エフェス編 第13話 シギロア村とよそ者エフェス
星霊暦五〇四年○月○日、○曜日。
(……鳥の声……?)
途切れ途切れだった意識が、小鳥のさえずりによってゆっくりと現実へと引き戻されていく。 エフェスは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
目に映ったのは、見慣れたガラーシャ村の実家の天井ではなかった。 濃い色の木材がまるで編み込まれるようにして組まれた、素朴だが精緻な天井。そこから吊り下げられた乾燥した薬草の束が、窓から差し込む木漏れ日に照らされてかすかな匂いを放っている。
「……ここは……」 かすれた声を漏らし、起き上がろうとした瞬間、全身に激痛が走った。
「あいたたッ!」 ズキズキズキィン、と骨の芯まで響くような痛み。特に鎧猪の蹴りを受け止めた両腕と、突進を受けた肩口が焼けるように熱い。 彼は荒い息をつきながら、再びベッドにあおむけに戻った。
(……そういや、鎧猪と戦ったっけ……) 記憶が蘇る。 アトレイクスが吹き飛ばされる光景。 自らの決死の一撃。 そして、全てを焼き尽くすような雷の光。
「……アトレイクス……」
そこまで思い出して、彼は周囲を見渡した。 部屋は物が少なく静かだった。壁も天井と同じように木が編み込まれており、まるで巨大な籠の中にいるようだ。ベッドのそばには見慣れない陶器の水差しとコップが置かれている。 そして、丸テーブルの上。そこに畳まれて置かれていたものを見て、エフェスの心臓が跳ねた。 自分の、あの鮮やかな赤い服と、使い古した革の鞍袋。 アトレイクスの鞍袋。
「……あ……」 その存在を認識した瞬間、彼はもう声を抑えることができなかった。
「……アトレイクス……っ!」
涙が溢れて止まらなかった。相棒を守れなかった。自分を庇ってあの巨体に立ち向かっていった、優しいラバ。 『今まで、ありがとう』 最後に見た、あの穏やかな瞳が脳裏に焼き付いて離れない。 どれくらいの間そうしていただろうか。声を殺して嗚咽するエフェスの背中を、窓から差し込む陽光がただ静かに温めていた。
「……うぅ……っ……ごめん……ごめんな、アトレイクス……」
ひとしきり泣き、涙が枯れてきた頃、彼は腕で乱暴に目元を拭った。
(……埋めてやりたか)
相棒の亡骸はあの森にまだ残っているのだろうか。できるなら今すぐにでも駆けつけ、弔ってやりたかった。 彼は悲鳴を上げる体を叱咤し、ベッドの縁に腰掛け、無理やり上体を起こした。 その時、自分が着ている服が村のものとは違う、麻のような肌触りの簡素な薄茶色の寝間着に着替えさせられていることに気づいた。
「……?」 体を検めると、痛む肩や腕、脇腹には手際よく包帯が巻かれている。
(誰かが……助けてくれた……?) そして、胸元に手をやる。
(……あった) 革紐の感触。エセルから託された角の石のネックレスは無事だった。 彼は心の底から安堵のため息をついた。
ベッドから慎重に立ち上がり、コップに水を注ぐ。喉がカラカラに乾いていた。冷たい水が乾いた喉を通り過ぎ、体中に染み渡っていく。 生きている。その実感がようやく湧いてきた。
テーブルの上の自分の服に着替えなければ。 寝間着の合わせを解き、下着姿になった、まさにその瞬間だった。 ギィ、と小さな音を立てて部屋の扉が開いた。
「え? だれ?」
警戒心も何もかもが吹き飛んだ、素っ頓狂な声が出た。 扉の前に立っていたのは一人の少年だった。 エフェスより少し背が高いだろうか。桃色の髪を無造作に切りそろえ、どこか仏頂面でこちらを睨んでいる。服装もエフェスが今着せられているものと似た、簡素な貫頭衣のような服だ。
