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第35話


 木々の香りが、濃密さを増して沈殿していた。


 山々の中心を刳り抜いて出来上がった盆地に、寂れ果てた屋敷が見える。

 その屋敷から遠く離れた場所を、猟師に扮した哨戒兵が、二人組で監視を行っていた。


 山歩きに慣れた山岳兵を使っているのだろうが、彼らの必死さは猟師の比ではない。

 偽装を重ねて違和感を無くそうとしているようだが、不自然さは消しきれていなかった。


 ただ、国を亡ぼす毒が封じ込められているのであれば、やり過ぎとは言えないだろう。

 

 その厳重な監視網の中で、暢気に会話する二人がいた。


「流石にまあ、ここから先は一筋縄では行かないようねぇ」


 修道女の恰好に、簡易な旅装を身に着けたセルディが呟く。


 隣に立っているリョカが、嫌そうな顔をした。

 普段通りの擦り切れた黒い外套が、もそりと動く。


「忍び込むつもりなら、夜を待った方が良いと思うかな」

「それは、あなたの『暗黒』でも困難ね。夜襲くらいで安全になる毒なら、こんな所へ押し込められていないでしょう」


 セルディが肩を竦めて、溜息を吐く。


 リョカが黙って横を向いた。

 一度の敗北で諦めるつもりは無いが、相手がその気であれば命が無かったことを忘れることなど出来ない。


「なら、どうして私を連れてきたのかな」

「有能だからよ? こと潜入において、あなた以上の天命を知らないわ。相手が『緋毒』なんだから、私の最高の手札で挑むのは当然のことよ」


 セルディの顔に、曇りは無い。


 最悪の事態が起こったとき、この一帯は毒で溢れかえるのだ。

 せめて漏れ出す毒だけでも押し留められるように用意されたのが、この盆地にある屋敷であろう。


 味方であるはずのガーオレン王国でさえ、『緋毒』を恐れているのだ。


 そんな大量殺人兵器のような女と、どうやったら交渉出来たのか興味が無いわけではないセルディだったが、本来の目的を忘れてはいけない。


 リョカが半目になって言う。


「なら、次は?」

「ん? それは交渉するしかないでしょう。『緋毒』がガーオレン王国から寝返って貰えれば文句ないんだけどね。最低条件としては、私の伴侶の奪還かしら」

「伴侶になるとは、決まってないんじゃないかな」

「形だけでいいの。都合のいい女になる準備は出来ているもの。彼の為なら、何だって差し出すわよ」


 頬を染め、うつむいて見せるセルディだった。

 リョカが砂を噛んだ顔をする。


「……天命が目当てのくせに」

「愛のカタチってね、一つじゃないのよー」

「それでも聖職者なの?」

「名ばかりの役職なんて、カンタルくんの為なら捨てられるわぁ」

「最悪」

「そうね。でも、私は決めたの。確かに約束した通り、彼は私のものにはしないけれど、彼の天命を開花させることに妥協はしないわ。あなたに悲願があるように、私にも叶えたい願いはあるのよ」


