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星輪のギメルス  作者: アドム・ザナヴ
第二章 エフェス編 星なき夜の火種  エセル編 北辰の望郷
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エセル編 第5話 港町の光と影

星霊暦五〇四年一月十二日、土曜日。


三日間にわたる、鬱蒼とした森の道程を抜けた一行が、ようやくカラッチ港の城門をくぐったのは、昼下がりの、太陽が最も高い位置にある時間だった。


「うわぁ……!」


ラバの上から街の様子を眺めていたエセルは、思わず感嘆の声を漏らした。

目に映る、全てのものが、初めて見るものばかりだった。マイムハレムの、のどかな村とは、何もかもが違う。石畳の道を、様々な人種の、様々な衣装を纏った人々が、肩をぶつけ合うようにして行き交っている。道の両脇には白壁の建物が所狭しと立ち並び、その一階からは香辛料の匂いや、威勢のいい商人の呼び声、そして陽気な音楽が、渾然一体となって溢れ出してくる。海風に乗って運ばれてくる潮の香りが、ここが港町であることを、エセルに告げていた。


「メル! あれは何ですか? あんなに高いところで、ぐるぐる回っています!」

「あれは、風車です、エセル様。風の力で、穀物を挽いたりするのですよ」

「では、街のいたるところに立ってある、あの高い棒は?」

「あれは、魔法街灯です。夜になると、街中を照らしてくれるのです」


子供のように次から次へと質問を投げかけるエセルに、メルは少し困ったように、しかし優しく答えを返す。その、どこか浮かれた一行の空気を、先頭を歩く空八兵衛の鋭い声が引き締めた。


「おっと、お嬢様方。あまり、はしゃぎすぎねえでくだせえ。見なせえ、あそこの船着き場を」


彼が指差す先、港の一角に、ひときわ大きく、そして物々しい雰囲気を放つ黒い船が停泊していた。そのマストには、剣と天秤を象った、アルケテロス教の紋章が風にはためいている。


「奴らの船が、寄港してやがる。長居は無用だ。まずは、俺が目をつけておいた宿へ向かいやすぜ」


空八兵衛の先導で一行は人混みを縫うようにして、街の奥へと進んでいく。その活気に満ちた市場を通り抜ける時だった。エセルは、その光景に息を呑んだ。


道の真ん中を、十数人の人々が列をなして歩かされていた。彼らの首と両手は錆びついた鉄の枷で繋がれ、その目はまるで光を失ったガラス玉のように虚ろだった。みすぼらしい衣服の隙間から覗く肌には、鞭で打たれたような生々しい傷跡が見える。その一団を、槍を持った兵士たちがまるで家畜を追い立てるかのように、乱暴に先導していた。


「……あの方たちは、一体……?」


エセルの、か細い問いに、メルは言葉を詰まらせた。

「それは……その……」


しどろもどろになるメルの代わりに、空八兵衛が淡々とした、感情のない声で答えた。

「奴隷でさあ、姫様。アルケテロスの船が、あっしの故郷の阿倭の国の、さらに東の大陸……ディアスポラから運んできたんでしょう」


奴隷。

その言葉の意味を、エセルは知識としては知っていた。しかし、それがこれほどまでに人間の尊厳を奪い去るものであるとは、想像もしていなかった。奴隷の一団の中には、空八兵衛と同じ、東洋系の顔立ちの者たちが多く混じっている。


「奴隷とは、戦争に敗れ、国を失った者たちの成れの果てでさあ。ディアスポラ大陸の北部じゃ、今も国同士の小競り合いが絶えやしねえ。アルケテロスの連中は、そうやって出た捕虜を安く買い叩いちゃ、こうして西の大陸まで、商品として運んでくるんで」


その、あまりに淡々とした説明に、エセルの胸に冷たいものが込み上げてきた。


「……では、私の、カナンの民も……」


その呟きに、それまで黙っていたハムサが静かに、しかしはっきりと答えた。

「……さようでございます、エセル様。今は終戦しておりますゆえ、新たに奴隷となる者はおりませぬが……先の第二次魔法大戦で捕虜となり、今もどこかの地で奴隷として生きながらえている同胞は、決して少なくないはずです」


カナンの民。自分がいつか守り、導かなければならない民。その民が、今この瞬間も、世界のどこかで、あの虚ろな目をして鎖に繋がれている。その想像が、エセルの心を鋭く抉った。

