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第37話


 頑丈な分厚いガラスで作られた格子窓から、穏やかな日差しが溢れる。

 質素な部屋に、物憂げなエリンの表情があった。


「…………どうしようかしら」


 彼女の呟き声だけが、無情に響き渡る。

 必要最低限の家具しかない自室で、天蓋付きのベッドを見つめる彼女には、違和感しかない。


 その原因は、彼女の見つめる先にある、ベッドの上に置かれた男性物の下着だ。


「本当に持ってくるなんて、どうかしてるわ」


 約束通りに、隠れ里の壊れた少女兵士が、下着を持ってきたのだ。


 取って来いと言ってしまった手前、受け取らないわけにもいかない。

 しっかり怒られてきたのかと思えば、何かを成し遂げた顔をして去っていったアサだ。


 そして残されたのが、このカンタルの下着だった。

 先ほどまで履いていたのか、妙に生暖かい。


 これが名も知らぬ男の下着であれば、ベッドごと焼却処分して、アサに最大級の毒を流し込んでやるところだが、そうではないのだ。


 彼女の表情が物憂げなのは、他に原因がある。

 それは、このカンタルの下着で何をして遊ぼうか、という悩みであった。


 頭から被ってみようか。

 額縁に入れて飾ろうか。

 懐に入れてお守りにするのも悪くないかもしれない。


 使い道に対して、下着の量は限られている。


「悩むところね」


 最高級の食材を手に入れた料理人の如く、その用途に胸を膨らませていた。


 下手な使い方は、下着に対する冒涜である。

 そのまま自分で履くのも良いかもしれない。


 ただしその場合、新鮮なまま利用するのか、寝かせて利用するのか、判断がつかない。


 エリンが、ふ、と格子窓に目をやった。


 良い考えでも浮かばないものかと、気休め程度に窓を開ける。

 柔らかな風が、爽やかさと共に頬を撫でる。


 そして、ドスンと地面を叩きつける音がした。


「…………何?」


 衝撃音の方角からして、屋敷の入り口辺りだろう。


 普段であれば、自身の毒を薄く散布して屋敷の外を覆い、警戒していた。

 しかし、今日はファルマ伯爵が訪ねて来る日だったので、毒の包囲を解いている。


 あの男が政敵の襲撃に遭って、吹き飛ばされたのかもしれない。


「面倒だわ、本当に」


 ファルマ伯爵がどうなろうが知ったことでは無いが、自分の屋敷の中で荒事が行われることを、黙って見ていることなど出来ない。


 崇高な時間を邪魔された怒りと、侵入者に対する不快感が混ざって、手に力が入る。


 その手の中には、しっかりとカンタルの下着が握られていた。

 とりあえず胸元に下着を突っ込んで隠し、足音を立てて歩き出す。


 怒りに任せてドアを開け放つと、困惑した表情のアサが立っていた。


「何をしているの」

「て、敵ぃ」


 既に涙目となっているアサであった。

 そんなに怖い顔をしていたかしら、と小首を傾げるエリンであったが、すぐに思い直す。


「もうそれはいいから、私の質問に答えてくれないかしら」

「あのー、だから、その、敵が来ましたぁ」


 隠れ里の兵士だったとは思えない狼狽ぶりであった。

 何をそんなに恐れているのやら、と息を吐く。


「はぁ。敵って誰なの?」

「それが――――」

「はっきり言いなさい」

「はひっ」


 アサが、ごくりと喉を鳴らした。

 怯えた薄笑いで、一気に捲し立てる。


「ファルマ伯爵とお付きの人が門に来たときにシノ様とシスターが襲って来ましてその間隙を突いて執事が空から降って来て執事の仲間と思われる女が馬に乗ってカンタル先生を攫って行きました!」

