エフェス編 第5話 眼鏡の男と虹の石
星霊暦五〇四年一月十二日、土曜日。
今日も、ハールコテルゲドラー山脈の稜線が朝霧の向こうに白み始め、ガラーシャ村が静かな空気に包まれる頃。村のあちこちから、働き者の農夫が魔法の鍬を振るうリズミカルな音だけが響いていた。しかし、その穏やかな日常の音に混じって、村の一角からは、ひときわ鋭く、乾いた木と木が打ち合う音が響き渡っていた。
エフェスの家の庭先。それが音の発信源だった。
「違う! もっと腰を落とせ! お前の力は腕だけじゃない、全身で振るんだ!」
「分かっとるって!」
木剣を握るエフェスは、母マリアの容赦ない指導にぶつぶつと文句を言いながらも、必死に食らいついていた。汗が目に入って滲みる。振りかぶった腕は鉛のように重いが、目の前の母は涼しい顔で佇んでいる。マリアの動きには一切の無駄がない。エフェスが渾身の力で振り下ろす一撃を、彼女はまるで柳が風を受け流すかのように最小限の動きでいなし、的確なカウンターを叩き込んでくる。木剣の側面が、エフェスの脇腹を容赦なく打った。
「くそっ!」
「力任せに振るうな。私が力を入れているように見えるか?」
言われてみれば、母の表情は涼しいままだ。息一つ乱していない。その余裕が、エフェスをさらに苛立たせた。「違う!そうじゃない!」「もう一度やり直し!」と、今日だけで何度聞いたかも分からない言葉の中、基礎の型を繰り返す指導は延々と続けられた。
「いいかいエフェス。強い者というのはね、決して力まないものなんだ。いつでもどんな時でも水面のように心を平らにして最善の一手を打つ。そのためには体が覚えるまで何度も何度も同じことを繰り返すんだ。それが稽古というものだよ」
その教えは厳しく、そして理に適っていた。エフェスは稽古で母を本気で怒らせれば、物理的に命の危険があることを本能で知っている。彼女はただの母親ではない。かつてエセルの母であるイマ女王の近衛兵として、数多の戦場を駆け抜けた歴戦の勇士なのだ。だからこそ彼は、この厳しい稽古を一日も欠かしたことはなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。一通り汗を流し、息も絶え絶えになったエフェスに、マリアが乾いたタオルを投げ渡した。
「……よし、今日はここまで」
「はあ……はあ……」
「なかなか筋は良くなってきたじゃないか。父さんが見たら驚くかもしれないね」
珍しい母からの褒め言葉に、エフェスの心が少しだけ浮き立った。稽古を終えればマシューたちと森へ遊びに行く約束をしている。いつも通りの最高の休日が始まるはずだった。
「ああ、そうだエフェス。家の水がめが空になりそうだったね。悪いが川まで水を汲みできておくれ」
「えー! 今からマシューたちと約束しとっとに! 急いどるんよ!」
「あら、そうかい。まあお前が水の魔法の一つでも使えれば、一瞬で終わる用事なんだがねえ」
マリアの悪戯っぽい一言。それがエフェスの胸にグサリと突き刺さった。
一番言われたくない言葉だった。村の子供たちのほとんどは、簡単な魔法の一つや二つ、すでに使いこなしている。それなのに、自分だけが何度やっても上手くいかない。その劣等感を、母は知っているはずなのに。
「……母ちゃんがやればよかじゃなかか! 水の魔法ば使えるくせに、使えん俺に命令ばすんな!」
自分でも子供っぽい八つ当たりだと分かっていた。だが、一度口から出てしまった言葉はもう止められない。エフェスはマリアの返事も聞かず家を飛び出した。背後で母が何かを言う前に、力の限り戸を閉める。生まれて初めての家出は、そんな些細なきっかけから始まった。
◇
村の南の関所に近い、森の入り口。
エフェスはむしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、当てもなくそこまでやって来ていた。その時、彼の目に見慣れない人影が映った。
関所の門番であるゲデオンが、一人の見知らぬ男と何やら話している。
男は眼鏡をかけていた。しかし、ガラーシャ村に来る南ミズラハ地方の商人が着るような、日に焼けてくたびれた服装ではない。小さな収納袋がいたるところに付いているような、どこか機能的な旅装束を身に纏い、その物腰は非常に穏やかだ。
(……あの人が、母ちゃんの言ってた「よそ者」……?)
