エセル編 第13話 フィリピ街の表と裏
星霊暦五〇四年一月十五日、火曜日の夜。
扉の先は、ガラーシャ村の集会所よりも遥かに広い、大広間だった。 ロビーで感じたような、目を射るような派手さはない。華美な装飾は、壁にかけられたタペストリーや、床に敷かれた絨毯のアクセントのみに留められている。むしろ、全体を支配しているのは、磨き上げられたマホガニーの壁と、重厚な調度品が醸し出す、威圧的なまでの落ち着きだった。 部屋の奥には、カーテンがゆったりとかけられた大きな窓があり、その外のデッキからは、フィリピの港を彩る無数の灯り、すなわち夜景が一望できた。
部屋の中央には、十人ほどが座れる、清潔な白布がかけられた長テーブルが置かれ、その周りには、背もたれの高い上質な椅子が用意されている。 そして、そのテーブルの手前側、いわゆる下座側の真ん中に、一人の男が、一行を待っていた。
(あの人が、オラム・タハトン……!)
エセルは、その男から目を離すことができなかった。 ダリオやデボラが絶対の忠誠を誓うに足る、圧倒的な貫禄。オールバックに整えられた黒髪と、威厳をたたえた口髭。その姿は、一目で、この場を支配する者だと分かった。 服装は、ダリオやデボラのようなロゴス教圏のものではない。むしろ、アルケテロス教圏の貴族が着るような、上質で暗い色のフロックコートに近いものを、隙なく着こなしている。 その瞳は、ダリオの鋭さとはまた違う、全てを見通すかのような、深く、静かな知性を感じさせた。
オラム・タハトンが、その席からゆっくりと立ち上がった。
「ガラーシャ村のお客人、ようこそフィリピへ。私が、オラム・タハトンと申します」
その声は朗々としているが、底知れぬ響きを持っていた。歓迎しているのか、値踏みしているのか、その表情からは読み取れない。
「タハトン様、お招きありがとうございます。わたくしが、一行の総括をしておりますイマです。こちらは娘のエセル、そして従者のハムサ、メル、八兵衛です」
イマが、一歩も引けを取らない堂々とした様子で、全員を紹介する。
「これはこれは」
オラムは、イマからエセル、ハムサ、メルへと視線をゆっくりと動かし、満足そうに、あるいは獲物を見るように頷いた。
「ダリオの報告通り、お美しい女性が四人も集まれば、たしかに目立ちますな。八兵衛殿も大変でしょう」
「お気遣い痛み入りやす。タハトン様の仰る通りで、目立たねえってのは毎日の難題でさ」
八兵衛が、腹を探るように軽口で返す。オラムは口角だけで笑った。
「さあ、立ち話もなんです。長旅でお疲れでしょう。こちらのお席へどうぞ」
「よろしいのですか?」
イマが、一行の汚れた旅装を気遣うように尋ねた。
「私たちは、旅で服も汚れておりますが」
「無理やりお呼びしたのは我々です。それに」
オラムは、意味深に目を細めた。
「あなた方が着飾っては、それこそ町中の噂になってしまう。『目立たない』ことが、今のあなた方にとっても最優先事項でしょう? このままが良いんです」
その言葉に、エセルは喉をごくりと鳴らした。やはり、こちらの事情をどこまで掴んでいるのか分からない。 一行は、オラムに勧められるまま、テーブルの上座側へと案内された。エセルは、席に着く寸前、窓の外のデッキに、ダリオが腕を組んで、こちらを逃がさないように立っている姿を確認した。
テーブルには、一行五名とオラムの、計六名分の食器が用意されており、どうやら、ここでコース料理が振る舞われるらしい。 すぐに、控えていた二名の給仕の女性が、水差しを持って現れ、全員のグラスに、透き通った冷たい水を注いで回った。 全員に行き渡ったのを見計らい、メルが、イマとオラムの顔を交互に見て、きっぱりと言った。
「タハトン様、イマ様、お先に失礼いたします」
毒見役の作法だ。メルは、鋭い視線をオラムに向けたまま、自らのグラスを手に取った。 しかし、次の瞬間、メルが取った行動は、張り詰めた空気を打ち破るものだった。
ゴクッ、ゴクッ……プハー!
