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星輪のギメルス  作者: アドム・ザナヴ
第二章 エフェス編 星なき夜の火種  エセル編 北辰の望郷
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エフェス編 第7話【マイムハレムの悲劇】 最後の朝

星霊暦五〇四年一月十四日、月曜日。


夜の闇がまだ森の木々を濃く染めている早朝。エフェスは、小川のせせらぎだけが響く静寂の中、息を殺して茂みに潜んでいた。昨夜、子供の頃の遊びを思い出しながら仕掛けた罠が、見事に獲物を捉えている。しなやかな若木の枝が大きくしなり、その先端に結わえられた蔓の輪が一羽のウサギの足を宙吊りにしていた。 暴れることもなくぐったりとした獲物を見るエフェスの目に感傷はない。これが森で生きるということだ。彼は手慣れた様子で蔓を解くと、礼儀正しく、しかし感傷なくその命を絶った。


草を束ねて作った小さな草どまりの小屋に戻ると、かまどには熾火が静かに燃えている。火を絶やさないことも森での重要な知恵の一つだ。エフェスは獲物を携え、再び小川のほとりへと向かう。ショートソードとは別に腰に下げた携帯ナイフを器用に使い、岩場で血抜きと解体を始めた。その手際は村の大人たちから教わった通りの無駄のない動きだった。 肉の処理を終えると、家出の際に拝借してきた愛用のフライパンと油を取り出す。森で摘んだ香りの良い薬草を肉に擦り込み、同じく懐から取り出した岩塩をぱらぱらと振りかけた。熱せられたフライパンの上で肉がジュウ、と音を立て香ばしい匂いが立ち上る。


「うさぎさん、草さん、いただきます」


小さな声で感謝を捧げ、焼き立ての肉にかぶりつく。熱い肉汁が口の中に広がり、薬草の風味が鼻を抜ける。


「んー……天才。我ながら、うまかー」

自画自賛の言葉がぽつりとこぼれた。だが、その言葉に応える声はない。賑やかだった家の食卓とは違う、あまりにも静かな朝食。満腹感がもたらす幸福と孤独がもたらす寂しさが、ないまぜになって胸に広がる。 食事の後片付けを終え、草どまりの小屋の中でごろんと寝転がる。編み上げた草の天井を見上げていると、ふと冷静な思考が頭をもたげた。 家出をしてからもう二泊もしてしまった。


(……戻りたくなかぁ……)


口ではそう呟いてみるが、本心は違う。本当は帰りたい。マリアの作った温かいスープが飲みたいし、今はまだ帰ってきていないが父ミシュマエルのくだらない冗談や、祖父ヤコブの何度聞かされたか分からないトーダー教の教えが聞きたい。 だが、帰れない。母にどれだけ怒られるか想像もつかなかった。拳骨や尻叩きくらいなら慣れたものだ。でも、今回は違う。魔法が使えないことへの苛立ちを完全に八つ当たりで母にぶつけてしまった。自分が全面的に悪かったと分かっているからこそ、今更どの面を下げて帰ればいいのか分からない。それは恐怖というよりも、自分自身の過ちに対する耐えがたいほどの羞恥心だった。


……いや、やっぱり怖いものは怖い。昨日よりも、家に帰った時の母の顔を想像するのがもっと怖くなっている気もする。 そんな自問自答を繰り返しながら、エフェスはごろごろと寝返りを打つ。やがて思考の疲れと満腹感が、彼を深い眠りの中へと引きずり込んでいった。





エフェスが眠りに落ちた頃、関所近くに陣取るアルケテロス教開拓軍の野営地では不穏な空気が渦巻き始めていた。大きな天幕の中心で、一人の男が玉座のように組まれた椅子にふんぞり返っていた。無精髭の伸びた顎、ぎらぎらと欲望に濡れた金色の瞳。他の兵士たちとは明らかに違う、上等な素材で装飾された黒い軍服をだらしなく着崩している。この部隊の隊長、ラグザニート・ハグナーだ。


「おい」


ラグザニートの低い声が響く。傍らに控えていた猪のようにずんぐりとした体格の男が、即座に反応した。兜で隠しきれない硬く逆立った黒髪。その副官は常に冷静沈着な表情を崩さない。


「ゲルド。あの博士、メハンデスはどこへ行った」

「はっ。博士は現在いつものように、川周辺で鉱石の調査を行っております」


その報告に、ラグザニートは、ちっと大きく舌打ちをした。

「ふん……くだらん。石ころ探しに夢中になるとは、狂った老いぼれめ」

「まあまあ隊長。あれでも博士は我々の優れた魔法機器の多くに関わっておられる重要人物ですよ」 ゲルドと呼ばれた副官がなだめるように言う。


「はっ! 俺の邪魔さえしなければどうでもいい。むしろその方が好都合だ」


ラグザニートが不敵に笑った、その時だった。天幕の入り口からしなやかな体つきの女兵士が猫のように滑り込んできた。長身でモデルのような体躯。彼女はラグザニートの側まで寄ると、その耳元で甘く囁いた。


