ハン
これは。
彼女が死ぬまでの2年間の話だ。
数多存在する銀河の一つに、とある不思議な力を持つ銀河がある。国々が星をめぐりその力を使い争い、人々と共に消滅と誕生を繰り返していた。
その中のひとつの国「セイト」は、鍛え上げられた軍と、その力により国の平和を守っていた。
その「セイト」に住むケイは、熱い湯に体ごと浸かると、大きく息を吐き出し、「くぁ〜」っと変な声を出した。
若い頃とは違うと実感するのはこう言う時だ。昔は湯浴みなど日常の作業の一環でしかなかった。だが今は、体を包み込む温かさと開放感に疲れが飛んでいく気がする。尤も、昔と今とどちらがひどい疲労に襲われていたかと問われたならば、首を傾げるだろう。
日が沈む前の風呂は最高だ。まだ、彼は帰ってこない。汗ばむ体で出迎えるのは忍びなかったという理由もあるが、明るいうちからの風呂は本当に好きだ。
存分に堪能し、手の指がシワシワになった頃、ケイは浴槽から出た。
と、そこでタオルを準備していなかった事に気がつく。いつも浴室にタオルを持ち込み、体中の水分を拭き取ってから洗面室に向かっているのだが、仕方がない。忘れたのは自分自身だ。彼女は髪の毛の水分だけしっかりしぼると、そのまま洗面室へ続く扉を開いた。と、同時にひやりと風が動く気配を感じる。ケイがタオルを取る前に、正面にある廊下へ通じる扉が開けられたのだ。
そこには、まだ帰宅する時間ではないはずの彼がいた。
「ーーーーーー……」
素っ裸のままのケイは1秒も硬直しない。すぐに状況を読み込む。すると、一瞬にしてケイの瞳が白銀を放った。
「ちょっ!」
男はかなり慌てた様子で、
「ちょっと待ってください!!!」
そう叫ぶ。
「見るな!!」
「は?!だからってそれはーーーー!!」
彼女は羞恥心に押しつぶされそうになる。ここ数年で初めて知った感覚だ。これまで、誰かに裸を見られて恥ずかしいなどと思ったことはなかった。もしかしたら今でもどこぞの知らない誰か相手ならばそう思ったかもしれない。だが、この男相手は違う。この男だけは。
「取り敢えず落ち着いてください」
男は洗面室から出ると、急いでその扉を閉じた。
顔に熱が籠る感覚がする。あまり好ましいものではない。ケイはタオルを手にすると、何度か深呼吸を繰り返す。
「ーーーーーー大丈夫ですか?」
扉の向こうから男の声がした。
「ああ、ごめん…少し、驚いて」
そう返すと、
「まったく…お互い、もう何度も見ているでしょう」
苦笑と共に聞こえてきた甘い声に、ケイは大きく項垂れたのだった。
彼女の瞳の色は、元の茶色に戻った。同じ色の髪の毛を、今はかの男が乾かしてくれている。椅子に座りじっとしているだけで、髪の毛をサラサラに乾かしてくれるのだ。この男は、なんでも器用にこなす。
「体調は大丈夫ですか?」
先程の珍事を言っている。ケイは小さく頷いた。
「無駄に力を使った気がする…」
「そうですね。昔はちゃんとコントロール出来ていたのに」
それは迫る敵艦を一掃した時のことで、今とは全く状況が違う。
「でも、あなたの体調が問題ないのなら、何よりです」
出来ました、と言われ髪の毛を触ると、いつも通りサラサラになっていた。
「少し、伸びましたね」
腰よりも少し上くらいまである。熱い季節ではないから、ちょうど防寒にもなるほどだ。
「ありがとう」
振り返ると、男は微笑んでいた。
男は薄い青の瞳をしている。髪はケイと同じ茶色で、目にかかる長さの前髪とその切れ長の瞳は、美しいと称される事が多かった。加えて長身だ。ケイも女性にしては背が高い方だが、それでも彼とは見上げるほどの身長差があった。
「少し早く仕事が終わりましたので、これから夜市に行って例の果実を買いませんか?」
それは以前、彼女が好んで食べていたものだ。この時期になると、南方から運ばれて市場に出るのだ。
「ついでに、夕食も買いましょう」
一も二もなく同意した。
この辺りはたまに夜市がある。見た事がない食べ物や、美味しい酒、地方の特産物、大道芸人や音楽家までいる。見ているだけで、ケイは楽しかった。
少なくとも、この瞬間だけは。
人々は星々の戦いを忘れる事ができる。ただ、生きる為に殺す事実を、少しの間だけ、忘れる事ができる。それが良いのか悪いのかは、わからない。ただ、人々はここではよく笑っていた。
「あの角の露店です」
そこにはさまざまな野菜や果物が所狭しと並んでいた。威勢の良い店主に、客もたくさん集まっている。
