第3話 星月夜
10月13日 登場人物一覧を追加しました。
家を飛び出したエフェスは、昼間の祝宴の喧騒が嘘のように静まり返った広場へと向かった。目が夜の暗さに慣れるまでもなく、空には満天の星が広がっていた。ハールコテルゲドラー山脈の険しい稜線が、星々の輝きをより一層際立たせ、まるで満月かのごとく、大地を淡く照らし出している。
エフェスの心は、昼間の宴とはまた別の意味で、そわそわと浮ついていた。昨夜、エセルから「明日、話したいことがあるの」と、耳打ちされたのだ。まさか、とんでもないことを言われるのではないか。いや、そんなはずはない。ありもしない想像を頭に思い浮かべては、ぶんぶんと首を振って打ち消す。そんな一人問答を繰り返していると、背後から声をかけられた。
「こらエフェス、夜に一人で出歩いてよかとか?」
「うん! じいちゃんが、よかって言うたよ!」
「そうか、でも遅くなんなよー」
宴の後片付けをしていた大人たちが、心配そうに声をかけてくれる。そのたびに、エフェスの心臓はドキリと跳ねた。怒られるかもしれないという恐怖ではない。これからエセルと会うという、自分だけの秘密を見透かされているような、そんな後ろめたさからだった。
広場に着いたエフェスは、燃え尽きた焚き火の残滓を眺めながら、祭りの後にだけ訪れる独特の寂しさに、少しだけ感傷的な気分になっていた。
「昼間は、あんなに楽しかったとに、今はこんなに寂しく感じるのも、不思議やね」
そんな独り言を呟いた時、向こうから歩いてくる二つの人影を見つけた。エセルだ。そして、その隣には護衛のメル・カヴァがいる。エフェスはとっさに、偶然を装って近づいていった。いくら平和な村とはいえ、夜中に年頃の娘を一人で歩かせるほど、この村の大人たちは呑気ではない。
「エセル、メル姉ちゃん、こんばんは。珍しかね、こんな夜中に」
「あら、エフェス! こんばんは! 今夜の星はとても綺麗だから、散歩したくて来てしまったの」
エフェスとエセルの演技は、お世辞にも上手いとは言えなかった。しかし、生真面目なメルには、二人の拙い芝居は気づかれていないようだ。彼女は、ブルーグレーのショートヘアを揺らしながら、エフェスを上から下まで値踏みするように見た 。メルは、三十歳という若さにもかかわらず、その立ち姿には歴戦の戦士だけが持つ隙のない空気があった 。
「メル姉ちゃんも帰ってきとったとね。昼間は見かけんやったけど、どこに行っとったと?」
「南の関所まで、な。それよりもエフェス。子供が一人で夜道を歩くとは感心せんな」
「じいちゃんが、よかって言うたけん大丈夫たい」
「ヤコブ殿が……? うぬぬ、いや、しかしマイムハレムとはいえ、夜は何が出るかわからんぞ」
その口調は、まるで壮年の堅物な指導教官のようだ。このままでは、いつまで経ってもメルが側を離れてくれない。そう判断したエセルは、意を決して口を開いた。
「メル、ごめんなさい。少しの間だけ、エフェスと二人で話がしたいから、どうか、少し離れた場所から見守ってはいただけませんか?」
「なっ……! 何を仰いますか、エセル様! 獣は夜行性です! どこから現れるか分からないのですよ!」
「村の中なら大丈夫だって、メル姉ちゃん」
「うるさい! 貴様は黙っていろ!」
突然のエセルの言葉に動揺したメルは、エフェスに鋭い声を浴びせた。その剣幕に、エフェスは思わず口をつぐむ。
「ねえ、メル。お願い。本当に、大事な話があるの」 エセルが真剣な瞳で重ねて頼むと、メルは「んーーー~~~ッ!」と、天を仰いで唸った。融通を利かせるのが苦手な彼女は、護衛としての任務と、主君の願いとの間で、激しく葛藤しているようだった 。
やがて、大きなため息をついたメルは、エフェスには聞こえないよう、エセルの耳元で何かを囁いた。途端に、エセルの顔が真っ赤になる。
「メル! 何を考えているのですか! エフェスは、あなたにとっても友人でしょう!」
「友人であることと、護衛の任務は別です。その覚悟で、私はお側に仕えております。いざという時は、エフェスを…」
「メルッ!」
何を言われたのかは分からないが、主君と護衛の間に流れる真剣な空気に、エフェスはただ黙って二人を見つめるしかなかった。
◇
ようやくメルが、剣呑な視線をこちらに向けながらも、木陰へと姿を消した。二人きりになったエフェスとエセルは、村の北にあるエロスの湖へと、ゆっくりと歩き始めた。道中、何を話したのか、エフェスはほとんど覚えていない。エセルが一体どんな「大事な話」をするのか、そのことで頭がいっぱいだったからだ。
湖畔に着くと、息を呑むような光景が広がっていた。 湖の周りでは、無数のヤマトボタルが、月光花と競うように、淡く、そして力強い光の軌跡を描いて舞っている。静まり返った湖面は、まるで磨き上げられた黒曜石の鏡のようだ。満天の星々が、寸分の狂いもなく、その水面に映り込んでいる。天と地、二つの星空に挟まれたその場所は、とても現実とは思えないほど美しかった。
「うわー……本当に綺麗か……。星も、絶対いつもより明るかよ」
