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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

花の雫

作者: 雪見

「なんかさ、重いんだよね。美咲は。」

私に気を遣うような口ぶりで、それにしては確かな拒絶を示した態度で。

馬鹿な私にも伝わるような言葉を紡ぐ。

彼はタバコを取り出してライターの火をつける。ちろちろと揺れる小さな炎をぼんやりと見つめながら、いまいち現状を理解できないでいた。

彼がため息を共に吐いた煙が夜の暗闇に消えていく。

「別れるってこと?」

そう尋ねると、彼はベランダから夜景を眺めながら口を開いた。

「そういうとこ、面倒くさいんだよな。」


「それで、そいつとは別れたの?」

直球過ぎる質問に少し口ごもる。俯きながら好物のチーズケーキをつついていると、親友の美緒は眉を寄せた。

「もしかして…」

「別れて、ない。」そんな呟きを拾った彼女はぐいっと顔を近づけると、私の頬を軽くつねった。

学生時代からの癖だ。私と違って昔からしっかりしている美緒は、怒るときはこうして痛くない程度に頬をつねるのだった。

「おばか!」

大きな声が喫茶店に響く。集まる視線に彼女は乗り出した体をそろそろと戻した。

そして気持ちを落ち着けるように目を閉じると、指で眉間を揉んだ。

「美咲の自由だけどさ…」ぶつぶつと何か言っているが、あまり聞こえない。彼女の百面相を眺めながらコーヒーを啜ると、じろりと睨まれた。

「聞いてるの?美咲のことだよ。」

まるで蛇に睨まれたカエルのように身を縮こまらせ頷く。彼女を怒らせると怖いのだ。

美緒は手元の紅茶に視線を落として、独り言のように呟いた。

「私なら美咲を幸せにするのに。」

一瞬、息が詰まった。女同士の軽い冗談だとわかっていても、その表情があまりに真剣だから、思わず真に受けてしまいそうになる。

「なんてね」

ここまでがお決まりだ。なんてことない冗談、他愛もない言葉。

裏腹になんとも悲しげな美緒の顔が記憶に残っていた。


彼女と別れ、ぼんやりとした気分で帰路につく。その途中、ゴロゴロと不穏な音を立てる雲に家に残された洗濯物を思い早足でアパートへ向かった。

ポツ、ポツとアスファルトを濡らしていく雨粒に焦りが増す。同棲を始めてから彼は洗濯物を取り込むどころか、家事全般に触れることはなかった。脳内で美緒がまた「おばか!」と私の頬をつねった。

一息ついてからふと思い出す、そういえば美緒と会ったのも雨の日だった。

彼女はすらりとして背が高く、髪も短かったためどちらかといえば女子に好かれるタイプだった。一方私は根暗で、勉強ばかりしていたので一時期『がり勉女』と呼ばれからかわれていた。

そんな正反対の私たちが親しくなったきっかけは、ある夏の事だった。

朝の天気予報を見逃して傘を忘れてきた私の視界に水色がちらついた。

「ねえ」一瞬、誰が誰に声をかけたのか分からなかった。肩を掴まれて、ようやく私に向けられたものだと分かった。

「これ、貸してあげるから。」

手元には水色の傘。私に?と聞くとあんたしかいないでしょ、と返された。

けれどこの大雨の中一人ずぶ濡れにさせるのは気が引けて、走りだそうとした彼女の服を掴んだ。

「一緒に帰らない?」

水色の傘は私たちには少し小さくて、結局ずぶ濡れになってしまった。けれど一人で濡れるよりずっといいし、何より二人ではしゃぎながら帰ったことがこの仲のきっかけならば、勇気を出して良かったと思うのだった。

そして大人になった今でも美緒は親友だ。大学受験に受かった時も、彼氏ができた時も、くじで一等が当たった時も、愚痴を言った時も、まるで自分の事のように笑い、悲しみ、怒ってくれる。

私の薄っぺらい感情に厚みを持たせてくれる彼女に随分救われていた。

 そろそろ本格的に雨が降り始めた時、アパートに着いた。階段を駆け上がり、洗濯物の無事を祈りながら鍵を差し込もうとした。と、ふと鍵が開いていることに気づく。

嫌な予感がした。彼は今日仕事だと言っていたし、家を出る前に鍵を閉めたはずだ。

――泥棒?

