第9話
「えっと、大丈夫?」
カンタルは心配そうに声を掛けた。
部屋の隅で頭を抱え、レオンが床を見つめながら小声で呟いていた。
未だに、先ほどの混乱から立ち直っていないためだろう。
彼は様子を見るために、こっそり近づいてみた。
「……大丈夫、私は大丈夫、手も足も、ちゃんと残ってるから大丈夫――――」
自分で自分のメンタルコントロールをやっているようで、カンタルは邪魔をしないように離れた。
貴族らしい暗闘や情報戦、ブラック企業勤めにもメンタルコントロールは必須の技術だ。
社会の荒波は、簡単に人間の精神を削り取っていく。
そしてそれは、恥をかいたときにも役立つのだ。
「ええ、はい、すいません。取り乱しました」
大きく息を吸って吐いたレオンの、小さな謝罪が部屋に響く。
表情は凛々しいが、まだ完全復帰とはいかないようだった。
「まあ仕方ないよ。……それより、これじゃあスキルを使うのも難しいかな?」
「そう、ですね。ですが、領地のこともありますし、支配スキルを使わずに状況を打破する手が無いのも確かです。私が恥を飲み込みさえすれば――――」
「ドイデン家の領主と会談後に、赤ちゃんになったら、説得力とか大丈夫?」
レオンの頬が、少し引きつった。
眉間に皴を寄せ、彼女が表情を曇らせる。
「そこは、反動を抑えるしかないですね。……抑えれば抑えただけ、反動も強いものになりますが」
「…………あれ以上?」
今度はカンタルが複雑そうな顔をする。
泣いたレオンの面倒を見るのは、まだ何とかなると思われる。
赤ちゃん言葉も、やってやれないことは無い。
だが、今度こそ彼の雄っぱいが吸われかねない状況だ。
色んな意味で、許されない状況になるだろう。
彼の表情を見て、レオンが不安を見せた。
「駄目、でしょうか。領地のことが上手くいけば、私に出来ることであれば、何でも謝礼としてお支払いいたします。これしかないのです」
「あ、いやね、それはなんというかね」
恥と人命の重さを天秤に釣り合わせるわけにいかないことは理解できる。
ドイデン領主と会談の場に、カンタルが居合わせる必要があることも重要だ。
何せ、レオンのスキルを使うために必要なのだ。
会談が失敗に終われば、彼にも逃げ場は無い。
レオンが拘束されてケトフェス家に引き渡され、カンタルなど即座に処刑でも不思議では無い。
命を懸けた見返りの報酬としては、青天井も止む無しだ。
言葉を濁すカンタルに、彼女が迫る。
「では――――」
交渉の場に相手を乗せなければ、駆け引きは始まらない。
そして、彼女に差し出せるものは多くない。
「私のこの身を差し出しましょう。日が暮れるまででしたら、この身をどう使おうが望みのままに致します」
「いや、ちょっと待って」
カンタルは気圧されると同時に、違和感に気付いた。
身を差し出すよりも赤ちゃんプレイの方が恥ずかしいのか、などと思っていたわけでもない(少しある)。
彼女の言葉が正しければ、支配スキルの反動は、オカンスキルの反転になるはずである。
ならば彼女が言っていたように、オトンになるのが理屈ではないのか。
支配スキルも、稀有で強力なスキルに違いない。
ただし、彼の持つオカンスキルは、『教会』の全組織と釣り合う以上の価値を見出されている。
そんなスキルが、黙って支配スキルに使われるだけで終わるだろうか。
結果で言えば、赤ちゃん還り。
どう考えても、オカンが影響を及ぼしているに違いない。
「これはやっぱり、俺の所為かもしれないな」
名前こそオカンだが、広義の意味での『母』だ。
女神様にも、『母』になれとは言われたが、オカンになれとは言われていない。
これはつまり、オカンスキルはまだ、スキルの底を見せていないのではないか。
スキルとは――――天命。
リーナ・アルトスの、助けになると決断した時から、彼の思いは変わっていない。
格好良くは無いけれど、カンタルは不敵に笑った。
不安げな彼女の肩に手を置く。
「そんなことしなくても、俺は君の助けになるよ」
「どうして、ですか」
「スキルの所為、かな――――ん?」
