エセル編 第14話 安息の朝と、血の証
504年1月16日(水) 朝
船出の朝は早かった。 もっとも、早かったといっても、これまでの過酷な旅路に比べれば、ノウァーリスの商館での目覚めは王宮に次ぐほどの快適さであり、エセルたちにとっては久しぶりに心から安らげる朝であった。
時刻は六時半。 エセルたちはすでに、タハトン商会の使用人が用意してくれた軽めの朝食――焼き立ての白パンに地元のチーズ、そして新鮮な果物を添えたプレート――をあらかた済ませており、案内役のデボラが来るのを待っていた。
食後の余韻の中、八兵衛が噛みしめるように語りだした。
「いやぁ……本当に、今のような『ただ待つ』というゆったりとした時間は大切ですから、エセルのお嬢も少しは気を抜いて満喫しましょうぜ」
「え? 気を抜いていいのですか?」
エセルは、もしかしたら先日カラッチの朝に母から受けた指導のように、また注意されるのではないかと、チラリと横目でイマの様子を窺った。
「まぁ、完全に気を緩めちまえとは言いやせんがね。これからの船旅は、それこそエセルのお嬢にとっては未体験の中の未体験みたいなもんなんで。後悔のないように、休める時に休むことも大切なんですぜ」
八兵衛は大人の余裕を感じさせるように笑い、エセルの張りつめていた気を優しく解きほぐした。
イマもまた、エセルや皆の旅支度が完璧に整っていることを確認し、穏やかにエセルに声をかけた。
「そうですよ、エセル。準備さえ整っていれば、不測の事態が起きても焦ることはありませんし、私にもあなたに指導をする『心の余裕』が生まれます。カラッチでも言いましたが、一日の始まりをいつでも迎えられるよう準備を終えておくことが、これから関わる相手に対しての最低限の礼儀なのです」
「はい、お母さま」
「ですから、全ての準備が整っている今は、みんなでゆっくりし、案内をしてくださるデボラさんに迷惑をかけず、余裕をお見せすることで、相手への気遣いにもなるのよ。だから、八兵衛の言うように、ゆっくりしましょう」
イマの話は、やはり詳しくもあり多角的な視点であるが、【礼節をもって己を律し、その余裕をもって他者を安心させる】――それは王族や貴族の流儀以前に、人として学ぶべき道義であった。
会話が一段落し、ハムサが部屋に用意されていたお茶を入れようと棚に手を伸ばした時だった。八兵衛が、ハムサが手に取った白磁の茶壺に目をやり、驚きの声を上げた。
「おっと……ちょいとハムサの姐御、その茶壷を見せてくれやせんでしょうか」
「うむ、いいが……どうした? 珍しい物か?」
八兵衛はその小さな壺を受け取ると、愛おしそうに蓋を開け、鼻を近づけた。 ふわりと漂ったのは、懐かしい、しかしこの大陸では嗅ぐはずのない、「香ばしく炒った茶葉」の香りだった。
「いや、こいつぁ間違いねぇ……こんな所で故郷の高級品にお目にかかるとはな」
「え? 故郷? 八兵衛の?」
ハムサが少し驚いて問い返すと、八兵衛はニヤリと笑った。
「えぇ、こいつぁ間違いなく、あっしの故郷『嬉野』のお茶ですぜ。いやはや、偶然とはいえ幸先がいいですねぇ。ハムサの姐御、このお茶を入れるのは、あっしに任せてくだせぇ」
八兵衛はそういうと、慣れた手つきでお茶の準備を始めた。 しかしその作法は奇妙だった。沸騰したお湯をポットにすぐに入れず、一度、人数分の空の器にお湯だけを注ぎ始めたのだ。そして、それをまたポットに移し直すという、一見よくわからない手順を踏んでいる。 エセルとメルが不思議そうに覗き込んだ。
「八兵衛、なんでそんなことをしてるの」
「お前はいったい何をしたいんだ?」
八兵衛はそう聞かれると、流れるように答えた。
「皆さんが普段口にしてたのはおそらく『紅茶』だと思いやすが、こいつは『緑茶』っていってですね、熱々の熱湯だと雑味が出て美味しくなくなるんですよ。だから、こうして少し冷ましてるってわけです」
八兵衛が頃合いをみて、少し温度の下がったお湯をポットに注ぐ。 とたん、普段の紅茶とは違う、炒り豆のような、あるいは深い森のような香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「まぁ、なんて落ち着く趣きのある香りでしょうか。まるで、お日様の下にいるような香りですね」