「……っ」

言葉を失い、青ざめるエセル。その小さな肩を、母イマの温かい手がそっと包み込んだ。


「エセル」


その声は穏やかだった。しかし、その奥には決して折れることのない、女王としての鋼の意志が宿っていた。


「悲しむこころを持つことは良いことです。ですが、その光景から目をそらしてもいけません」

イマは、まっすぐに娘の瞳を見つめた。


「あなたがいつかカナンを再興し、民を救いたいと願うのであれば、まず知らなければなりません。この世界が、どれほど残酷な理不尽で満ちているのかを。そして考えなさい。どうすればこのような悲劇をなくすことができるのかを。それこそが、王族としてのあなたの、最初の『学び』です」


母の言葉は厳しく、そしてどこまでも優しかった。

エセルは唇をぎゅっと噛み締めた。自らの「カナン王国を、ガラーシャ村のような国にする」という夢が、単なる憧れではなく、この残酷な現実と真正面から向き合い、戦わなければならない険しい道であることを、彼女は初めて具体的に理解した。





空八兵衛が手配していた宿は、港の喧騒から少しだけ離れた裏路地にあった。


「まずは、腹ごしらえといきやしょう。長旅で腹もぺこぺこでしょうからね。うめえ飯屋に、目星はつけてありやすぜ」


一行が案内されたのは、港の船乗りたちが集う活気のある食堂だった。木のテーブルには、すでに湯気の立つ料理が所狭しと並べられている。


「こいつは、この辺りで獲れた白身魚の香草焼きでさあ。こっちの貝のスープは、阿倭の国の『出汁』ってやつを隠し味に使ってる。カラッチは、エイディン大陸でも東端の田舎の方なんで世界の中心じゃありやせんが、この街の料理は、エイディン大陸と阿倭の国、ディアスポラ大陸の色んなもんが絶妙に混ざってて面白えんでさあ」


空八兵衛の解説を聞きながら、エセルは恐る恐る魚の香草焼きを口に運んだ。


(……おいしい)


外はぱりっと香ばしく、中は驚くほどふっくらとしている。ハーブの爽やかな香りが、魚の旨味を最大限に引き立てていた。マイムハレムの素朴で優しい味とはまた違う。複雑で、刺激的で、そしてどこまでも奥深い味。


食事が、これほど楽しいものだなんて。

エセルは夢中で料理に舌鼓を打った。その無邪気な姿に、イマもハムサもメルも、自然と笑みがこぼれていた。

その和やかな空気を破ったのは、突然の野卑な声だった。


「よう、そこの姐ちゃんたち。いい飲みっぷりじゃねえか」


見ると、アルケテロス教の軍服を着た三人の兵士が、酔っ払った様子でこちらにニヤニヤといやらしい視線を向けていた。


「どうだ、俺たちにも一杯酌をしちゃくれねえか? 特に、そこの銀の髪のお嬢ちゃん」


男の指が、まっすぐにエセルを指す。

その瞬間、食堂の空気が凍りついた。


「……ええ、ええ。喜んで」

イマが女王としての完璧な笑みを浮かべ、穏便に場を収めようと立ち上がりかけた、その時だった。


ガッシャーン!


「貴様、誰に指を指しているか、分かっているのか」


メルが、動いた。

誰も彼女がいつ席を立ったのか認識できなかった。気づいた時には兵士の一人がテーブルに顔面を叩きつけられ、無様にのびていた。メルの声はたしかにゆっくりな口調であったが、目が据わっており、静かなる怒気を放っていた。


「な、なんだ、てめえ!」

「俺たちが、誰だか分かってんのか!」

残りの二人が慌てて剣に手をかける。

しかし、それよりも早く、ハムサのしなやかな足が宙を舞った。


ドゴッ! バキッ!


「すまないね。弱い男の顔は、覚えられないのさ」


二人の兵士が、寸分違わぬタイミングで床に崩れ落ちる。一人は鳩尾への正確な蹴り。もう一人は首筋への鮮やかな手刀。どちらも完璧な一撃だった。

あっという間の鮮やかすぎる出来事に、食堂は一瞬静まり返った。

そして次の瞬間、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。


「すげえ!」

「あの女たち、何者だ!?」

「いいぞー! 姉ちゃんたち!」


酒場の客たちは、そのあまりに見事な連携にやんやの喝采を送っている。どうやら、まだこのカラッチの街ではアルケテロスの兵は密かには歓迎されていないようで、街の人々も思うところがあったようだ。


「……あらあら」

イマは少し困ったように、しかし、どこか誇らしげに微笑んでいる。


「……へっ。本当は目立ちたくなかったんですがねえ」

空八兵衛はやれやれと頭を掻きながらも、その口元は楽しそうに笑っていた。


「大変申し訳ございません。お騒がせいたしました」


メルとハムサは何事もなかったかのように席に戻り、食事を再開している。

その、あまりに頼もしい護衛たちの姿に、エセルは安堵し、そして思わず笑ってしまった。


彼女の、新しい街での初日の夜は、こうして、実に賑やかに始まったのだった。


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