彼がそう言うと、彼の脳に得体の知れない情報が差し込まれた。
――――オカンスキルがレベルアップしました。
――――母のビンタ。母の交渉術。母の手料理。母乳。が解放されました。
「おいちょっと待て! 最後のは何だ、最後のは!」
「ど、どうかしたのですか」
突然叫び出した彼に、レオンが狼狽する。
カンタルは大きな溜息の後で、首を横に振った。
「……はぁ。ああ、いや、スキルが成長したんだけど、余計なものまで成長しちゃってさ」
「えぇ! 凄いじゃないですか」
「いや、出ちゃうじゃん。出しちゃ駄目なやつが」
「出る? ……とはいえ、スキルの成長なんて初めて見ました」
「うーん、『教会』の話だと、それなりの試練を乗り越える必要があるらしいんだけど」
彼が今までの行動を思い返してみると、心当たりが無いことも無い。
ただ、実感があまり湧かないだけだった。
そうやって話しているうちに、部屋の外が騒がしくなってきた。
床に響く重厚な足音と、金属の擦れ合う音がする。
彼がレオンを見れば、身を固くして口の端を引き絞っていた。
「先程のメイドが、報告したのでしょう」
「どういう報告か聞きたいところだね」
カンタルの軽口に、彼女が強張った肩を緩める。
「それはこれから聞けますよ。けれど、兵士を連れてきていることから、あまり良い報告では無かったのでしょう。相手と場合によっては、スキルを使います」
「……反動が出たら?」
「そこは、まあ、お願いします」
なんとも歯切れの悪い『お願い』であった。
彼女にとって最後の手段であるスキルが不発に終われば、打つ手がないのだろう。
そうなれば、アルトス家は絶望的だ。
彼女がケトフェス家に突き出されようが、赤ちゃんプレイを見せつけようが、結果は変わらないと考えているらしい。
カンタルとしては、赤ちゃんプレイの続きは止めて欲しいところだ。
だって、出ちゃうから。
彼が戦々恐々としているうちに、ノックも無しにドアが開かれた。
レオンが一歩前に出る。
最初に部屋に入ってきたのは、完全武装の全身鎧が二人だ。
続いて、意匠の凝った衣服を身に着けた壮年の男が入ってきた。
壮年の男が、カンタルを一瞥して言う。
「密会かね。アルトス家の者か?」
「いいえ、違います。ナイハン殿」
片眉をあげた壮年の男こそ、ナイハン・ドイデンその人だった。
腰には儀礼用ではない本身の武骨な剣を差し、油断なくレオンを威圧している。
「それにしては、珍妙な行動を取っていたと聞かされている。そうまでして隠さねばならぬものがあったのではないかね」
少々的が外れているとはいえ、枠内に収めてくるところは流石に貴族といったところだろう。
腹芸暗闘の戦いには慣れていることが伺える。
「何をおっしゃいます。このような部屋に閉じ込められては、何もできません。せめて趣味の一つでも発散させなければ、暇で仕方ないのですよ」
レオンが恰好をつけて言う。
これにはナイハン卿も戸惑ってしまった。
「趣味、とな。……なるほど」
「と、ところで! そのような些事で、物騒な兵士を二人も連れて来訪されたのですか。尋常とは思えません」
何かを考え込んでいたナイハン卿が、レオンの言葉に今更の如く反応する。
「ああ、これは私の護衛ではない。もっと高き方のお傍仕えだ」
「高き方?」
レオンが眉根を寄せる。
遅れて、コツコツ、と石床を軽い足音が叩いた。
青地に金の刺繍が施された上着に、仕立ての良い乗馬ズボンの優男が現れる。
それを見た彼女が、後ずさりした。
「あ、あなた様は」
自分の言葉に相手の階級を想い、即座に片膝をついた。
カンタルも慌てて、両膝をつく。
優男が、親し気に言った。
「余を覚えていてくれたか、アルトス家の――――娘よ」
彼女の肩が、大きく跳ねた。
その様子を見て、優男が面白くも無さそうに呟く。
「そうさな。その方の気持ちは良くわかるつもりだ。親の後を継げぬのは、心苦しいものよな。余も、三男でなければ良かったと、思わぬ日は無い」
ヨーゼフ・グラベルト王子が、口の端を上げて笑みを浮かべた。
彼の目は既に、レオンを映してはいなかった。