エフェスは母の警告を思い出し、とっさに身構えた。しかし、目の前の光景は彼の警戒心を少しずつ解いていった。熊のように巨大なゲデオンと比べれば、その男はあまりにもひ弱に見えたからだ。
(なんや……普通のおじさんやん。ゲデオンのおっちゃんの方が百倍強そうたい。こんなのが敵なら大丈夫やろ)
そんなことを考えていると、ゲデオンが男から一枚の羊皮紙を受け取った。
「……ふむ。分かった。村長には俺から話を通しておこう。だが許可が出るまではここを動くな。しばらくここで待っていろ」
ゲデオンはそう言うと、近くにいた村人にその書状をオルマ長老かヤコブ司祭の元へ届けるよう指示を出した。
「おいも見張っとくばい!」
エフェスはここぞとばかりに茂みから飛び出した。ゲデオンは家出少年を一瞥すると、やれやれと大きなため息をついた。
「……好きにしろ。だが変な真似はするなよエフェス」
そう言い残し、ゲデオンは伝令の村人と共に村の中心部へと戻っていった。
後に残されたのは、エフェスと見知らぬ「眼鏡のおじさん」だけだった。
沈黙が少しだけ気まずい。エフェスは見張り役の責任を果たすべく、腕を組み、胸を張りながら男をじろじろと観察した。
男はそんなエフェスの視線に気づくと、にこりと人の良い笑みを浮かべた。
「やあ、こんにちは。君が見張り役かい?」
「……まあな!」
「ははは、頼もしいな。私はメハンデスという。しがない魔法技師だよ」
「メハンデス……? おじさん変な名前やね」
「そうかい? 私の国ではそう珍しくもないんだがね」
メハンデスと名乗った男は、少しも気分を害した様子もなく話を続ける。その口調は、エフェスが聞き慣れた村の大人たちの言葉とは、どこか響きが違っていた。
「てか、おじさん、その喋り方はなん? 喋り方も変やね」
「ん? そうかな? あまり気にしたことはなかったな」
「うん、変な喋り方ばい。村の者とは違うけん」
エフェスは、物珍しそうに首を傾げた。メハンデスは、そんな少年の純粋な好奇心を面白そうに眺めると、話を本題に戻した。
「私はこの辺りの鉱石の調査に来たんだよ。私の国では、このマイムハレムはまだ誰も足を踏み入れたことのない『未開の地』でね。実に興味深い場所だ」
「へえ……。おじさんのおった国って、どんなところと?」
「どんなと聞かれてもねえ。私は色々な国を旅してきたからなあ。例えばアルケテロス教の首都ティベリアは、それはもうすごい所だよ。空まで届きそうな高い建物が何百と立ち並び、夜でも昼間のように明るい。そして何より『魔法列車』が街の中を馬よりも速く走り回っている」
「まほう、れっしゃ……?」
エフェスにはその言葉がさっぱりイメージできなかった。馬を使わずに走る鉄の塊。そんなものがこの世に存在するなど、信じられなかった。
「ははは。言葉で説明しても難しいかね。ならこれなら分かるかな?」
メハンデスはそう言うと、こともなげに懐から不思議な道具を次々と取り出し始めた。
「これは『魔法水道』。こうしてスイッチを入れると……」
彼が金属の箱の側面をなぞると、その先端から清らかで冷たい水がとめどなく流れ出した。ひんやりとした飛沫が、エフェスの頬にかかる。
「うわっ! すげえ!」
「これがあれば、君ももう川まで水を汲みに行かなくても済むだろう?」
まるで自分の心を見透かされたような言葉に、エフェスはどきりとした。
「こっちは『魔法通話機』だ。遠く離れた場所にいる人間と話ができる」
メハンデスがもう一つの箱のボタンを押すと、ザザッというノイズと共に、全く知らない男の声が響き渡った。
『──こちら斥候部隊。博士、聞こえますか』
「ああ、聞こえているよ。そちらの状況は?」
『異常ありません。予定通り本隊がまもなくそちらの関所に到着します』
エフェスは腰を抜かすほど驚いた。箱が喋っている。いや、箱の向こうにいる誰かと話している。それはエフェスの常識を完全に覆す魔法の光景だった。
(すげえ……! なんやこれ……! これが外の世界……!)
彼の心の中で「外の世界へ行きたい」という漠然とした願いが、「このすごい道具をもっと見たい! 使ってみたい!」という具体的で焦がれるような欲求へと変わった瞬間だった。
「どうだね。少しは私の国のすごさが分かったかな?」
「……うん! すげえ! なあおじさん! 他にも何か無かと!?」
すっかり最初の警戒心を忘れて目を輝かせるエフェス。メハンデスはそんな彼を満足そうに見つめながら、ふと、その視線をエフェスの胸元で淡く輝く小さな石へと移した。
「……そのネックレス。実に美しい石だね。よろしければ少し見せてもらえないだろうか」
メハンデスは穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと手を伸ばした。
その指先が石に触れる寸前だった。
「おいエフェス! もう夕方になってきたけんそろそろ家に帰らんか!」
声の主は、村から戻ってきたゲデオンだった。
「……やだ! おい家出したけん帰らん!」
「はあ? お前まだそんなこと言いよるんか。マリアさんが心配しとるぞ」
「知らん! 今夜は森で野宿すっけん!」
エフェスはそう叫ぶと、唖然とするゲデオンとメハンデスをその場に残し、一人森の奥へと駆け出していった。
一人残されたメハンデスは、エフェスが消えていった森の奥を、しばらく静かに見つめていた。
人の良い魔法技師の穏やかな表情は、もうそこにはない。
彼の視線は、もはや少年が消えた森の入り口ではなく、さらに奥にある何か、目に見えない世界の法則の綻びそのものを見つめているかのようだった。
眼鏡の位置を、人差し指と親指で、くい、と静かに押し上げる。
風が、彼の口から漏れた、ほとんど聞き取れないほどの呟きを運んだ。
「……まさか……こんな場所で……?」
その表情は、驚きから、深い思索へ、そして、ありえないはずの答えに行き着いてしまった科学者のような、かすかな戦慄へと、めまぐるしく変わっていった。まるで、頭の中で、膨大な知識と目の前の現実が、激しくぶつかり合っているかのようだった。
やがて、その思考の嵐が収まると、彼はゆっくりと、確信に満ちた声で呟いた。
「……間違いない。あれは虹龍石だ」