「ええ、本当に……!」
その幻想的な光に照らされたエセルの横顔に、エフェスは思わず見惚れた。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
「(今日のエセル、無茶苦茶かわいか……なんだこれ!?)」
「ねえ、エフェス」
「にゃっ……なんだよ?」
動揺を悟られまいと、そっぽを向いたまま答える。エセルは、そんなエフェスの様子には気づかず、水面に映る星々を見つめながら、晴れやかな声で話し始めた。
「私、このガラーシャ村に住めて、本当に良かったと、感謝しているの。ここで皆さんと一緒に暮らして、毎日が本当に幸せで……マリア様、ヤコブ様、ゲデオンさん、サラさん、皆、本当に優しい方ばかりで、大好き」
「何ば今更。エセルも、この村の家族やん。みんなもエセルのことが大好きやし、当たり前やろが……?」
エフェスがそう言って、ふとエセルの方を向くと、彼女の青緑色の瞳から、大粒の涙が、静かにこぼれ落ちていた。
「ど、どうしたエセル! おい、何か変なこと言うたか!?」
「ごめんなさい……大丈夫。何でもないの。ただ、嬉しくて……」
涙を浮かべながら、それでも微笑もうとするエセルの顔は、胸が締め付けられるほど美しく、そして儚かった。エフェスは、かける言葉が見つからない。エセルは、涙をそっと拭うと、再び、遠い星を見つめて話し始めた。
「私、成人式を終えてから、色々考えてみたの。『もし私が、本当の、戻るべき国に戻れたら、何をしたいか』って」
「……何ば、すっと?」
「私が戻るべき国は、カナン王国というの。でも、私は、その国のことを、何も知らないの。だから、まず、自分の国のことを知りたい。そして、国に戻れたら、そこで困っている人たちを助けたい。このガラーシャ村のような国にしたいの。それが、私の夢」
「夢……」
決意を秘めた彼女の横顔は、エフェスが今まで見たことのない、凛とした大人の表情をしていた。先程までの胸の高鳴りとは違う、焦りと、そして悔しさに似た感情が、エフェスの胸に込み上げてくる。
「私、明日、この村を発つの」
予感はあった。それでも、エセルの口から放たれた言葉は、エフェスの呼吸を止めるには、十分すぎた。
「……そう、なんだ」 やっとの思いで、それだけを口にする。
「エフェスには、直接、さよならって、伝えたかったの」
「……また、戻ってこんと?」
「ええ。多分、戻ってはこれないわ。マイムハレムでの暮らしは、私が少し大きくなるまでの間だけって、元々、イマ母様が決めていたみたいだから」
昼間に見せた、エセルの寂しそうな横顔の理由が、今、痛いほどに分かった。エフェスは、彼女を、このまま悲しい顔で、行かせたくない一心で、頭を必死に回転させた。
「だったら! 今度は、おいが、エセルに会いに行っけん!」
「え?」
「カナン王国かなんだか知らんけど、そん国に行けば、会えるっちゃろ? 何なら、おいも色々勉強して、そん国に行けるようになったら、マシューたちも、みんな連れて行ってやる! そしたら、寂しくなかやろうが!」
我ながら、名案だ。エフェスは、少し得意げに胸を張った。 エセルは、一瞬きょとんとした後、くすりと笑い、やがて、声を上げて笑い出した。
「……ふふっ……あはははっ!」
「な、なんだよ。そげな、おかしかったか?」
「ううん! ……すごく、嬉しいの!」
「……なら、よか」
その笑顔に、エフェスの心も、少しだけ軽くなった。
「エフェス。これを、あなたに」
エセルは、そう言って、自らの首にかけていた、小さな丸い石がついたネックレスを外すと、エフェスに手渡した。
「もし、嫌だったら、ごめんなさい。この石、私の角で、できているの」
「え!? 本当か!? ……って、確かに、角の先っちょが、無かね!」
「そこは、もっと前に、気づいてよ…」
「……ごめん」
いつもの、気の置けないやり取り。その当たり前の空気が、今は、どうしようもなく愛おしい。
「このネックレス、絶対に大事にすっけん」
「ええ」
「会いに行く時、絶対に着けていっけん」
「うん。エフェスが大きくなって、別人みたいになっても、それなら分かるわ。良い目印ね」
「目印って、おい」
「……エフェス」
「ん?」
エセルに呼ばれ、振り向いた瞬間、彼女のシルバーブロンドの髪が、目の前に広がり、エフェスは思わず目を閉じた。 唇に、柔らかく、温かいものが触れる。 何が起こったのかを理解するのに、二秒はかかった。 目を開くと、すぐそこに、固く瞳を閉じたエセルの顔があった。 エフェスの思考は、そこで完全に停止した。
唇が、そっと離れる。
「エフェス。私、今夜のこと、絶対に忘れないわ……また、会いに来てね」
そう言って微笑むと、エセルは駆け足で、メルが待つ木陰へと戻っていく。エフェスは、思考が止まったまま、遠ざかっていく彼女の背中に、ただ、ゆっくりと手を振ることしかできなかった。
しばらくして、一人残されたエフェスは、先程までエセルと一緒に眺めていた湖面に、目を向けた。 水面に映る満天の星が、さっきよりも、いっそう強く輝いて見えた。