その香りの豊かさと八兵衛の流麗な作法に、イマから感嘆の声が漏れる。
「へっへっへ。褒められても今は美味しいお茶しか出せませんぜ」
「む、八兵衛。珍しく安直な返しだな」
「メルの姐さんは、逆に冴えてやすね。こいつも、お茶の効果でしょうね」
「ぬッ? 八兵衛め……」
朝からいつものやり取りをしながら、八兵衛はポットを持ち上げると、五つのカップに対して、手前から奥へ、奥から手前へと、少しずつお茶を行き来させながら注いでいく。 「なんでそんな面倒な注ぎ方を?」 という皆の視線に対して、八兵衛はウィンク混じりに答えた。
「こうしねぇと、最初の一杯は薄くて、最後の一杯が渋くなっちまうんでさぁ。『阿倭の知恵』ですよ」
そう言って、全員分のお茶を注ぎ終えた。
エセルたちは八兵衛の注いだ淡い黄金色のお茶を口に含み、おもむろに感想を述べ始めた。
「ん~っ! 美味しい……! すごくホッとする味ね」
「うむ、紅茶とは違うが、喉越しが爽やかだな」
「あら、本当に。心が洗われるようだわ」
皆が穏やかな表情になる中、メルだけが一人、茶碗と戦っていた。
「ぐぬぬぬ……悔しいが、間違いなく美味い……。この豆のような香り、癪に障るほど落ち着く……」
八兵衛の入れたお茶の効果は絶大だった。 美味しいお茶と温かい湯気、そして満ち足りた朝の空気に、まさしく一気に和み空間になり、全員がまったりとしていた。 あまりにもまったりとしすぎていて、扉をノックし、「イマ様たち、デボラでございます……失礼します」と、本当にイマたちが無事なのか心配して入ってきたデボラに気づかずにいたほどだ。
デボラは、イマたちが湯気の中で溶けるようにくつろいでいる姿を見て、安心と一抹の不安を覚えた。
「イマ様……?」
「あ……」
デボラが再び声をかけ、イマたちは(しまった、リラックスしすぎた!)と居住まいを正したが、メルだけはまだ「ほげぇ……」と溶けたままだった。
「ここまでおくつろぎいただけたのであれば、我々としては嬉しい限りです。では、二階の受付けにご案内いたします」
「よ……よろしくお願いいたします」
デボラの大人な対応に救われ、一行は部屋を後にした。
◇
エセルたち一行は受付に案内されたのだが、どうやら昨日タハトンと話した、イマとエセルをハムサ殿とメル殿の『従者』として登録する手続きのことであるらしい。 イマはハムサの従者、エセルはメルの従者として登録するため、それぞれ一枚の丈夫そうな紙が用意された。 羊皮紙のような動物臭さはなく、しかし普通の書き付けよりはずっと分厚い、クリーム色の紙だ。
「これは……随分としっかりした紙ですね」
エセルが指先で触れると、布のような温かみと粘り気がある。
「ええ、『木綿紙』です。船旅の湿気や長期の保管にも耐えられるよう、ボロ布の繊維を煮溶かして漉いた頑丈なものをご用意しました」とデボラが説明する。
エセルは、イマたちが書いているのを参考にして従者証明書にサインをしようとした。
「ええと、私がメルの従者だから、この枠に書けばいいのですね」
「いえ! 私がエセル様の絶対的な従者でございます! ですから、上の所有者の枠にご記入ください!」
書き込もうとしたエセルを、メルが必死の形相で止めた。
「え?」
「メルの姐さん、話しがややこしくなってますぜ。ここでエセルのお嬢を困らせちゃあ、従者失格ですぜ」
「従者失格……ッ!? なんてことだ、私は……私はエセル様の従者として……」
話しがこじれる前に、エセルはサササッと自分が書くべき枠に名前を記入した。 「はいメル! よろしくね!」
「か……かしこまりました! ……ウっ……でもやはり所有者枠に記入するのは忍びないです」
「いいじゃない。メルが私のお姉ちゃんです、という書類って思えば」
「……お姉ちゃん? 私が、エセル様のお姉ちゃん? ……ウヘ、ウヘヘ」
メルの顔がなんともいえないような真顔のまま固定され、口元だけが徐々におちょぼ口の笑みを浮かべながら、不気味に声を漏らしていた。 エセルの言葉でメルの意識はどこかへ旅立ってしまったようだ。