「隊長。あたし、もうこんな田舎、飽きちゃいましたわ。早く南の街の暖かい寝台(ベッド)に戻りましょうよ。……ねえ隊長も、そろそろあたしの体にも飽きてきている頃でしょう? 久しぶりに場所を変えて思いっきりスッキリしましょうよ」


その挑発的な口調と、上官を上官とも思わぬ態度。斥候兵のエルザは、この部隊のもう一つの歪みを象徴していた。 その色めき立った雰囲気に、天幕の隅で武具の手入れをしていた二人組の巨漢が反応した。サイの民特有の分厚い皮膚を持つ、岩塊のような兄弟だ。


「エルザさん! もしよろしければ俺たち兄弟が今宵のお相手をしますぜ! と、ボリス兄貴も申しております!」

声を発したのは、兄より一回り小さいが目つきの鋭い弟の方だった。


「隊長の後で、あんたらみたいな雑魚二人を相手にしたってこっちが萎えるだけなのよ。分かってる、アイザックの坊や?」

「そんな! 俺たちは、いやこの隊の野郎ども全員は、お二人の夜伽のせいで、もう限界なんです! 勘弁してください! と、ボリス兄貴も申しております!」

「あら、あたしたちを“おかず”にして自分で慰めておけばいいじゃない」

「俺たちは、おかずじゃなくて主食が食べたいんです! と、ボリス兄貴も申しております!」


弟のアイザックがまくし立てる横で、兄のボリスは、こくこくとただ無言で頷いている。 ラグザニートはそんな部下たちのやり取りを止めるでもなく、ただ退屈そうに眺めていた。この部隊に軍としての規律など、もはや存在しなかった。


「……俺も、飽きたな」


ラグザニートがぽつりと呟いた。


「『新たな資源発掘調査隊』だ? 笑わせる。辺境のならず者をねじ伏せる任務は最初のうちは楽しめた。だが、砂漠やら森やら、こんな肥溜めのような村やら……いい加減長すぎた」


ため息をつき、ラグザニートは話を続ける。


「その上、今ここで『待機』だと? あの奇天烈博士は何様のつもりだ。権威があるのかどうか知らんが、旅先ではただの観光じじいじゃねえか」

「隊長。ここは辺境の地。我々の他には誰もおりませんよ」 ゲルドが静かに、しかし意味ありげに進言した。その言葉の意味をエルザが引き継ぐ。

「ええ。例えば、博士が調査中に不運にも原住民に殺されてしまった……とか。我々は博士の弔い合戦のためにやむなく村と戦った。そういう筋書きなら帝国も教会も、きっと納得してくださいますわ」


そのサディスティックな提案に、バルガス兄弟が歓声を上げた。

「エルザさん、怖い! でも、とても冴えた案ですね! と、兄貴も申しております!」

「まあ、博士を殺さずとも先に村を潰してから、後で適当な理由を博士に信じこませる手もあるわ。あたしはどちらでもよろしくてよ」

エルザは心底楽しそうに、艶然と微笑んだ。 ゲルドがラグザニートの顔を窺う。


「いかがいたしましょうか、隊長」 五秒ほどの沈黙。

ラグザニートの口元が醜く歪んだ。


「よし……。ガラーシャ村は、皆殺しだ。女を抱きたい奴は、殺す前に楽しんでこい」


「「「おおーーっ!!」」」

獣のような雄叫びが天幕の中に響き渡った。


その歓声から少し離れた草原で、一体の小さな人影が恐怖に体を震わせていた。 大きなゴーグルを額にかけたホビット族の青年。彼もまたアルケテロス教開拓軍の制服を着ていた。薬草を採集していた彼の手から、摘んだばかりの薬草がぱらぱらと地面にこぼれ落ちる。 彼の腰に下げられた魔法通話機から、今まさしくラグザニートの非道な命令がノイズ混じりに聞こえていたのだ。


『――よし……。ガラーシャ村は、皆殺しだ。女を抱きたい奴は、殺す前に楽しんでこい』


青年は震える手で慌てて通話機のスイッチを切った。血の気が引き、顔が真っ青になる。そして、川のある方角へと必死の形相で目をやった。


「まずい……。早く、メハンデス博士に知らせなければ……!」


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