 修道女が、薄く笑って見せる。

 その表情からは寸毫たりとも出してはいないが、心胆を寒からしめる程の感情が渦巻いていることを、付き合いの浅くないリョカには気付かれていた。


 だが、それでもいい。

 この世界にもう一度でも、聖母の光が届くのであれば。


 ――――世界が滅んでも構わない。


「それって素敵なことでしょう?」

「全然」


 呆れたリョカの表情が、全てを物語っていた。


 何か企んでんだろこいつ、くらいの疑心を現しているのが、見て取れる。

 相手の邪悪に気付きながら、知り合いだから指摘しないでいるのだ。


 本来は優しい少女なのよね、とセルディなどは微笑まずにいられなかった。


 人を斬ることに、理由が必要な程に、感情を残している。


「羨ましいわ」

「何が?」

「大切な人がいるってことよ。ああ、カンタルくんに限らず、ね」


 冗談では無く、修道女が笑みを零す。


 それが誤解だとしても、理解を実感できるのは羨ましい。

 理解した上で無視することと、理解出来ずに無視することは、結果が同じでも過程が違う。


 セルディに感情が無いわけでは無い。

 人類に対して、心から愛情が湧いてこないだけだった。


 愛がたくさんあるのは良い事だ。

 愛が深いのは良い事だ。


「私にはわからないけれど、良い事のはずよ。多分」

「心のこもらない言葉を、どうもありとう」


 リョカが詰まらなさそうに、肩を落とした。

 セルディの瞳だけが上を向く。


「んー? そんなことは無いはずよ」

「……はぁ。自覚してないなら言っておくけど、セルディの眼は何も見てないときがあるかな。特に、どうでもいい博愛論を言うときとか」

「ええ?」


 どうでも良くはないけれど、と困った顔で呟くセルディだった。

 しかし、リョカが気にするでもない。


「別に、シノ様が納得するのであれば、カンタルが誰と結婚しようと構わないけどね。ただまあ、あいつのことを喋ってるときのセルディは、ちょっとマシかな」

「……よくわからない評価の仕方ね」


 修道女が腕組みをして顔を傾げ、唇を尖らせた。

 擦り切れた黒い外套を身に纏う女が、櫛に持ち手を付けたような剣を肩に担いだ。


「どうでもいいかな、そんなこと。それより、交渉しに行くのよね」

「そうよ。テーブルに着くまで、椅子から立ち上がるまでが『交渉』よ? 正面から堂々と、邪魔するものは薙ぎ倒して進むわよ」


 セルディが掌を下に向けて、両腕を広げた。


 彼女の手が上へ向かうにつれて、地面から石板が吊り上げられていく。

 縦長の真っ黒な石板が、セルディの左右へ浮き上がった。


「さて、準備は良いかしら」

「とっくに出来てる」


 リョカが何も持っていない左手を振るった。

 すると、山の中腹から寂れた屋敷までの間の地面に、暗くて沈み込んでしまいそうな道が出来上がる。


「私から行くわ」


 言うや否や、セルディが黒い道に飛び乗ると、斜面を滑降していった。


 器用に木々の枝葉を躱し、避けきれない樹木は、追従する石板で薙ぎ払った。

 斜面が終わっても彼女の勢いは削がれず、馬より早く駆け抜ける。


 次第に景色が変わり、木立の開けた場所に出た。

 朽ち果てそうな貴族屋敷の、緑に浸食された門塀が見える。


 その先――――庭園への大きな入り口に、一人の男が立っていた。


「よっと」


 セルディが黒い道から飛んで、地面に着地する。

 遅れて、追いかけてきたリョカが降り立った。


 入り口の前に立つ、仕立ての良い服を着た大男が、嬉しそうな声で言った。


「は、ははっ、来て良かっただろうエングレス! なあ、俺の言った通りじゃないか!」


 興奮した様子のジャン・ファルマが、後ろを振り返って言うが、誰もいなかった。


「あ。そういえばあいつ、メイドに連れていかれたんだったか。まあいい。久しぶりだな、リョカ!」

「…………」


 名前を呼ばれたリョカが、面倒な親戚のおじさんに捕まえられた顔をした。

 ファルマが構わず笑って言う。


「俺の元に来い。シャルネも、それを望んでいたぜ」

「嘘を言うにしても、もう少し考えて口に出した方が良いかな。また斬られたい?」

「がはは、斬りたきゃ斬ればいい! 今度は俺も、手加減しねぇ。それに、シャルネが俺に言ったんだぜ。娘と皆を頼む、とな」

「その口で、母の名を語れないようにしてやろうかな」


 眼を細めたリョカが異形の剣を構えたところで、セルディが割って入った。

 ファルマの表情が曇る。


「邪魔すんじゃねーよ、教会の小娘ごときが。引っ込んでろ」

「えーと、よくわからないけど、そこ、避けた方がよろしいですよ」


 余所行きの顔で微笑む修道女に対し、ファルマが手で顎をさすった。


「何が言いてぇんだ、ああ?」

「すぐにわかります」


 彼女が短い息を吐いた瞬間、空から石板が降って来る。

 轟音を立ててファルマの頭に直撃し、容易く人の形を叩き潰した。


 土埃が立ち込める中、セルディが歩き出す。


「さ、交渉交渉っ。張り切っていくわよぉ」

「……いいの?」


 地面に倒れたままの石板を見て、リョカが言う。

 セルディが軽く振り返った。


「仕方ないでしょうよ。私の目的は伯爵じゃないし。真面目に相手なんてしてらんないわ。……それとも、モノリスの裏が見たいわけ?」


 半ば地面にめり込んでいる石板の下が、どうなっているかなど想像したくもないだろう。

 リョカが首を横に振る。


「絶対にイヤ」

「なら、放っておきましょう」


 何事も無かったかのように、セルディが歩き始めた。


 彼女の前には、今にも崩れ落ちそうで、所々の窓が割れたままの貴族屋敷がある。

 まるで時の流れに取り残された、栄華の墓標に見えるのだった。

 


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