エフェス編 第11話 塩の味、他山の原石
星霊暦五〇四年○月○日、○曜日。
いったい何日が過ぎたのだろうか。 一週間はとうに経ったはずだ。しかし、もはや過ぎ去った日数を数えることに意味などなかった。このどこまでも続く鬱蒼とした森を南に抜けられるかどうか。人が住む村か街に辿り着けることこそが、全てだった。
エフェスとアトレイクスは、未だレイブードヤアルの森を抜けられずにいた。
何度か空が僅かに開けた川に出たことで、太陽の位置を確認し正確に南下することができた。渇いた喉を潤し、革製の水筒を満たすこともできた。しかし、その幸運も長くは続かなかった。行く手には、見たこともないほど巨大な滝が白い飛沫を上げながら轟音を響かせ、完全な行き止まりとなって彼の前に立ちはだかったのだ。
「……まじかよ」
自然が作り出した、あまりにも雄大で、そしてあまりにも無慈悲な絶壁。その光景は、彼のちっぽけな希望をいとも容易く打ち砕いた。 東へ戻ればマイムハレムに近づいてしまう。北は考えるまでもない。残された道は西しかなかった。彼は滝から流れ出る比較的浅い渓流に沿って、再び西へと歩み始めた。
鞍袋に入っていた干し肉と黒パンも、大切に少しずつ食べてきたが、それももう五日ほど前に食べきってしまった。川沿いにいる間は、鞍袋に入っていた手製の釣り糸と釣り針で即席の釣り竿を作り、どうにか魚を釣り上げて飢えをしのいだ。しかし、この深い森の魚は故郷の川で見たものよりも大きく、そして力が強い。二度ほど釣り糸ごと獲物を持っていかれ、今や残りの仕掛けはあと一つだけになっていた。
何より、エフェスを精神的に追い詰めたのは、食料が完全に底をついた日に彼が犯した一つの過ちだった。
空腹に耐えかねた彼は、アトレイクスが美味そうに食んでいる瑞々しい野草に目をつけた。草食動物の血を引いていた友人のモーのことを思い出し、これなら大丈夫だろうと安易にその葉を口にしたのだ。 結果は悲惨だった。猛烈な腹痛と下痢に襲われ、無駄に体力を消耗し丸一日動けなくなった。幸いにも毒草ではなかったが、その自業自得ともいえる行為で、彼は一度死の淵をさまよった。
体に力が入らず朦朧とする意識の中、彼は母の姿を思い出していた。母が、よく山で採ってきたアクの強い野草を、鍋で塩水と共に煮ていた、あの光景を。
「……塩……」
そうだ、塩だ。 幸いにも鞍袋の中には、ヤコブが「旅の清めだ」と言って持たせてくれた瓶詰めの塩がまだ半分以上も残っていた。鍋はない。しかし、ガラーシャ村の狩りでは竹の節を器や鍋代わりにすることがある。 彼は最後の力を振り絞り、幸運にも近くに生えていた竹を切り倒し、どうにか野草の塩茹でを作り上げた。
意を決してそれを口に運ぶ。
その瞬間、彼の全身に衝撃にも似た感動が駆け巡った。 味はない。ただ、ひたすらに塩辛いだけだ。しかし、あれほど青臭くえぐみの強かった野草が食べられる。それどころか、飢えと疲労に蝕まれた体が、心の底からこの素朴な塩味を欲しているのが分かった。 料理とは、まるで魔法なのだ。ただ焼くだけではない。塩を使い熱を加えることで、毒を消し栄養に変える。生きるための「知恵」。その本当の意味を、彼はこの時初めて腹の底から理解した。
◇
それからさらに数日が経った。 エフェスは相棒に声をかける。
「アトレイクスも、少し痩せたか?」
「ぶるる……」
言葉は分からなくとも、この困難な旅路を共に乗り越える中で、エフェスはアトレイクスが何を言いたいのか不思議と分かるような気がしていた。
何度心折れそうになっただろうか。どれだけ歩いても変わらない森の風景。しかしエフェスは、それでも足を前に進め続けた。森での生活に慣れすぎたせいか、あるいは諦めの境地か、彼の心にはいつしか奇妙な余裕さえ生まれていた。
彼は鞍袋の中から二つの石を取り出した。 一つは、母がお守りとしてこっそりと入れてくれていた、小指の先ほどの美しいピンク色の魔法石。 もう一つは、あの巨大な滝の近くで偶然見つけた、同じような色合いを持つ拳ほどの大きさのただの石ころ。原石、というやつだろうか。
「こん石は、母ちゃんが持っとった魔法石と同じ石かな? あん馬鹿でかい滝の近くにもあるとは、面白いもんやね」