「ちょっと買ってきますから、あちらで待っていてください」
男は人混みへと消える。ケイは言われた壁際で男を待ちつつ、夜市を観察する事にした。
こうして人の流れを見ることは楽しかった。営みを如実に感じる事ができる。それは、やはり徐々にではあるが、平和を実感している人々が増えたと言う事だろう。もっともそれは、ひとつの激戦を終えたという事もある。
果たして。
本当にあの力が、銀河に平和をもたらすのだろうか。今は武器に使用されているあの力を、最近別のところでも利用をしようという動きがあるらしい。軍部の人間はあれを独占したいはずだ。ならば言い出したのはーーーーーー。
「ねぇ、お姉さん、ひとり?」
突然、横にいた男からそう声をかけられる。ケイは驚いて声の主を見た。背は彼女よりも少し高いくらいだろう。深く帽子を被った男がそこにはいた。
「良かったら、一緒に夜市を見ない?」
「……生憎、連れがいる」
そう返すと、男は小さく笑った。
「そっか。それは、残念…」
そこで初めて目が合う。
「ーーーーーー……っ」
その色には見覚えがあった。この星にはいない神秘的な黒の瞳を持つ人種。
ケイは背に隠し持っている銃の位置を意識した。黒の瞳の人間とは昔から「あわない」のだ。
「じゃあ、これだけでも受け取って」
そう言い男が差し出したのは、一枚の封書だった。
「皇子様から、あんたに」
「ーーーーーー………」
封筒にはとある紋章が刻まれていた。それはケイがよく知るものだ。星々との戦いの中でも激戦であったかの星との先の一戦。これはその星を統治している皇国のものだ。そしてそこの皇子とは、顔見知りになってしまっていた。
「関わりたくない」
そう言いうと、彼女は渡された封書を片手で握りつぶす。その様子を見て、男は声をあげて笑った。
「あの人が言ってた通りの行動するねぇ」
そう言い、同じ封書を懐からまた取り出すとケイに差し出した。
「きっと1通目は捨てられるだろうから、2通用意しろって」
「ーーーーーー………」
頭の中で、真意が全く読めないあの黒の瞳を思い出す。いつも微笑んでいるような穏やかな表情は、敵味方関係なく恐れられていた。皇族でありながら、実力で軍隊のトップに登り詰めたあの男は、当時ケイに異常なほどの興味を示していた。今、あの星とこの「セイト」が休戦状態にあるのはあの皇子のおかげであることは確かだが、だからといって彼女があの皇子の相手をする義理はない。
「私は一市民だ。皇族から手紙を受け取る謂れはない」
すると男はわざとらしく肩を竦めた。
「受け取ってもらわないと困るんだよね…あの人、ああ見えて怒るとかなりヤバいから」
「ーーーーーー………」
ケイは男を無視する。すると、その手が彼女の肩に触れた。
ケイはすっと目を細める。その色はまだ、茶色のままだ。それを見ると、
「実は一度、あんたの力を見てみたかったんだ」
男はケイの顔を覗き込む。
「その綺麗な瞳が、もっと美しくなるところ」
ケイが背の銃にそっと手を伸ばしかけたその時。
「うちの妻に何かご用ですか?」
そこには両手に大きな紙袋を抱えた彼がいた。あの果実を買ってきてくれたらしい。
「……まさか、旦那さんがいるとは」
男はまたわざとらしく肩を竦める。オーバーリアクションなのは、あの星の住人の特性なのだろう。
「これはこのまま帰った方が良さそうだなぁ」
「そうですね」
ケイは間近でそれを見て、少しだけ眉を寄せた。なまじ、顔がいい男の無表情は怖いものだ。感情が読み取れないものだからより一層美しさが際立ち恐ろしさが増す。
踵を返した男を見ながら、ケイはため息をついた。
「……妻?」
「そう言った方が面倒くさくないでしょう。それよりも大丈夫でしたか?」
問われ、頷く。
「第三皇国だ。あそこの皇子が、また何か言っているらしい」
傍の男は同じようにため息をつく。敵として合間見えていた時の方が幾分かマシだったのではないかとすら、思える。
だがあれは、激戦だった。多くの犠牲を出し、ケイが一線を退く要因の一つにもなった戦いだ。流れた多くの血を思えば、皇子の戯言と聞き流すべきでは無いのかもしれないが、それは星の中枢で政治を司る者たちの仕事である。
「……ハン。夕食、なにが食べたい?」
気を取り直しそう聞くと、男ーーーーハン、と呼ばれた彼はしばらく考える素振りをした後、
「グラタンはどうですか。先程、露店を見ました」
「決まりだ」
それに、彼女はそう返した。
了