もうちがうから
そろそろ時効だと思うからぶっちゃけちゃいますけど。小学生の頃にね、ハマってたものがあるんですよ。何にハマっていたかって? お恥ずかしい限りなんですが……ピンポンダッシュです。
説明なんていらないですよね。他人の家の呼び鈴をピンポーンと鳴らして、すぐさまダッシュして逃げる。ええ、それです。れっきとした迷惑行為ですよね。本当に馬鹿なことやってたなあと、大人になった今は反省してます。本当ですよ、猛省中です。
でもね、ガキの頃はそれがとにかく楽しかった。呼び鈴を押す直前の、心臓が飛び散りそうなほどの高揚感。ピンポーンと電子音が鳴り響いた瞬間、ボルテージは最高潮に達します。逃げる瞬間はきっと人生の中で一番速く走っていましたよ。無我夢中になって切る風の、まあなんと気持ちの良いこと。いや、ちょっと美化していますかね。幼い頃の思い出ですから。
ほとんどの場合は何事もなく終わりますが、たまに家の中から怖いおじさんが出てきたりして。「お前ら何やってんだ!」って怒鳴られたことも何度かありますよ。もちろん、怒られたからと言って立ち止まりません。捕まったらもっと怒られますから。ただひたすら走ります。
ええ、お手軽に楽しめるスリル体験と言いますか、ゲームでは味わえないリアルな緊張感と言いますか……ほら、子供の頃って世界が狭いじゃないですか。お金もなければ知恵もないし、気軽に出掛けられる場所も限られている。だからまったく知らない家に突撃するピンポンダッシュは、代えの効かない遊びとであるとともに、未知の世界への冒険でもあったんです。
……ああ、帰り道に関する怖い話を集めているんですよね。大丈夫、ここからが話の本番です。怖いというか、奇妙な体験なんですがね。
確か、私が小学二年生の頃だったでしょうか。とある友人……名前はなんだったかな。すみません、なにぶん昔の話ですから。色々と記憶違いはあるかと思いますが、ご勘弁くださいね。そいつの名前、名前……あ、あ……そうそう、粟崎。粟崎だ。粟崎というクラスメイトと一緒に、学校の帰り道、よくピンポンダッシュをしていたんです。ええ、まったくもってお恥ずかしい。時効ですよね? そういうことでお願いします。
地元は特別に田舎というわけではありませんが、決して都会とも言えない街でしてね。ご近所付き合いは薄かったと思います。だから私たちも遠慮なくいたずらできたんですよ。近所同士のコミュニティが深い街だったら、私たちの悪行はあっという間に知れ渡っていたでしょうから。
ある日の放課後、私と粟崎はいつものように二人並んで学校を飛び出しました。
「『アレ』やるぞ」
それが二人の合図でした。ピンポンダッシュするぞ、なんて声高に叫ぶことはしません。親や先生には決して言わない、友人同士でしか分からない秘密のやり取り。幼い子供にとって、それがどれだけわくわくすることだったか。大人になった今、同じようなことをしてもあの時ほどの高揚感は得られないでしょうね。あれは子供だけに与えられた特別な魔法だったに違いありません。
私と粟崎は通学路を少し外れ、ターゲットの家を吟味しました。一軒一軒、表札を見ながらしっかり標的を見定めます。人通りの多い道に面した家は論外ですが、人の気配がいない家も駄目なのです。誰もいない家の呼び鈴を鳴らしても、ちっとも面白くありませんから。
三十分ほど辺りをさまよった頃でしょうか。
「ここにしようぜ」
粟崎が囁きます。私は頷く代わりに、通学帽を目深に被り直しました。家主に顔を見られることを避けるためです。粟崎にはこれだけで伝わります。
選んだ家は、どこまでも普通の一軒家でした。
ええ、特に目を引くものはない、至って一般的な二階建ての家です。近所と比べて大きくも小さくもなく、明るすぎることも暗すぎることもない。茶色の瓦が三角屋根の上に重なっていて、大きな窓と玄関扉が正面にありました。
表札に書かれた名前は……なんだったかな。漢字二文字だったことは覚えているんですが……出てこない。多分、当時の自分には読めない漢字だったんだと思います。
家人が在宅していることは明らかでした。半分開いた窓から、テレビ番組の音声が漏れ出ています。粟崎と私は無言で視線を合わせました。氷の橋を踏みしめるように一歩ずつ、二人で呼び鈴に近付きます。
幸いにも周囲に人通りはまったくありません。テレビ以外に聞こえるものは何もなく、子供好きの神様が私たちに味方してくれているようでした。今思えば、それはろくな神様ではなかったのでしょう。玄関口まであと数メートル。粟崎が……いえ、私でしょうか。とにかくどちらかが呼び鈴に人差し指を伸ばします。緊張の一瞬でした。興奮で体が千切れそうです。罪悪感は毛ほどもありませんでした。私たちは馬鹿でした。
──ピンポーン。
鳴り響いた音もオーソドックスなものでした。笑い出しそうになるのを堪え、私たちは一目散に走りだします。すぐそばの曲がり角に隠れ、玄関の様子を伺いました。家人が出てきて、辺りを不思議そうに見渡すところを観察するまでが私たちの冒険なのです。
しばらく沈黙が続きました。私と粟崎は顔を見合わせます。出てきてくれないと面白くないのです。もしかして留守なのだろうか? それとも音が聞こえなかったのだろうか? 私たちはもう一度呼び鈴を鳴らしてみようと、再び玄関に近付きました。
その時です。
「おかえりなさい」
家の中から聞こえてきたのは、若い女の人の声でした。驚いた私と粟崎は、曲がり角から中途半端に出た格好で立ち止まります。ランドセルの重みが、途端にわずらわしく感じられました。
