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老人ヘレネーロ

「ラファエロに会ってきたわ」

 バルセロナに立ち並ぶオフィス街。その中でも一際高くそびえ立つビルの最上階。ガラス張りの窓からは市街の風景が一望でき、道路を歩く人や車がボタンサイズにも見えた。部屋には椅子とテーブルが一つだけ置かれ、あとは壁に幾つかの絵画が飾ってあるだけの質素な部屋だった。その部屋に二人。サンドラとヘレネーロがいた。

「ご苦労。はるばるサラマンカまで行って日帰りとは酷なスケジュールだったろう。まして君のような美しいレディには失礼だったね」

 老人、ヘレネーロはグラスにワインを注ぐとそれをサンドラに渡した。

「そんなことより、ラファエロはあのままでいいの? 下手すればあの男何かしでかすわよ」

 サンドラはワインを片手に、窓の外の景色を眺めた。何度見ても絶景なのだろう。峡谷や河川などの自然の美しさとはまた違った、人の手で造られた美しさだ。

「君はラファエロと例の青年、どういう関係か知っているかね?」

ヘレネーロはテーブルの上で手を組み出した。

「それはあなたも知らないんじゃなかったの?」

「そう、私も知らない。それも何もかもだ。どれだけ調べても、まるで二人には何の接点も無かったかのように」

 机の引き出しから一枚の書類を取り出すと、そこには例の青年の出生日や出生場所などが明記されている。出生届の写しのようだ。

「1989年、バルセロナになっているわね。ここだとは思わなかった」

「これは偽造された出生届だ」

「どういう事?」

 ヘレネーロは立ち上がると、机の向かい側にいるサンドラの近くまで歩み寄った。そして出生届の病院欄の所を指さした。

「この病院の院長とは知り合いでね。彼が言うにはその日、出産された乳児はゼロだったそうだ」

「じゃあ厚生局をどうやって騙したの? そんなに簡単じゃないはずよ。偽りの出生届を受理させるなんて」 

 ヘレネーロはもう一つグラスを取ると、先ほどのワインを注いだ。無職透明なグラスは紫色に変わり、その中を見えなくさせる。

「どこで偽装が行われたのか。そしてそれは誰の意志で、何のためなのか」

「ラファエロ、あの男がそれに関わっているの?」

 グラスを傾けて、ワインを口に含む。味わうようにしてゆっくりと飲み込むと、少しの間その余韻に浸った。会話の内容とは相反して、話しのペースはゆっくりとしていた。

「おそらくそうだろう。証拠はないが十中八九、彼が関与していると思うよ」

「生まれた時からの間柄ってわけね」

 ヘレネーロはゆっくりとグラスをテーブルに置いた。低くもなく高くもない小さな音が、グラスのプレートと木製のテーブルにより発せられた。

「もしくはそれ以前からか。どちらにせよこの問題の根は深そうだ」

 深く息を吐くと、ゆっくりと歩き出し先ほど座っていた椅子に再び腰かけた。

「どうするの? 待つの?」

「いや、後手に回ると何かと不都合になるだろう。今度は私がラファエロに会いに行くよ。君にはちょっとある人物に会って欲しくてね。明日の便でマドリードまで行ってきてくれ」

 胸ポケットからマドリード行きの航空券とその人物の写真を取り出して、サンドラに渡した。

「分かったわ。でもあなたはラファエロと会ってどうするの? 前にアトリエに行ったばかりじゃない」

「心配には及ばんよ。それより君のほうこそ抜かりなく頼むよ」

 ヘレネーロはそう言うと、テーブルに置いてある呼び鈴を鳴らした。運転手か何かを呼んだのだろう。しかし反応がなかった。

「おかしいな、部屋の外に待機させているはずなんだが」

ヘレネーロが不思議がっていると、ようやくドアをノックする音が聞こえてきた。中に入れると、彼は焦っているようだった。

「どうしたんだ?」

「大変です! サラマンカ大学の構内で殺人事件が起こりました。まだテレビニュースにはなっていませんが、張り込ませていた部下からの連絡です」

 その場の空気が一気に重たく張りつめた。

「どういうこと? もっと詳しく聞かせて」

 サンドラの表情はぐっと険しくなっている。眉間にしわが寄り、眉毛にも僅かながら角度が付いていた。  

「恐らく、ミス・サンドラがサラマンカを離れた後の事です。時間で言いますと午後の九時ごろだそうです」

「場所は何処だ? 構内の何処なのだ?」

 サンドラとは対照的に、年の功と言うべきなのか、ヘレネーロは完全に落ち着きを払っている。

「遺体が発見されたのは図書館内で、一階の女子トイレだとの事です」

 少しの間、場に沈黙がよぎった。各々状況を整理し、これからの行動を考えているのだろう。皮膚を伝わってくる空気は脳を刺激し、緊迫感と焦燥感を増幅させる。

「私もサラマンカに向かったほうが良いかしら?」

 やっと出たその言葉に返事は無い。サンドラも黙って待った。

「いや、ちょっと待ってくれ」

 大分遅れて答えたのだが、ヘレネーロはまだ考えを巡らせているようだった。手の中で指をしきりに交差させながら、出来るだけ考えを素早くまとめようとしている。テーブルの上に置いてある時計が、秒を刻む音でヘレネーロに急ぐよう催促する。

「君は予定通りマドリードに行ってくれ、ただし明日の便ではなく今日の便で頼む。私は今からヘリでサラマンカに急行するよ」

 サンドラは頷くと、速やかに部屋を出て行った。

「それと君、私の携帯電話を取ってきてくれ」

 彼も急いで部屋を出て、携帯電話を携えて戻って来た。

「ご苦労。じゃあビルの外で出発の準備をして待っていてくれ。私はこの電話が終わり次第そっちに行くよ」

 ヘレネーロの指示を聞き終わると、彼は一礼し再び部屋を後にした。誰もいなくなった部屋は先ほどよりも静まりかえっている。そこにヘレネーロが携帯のボタンを押す音が響く。一回、二回と電話の向こうでコールが鳴る。

「やあ、ラファエロ君。ちょっとテレビのニュースを見ていて知ったんだがね。サラマンカ大学で殺人事件があったそうなんだよ。君が近くにいるらしいから、心配で掛けたんだが……」

 ――しばらくすると、ヘレネーロがビルから出てきた。いかにも高級そうな黒色の革靴が、冷たいアスファルトの上を撫でるようにして進んでくる。

「ちょっと君、いいかね」

 車の中に入ろうとするのを一旦、止めて近くで待機していた先ほどの男に話しかけた。

「サラマンカにいる部下に、ラファエロの跡を付けるよう指示してくれ。決して見逃す事のないようにともね」

 男は頷くと、その場を離れた。そしてヘレネーロはゆっくりと足を踏み出して、高級リムジンの中へと入って行く。その顔には安堵感とも満足感とも取れる表情が浮かび上がっていた。

「やはり乱時の時にこそ、活路はあるものだな」

 椅子に座り、そう呟くとドアが閉められた。静かにエンジン音が鳴り、車は群衆埋めく道路へと消えて行った。



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