「……それは、こっちの言い分だっての」 少年がぶっきらぼうに言った。
「……たしかに、そうやね」 エフェスも自分の間抜けな格好を思い出し、素直に頷いた。
「おいはエフェス。……えーっと、介抱してくれてありがとな」 エフェスのやたらと素直な感謝の言葉に虚を突かれたのか、少年は一瞬驚いたように目を見開いた。
「べ……別に俺が介抱したわけじゃねぇ! リーファ姉ちゃんがお前のケガを治療したんだ。てか、早く服を着ろ!」
「ふーん。そうやろな」
エフェスはぶつくさ言いながらも、自分の赤い服に袖を通し始める。
「で、あが名前はなんて言うと?」
「ん? アガナマエは? ……何言ってるんだ?」
「いや、じゃけん、あが名前ばなんて言うとか教えてくれって」
「アガナマエ……あぁ、『名前』か! たく、良く分からない喋り方をしやがって、ちゃんと喋れっての」
「(おいからしたら、あが喋り方が変やけどな……)」
「俺の名前はファラだ。で、エフェス。お前はどこからやってきたんだ? 変な格好の子どもが一人で、明らかに怪しい奴だな!」
ファラの矢継ぎ早の質問に、エフェスは服の帯を締めながら答えた。
「あぁ、おいはマイムハレムのガラーシャ村から逃げてきたんやけど、偶然、鎧猪にでくわしたけど、なんとか倒して……起きたらここっていう感じやね」
「嘘つけ!」
ファラが声を荒げた。
「お前みたいな子どもに、ここ一帯の森の主がやられるわけがない! ますます怪しいやつ!」 ファラがむきになって詰め寄ってきた、その時。彼の背後から、もう一人柔らかな声がした。
「ファラ、いきなりケガしてる子を虐めないの」
そこに立っていたのは、二十代後半ほどの穏やかな雰囲気の女性だった。長く豊かな緑がかった髪を緩やかに結い、腰には薬草を入れた多くの小袋を下げている。彼女の全身からは、マイムハレムの薬草師エリヤと同じ、森と薬草の匂いがした。
「リーファ! だってこいつ嘘つきで怪しいもん。森の主を倒したっていうんだよ」
「おいは嘘はいわん!」 エフェスはムキになって反論した。
「そもそも、おいが嘘を上手につけると思っととか? そいこそ馬鹿よ」 ガラーシャ村での日々が彼の脳裏をよぎる。
「いい嘘つきと悪い嘘つき。悪い嘘つきは人間のクズがやることだって、母ちゃんによく怒られたけんね。おいが嘘をついても、どうせすぐにバレて倍にして怒られるだけやし」
エフェスのあまりにも堂々とした(そしてある意味情けない)その言葉には、不思議な説得力があった。ファラは「く……」と言葉を詰ませる。
「たしかに、馬鹿そうなこいつが嘘を上手くつくイメージがわかない……。でも、森の主を子どもが倒すって、それこそ嘘みたいな話しだろ!」
「信じられない話しだけど、あながち嘘じゃないと思うわ」 リーファが穏やかに会話を引き継いだ。
「私、あの焼き切れた鎧猪を見たけど……この子の持っていた、あの紅い剣で斬ったんだろうなって思ったもの」
「あ!」
リーファの言葉に、エフェスは最も大事なことを思い出した。
「おいのじゃなかけど、おいの持っていた紅い剣はどこやったと!?」
「安心して、下の部屋で預かってるわ」
「怪しいやつのそばに危険物をそのまま置いておく奴がいるか!しかも、お前のじゃないってどういうことだ!」 ファラが当然のように言う。
母と祖父に託された、父へ届けるはずの星剣。それが無事だと聞いて、エフェスはひとまずホッと胸をなでおろした。
「あとで返してもらえるなら、そいでよかよ」
「――それは、できぬ相談だな」