「おかえりなさい」
もう一度、声がします。女の人は玄関扉のすぐ近くにいるようでした。というのも、その玄関扉は一面すりガラスでできていたのです。すりガラスの向こうには、いつの間にかぼうっと黒い人影が立っていました。声はその曖昧な輪郭から聞こえてきます。
「……なんか変じゃない?」
固まったまま、私は粟崎に小さく問いかけていました。
「なにが?」
粟崎も小声で聞き返します。
だって、やっぱり変です。すりガラスに映るほど近くにいるのに、なぜその人は扉を開けないのでしょうか? なぜそこに突っ立ったままなのでしょうか? 手が離せないのでしょうか。それとも扉を開けたくない理由があるのでしょうか。
もしかして、私たちが扉を開けるのを待っているのかもしれない。そんな考えが不意に浮かびました。頭のおかしい女の人が、私たちが入ってくるのを、息を潜めてじっと待っているのではないか……。一度心に巣食った不穏な影は、なかなか拭い去ることができません。
ねえ、もう帰ろう。私は粟崎の服の袖を引っ張りました。しかし……。
「ただいま!」
粟崎は笑いながら叫びました。彼にとって、これはまだ遊びの延長線上だったのです。
すりガラスの向こうの影は、何も言いませんでした。口を噤んで、身動ぎ一つせず佇んでいます。得体の知れない何かが、私の心臓にねっとりと覆いかぶさってくるようでした。
「ほんとに帰ろう。絶対変だよ、ねえ」
私の必死の説得にも粟崎は聞く耳を持ちません。「ただいまって言ってんじゃんか」と、むしろ玄関に近付いて行く素振りすら見せます。
もう置いて帰ろう。私は決心しました。あとで喧嘩になってもいい、絶交になってもいい。そう思えるほどでした。とにかく、一刻も早くその場から離れたかったのです。
気が付けば、すりガラスの奥の影はいなくなっていました。
「あれ?」
粟崎は首を傾げていますが、私は心底ほっとしました。形を持った悪夢が頭から出て行ったような感覚でした。
「つまんねえなー。帰ってお母さんにお菓子買ってもらお」と口を尖らせる粟崎を見て、笑いすら零れてきます。何をそんなに怖がっていたのか、自分でもよく分からないほどでした。陽はまだ高く、周囲の景色はただの日常です。私はランドセルを肩にかけ直し、通学帽の鍔を目上まで引き上げ、
「もうちがうから」
隣に女が立っていました。すりガラスの向こうにいたのはこの女だ、と直感的に分かりました。
「もうちがうから」
長い髪のせいで女の顔はまったく見えませんでした。そこからどうしたのか覚えていません。気付けば私たちは通学路に戻っていて、空はとっくに夕暮れでした。あの女はなんだったのだろう。私たちはどうしたのだろう。何も分かりませんでした。私と粟崎は一言も交わさず、それぞれの家に帰りました。
……そこから何か怖いことが起きたのかって? 女が私たちの家を夜な夜な訪れたり、毎日気味の悪い視線を感じたり? いいえ、まったく。あいにく、見ての通りすくすくと健やかなな大人になりました。だから怖いというより、奇妙な話だと言ったでしょう。
ああ、粟崎がどうしているか、ですか。今も仲が良いのかって? それがですね、粟崎のやつ、その後すぐに転校してしまったんですよ。で、つい最近、同窓会で久しぶりに再会したんです。十年以上会ってませんでしたから、もう顔はおろか、名前すらおぼろげなくらいで。
「俺、俺だよ。覚えてる? 昔、よく一緒にピンポンダッシュしただろ」
なんて言われて、黒歴史をほじくり返されちゃいましたよ。
「ああ、お前か! お前……お前、名前なんだっけ?」
「酷いやつだな。粟崎だよ、粟崎」
「すまん、すまん。久しぶりだな、粟崎」
同窓会は楽しかったですよ。粟崎とは積もる話もありましたし。昔のクラスメイトたちと酒をしこたま飲むうち、粟崎は次第にべろんべろんに酔っぱらってきましてね。日本酒をちびちび舐めながら、こんな話をするんです。
「俺の両親、転校してから離婚しちゃってさあ。いつも優しかった母さんが、急に冷たくなっちゃって。結局原因は分からずじまいだが、多分、あれは父さんが浮気していたんだろうぜ。そうでもなきゃあんな態度にはならないよ」
「そうか、お前も大変だったんだなあ」
「母さんが家を出て行く日、寂しくて泣いている俺になんて言ったと思う? 『もう違うから』って言ったんだぜ。『もうあんたの母親じゃないから、もう違うから!』ってさ」
酷い話だな、と思いました。子供にはなんの罪もないのに、どうしてそんなに酷い言葉が吐けるのでしょう。
「でさ、父さんのやつ、母さんが出て行ってからすぐに再婚したんだよ。笑っちまうよな。それで、俺の苗字も変わったってわけ。粟崎になったんだ」
……え? はい、そうですよ。お話した中で何度も粟崎、粟崎と言っていましたけど、当時小学生だった彼は違う苗字だったんです。母親の再婚相手の苗字になる……というのはよくありますが、父親の苗字が変わるのはあまり聞きませんよね。珍しいこともあるものです。昔の彼の苗字はもう思い出せないし、粟崎もなぜか教えてくれなかったんで、そのままお話させてもらったんですよ。記憶違いがあります、と最初にお伝えしましたよね。はあ、すみません。さほど重要なことじゃないと思って。
……あ。
そうか、そうか。今、思い出しました。いえ、粟崎の元の苗字じゃありません。あの家。私たちがピンポンダッシュをした、変な女のいたあの家です。あそこに掛かっていた表札。当時は読めませんでしたが……思い出しました。
確か、粟崎って書いてあったんですよね。