青年アベル
真っ白な壁が高い天井まで伸び、上の方には逆U字型の窓が一定の間隔で作られていた。絵画が所々に飾られており、部屋の中は少し薄暗い。サラマンカ大学の図書館だ。人の背丈の倍以上はあるだろう木製の本棚が規則正しく並べられ、その周りに椅子や机が置かれている。
「あっ、ごめん」
本棚に挟まれた狭い道で二人の青年がぶつかった。片方の青年が抱えていた何冊もの本が床に落ちた。
「本当にごめん。僕が拾うよ」
そう言うと慌てて落ちた本を拾い出した。よく見ると、その青年はラゼルだった。彼は素早く全ての本を拾い上げると、青年の方に渡した。ふと本に目をやると、そこには著者リヴィウスと書いてあった。古代ローマの歴史家だ。
「君、ひょっとしてこれ全部歴史の本?」
少し間が空いて、
「そうだけど。どうかした?」
ラゼルは相手の顔をじっと見つめた。
「僕も歴史大好きなんだよ。近代ヨーロッパを専攻しているんだ。君の専攻は?」
青年は顔を直視された事に全く反応しなかった。まるで機械のような無機質さでラゼルの質問に応じた。
「専攻は中国史だよ。主に古代、でも最近はヨーロッパのほうもやってる」
「へぇー。中国史か、でも最近ヨーロッパ史始めたって事は、まだどんな本があるかとかよく分からないよね。良かったら僕が教えてあげるよ」
青年はその言葉に少し驚いたようだった。ラゼルは青年が戸惑っているのに気付くと、彼の背中を押して無理に連れていった。
「君、名前は? 僕はラゼル」
「僕は……アベルだ」
二人は近くの椅子に座ると、ラゼルが話しを始めた。始めは戸惑いがちだったアベルも、その熱心な話しぶりに引き込まれたようで、次第に聞き入るようになっていた。話しに熱が帯びるにつれて、周りに居た人達が減っていった。そしてそれに比例するように、図書館の電球がつき始めた。日中、外からの光だけに頼っていた室内はかえって明るくなり、彼らの顔をより鮮明に照らした。
「あっ、もうこんな時間だね」
ラゼルはふと壁に掛けてあった時計を見た。時間はもう九時を過ぎていた。まだ空には太陽が残っていたが、段々とその光を弱めつつあった。
「やっぱりここにいた」
いきなりラゼルの後ろから声がした。
「イルーネか」
ラゼルは振り返るとすぐに彼女を抱きしめた。まだ周りにはアベルを始め、幾らか人がいたがお構いなしだった。
「大分待ったよ。全然来ないんだもん」
「ごめん、ちょっと盛り上がっちゃってさ。今から行くところだったんだ」
ラゼルは手を放すと、アベルのほうを向き直した。
「アベル、紹介するよ。僕のガールフレンドのイルーネだ」
イルーネは軽く挨拶をして、手を差し伸べた。しかしアベルはそれに応じなかった。いや、応じられなかったと言ったほうがいい。
「ごめん、僕は目が見えないんだ」
「えっ、どういうこと?」
ラゼルはとても驚いていた。何しろ、さきほどまで普通に歩くアベルの姿を見ていたのだ。
「大体の日常生活は自分でこなせるんだ。タッピングって言って、舌で小さな音を出してその跳ね返ってくる音で周囲の状況を判断出来るんだ」
「それって凄いね。でもじゃあさっきの本は?」
「あれは全部点字のある本なんだ」
そう言われてみれば。ラゼルはさきほど本を拾い上げる際、表面に何か小さな突起があるのを感じていた。
「途中まで送って行こうか?」
「大丈夫だよ、変に気をつかってもらわなくて。それに慣れてるし」
少し二人の間に微妙な空気が流れた。確かにラゼルは変に気を使ってしまっていた。
「じゃあ僕はこれで行くよ。彼女と仲良くね」
その雰囲気から抜け出すようにアベルはその場から去って行った。目が見えないというのに実に見事なものだ。一見しただけでは全く分からない、健常者と同じようなしっかりとした足取りだった。
「今日一日いて気付かなかったんだ」
アベルは図書館から出て、姿が見えなくなっていた。
「いや、本当に分からなかったよ。今の歩き方見ただろ。まだ信じられないくらいだよ」
イルーネは軽く笑いながらラゼルのほうを見ていた。まるでドジをしたかわいい弟を見るように。
「それよりご飯食べに行こう。今日はおごってね」
承諾するしかなかった。何せ女の子を待たせたのだから。ラゼルは頭を掻きながら頷くと、二人は図書館を後にした。
事件はその後、直ぐに起こった。