心臓が嫌な音を立てる。扉のきしむ音すら緊張の材料になっていて、なるべく音を立てないように部屋を見回っていく。

最後に寝室のドアノブに手を掛けると、中から声が聞こえる。私の脳内はすっかりアドレナリンが出ていて。何を迷うこともなく扉を引いた。

「……え?」

そこにいたのは泥棒ではなく、ベッドの上で身を絡め合う男女だった。

女性の方は、知らない。男性は――彼だ。私たちはしばらく呆然と見つめ合った。

「ねえ、その子だれえ?」

頬を赤くした女性が甘い声で尋ねる。彼はその声にハッとして、途端に顔を青くした。

どういう事、浮気、なんで、どうして。混乱した頭の中にはとりとめのない考えがいくつも湧いてくる。

「美咲、これはさ、なんというか…」

慌てて口を開いた彼にすうっと頭が冷えていく。

思うに、私は彼との関係に不安を持っていたんだろう。暗闇の中で光を求めて彷徨うように、愛を求めていた。

そして今、暗闇が消えた。無くなってみれば良くも悪くも意外と大したことないものだ。必死に言い訳を考えているであろう彼のなんと情けないことか。

「別れよう。」

拒絶の言葉はすんなりと私の口から零れ落ちた。ぽかんと目を丸くする彼を置いて寝室を出る。一秒でも早くこの不快な空間から逃げたかった。

飛び込むように玄関から外に走り抜ける。叩きつけるような雨を体中に受けながら、行き場のないこの感情を押し殺すように走り続けた。

体力が切れてようやく立ち止まったのは、歩道橋の真ん中だった。

ぜえぜえと吐く息が気持ち悪い、ばくばくと鳴る心臓の音がうるさい。何もかも煩わしくて歩道橋の手すりに手を掛けた時、つんざくような声が耳を貫いた。

「なにしてんの、美咲っ!」

体が勢いよく引っ張られ尻餅をつく。目の前には焦った表情の美緒がいた。

「…美緒?どうしてここに。」

「こっちの台詞よ!なんでこんな事に、なにがあったの!?」

美緒は顔を赤くしてまくし立てた。すごい剣幕で思わず身を引いてしまう。

「なんていうか、わたし、その…」

言葉が見つからない。「彼氏に浮気されたから死のうとした」なんて言ったらどんな反応をされるだろうか。

止まない雨に打たれながら二人の間に重い沈黙が流れる。

「美咲。」彼女が張り詰めた声で名前を呼ぶ。

「目合わせて。」

そろそろと顔を上げた。雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られるのは気恥ずかしかったが、あまりに真剣な声に思わず従ってしまった。

美緒は私の顔に張り付いた髪をよけながら、ぽつぽつと独り言のように呟いた。

「私ね、美咲が大切だから。傷ついてほしくないの。」

雨に降られていても彼女はきれいだ。形のいい唇から落ちる言葉を拾い集める。

「彼氏に嫌なことされたんでしょ、わかるよ。だって…親友だから。」

ビー玉のようにきらめいた瞳も、濡れた黒髪も、すべてが綺麗だった。

「でも私ね。美咲のことが好きだよ。」

思わず目を丸くしてしまう。ぼうっとしていた頭が水をかけられたようにはっきりして、熱のこもった視線に思わず顔を背けてしまった。

「…嫌だった?」

不安そうな声に首を振る。

「嫌じゃないの?」

戸惑いながらも、ゆっくりと頷く。どうしてこんなに心臓の鼓動が心地いいのか分からなくて、頬が熱くなるのを感じる。

美緒は友達で、恋情を抱いているなんて思いもしなかった。けれど今、一つ欠けていたパズルのピースがぴったりはまったような、探していたものが見つかったような気持ちになっている。

彼氏に浮気されたから、その穴埋めをしようとしているのだろうか。美緒でもいいと、そんな最低な気持ちで向き合っていいのだろうか。

「私、最低だ…」

雨にかき消されそうな小さな声で呟く。鼻がツンと痛くなって目じりに涙が浮かんだ時、美緒に抱きしめられた。

「美咲、好きだよ。大好き。泣かないで…」

あやすような声が首元から聞こえる。

「絶対幸せにするから。」

強い意志を持った言葉が私の心に溶けていく。そっと彼女の背中に手を添えると、抱きしめる力が少し強くなった。

冷えた二人の体に容赦なく雨は降り続ける。けれど美緒の体温だけを感じられるのならばそれでいい。

雨の中、私たちはお互いの存在を確かめるように抱きしめ合っていた。

                                  終わり


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