EP27.また、明日
頭の中で延々と反響を繰り返す、甲高い音。
腹の中では段々と膨れ上がる、不快感。
酷い耳鳴りと、酷い吐き気に嗚咽を漏らす。
苦しくて、苦しくて、お腹の中のものを吐き出そうと洗面所にも向かうも、チカチカと明滅する視界。
そのせいか上手く歩けず、なかなか辿り着くことができない。
終いには足をもつれさせて、前のめりに倒れる。
横向きの体勢になり、お腹を抱えても不調はどんどん悪化していくばかり。
膨張した不快感は腹の底からせり上がり、必死に両手で押さえたが願い叶わず、私はそれを床にぶちまけた。
吐き続けて、吐き続けて、お腹の中が空っぽになっても吐き続けて。
ひとしきり吐いたらようやくお腹の不快感は消えたが、今度は身体に付く自分の吐瀉物の不快感が入れ替わりにやってきた。
それを洗い流すためにはやはり、洗面所に向かう必要がある。
壁を頼りになんとか立ち上がることができたが、足が震えて一歩も踏み出すことができない。
せっかく立ち上がることができたのに、すぐにその場にへたり込んだ私の頬には涙が伝った。
私は何も知らなかった。
本当に何も知らなかったのだ。
クレストール先生にアレクシア。二人の話すお母さんはすごい魔法使いらしく、憧れも羨望も……妬み嫉みだって集めた。
それは私の知らないお母さんで、どこか実感が湧かなかった。
だから、自分の知っているお母さんだけが真だと思い込み、ほとんど気にも留めなかった。
グラスとの話もそうだ。
夢の中で話していたこともあり、目が覚めた時には感覚的にしか覚えていない。
それにグラスは私の中に……いや、実際はその逆、私――フレイアがグラスの中に存在している、とお母さんの残した魔法研究報告書には書いてあった。
それは私を自分と話をしているような感覚にさせ、グラスの話を自分の都合がいいように捻じ曲げて、押し付けて、本来グラスのモノであるべきものを何一つ手放そうとしなかったのだから。
「最低だ……最低だ……最低だ……最低……最低……最……低……」
私からグラスのことを感じることはできないけれど、グラスには私の感覚の全てが筒抜けなのだろう。
だってこの身体は元々グラスのもの……いや、今だってグラスのものであるべきなのだから。
それに前に一度、私が魔法を使えるのかクレストール先生と試していた時、グラスは直接頭の中に語りかけてきてくれた。
私の意識が、覚醒している時にだ。
だから私たち二人はグラスの身体を通じて確かに繋がっていて、グラスは外の世界のことを把握できているはずだ。
なのにグラスは何も言ってはくれない……私のこの惨状を見ているはずなのに。
勝手だろうな。私もお母さんと同じように勝手だ。
ずっと一人でいたグラスはお母さんに……いや、私でも、誰でもいいから寄り添って欲しかったはずだ。
なのに私は今、そのグラスに寄り添って欲しいと……何か一言、慰めでも、叱責でも、何でもいいから言ってくれればと思っている。
本当に、勝手だ。
最低な私は、必要ない。
ならもういっそこのまま――。
(あのねフレイア……私だってまだ事情を飲み込めていないの。それなのに急かすなんて、本当に勝手よ)
「……だって私は、グラス……あなたを……!」
きっと私はそれから、グラスへの謝罪の言葉を続けようとしたのだろう。
だがそれは許されず、ふわりと身体が軽くなる感覚がして、身体が勝手に動いた。
本来の主導権を持つ者により動かされる身体は確かな足取りで歩き出し、洗面台の前に立った。
「……見て、フレイア……あなたの思う通り、私はいつもあなたの感覚を感じているの。いまのあなたのように……」
グラスが身体の主導権を入れ替えたのだろう。
いつもはグラスが感じている感覚を今は私が感じている。
話すことも、身体を動かすこともできないが、グラスの視界を見ることができている。
「ねえ、フレイア……この顔に髪、身体も、名前だって全部、私がお母さんにもらったモノだったんだよ?」
普段のフレイアの口調とは異なる、ゆったりとした口調で話をしているのはグラスだ。
洗面台に備え付けられた鏡に映るフレイアは自身の顔を、髪を、身体を、艶やかに指でなぞっていく。
どこか妖艶さを感じさせる仕草に対し、その目からは涙を流し、口元は歪に歪んでいる。
(やめて……私は……私が悪いんじゃ……違う……私は……)
グラスは私に罪を認めさせるため、わざと私に見せつけるようにしているんだ。
見たくない。そんなこと望んでいなかった。私は悪くない。私は……私は……要らない……。
「やめない……私がフレイアの間違いを正すから」
そうだ、私が間違っているなんてことは私自身が一番理解しているんだ。
私が生まれさえしなければ、グラスはグラスのまま、彼女がフレイアでいられたのだから。
(……お願い。もうずっとこのまま……最初からグラスの自由にできたなら、これからはグラスが……)
「私の自由にできるものは、全部フレイアにあげた……今は仕方なく表に出てきてあげてるだけ。……フレイアが生まれてきてくれたから私の全部をあげたんだよ?」
(いらないよ……だって、私が生まれたからグラスは……一人に……!)
