くしていた。
胸元に残る熱さよりも、目の前の背中のほうが眩しくて――視線が外せない。
(殿下が、守ってくれた……)
王太子の背中を、ぼんやりと見送っていた。
この出来事が決定打となり、クラリスと王太子の婚約破棄が進む。
イレイナは王太子の婚約者となった。
◆
そして、今。
執務室には、書類が積み上がっていた。
机の上だけでは足りず、脇の卓にも、椅子の横にも。
どれも処理途中のまま、整えられていない。
王太子は椅子に深く腰を沈め、眉間を押さえていた。
「……終わらない……」
その時、控えめなノックが響いた。
「……どうぞ」
扉が開き、イレイナが顔を覗かせる。
「失礼いたします……殿下」
王太子は、顔を上げた。
一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせてから、ほっと力を抜いた。
「……イレイナ。……ごめん、今、少し散らかっていて」
「い、いえ……!」
イレイナは慌てて首を振る。
「お邪魔でしたら、すぐ――」
「いい。……ちょうど、少し休みたかったところだ」
イレイナは、その様子を見て、胸の奥がきゅっとなる。
「……無理、しすぎないでください」
「はは……」
王太子は、軽く笑う。
「そう言われると、少し楽になる。君が来てくれて、助かったよ」
「……え?」
「ここにいると、どうしても……詰められている気分になるから」
書類の山を、ちらりと見る。
「でも、君と話していると、“それでもいい”って思える」
イレイナの胸が、どくんと鳴る。
「少しだけ、ここにいてくれる?」
「……はい」
王太子は満足そうに、微笑んだ。
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