書類の記入は終わったが、まだ手続きが残っていたので八兵衛が続きを担当した。
「さぁさぁ、メル殿はおいておいて、『種族鑑別紙』の仕上げの手続きはどうしますか?」
「種族鑑別紙?」
「エセルのお嬢は、初めてですかね。ざっくりというなら、血による一番の種族証明ができる紙といいますか、自分の血を一滴たらすだけで、自分はどの種族の人間かを判別できるんでさぁ」
「え? そんなに凄い紙があるんですか?」
「凄い紙っていっても、どこにでもある鑑別木の繊維でできてる、昔から存在する紙ですぜ」
「……何かの聖霊の力? 魔法の力なのかしら? 不思議な紙ですね」
八兵衛はありきたりな紙のように説明したが、エセルにとって個人の種族を判別するという、その紙は非常に興味深かった。
エセルが種族鑑別紙に感動している横で、デボラが声を潜めて説明を始めた。
「私はタハトン様から、ご要望があれば融通を利かせてもかまわないと伝えられております」
その言葉の裏の意味を察したのか、イマが真剣な雰囲気を漂わせ答える。
「お気持ちはありがたいですが、我々はアルケテロス教圏以外では犯罪者ではありません。捏造はせず、正式な手続きを取りましょう」
「ですね。阿倭で再度種族鑑別紙の手続きを行うこともあるでしょうし、ノウァーリスに責任が伴うような行いをしては、恩を仇で返す事態になってしまいますしね」
ハムサもイマの言葉に同調する。 デボラは恭しく頷いた。
「お心遣い痛み入ります。では、イマ様、エセル様、こちらの種族鑑別紙に血を一滴いただけますでしょうか」
デボラが取り出したのは、銀色の小さな筒状の器具だった。
「バネ仕掛けで一瞬だけ針が出ます。痛みはほとんどありませんよ」
カチッ、という小さな音と共に、エセルの指先に赤い玉が浮かぶ。本当にチクリともしなかった。 イマとエセルは、同時に種族鑑別紙に血を落とした。
その瞬間。 紙の表面に落ちた血が、まるで生き物のように薄く広がり、鱗のような模様を描き出した。そして、油膜の影響か分からないが、鮮やかな虹色の光沢を放ち始めたのだ。
「こりゃあ、見事なもんですね」 八兵衛が感嘆のため息をつく。
「竜民族の反応は初めて見ましたが、ここまで綺麗ですと、力ある種族だと周りが思うのも仕方ないですぜ」
「当然だろうが八兵衛! ここまで美しい模様が浮かぶのはイマ様とエセル様だからだ! 私の色なんて、鈍いどどめ色の油膜だ!」
「でしょうね」
エセルは、初めて自分の血と種族鑑別紙が見せる反応を見て、その美しい模様に対してではなく、母と同じ反応であったことがとても嬉しく、ついそのまま本音がこぼれた。
「あたりまえのことですが……お母様と同じで嬉しかったです」
「フフフ。もちろん私もよ、エセル。でも、あなたは少し違うわ」
イマは優しく微笑み、二枚の紙を見比べた。
「ほら、貴女のほうが私よりも鮮やかに光っているわね。きっと、お父さんの血も入っているからだわ」
イマの言葉に、皆がイマとエセルの種族鑑別紙をじっくり見比べ始めた。
「おお、なるほど、遺伝の関係で違いが出るもんですね」
「……若さの違いかもしれませんよ?」
ハムサがボソリと呟く。ピキリ、とイマの笑顔が凍った。
「ハムサ! 余計なことは言わない!」
「し、失礼しました!」
デボラは笑いを堪えながら、その美しい虹色の模様を従者証明書に転写・記録していく。
「まぁ、親子同時に種族鑑別紙を行うなんて滅多にありませんからね」
「噂では、自分の子なのか信じられない貴族たちが、密偵を雇って自分の子か探らせるために、ひそかに種族鑑別紙が使われたというような話しもありますぜ」
「八兵衛、そこはドロドロした話しで水をさすな」
メルが呆れたように突っ込みを入れる。
「こりゃまた失礼」
エセルはひとつの紙に、確かな血の絆が情報として表れることに感動していた。やはりこの紙は皆が思っている以上に凄い紙なのではないか。 エセルはその不思議で美しい模様を見つめながら、これから始まる海への旅路に、確かな希望を感じていた。
すべての手続きを終えた一行は、商会の馬車に乗り込み、いよいよカヴァラの港へと向かうのだった。