「本当、よくそんなので座学の成績がいいのだから、ロゼッタが嘆くんだよ。私は一人なんかじゃないよ?」
一人じゃ……ない?
この15年もの間、お母さんにもこんなに近くにいた私だってグラスのことを認知できていなかったのに一人ではないとは……。
いる……そうだ、私よりも先にグラスのことを知っていた奴らがいるではないか。
グラスは女神教会と……まさか!?
「馬鹿……大馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿。どうして認知できなければ一人になるの? あなたが……フレイアがいてくれたから一人じゃないと思えたんだよ?」
(わ、私が……?)
「お母さんの研究する魔法のための器にされた私の中には眩しい光が入ってきた……どうしてお母さんはこんなことをするのかって、怖くて、怖くて……でも、私の中に入ってきたその光は温かくて……ある時気がついたの」
(……何に、気づいたの……?)
「その光……フレイアは私の妹だってこと。お母さんのことは許せなかったけど、何も知らず無垢に笑うフレイアを一番近いところで見ていたら、私の暗い気持ちなんてどうでもよくなってたの」
鏡が映すフレイアはいつの間にか、普段の彼女のような笑顔を取り戻していた。
いや、少し違う。頬を赤らめ少し照れ臭そうにする笑顔は、少しばかり幼く見える。
「それでもやっぱり引っかかることはあった……でも、それだってフレイアが全部消し去ってくれた。この前した約束……破るの? またフレイアは誰かとの約束を破るの?」
(そ、それは……でも、そんな大事なことを簡単に……)
「そう、大事なこと、簡単になんて決められない。でも、私たちが初めて話をした時フレイアは私をお姉ちゃんって言ってくれた……その時フレイアは何を思った?」
(えっと……たぶん、嬉しかった……んだと思う……うん、嬉しかったんだ。二つの魂が存在しているなんて言われた時は怖かったけど、グラスは全然怖くなかった。むしろ、優しくしてくれたから……)
「姉妹なんだから当たり前と言えば当たり前だけど……けどそれで私は本当にお姉さんになると決めた……私の全部、お母さんなんて関係ない、私の意思でフレイアに全部あげると。だから簡単になんて決めてないんだよ」
(それでも……)
言葉では何とでも言えるだろうし、普段のグラスは私のことを全部わかってるけど、私にはグラスのことがわからない。
だから……。
「って考えてるなら、やっぱり馬鹿。この本気の気持ちがわかってないんだ相当の大馬鹿よ?」
伝わらないわけないよ。
泣いていた私をこうして慰めてくれているのだから。
やっぱり、グラスは私のお姉ちゃんだ。
(……だったらもっと早くこうして話したかったかも)
グラスともっと早くにわかり合えていたなら、もっと別な日常があったのではないかと思わなくもない。
けれど、それ以上にお姉ちゃんとは一緒にいたいと思うものだ。
それは我儘ではないはずだ。
「それは……私にも思うところがあったから……」
(私はお姉ちゃんのことを知らないのにお姉ちゃんはずっと私のこと見てたんだからずるいよ……)
「ず、ずるいって……そう言われても……」
(……今日だけ……ううん、今夜だけでいいからからお姉ちゃんの中で眠らせて欲しい。そうしたらきっといつもの私で明日を迎えられると思うから……)
「少し元気を出したかと思ったら今度はずいぶんと甘えん坊になって……まあ……」
(ダメならもう立ち直れない……引きこもりになるから……)
鏡に映るフレイアは呆れたように笑うが、どこか嬉しそうにも見える。
それは甘え盛りの妹に頼られた姉のような……。
「今夜だけ……や・く・そ・く、だからね?」
(うっ……や、やっぱりたまにはこうして入れ替わろうよ? その方がグラスも楽しいよ?)