「みんなでよく魔法石探しもしたけど、こげな大物は初めてばい」
アトレイクスは腹の足しにもならない石には興味がないようだった。エフェスの独り言だけが静かな森に響く。
「魔法石拾いでは面白い話があってさ。マシューが『やった! 金! 金を見つけたぞー!』って大喜びして、オルマ爺ちゃんに見せに行ったら、『こりゃ金ではない。黄鉄鉱、いわば火打石じゃ』って言われて。本当にマシューのがっかりした顔は、ざあま凄かったとぞ」
ふっと、笑みがこぼれる。
「……まあ、おいも金や魔法石の良さはまだよく分からっとらんけど。母ちゃんたちが大事にするもんやけん、こん石ももしかしたら凄かかもしれんばい」
自分が知らないだけで、本当に価値があるものはどこにでもあるのかもしれない。エフェスは自分の手の上にある、まだ輝きもしない無骨なピンクと白の原石を、じっと見つめた。
「っ!」
その時だった。 エフェスの鼻腔がある匂いを敏感に捉えた。 遭難生活で研ぎ澄まされた嗅覚が、その匂いの正体を瞬時に彼に告げる。 胃袋が、ぐるる、とうめき声を上げた。
「……こいは、煙……肉料理の匂いばい!」
「ぶる?」
「もしかしたら、こん森の近くに誰かが住んじょるかもしれんぞ!」
楽観的な希望はしないと決めていたはずだった。しかし、この空腹を根源から刺激する温かい匂いは、彼の心を躍らせるには十分すぎた。 どんな人間がいるかなど分からない。だが今は、ただ生き長らえることができるというその喜びが込み上げてくる。
ガサッ!
すぐ左後ろの茂みから音がした。 エフェスが顔を向ける。 そこにいたのは人間ではなかった。 マシューたちと成人式の時に狩ったあの猪よりも遥かに大きく、そしてその体毛がまるで岩のように硬質化した、無骨な猪。
「ブォォオオ!」
鎧猪。 匂いに気を取られ、周囲への警戒を完全に怠っていた。
「しまった!」
エフェスはとっさに身構えた。しかし、突進してくる鎧猪はその巨体からは考えもつかないほどの速さで迫ってくる。 本能的に体を捻り、回避する。 その直後だった。 彼は気づいた。 自分の右隣には、アトレイクスがいたことを。
「アトレイ……」
ドゴォンッ!
無残な音が響き渡った。 アトレイクスの体が、まるで木の葉のように宙を舞う。巨木の根に何度も体を叩きつけられながら、吹き飛ばされていくその姿。
「アトレイクスゥーーーッ!!!」
相棒の元へ駆け寄ろうにも、目の前には鎧猪の巨体が立ちはだかっていた。 エフェスはショートソードを抜き放ち、その分厚い皮に覆われた後ろ脚に斬りかかった。
「こん猪が! そこをどけ!」
ガギンッ!
聞き慣れた肉を断つ感触ではない。硬い岩を殴りつけたかのような鈍い衝撃が、腕を痺れさせる。
「なッ!」
エフェスが体勢を崩した、その隙を鎧猪の尻尾が鞭のようにしなった。 バシンッ、と棒で殴られたような衝撃が右肩に走る。 ズキズキと骨の芯まで響くような痛み。しかし、ここで引くわけにはいかない。 鎧猪が振り返る、その前に。もう一度、首筋に向けて自らの必殺の剣を繰り出した。
「野獣二段切り!」
ガギギィン!
しかし、逆袈裟に振り抜いた剣は鎧猪が僅かに頭を傾けたことで、その巨大な牙に阻まれた。 身のこなしの速さと頑丈さ。そして、この巨体。明らかに普通の猪ではない。
(こん森の主か、暴れものか!)
横目でアトレイクスを見る。弱々しくも、まだ動いてはいる。 生きている。そう確認できた、その矢先。 鎧猪が尻尾を立てながら、前足で地面を掻き始めた。
(……くる!)
突進の予備動作。 しかし、そのスピードは彼の予想を遥かに上回っていた。 木々の枝をもろともせずに折り散らしながら、猛スピードで突っ込んでくる。 エフェスはその動きを完全に避けることができず、肩口でその衝撃を受け流した。
ドンっ!
「がはッ!」
突き飛ばされ、地面を転がる。口に入った土を吐き出す。
(……なんやあの速さは……剣で切ろうとしてもダメやし……動きに遅れるとやられるばい……いったいどうすれば……)
絶望的な状況で、彼は思い出していた。 母とのあの理不尽な鍛錬の日々を。 そしてゲデオンのあの無骨な教えを。
活路はまだある。 彼はゆっくりと、しかし確かな意志を持って再び立ち上がった。