鋭く低い男の声が、リーファたちの背後から響いた。 ファラとリーファがはっと道を開ける。そこに立っていたのは、屈強な体つきをした青年だった。背には弓を携え、その瞳は獲物を射抜くかのように冷たくエフェスを見据えている。
「別に今すぐ返せって言っとらんのに、なんで剣を返してくれんとか! 人のもんば盗むとか!」
「だまれ、よそ者」 その青年は、エフェスの言葉を冷たく遮った。
「貴様が子どもであろうと、あの鎧猪の亡骸のそばであのような剣を持って生きながらえた存在であれば、危険人物として扱うのが当然だろう」
「そうだそうだ!」 ファラが青年の言葉に勢いよく乗っかる。
「う……」
一対三(リーファは中立だが)の状況。そして、何よりも青年の言う「よそ者」という言葉と、その瞳に宿る凍てついた警戒心がエフェスの胸に突き刺さった。
(……こん人たちの目、ガラーシャ村ば襲ってきた、あんアルケテロスの兵士たちとは違う。けど……よそ者ば警戒する目は、同じ……)
ラグザニートたちという「よそ者」がどれほどの悲劇をもたらしたか。それを身をもって知っているからこそ、エフェスは彼らの警戒心を理不尽だと怒ることができなかった。 そして、その思考は彼をより現実的な焦りへと引き戻した。
「……剣はよか。あとで絶対に返してもらうけど、今は返してもらうのは無理やろうけん」 エフェスは一度言葉を切った。
「そいよか、今は何日か分かっか?」
「1月29日だ。なんだよ唐突に」 ファラがぶっきらぼうに答える。
「ありがと、ファラ」
「ふん。答えただけだ」
◇
星霊暦五〇四年一月二十九日、火曜日。
エフェスは指を折って数え始めた。 あの悲劇の日は、1月14日、月曜日。 15、16、17……。
(……15日? 二週間も……経っとる……)
全身から血の気が引いていく。 森を彷徨っていた時は生きることに必死で、時間の感覚などなかった。だが、「15日間」という具体的な数字は、彼にあまりにも残酷な現実を突きつけた。
(母ちゃん……爺ちゃん……!)
フィリピで待っていると、母は言った。だが、これだけの日数が経ってもし自分が現れなかったら? 自分が死んだと思ってどこかへ行ってしまったかもしれない。いや、それよりも、今この瞬間も父ミシュマエルが自分を探して、あの危険な森を彷徨っているかもしれない。
「ごめんファラ!」 エフェスは思考がまとまるよりも早く、ファラの肩を衝動的に掴んでいた。
「わッ! わっ! いきなりどうした! ついに本性をあらわしたかエフェス!」
「違う! そんなことはなかけん! こん村はどこ!? フィリピに急いで行かんばいかんとやけど!」
明らかに動揺しパニック寸前のエフェスの姿に、リーファがその肩を優しく押さえた。
「落ち着いて、エフェス。慌てても状況が好転することはないのよ」
リーファの穏やかで、しかし芯の通った声。それは奇しくも、かつて母マリアが稽古中に焦る自分を諌めた時の言葉とどこか似ていた。 エフェスははっと我に返り、ファラの肩から慌てて手を放した。
「はー……びっくりしたぜ」
「ごめん……。とにかく、こん村の場所ば知りたか。おいはあの剣ば父ちゃんに持っていかんばいけんとさ」
「この村はシギロア村だ。フィリピの村か街かは分からないけど、この村はレイブードヤアルの森でいうなら、ど真ん中だぜ。って爺ちゃんがいってた」
ファラがつらつらと喋りそうになったのを、男が鋭く制した。
「ファラ。喋りすぎだ。お前が話すことではない」
「ご……ごめん、フィンネル」
「ファラ」
青年の名前はフィンネルというらしい。フィンネルはファラを呆れたように一瞥すると、エフェスに向き直ったのでエフェスが訪ねた。