毒見として、ほんの少し口に含むだけかと思いきや、よほど喉が渇いていたのだろう。メルは、グラスの冷たい水を、一気に、心の底から美味しそうに、飲み干してしまったのだ。
「……フッ」
オラムの肩が、小さく震えた。
「ハハハ……! 豪快な御仁だ。毒見役が真っ先に喉を潤すとは、いやはや」
オラムの笑い声に、少しだけ空気が緩んだ。だが、エセルの緊張は解けない。オラムの目は、笑いながらも冷静に一行を観察しているように見えたからだ。
◇
絶妙なタイミングで、給仕たちが最初の一皿を運んできた。 冷たい大理石の皿に、薄くスライスされた砂漠魚の燻製が、花びらのように並べられている。添えられているのは、宝石のように輝く紫オリーブの塩漬けと、真っ白な山羊のチーズに黄金の蜂蜜を垂らしたもの。 ロゴス教圏の豊かな食文化を示す、塩気と甘みの調和がとれた、美しい前菜だった。
「どうぞ。フィリピ自慢の味です」
オラムが勧める。 メルが、さっそく毒見として、燻製を一切れ、口に放り込む。次の瞬間、彼女の表情が「こ、これは!」と、至福に輝いた。
「うまい! なんて濃厚な旨味……!」
メルは、ここがマフィアのボスとの会食であることも忘れたかのように、次々と料理を口に運んでいく。 エセルも恐る恐る口に運ぶ。 ……美味しい。間違いなく絶品だ。燻製の香りとチーズのコクが口の中で溶け合う。 だが、喉を通らない。 正面に座るオラムの視線が、美味しい料理を「砂」のように感じさせてしまうのだ。
「ところで、イマ様」
オラムが、食事の手を止めずに切り出した。
「ダリオの話では、アルケテロス教の兵士たちを一蹴されたとか。……ただの旅人にしては、あまりにも手際が良すぎる」
来た。尋問だ。 イマは優雅にナプキンで口元を拭い、静かに答えた。
「辺境の田舎暮らしが長うございましたので。魔物から身を守る術は、嗜みとして身につけております」
「ほう、嗜み、ですか。……その嗜みで、魔法も詠唱なしに操ると?」
「……!」
エセルの心臓が跳ねた。昨日の戦闘の情報まで、すでに筒抜けなのだ。
「この辺りでは、そのような力を持つ者は稀です。……アルケテロス教が血眼になって探す『女たち』というのも、頷ける」
オラムは、グラスを揺らしながら淡々と言葉を紡ぐ。
「私は、有能な人間は好きですが、トラブルの火種を持ち込まれるのは好みません。……あなた方は、我々にとって『益』になる客なのか、それとも『災い』を呼ぶ客なのか。そこを見極めさせていただきたい」
明確な最後通告だった。 場の空気が再び凍りつく。 その中で、ただ一人、メルだけが「おかわりをいただけますか?」と給仕に空の皿を差し出している。 そのあまりの空気の読めなさに、八兵衛が「姐さん、あんた大物すぎるぜ……」と小声でツッコミを入れたが、不思議とそれが、エセルたちの呼吸を繋いでくれていた。
重い沈黙の中、次の料理、スープが運ばれてきた。 素焼きの器に入った、湯気の立つ「ハリラ」。ひよこ豆とレンズ豆をトマトで煮込み、クミンやコリアンダーなどの香辛料を効かせた、ロゴス教圏の伝統的なスープだ。 旅で冷えた体に、その温かさとスパイシーな香りが染み渡っていくはずだった。 しかし、エセルはその豊かな香りでさえも、喉元の緊張を解くには至らないと感じていた。温かいスープの味が、なぜだか少し、しょっぱく感じられる。自分の心が冷え切っているせいだと、エセルは悟った。
主菜である羊の脚肉のローストが運ばれてくる頃、八兵衛が意を決したように口を開いた。
「タハトン様。あっしはずっと疑問に思っていたんですがね。タハトン・ファミリーは『裏社会組織』だと聞いていた。ですが、実際は街の治安を守り、こうしてギルドの運営もしている。……あんたらは、一体何なんですかい?」
オラムはナイフを置き、面白そうに八兵衛を見た。
「簡単な話です。行政の手が届かないこの土地で、秩序を守るには『力』がいる。我々は地元の自警団であり、同時に、法で裁けぬ悪を裁く必要悪でもある」
「表と裏、両方でこの街を支配していると?」
「『支配』ではありません。『管理』です。行政もそれを分かって黙認している。……だからこそ、我々のシマで勝手な真似をするアルケテロス教のような連中は、許しておけないのです」
オラムの言葉には、確固たる信念と、強者特有の傲慢さがあった。 この男の機嫌を損ねれば、この街で生きていくことはできない。エセルは、この「社会の裏側」の現実をまざまざと見せつけられていた。