「……ふぅん。なるほど」


 突然、空気の割れる音がした。


 怒りが音として聞き取れたのであれば、そう感じられただろう。

 それくらいに、エリンの怒りが溢れ出している。


 表情など消えてしまい、代わりに彼女の眼が据わっていた。


「ルフェンは何をやっていたの?」

「ひぃっ、あの、執事と戦っていましたぁ」


 アサが縮こまって言う。

 エリンが口元を歪めた。


「そう。だったら、あなたは遠くに離れていなさい。手加減をする余裕があるほど、私の心にゆとりは無いわよ」

「承知っ」


 頭を下げたアサが、一目散に逃げだした。

 まるで、最初から逃げ出したかったが、逃げたら真っ先に殺されそうだから嫌々でも報告に来たのだと言わんばかりの逃げ足だった。


「……まあいいわ」


 自室を後にして、廊下をゆっくりと歩く。

 その間、彼女の思考が途切れることは無い。


 カンタルをその場で殺さず、攫ったのであれば生きている可能性が高い。

 何らかの交渉が目的か、カンタルそのものが目的だろう。


 フォルデノン王国が動いたのであれば、それも納得できる。

 ファルマ伯爵が襲われたのも、そのついでではなかろうか。


 となれば、ガーオレン王国とて動くはずだ。

 国境線は厳重に閉ざされ、容易には逃げ出すことも出来ない。


 それはそれとして、『緋毒』とガーオレン王国を相手に戦争を始める価値が、カンタルに見出されたのだろうか。


 一般的に見れば、決して釣り合うとは思えない天秤だった。

 戦争回避のために、策を弄して持ち出したのが、フォルデノン王家と教会の婚約話ではないのか。


「……いえ、違うわね」


 戦争してでも奪い取ってやるから、ガーオレン王国はフォルデノン王国と教会の、どちらを選ぶのか、という選択肢だったのだろう。


 元々、ガーオレン王国は戦争を吹っ掛けるつもりだった。


 『緋毒』を手に入れた権力者の考えることは、いつも変わらない。

 傲慢な強者の振る舞いを、やらずにはいられないのだ。


 結果として、ガーオレン王国が、カンタルの引き渡しを拒否したのだろう。

 だからこそ、交渉決裂による強硬策が選ばれた。


 ――――カンタルを奪い取る。


 それが勝利だと、フォルデノン王国と教会は決定した後なのだ。


「あはは」


 私もそうよ、と音も無く口元が動いた。


 これは損得の話ではない。

 正しいか間違っているとか、犠牲の有無や道徳の話ですらない。


「私を舐めるな」


 勝手に私のものを奪い取るな、という意思表示なのだ。


 そもそもとして、人間は野蛮である。


 それを認められないのは、幸せ者だ。

 顔も知らぬ誰かに、髪を掴まれ、顔を地面に押し付けられた経験が無いのだ。


 この世界に、暴力はある。


 誰も逃れられないし、大小の差はあれども、誰もが持っているものだ。

 偶然にも、『緋毒』は国家すら脅かす暴力であった。


「あの人の笑顔と、優しさは、私のものなんだから」


 心が疼く。


 人を好きになれば幸せになれるという話は、半分本当で――――半分嘘だ。

 嫌われると思えば、胸を引き裂きたいくらい心が痛い。


 どうして今更、誰かを好きになったのだ、と自問しても、心は答えてくれない。


 あの人の笑顔が嬉しくて。

 あの人の涙が悲しくて。

 あの人の前で素直になれない自分が嫌いで。


「でも、どうしようもないじゃない」


 カンタルと一緒に居られることが、本当に幸せだと感じた。

 この気持ちが、愛でも恋でも何でもいい。

 やることは変わらない。


「――――華を、咲かせましょう」


 あの人に届くように。

 気持ちが伝わるように。


 赤い雫が垂れ墜ちる、人の形をした華を。


「ねえ、カンタルさん」


 エリンが歩みを止めることは無い。

 静かに、優雅に、恋する娘が逢引きへ出かける雰囲気さえ纏わせている。


 曲がり角を抜けて、玄関ホールへ降りる階段の前に立つ。


「あら」


 見下ろした広間には、雑多な人間が溢れていた。


 口をへの字に曲げたメイドらしくないメイド、ルフェン。

 逃げたいけれど逃げられない様子で土下座している娘、アサ。

 意味はわからないが大きな黒い板を背負って立っている貴族、ファルマ伯爵。

 その隣で頬を腫らしたまま涼しい顔をしているエングレス。

 好々爺然としているが目が笑っていない執事。

 大きな黒い板を左右に置いている謎の修道女。

 細目でこちらを見つめて来る、『呪いの暗黒姫』。


「みなさん、お揃いのようね。探す手間が省けて何よりだわ」

「失礼――――」


 代表して、修道女が前に出た。

 それを遮って、エリンが言う。


「ええ、いいわよ。ごきげんよう」


 広間に向けて、『緋毒』が流し込まれた。

 赤い霧が、誰も逃がさないように降り注いだ。


「ガッ」


 一番先に、ファルマ伯爵が喉を押さえて崩れ落ちる。

 広間が緋色に染まるのに、時間はそれほど、必要としなかった。




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