「フィンネル。頼む、フィリピへの行き方ば知っていたら教えてくれんか」
エフェスが名前を呼んだことで、フィンネルはさらに不快そうに眉をひそめた。
「馴れ馴れしく名前を呼ぶな。そして俺は何も答えん。全ては長老様の意向次第だ。それまで俺はお前を監視する」
「長老様……」
エフェスは故郷のオルマ長老のような、物分りの良い老人を思い浮かべた。
「長老様に、どうにかして会えんか?」
「おいエフェス! 人にものを頼むときは、もっと言い方があるだろ!」
ファラがなぜか得意げに胸を張って説教してくる。
「ファラ、はしたないから止めなさい」 リーファが再びファラを諌める。 だが、エフェスはもうなりふり構っていられなかった。フィリピへ行く。その一心で、彼はガラーシャ村でヤコブから少しだけ教わった苦手な「丁寧な言葉」を、必死に頭の中から絞り出した。 そして、目の前の三人に深々と頭を下げた。
「……長老様に。お会いすることが、できんと……でしょうか? お願いしもうすます」
シン、と部屋が静まり返った。 次の瞬間、ファラが腹を抱えて吹き出した。
「ぶはははー! なんだその喋り方! 変なの!」
「ファラ!」 リーファが本気で怒った声を出す。 しかし、エフェスは顔を上げなかった。ファラに笑われようと構わなかった。ただ、この想いが伝わってほしかった。 その真剣な姿は、さすがにフィンネルにも伝わったようだった。彼はチッと一つ舌打ちをすると、不本意そうに、しかしはっきりと告げた。
「……ふん。運が良かったな、よそ者。長老様が、お前が起きたら会いに来させるようにと、言われている」
「えー! エルウィン爺ちゃんにこんな奴を合わせるの、危険だよ! フィンネル!」
「俺だってよそ者を長老様に会わせたくはない。だが、長老様の意向が絶対だ。我慢しろ」
(……会える!)
エフェスは勢いよく顔を上げた。
「そうと分かれば、長老様ば待たせちゃいかんけん、早よ会いに行かんばやね……!」 希望が見え、前のめりに立ち上がろうとした、その瞬間。
ぐうううううきゅるるるるう……!
静まり返った部屋に、盛大な、そしてあまりにも情けない音が響き渡った。 膝から崩れ倒れた後の、エフェスの腹の虫だった。
「は……腹が、減った……」
「たく、騒がしく卑しいやつめ」
ファラが呆れたように言う。
「騒がしいのはあなたの方よ、ファラ」
リーファはそう言うと、エフェスに向かって困ったように、しかし優しく微笑んだ。
「エフェス君、料理を用意しているから、まずは食べなさい」
「あ……ありがとうございます……。ありがたく、いただきます」
エフェスは倒れ伏したまま、力なく礼を述べた。 フィンネルがそんな彼を、どこか憐れむような目で見ている。
「ふん。リーファの薬草料理は体には良いが……可哀そうな奴」
「リーファ姉ちゃんの料理は匂いがエグイからな。存分に苦しめ」
「馬鹿! ファラ! 俺はそこまで言ってない!」
フィンネルの余計な一言に、ファラが致命的な失言を重ねる。 温厚なリーファの顔に、完璧な怒りの笑みが浮かんだ。
「安心してね。二人の分も、ちゃーんとたくさーん用意してるから。みんなで一緒に食べましょうね」
「お……俺はお腹すいてないし」
「俺も今日は、お腹いっぱいだなぁ……」
「そう……。なら、お土産をたくさんたくさーん用意するね。二人とも仲間外れは可哀そうだし」
「あ…いや……」
「……こ……ここで、いただきます」
どうやら怒ったリーファには、この二人もかなわないらしい。 そんなやり取りの中、エフェスはもはや一歩も動けないまま、ただひたすらに懇願した。
「すみません……。料理を、早く……食べたいです……」