「残念だけどそれはできない。私は見てるだけで……こうしてフレイアと話ができるだけで十分だから」
(……そっ、か)
「……それに、吐いた後の片付けみたいな面倒事を押し付けようとしてること、わかってるんだからね?」
(うぇっ!? ……な、何のことかな……?)
先ほども私の考えを読まれていたのでわかっていたが、入れ替わってもグラスからは私のことがわかるらしい。
甘えついでに思っていたことがバレていた。
考えが読めるグラスを相手に悪だくみは、最初から筒抜けになってしまい意味が無いようだ。
「仕方ないから今日だけは、このまま甘えさせてあげるけどね」
そう言ってグラスは吐瀉物で汚れていた顔を洗い始めた。
(グラスって結構チョロい? 誰かに騙されたりしそうで心配かも……)
「誰の心配をして私が出てきたと……」
洗面台から顔を上げたグラスは恨めしそうに鏡を見た。
鏡に映る自分を見たことによってフレイアは参上を目の当たりにした。
(ちょ、グラス!? すごい水飛ばしてるし、服まで濡らしてるよ!?)
「いつもフレイアが顔を洗っているのを真似たつもりなんだけど……」
(も、もしかしてグラス……今まで見てるだけだったから何もできない……とか?)
「し、失礼ね! どうせシャワー浴びなければいけないのだから……あれ、脱げない?」
そう言ってボタンも外さず無理矢理制服を脱ぎだしたグラス。
(ま、待ってグラス!? 私が教えるから……ああ、制服破けちゃう!? お姉ちゃーーーん!?)
フレイアの絶叫もとい、制止虚しくインナーシャツは無残なことになってしまった。
この後グラスはフレイアの必死の教えを聞きながら、なんとかシャワーを浴びて、寝間着に着替えるとこまで済ませることができた。
自分で吐いた吐瀉物については、グラスがなんとかしようと試みたのだがこれ以上滅茶苦茶にされてはたまらないとフレイアが引き留めた。
あわよくば楽ができると思いはしたが、自分の後始末は自分でするのが一番だと思うフレイアだった。
そして、ベッドに入り部屋の明かりを消して一日を終える。
今日はいろいろな理由で酷い一日だったが、最後には笑って終えることができた。
その理由の一端には彼女も入っているのだが……それでも全部、グラスのおかげだ。
(……ねえ、グラス起きてる?)
「……寝てる」
(起きてるじゃん……)
「一度やってみたかったんだからいいでしょう?」
こんななんてことのない冗談なら全然構わない。
それにグラスと近づけたことの証明になるのだから、なおさらだ。
(……今日は本当にありがとう……)
「私こそずっと秘密にして……ちゃんと話せなくてごめんね……」
(ううん……それはもういいの。グラスだっていろいろと思うことがあったんだし……)
「……そうだね。今日はこれ以上考えたら頭が爆発しそうだし」
それには激しく同意できる。
明日にはまた目を背けたくなるような現実が待っているのだから、今日ぐらいは現実逃避してもきっと許される。
(グラスの……お姉ちゃんの中……すごく温かい……)
「割りと快適でしょう?」
(うん、お姉ちゃんが引きこもりになった理由がわかったかも……)
「…………」
(噓噓っ! 嘘だから拗ねないで無視しないで!?)
「……う・そ、だよ。今日はもう寝ようか……」
覚えたてのことをしたがる子供か。
グラスは今までずっと外の世界を見るだけだったのだから仕方がないかもしれないが、それが姉なのに妹のように思えて愛おしい。
(……うん、おやすみ)
また、明日――。
思いついた設定を詰め込み過ぎて話が一気に飛躍している気がする……いや、している。
改稿ついでに途中に話を追加して薄めた方がいいきがしますねえ……。