「さて、イマ様。本題に入りましょう」
オラムが、鋭い視線をイマに向けた。
「あなた方は、これからどこへ向かわれるおつもりで?」
イマは一瞬ためらったが、ここで嘘をついても無駄だと悟ったのだろう。まっすぐにオラムを見返した。
「……阿倭列島へ向かいたいと考えております」
「阿倭、ですか」
オラムは少し考える素振りを見せた。
「ハムサ殿とメル殿はギルド証をお持ちだ。八兵衛殿も問題ないでしょう。しかし……ギルドに所属していない一般人、それも身分証のない方々の入国となると、正規のルートでは不可能ですな」
やはり。エセルは唇を噛んだ。
「ですが、抜け道がないわけではない」
オラムはニヤリと笑った。
「イマ様とエセル様を、ハムサ殿たちの『従者』としてギルドに登録するのです。そうすれば、一行として入国が可能になる」
「そ、それは……可能なのでしょうか?」
「ええ。タハトン・ファミリーの口利きがあれば、書類の手配など造作もない」
希望の光が見えた。だが、タダでそんなことをしてくれるはずがない。 イマが、緊張した面持ちで問う。
「……して、タハトン様。その対価として、我々に何を求められますか?」
エセルも身構えた。金か、情報か、それとも……。 オラムは、じっとイマの目を見つめ、それからエセルの顔を見た。 長い沈黙。 メルが骨付き肉を噛み砕く音だけが、部屋に響く。
やがて、オラムはふっと表情を緩めた。
「……一つだけ、教えていただきたい」
「なんでしょうか」
「ガラーシャ村の……ヤコブ殿は、ご息災ですか?」
「……え?」
エセルたちは、その名前に呆気にとられた。 マフィアのボスの口から、なぜ、辺境の村の長老の名前が?
「な、なぜ、ヤコブ殿のことを……?」
イマが戸惑いながら尋ねる。 オラムは、それまでの威圧的な仮面を脱ぎ捨て、まるで少年のように懐かしむような、優しい目を向けた。
「実は、私はトーダー教徒なんですよ」
「「「えぇッ!?」」」
その一言に、エセル、メル、そして八兵衛が、思わず声を上げてしまった。 オラムは、驚く一行を見て、楽しそうに続けた。
「子供のころ、ひどい目に遭っていたところを、ヤコブ殿に助けられましてね。以来、あの方を『親父』のように慕っておりました。……息子のミシュマエル殿とも、昔はよく遊んだものです」
「なんと……!」
イマが、驚きと安堵のあまり、椅子に深く沈み込んだ。 先ほどまでの、喉元に刃を突きつけられるような緊張感が、嘘のように霧散していく。
「まさか、タハトン様がヤコブ殿のご友人だったとは……」
「ハハハ。ガラーシャ村からのお客様に、野暮な尋問をして申し訳なかった。……ですが、アルケテロス教が動き回っている今、慎重にならざるを得なくてね」
オラムは悪戯っぽく片目をつむった。 その時、最後のデザートが運ばれてきた。 小さなひしがたの菓子、「バクラヴァ」。
「さあ、召し上がってください。とびきり甘いですよ」
エセルは、安堵のため息とともに、その菓子を口に運んだ。 パイ生地のサクサクとした食感と、濃厚なナッツの風味。そして、脳髄を痺れさせるような、強烈で華やかなシロップの甘さ。 先ほどまでは味がしなかった料理が、今は涙が出るほど美味しく感じられる。 緊張の糸が切れたエセルに、その甘さは「救い」そのものだった。
「……ヤコブ殿には、感謝しないといけませんね」
イマが、心からの微笑みを返す。 オラムもまた、深く頷いた。
「ええ。『感謝』は、我々の教義ですから」
そしてオラムは、ふと思い出したように、しかし真剣な眼差しで付け加えた。
「それと、イマ様。ご安心ください。ガラーシャ村には、私の息のかかった諜報員を数名、早急に派遣しておきましょう」
「!」
「アルケテロス教の動きがきな臭い。彼らが何をしでかすか分かりませんからな。ヤコブ殿には、返しても返しきれない恩がある。村を守るため、我々も陰ながら力を尽くします」
その力強い言葉に、イマは再び深く頭を下げた。
「……なんと、お礼を申し上げてよいか。タハトン様、私からも、心よりお願いいたします」
フィリピの夜景を背に、大人の駆け引きと、思いがけない縁が交錯した夜。 エセルは、甘いバクラヴァの味と、頼もしい味方の存在を噛み締めながら、この「表と裏」を持つ不思議な男のことを、生涯忘れないだろうと思った。




